神聖去り辞し、災難並び起るとは何れの経に出でたるや、其の証拠を聞かん
客の第二問は、主人の第一答を簡潔に要約した上でその証拠を求めるものになっている。ここで現代人であればまず問うであろうところの「いや、経文にあるからって、なんでそれが真実だと言えるの?」との疑問が呈されないところが……もちろん、書き手たる日蓮にとって、この第二問は続いて大量の経典を引用するための前振りなのだから、当然と言えば当然なのであるが……ある意味において時代制約である、と言えるかも知れない。
承知の人にとってはそれこそ釈迦に説法かとは思うが、この傾向、すなわち何事についてもその正当性の根拠を文献に求める態度、というのは、この時代においては何も信仰の世界のみのことではない。たとえば、今日の我々がおよそ800年前の鎌倉時代の人々や出来事について存外いろいろなことを知っているのは、もちろん日蓮遺文のような史料もさることながら、第一には『大鏡』を筆頭とする四鏡であるとか、鎌倉幕府の正史的な性格を有する『吾妻鏡』などの歴史書に依るところが大きい。
では、そもそもこれらの諸文献は何のために書かれたのか、と問えば、もちろん歴史を記録するためなのであるが、ではなぜ記録するのか、というと、何らかの決断を下さねばならない状況において、前例を参照するために他ならない。この時代において、ある家の家督を継ぐということは、屋敷や財産よりもまず、代々伝わる文書記録の閲覧権を独占することであった。仏典に限らず、書写行には、文献の複写を得られるという物的利以上に、書写を通じて行じる者の脳内に、その内容についてのインデックスが作成されるという特典があった。それらを駆使できること、すなわち典拠を伴った故実に明るい=諸々の決断に寄与する前例を提供できること、に対しては、社会的に極めて高い価値が与えられていたのである。
その意味するところを論じるのは本稿の目的ではないので、ここでは、客の第二問が、もちろん日蓮の恣意であることは確かではあるが、同時に、当時の知識支配階級の人々の普遍的な思考様式に裏付けられたものでもあること、を指摘するに留める。そして、そうした社会的な要請を理解した上で、手前勝手な推量や情に訴えるのではなく、文献至上主義で以って、是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤りに由るやの問いに答えようとする日蓮は、当時のそのような価値観に照らせば確かに誠実なアプローチを採っていた、とは言えるのである。
まぁ、問題はその中身、ではあるのであるが。
以下、前掲書ベースで8頁に渡り延々と仏典、すなわち“お経”からの引用が続くことになる。厳密に経論について考えるに際しては、(1)そのテキストは偽経ではないか?、(2)漢訳は適切であったか?、(3)引用に際して改竄がおこなわれていないか?、を無視することは、本来はできないものである。
が。
改めて力説するまでもなく、原理主義者日蓮は自身の主張の正当性の根拠を一切経は皆仏の金口の説・不妄語の御言なり(日妙聖人御書)に置いていて、一方で、彼の十八番となる法華経(1〜2世紀成立)、また次下で引用される
また、上記(3)は、平たく言えば「日蓮が(自己の主張のために)仏典を改竄しているか?」という疑念であるが、実のところ、彼の仏典引用の一部には、それが故意か過失かはともかく疑義が呈されているものも少なくはない。が、前述したように、(1)~(2)の部分で破綻している以上、(3)を詮索しても全体としての真偽値に影響はないのであるから、これも無視して構わないように思う。
では、全体として偽であることが確定している彼の論を読むことなんて意味がないのではないか?、と言えば、少なくともボクはそこからいろいろなことが読み取れると考えているのであって、それは以降の拙稿で以って自ら証明してみたい。
いずれにせよ、安国論中の仏典引用部をさらにここへ長々と引用することは労力の無駄であると共に、結果的にそれが自己粉飾以外の何物でもなくなってしまった日蓮の轍を踏むことにもなるので、必要に応じてコアな部分のみをつまみ食いしながら進めていきたいと思う。
主人の曰く、其の文繁多にして其の証弘博なり。
第二答はこの言葉から始まるのであるが、現代から振り返るとき、いささか虚しい宣言になってしまっていることは否めない。
一方で、何でも電子検索で容易に探せてしまうボクとは異なり、日蓮は紙媒体の経典を、各地の寺々を歩き巡っては参照・筆写し、以ってこの立正安国論を書き上げた(通説では3年を費やしている)のであるし、かつ、彼が心の底からそれらの経典を皆仏の金口の説・不妄語の御言と信じて疑わなかったことも確実なのであるから、その精神的熱量に対しては、余人にそれを強制するつもりは毛頭ないものの、敬意を欠くべきではない、と思う。
それはともかくとして、彼が其の証弘博なりと示すところを見ていきたいと思う。前述したように、ここから長文のお経からの引用が続く……統計を採ったワケではないが、そもそも安国論全文の、直感的には6~7割が経典引用によって占められている……のであるが、一足飛びに、その引用に続く彼自身の言葉を先に見てみたい。
夫れ四経の文朗かなり。万人誰か疑わん。
第二答は、この後再び第一答を要約したもの、すなわち、人々が正しい仏の教えを奉じないがゆえに災厄に見舞われるのである、ということを述べて終わるのであるが、これは今日のアカデミズム的な観点から言って、あり得ない引用の仕方である。
ここで四経と言われているのは、直前までに引用されるところの金光明経、
これは、たとえば現代の一部のクリスチャンファンダメンタリストが、口では聖書根本主義を謳いながら原語聖書すら参照することなく、存外好き勝手なファンタジーでもって自説を彩っているのと対照的である。少なくとも安国論における日蓮は、自身の依拠する経典に対して注釈すら加えない、という点において、そういったクリスチャンファンダメンタリストがその足元にも及ばないほどの真の原理主義者なのである。
一方で、同時にこれは、当時の日本の知識層の人々の間では、漢訳経典はそのまま誤解なく読めて当然だ、という暗黙の了解があったことも意味している。現代の我々は、お経を意味不明の魔法の呪文か何かのように考えがちで、実際、経典の一部(いわゆる“真言”とされるもの)はサンスクリット語をありがたがって音写しただけのものもあるにはあるが、大部分は、普通に漢文として読むことができるし、これから見ていくように、その内容は思いのほか俗っぽいのだ。
というか。
そもそも安国論自体が漢文で書かれているのであるから、前提知識なしに現代人が原文を読めば、実はそれは最早お経にしか見えないのである。しかし、ここまで読んできたように、然るべき知識さえあれば……これは何らかの特殊能力ではなく、少なくとも鎌倉時代の人間にとっては当たり前の読み書きのリテラシであったものであり、たまたまボクもそれに通じているだけなのであるが……意外に簡単に読めてしまうもので、しかも、言っている内容も、その真偽はさておき、さほど突飛な内容ではないのだ。
何が言いたいかというと、日蓮は確かに原理主義者ではあるが、少なくとも安国論の執筆においては、“予言”などという言葉でイメージされるような神秘主義者では決してない、ということである。彼は、当時の知識人ならば普通に読めた経典を、そのまま示して「ほら、ここにこう書いてあるでしょ」と言っているだけなのである。
さて。
“仏教”というとき、それが具体的に指し示しているモノは何であるか、と言うのは、一見自明なようで実のところなかなか難しいものがある。字義を問えば“ホトケのオシえ”であるのだから、それは釈迦が語ったことなのだろう、ということになるが、これは二つの点で必ずしも真ではない。
第一に、“仏”という語は、広義には仏教徒たちが理想化した人格の有り様を指す言葉なのであって、歴史上の人物としての釈迦のみを指しているワケではない。第二に、釈迦の語りのみが仏教なのである、と定義すると、大乗非仏説に立つとき、今日仏教と認識されているもののほとんどが、仏教ではなくなってしまう。そんな定義に何の意味があろうか。
そもそも、釈迦こそが仏、その語りのみが仏教、という考え方自体が、実在すら怪しい釈迦を神格化した原理主義・神秘主義に立脚したものなのであって、無論、歴史上の釈迦が実際のところどのような思想を有していたか、という問い自体は有意義なものであろうが、それこそが仏教だ、というのは、インドから中国大陸、東南アジア、朝鮮半島を経て日本まで広がった仏教文化圏の思想史を、ことさら矮小化することにつながってしまうだろう。
そのような意味において、少なくとも本稿においては「仏教は仏様の教えだからありがたいモノなのだ」という価値判断は一旦脇に置いて、釈迦を自分たちの源流に仮託しつつ積み上げられたアジア圏の有形無形の思想資産、を総称して<仏教>と呼ぶことを、改めて明示的に宣言しておきたい。価値判断を一旦棚上げしたというのは、<仏教>の中には、現代の我々から見て傾聴に値する言説もあれば、唾棄すべき妄説もある、ということを認めた上で、歴史上ともかくそのようなことを言った人がいたらしい、ということの意義を考えてみよう、ということである。
のっけから、以上を当然と考えている人にとっては当たり前に過ぎるクドいことを書いているが、ココを抑えておかないと、これから読んでいく日蓮が引用した経典の意味するところを取り違えてしまう、と思うので敢えて書いてみた。では、立正安国論所収の引用経典を読み解いていこう。
とは言ったものの、仏経典というのは、立正安国論本文以上に粉飾の多い代物であって……否、日蓮がそのような経典の伝統に準じて立正安国論を粉飾している、と言うべきか……一字一句読み解き出すとキリがないのである。
幸いなことに(?)日蓮がここで引く四経はほとんど同じことを言っているので、比較的粉飾が少なく意味がすっきりしている大集経……正しくは『
日蓮に倣って、文朗かなり、万人誰か疑わんと言い切ってしまいたい衝動に駆られるほどに、単純明快な内容であるが、蛇足覚悟で詳細に読んでいこう。
まず国王がいる。日本では厳密には国王というと天皇のみを指すことになるが、原文はインドで書かれたものであるから、抽象化して支配者・権力者全般を指すとしてよかろう。無量世に於て施戒慧を修すは、国王はいわゆる
これを、修すともと逆接で受けているのであるから、前世においてどれだけ仏教を大切にしていたからといっても……ほどの意味か。こうなると次下はだいたい想像がつくが、我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば、是くの如く種ゆる所の無量の善根悉く皆滅失して、つまり、そういう過去世における貯金(?)は今仏教が滅びそうなのを護ろうとしないと消え失せるのだ、とつながってくる。そしてその結果として、其の国当に三の不詳の事有るべし、要するに、何かよろしくないことが起こるのだ、と戒めている。
安国論ではさらに引用が続いて三の不詳が具体的にどんな三つなのか、さらに国王にどんなひどいことが起こるのか、おどろおどろしく説明されるのだが、もうコレは単なる粉飾部であり、読解しても虚しいだけなのでサラッと無視しよう。
さて、ここから何がわかるだろうか?
第一に、現代の我々は仏教というと何はさておき死者を弔う神聖な術だ、と考えている場合が多いように思うのであるが、ご覧の通り、漢訳経典を漢文として読んでみると、存外言っていることは俗っぽいのである。無論、たまたま引用部がそうなのであって、高尚な哲学を論じているものもある、念のため。
よもやこの文章を、発言者……釈迦に仮託されているが、実際には4〜7世紀の仏教僧であろう……が、国王の身や国家の行く末を案じて忠告したものと理解する人はいないだろう。要するにこの坊主は、国王に対して「前世であなた様は素晴らしい福徳を積まれた方で……」とおもねる一方で「ヒドい目に遭いたくなければ仏教を敬え」と国王を脅しているのである。そして、ここで言われている“仏教”は、限りなく発言者自身とイコールなのであり、要するに「食い物寄越せ」と言っているだけなのである。
第二に、日蓮が第二答で引用した四経は、それぞれ成立時期や成立場所がかなり隔絶していて、互いに直接には影響していない……もちろん、後に成立したものは先のものに間接的には影響を受けている……と考えて差し支えない。にも関わらず、もう阿呆らしいので詳細には読み解かないが、これらの四経がほぼ同じことを言っているということは、「ヒドい目に遭いたくなければ食い物寄越せ」という言い分が、<仏教>の中で普遍的な思考様式である、というミもフタもない事実を反映したものなのである。
ちなみに、狭義の“仏教”、すなわち歴史上の釈迦自身がどのようなことを考え、言っていたか、という観点からすると、以下はいろいろ異説のあるものではあるが、一般には、彼は“出家”、すなわち世俗の諸々の雑事から距離をおくこと、に重きをおいており、とは言え出家者も食わねば飢えるので、食については、国王のみならず在俗の有志に集ることを是としていた、と理解されている。つまり、ここでいう思考様式は、もちろん「ヒドい目に遭いたくなければ」の脅迫部分は<仏教>における後世の付加部分ではあるが、「食い物寄越せ」については、実は釈迦にまで遡る由緒正しい(?)ものでもある。
第三に、以上述べてきたこの文に隠された、いや全然隠れてないのだが、本音の部分はともかくとして、表面上の意味するところは、日蓮が第一答で言うところの、世皆正に背き、人悉く邪に帰す。故に善神は国を捨て去り、聖人は所を辞して還りたまわず。是れを以て、魔来り、鬼来り、災難並び起こると正しく符合している。つまり、客の第一問「なんで世の中災難続きなん?」に対する主人の第一答「経文によるとこうでっせ」は、決してこの世の真実ではないものの、<仏教>的には適正な回答ではあるのだ。
なお、日蓮を擁護するつもりは毛頭ないのであるが、個人的には、日蓮の本音もまた「食い物寄越せ」であった、とまでは、流石のボクも考えない。これは、前述した、本来古代インド人が他人を褒める際の修辞に過ぎなかった前世の因縁話が、既成事実化してしまったのと同じ力学による、というのがボクの理解である。
つまり日蓮は、これら四経を釈迦の直説であり、従ってこの世の真実である、と確信してしまっているがゆえに、四経の作者の本音に思いがいたらず、字義をそのまま原理主義的に解釈していたのだろう、ということだ。彼は、仏教者たる者は、国王に対し、脅迫的言辞を用いて仏教への帰依を要求すべきできであり、かつ、それが世を救済することにつながる、と本気で信じているのである。
その証拠に、日蓮がこの四経を引いた直接の動機は「仏教を敬うべきである」という、鎌倉時代にはほとんどの日本人に内在化されていた価値観を改めて主張するためではなく、現実に災難が起こっているということは「現在、仏教が敬われていないのだ」という自身の現状理解に対する証拠として示していることが、第三問以降のやり取りからわかるのだ。
ただし、だからと言って、ボクは日蓮が四経の偽作者……否、当人たちには悪意があったワケではなく、<仏教>文化圏では長い間伝統的に釈迦に仮託して持論を述べるのが修辞として自然だった、というのが真相だと思うのだが……よりも高潔で聡明だ、と言っているのでは決してない。
「逆は必ずしも真ならず」は論理学のイロハであるが、百歩譲って日蓮に従って仏言皆是真実としても「仏教を見捨てると災難が起こる」のであるから「災難が起こっているから仏教が見捨てられている」というのは、論理として正しくない。と言うか、この日蓮の物言いが正しければ、日食や彗星の出現すら災難の一つに数える……第二答引用の仏典の粉飾部が口を揃えてそう言っている……<仏教>は、歴史上、一度たりとも崇敬を受けたことがないことになってしまうではないか。
とまれ、第二答は概ね以上の通りである。まとめると、
・<仏教>の伝統に厳密に従い、日蓮は、国主に対して災厄を避けたければ仏教に帰依せよ、と求めねばならないと考えている。
・その論理を逆転させ、彼は、災厄が起こっているのは国主を含む人々が仏教を大切にしていない証拠だと捉えているが、これは論理的には正しくない。
といったところになるだろうか。
*
余談であるが。
本稿で触れた立正安国論の部分について、伝統的に「日蓮は法華経のみが真実で余経は方便(真実ではない仮の教え)と主張しているのに、余経を引いて自説を論じるのは自家撞着ではないか」という批判が繰り返し述べられてきた。まぁ、そう言われれば日蓮は確かに脇が甘いよな、とボクも思うのであるが、個人的にはこのような批判者には、ボクは賛同し兼ねる。
日蓮の……と言うか、厳密に言えば天台・伝教の、と言うべきか……の法華経至上主義というものは、八万法蔵是皆釈迦の説法、仏陀の金言、との前提のもと、その中に究極の真実を説いたもの=法華経と、そこへ至るまでの地均しをすべく説いた仮の教え=余経がある、という考え方なのであって、必ずしも法華経以外の全経典を否定しているワケではないのだ。
実際、この立正安国論だけ見ても、第三問以降において日蓮は法然の専修念仏を論難していくのであるが、その中心ロジックは「法然が浄土三部経以外の経典を否定しているのがけしからん」なのであって、彼はその中で浄土三部経すら引用しているのである。詳しくはそこで論じるが、彼は浄土三部経自体は否定しておらず、浄土三部経以外は捨てても良いとする法然の見解……というのは、あくまでも日蓮がそう理解している、ということなのだが……に対してのみ噛みついている。
確かに、天台系に通底するこのような論理は一般にはわかりづらいのであるが、実は論としては筋が通っている。ただし、繰り返し述べているように、その大前提であるところの「八万法蔵是皆釈迦の説法、仏陀の金言」との命題は偽なのであるから、その意味において彼らの論全体が破綻していることもまた、明白なのである。明白なのではあるが、同時に彼らは、一切の情緒主義を廃したとことの、厳格・原理主義的な<仏教>の継承筋の一本……他にもいろいろな流れはある……でも確かにあるのだ。
敢えてこの余談を書いているのは、「余経を引いて自説を論じるのは自家撞着だ」といったような底の浅い批判のみを以って日蓮を全否定するのは、結局のところ<仏教>について何も言っていないのと同じだ、と思うからだ。日蓮の主張は、確かにこの世の真実からはほど遠い。だからと言って、そこから学ぶべき点がないことにはならないし、むしろ、日蓮に見られるこの誤謬は、ある意味において、<仏教>思想史の最も濃密なサンプルのひとつなのである。
聡明な読者諸兄におかれては、本連載序で「敢えて妄言であることを理解した上で素直に読む」と言ったのは、そういう意味においてである、と諒されたい。