日蓮『立正安国論広本』を読む   作:wash I/O

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第四問答 巻き込まれ法然

 第四問答に至って、立正安国論のもう一人の登場人物……というか、ほとんど主役と呼んで良いかも知れないが……が登場する。

 

 客、猶憤りて曰く、

 

 第四問は第三問同様に客の怒りで始まる。

 

 だがちょっと待って欲しい。直前の第三答に、客が怒り出さねばならないような内容があっただろうか。

 

 第三問答は「今日において仏教が大切にされていないと主人は言う(第二答)が、その証拠は?」という客の問いに対し、主人が「仏典にこのようなことが書いてある」と応じるものであったが、仏典引用を字面通り追う限りにおいて、主人の答えは「過去においてこのようなことがあった」としか読めず、現在の問題に対する答えになっていない。とすると、客は問いをはぐらかされたことに立腹しているのだろうか。

 

 誰人を以って悪比丘と謂うや。委細に聞かんと欲す。

 

 粉飾部を取り払うと、第四問の骨子は上引用の末尾部分になる。「主人のいう悪比丘とは誰のことなのか?」と客が問う体裁になっているが、もちろんこれは話が逆で、書き手である日蓮自身がある人物を名指して非難したいと欲するがゆえに、客にこのように言わせているのは明白である。なので、この問いは主人にとっては必然なのだが、客にとっては必ずしもそうではない。

 

 なぜ、第三問答から第四問答へのつながりがこのように不自然なものになっているのか、と言うと、日蓮が第三答において肝心なことへの言及を失念しているからだ、とボクは考えている。第三答で引用される仏典が、<仏教>史上の内輪揉めを反映した記述であることは既に述べた通りである。それぞれの作者は、作者自身にとっての現在の論敵を非難する意図で以ってそれぞれの経典を“偽作”しているワケだが、自分の言葉で相手を論難しても説得力が乏しいので、釈迦がそう言ったのだ、という体裁を採るワケだ。

 

 すると、経典上に現れる釈迦の立場から見ると、当該の内輪揉めは未来の出来事になるから、偽釈迦の語りは必然的に未来に対する言及、すなわち“予言”という形態になり、これを総称して釈迦の“未来記”と呼ぶのであるが、第三答文中には、引用した仏典が“未来記”であることを明示した論述がないのである。

 

 日蓮にとってみれば、それは当たり前のことで説明するまでもない、という思いもあったのかも知れないが、これはちょっと見逃せない失点ではないか、と思う。辛うじて、大涅槃経(だいねはんぎょう)からの引用にそれを匂わす記述があるが、

 

 正法(しょうぼう)滅して後、像法(ぞうぼう)の中に於いて当(まさ)に比丘(びく)有るべし。

 

 ここでいう比丘が、問題の悪比丘であることは次下を読むとわかるのであるが、文字通り読む限りにおいて、その悪比丘が有るべしとされるのは、日蓮たちにとっての現在である“末法”の世ではなく、その前段階に当たる像法の中に於いてとあって、辻褄が合わない。広本改訂でやたらと増補された部分のワリには心許無いではないか。

 

 しかも、である。

 

 如来(にょらい)の深密の要義を滅除し、世間荘厳の文飾、無義の語を安置す。前を抄して後に著け、後を抄して前に著け、前後を中に著け、中を前後に著けん。当に知るべし。是くの如きの諸の悪比丘は是魔の伴侶なり。

 

 上引用は広本で増補された同じ大涅槃経の章句であるが、もちろん日蓮は、ここで言われる悪比丘に該当する人物をこれからこき下ろすべくこの文を引用しているのであるが、頭を素にして考えると、これらの引用が未来記であることの明示を漏らしている日蓮自身にも、ここで言う前を抄して後に著けの非難が当たってしまってはいないか。むしろ、ここに至るまでの粉飾的な漢文のことを鑑みるに、世間荘厳の文飾、無義の語を安置すの論難から逃れることは難しいように思う。

 

 と、この手のつっこみをやり出したらキリがないので、“ブーメラン論法”には目を瞑って第四答を読み進めることにしよう。

 

 主人の曰く、客の疑いに付いて、重重の子細有りと雖も、繁を厭い多事を止て、且く一を出さん。万を察せよ。

 後鳥羽院の御宇に法然というもの有り。選択集を作る

(下線は引用者による)

 

 というワケで、ようやく本書の主人公(?)法然の登場となるのだが、本題に入る前に今一度脱線する。誰に言い訳する必要もなく言っておくが、ボクが脱線したいワケではない。日蓮がボクに脱線を強いているのである。

 

 上引用下線部は、例によって広本における加筆部であり、略本、すなわち北条時頼に提出された立正安国論オリジナルにはなかった部分である。「客の疑い=悪比丘とは誰のことをいっているのか、についてはたくさんの具体例があるけれども、面倒なので列挙はせずに一つだけ出すから、他はそこから察しなさい」ほどの意味になるが……アリなのか、そういう言い分?

 

 無論、現代から鎌倉時代を振り返る我々には、日蓮が何を言いたいのかは想像できる。彼は当時の日本の仏教諸派に対しオールレンジ攻撃を仕掛けていたのであるから、法然がワン・オブ・ゼムである、と言われれば、それはそうでしょう、ということになる。が、略本が下線部記述を欠くのは、このエクスキューズを書き漏らしたから、ではなく、略本執筆時点において、日蓮主観においては法然こそがオンリー・ワンの諸悪の根源と見做されていたからである。

 

 略本提出後、日蓮は……繰り返すが、彼自身の主観としては、である……念仏信者の襲撃を受けたのみならず、真言律宗の忍性と揉めてあわや斬首されかかったり……おや?直接的な反撃は念仏宗と真言律宗からのみで、他多くからは無視されていたのが実態のような気がしないでもないぞ……したのであるから、広本改訂時には日蓮が敵視する相手が増えているのは理解できる。まぁ、ほとんど本人のおこないの結果に過ぎないように思うのであるが。

 

 だが、しかし。

 

 以下に見ていくところの、日蓮が「~ゆえに法然の邪義が今日の災厄の原因である」とする論理、すなわち立正安国論の主旨が、そのまま日蓮が敵視する他の宗派・教理に適用可能か、は、まったく別問題なのであって、原理主義者日蓮は、原理主義者であるがゆえに、それぞれに文証を示す義務を自ら負っているはずである。にもかかわらず、一を出さん。万を察せよとは、あまりに乱暴な論ではないか。あまつさえ、この広本は……真相は定かでないが……北条時宗への提出に向けて校閲されたもの、なのであって、身内に対して書き散らす愚痴ではないのであるから、場合によっては論敵の生殺与奪にもかかわってくる論難にこういう物言いをしている点については、日蓮に対して好意的なボクであっても、いささか顔をしかめざるを得ない。早い話、これは“手抜き”である。

 

 百歩譲って一を出さん。万を察せよとの言葉が妥当であるとすれば、この後続く法然に対する論難が、当時の仏教諸宗派、少なくとも彼が“四箇の格言”で以って切って捨てたうちの他三宗派(禅宗・真言宗・律宗)に該当し、かつ、ブーメランと化して日蓮自身には突き刺さらないこと、が確認できるはずである。まぁ、こう書きながら、十中八九ブーメランになると確信しているのであるが。

 

 

                    *

 

 

 ここで、法然(ほうねん)その人についておさらいしておくことも無駄ではあるまい。

 

 一般には法然、と呼ばれることが多いが、これは房号、すなわち彼が比叡山延暦寺において居住した建物(房)の名前で、個人としての名(諱)は源空(げんくう)であり、法然房源空、と書くのが最も畏まった呼称となる。後述する回心のときまで、比叡山内の黒谷に長く暮らしたことから黒谷上人と呼ぶこともある。とまれ、安国論中でも法然として言及されているので、以下、彼のことは法然とのみ表記することにしよう。

 

 生年は1133年、没年は1212年であるから、日蓮が生まれる10年前に亡くなっていることになる。言わずとしれた念仏宗(現在は“浄土宗”と呼ぶのが普通)の開祖とされるが、その独自色のある宗教活動が始まったのは存外遅く1175年、既に彼は四十三歳になっていた。日蓮と比較すると、彼にはあまり精力的に自説を訴えるようなところがなく、その主著であり安国論第四答において批判にさらされる『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』も、彼の信奉者となったある貴族に請われて書いた、とされている。

 

 逆に言えば、請われれば厭わず誰に対してでも教えを説く人ではあったようで、京都では多くの弟子を得た。後に浄土真宗を独立旗揚げする親鸞(しんらん)もその一人である。一方で、弟子を管理する師匠、としては至らぬ面もあった、というか、私見ではあるが、本質的にこの人は他人を自分の思い通りにしようなどというアグレッシブな意思を有していないようで、1204年の『延暦寺奏状』、翌年の『興福寺奏状』……いずれも表題の寺院から朝廷に提出された法然を非難する奏状……を皮切りに始まる、いわゆる“承元の法難”も、彼自身に咎があったから、というよりは、彼の弟子たちが法然の説を拡大解釈して傍若無人に振舞ったことに起因したとみられている。

 

 かくして、ときの後鳥羽上皇……第四答冒頭で、後鳥羽院の御宇に法然というもの有りとあったのを思い出そう……は法然を流罪として四国へ送ったのみならず、僧籍を剥奪して還俗させる。『愚管抄』がゴシップとして伝えるところでは、この事件は、法然の弟子と上皇寵愛の女性の間の男女関係に発端があったようで、法然は完全に巻き込まれ損であったようだ。ちなみにこのとき法然改め藤井元彦は七十五歳。事実上の死罪のようなものだが、発端が発端であったゆえか、十ヶ月で赦免され畿内へ戻った。その後、京都は吉水にて没、享年七十八。当時の非貴族階級としては、かなり長寿の部類に入る。

 

 法然は日蓮ほど筆まめではなかったようで、ほとんど書き物を遺していない。現在我々が知る法然像は『愚管抄』のような同時代文献や、後代弟子筋によって編まれた伝記に拠っている。前者は当然のことながら法然が説いた教えの表層しか伝えてくれないし、後者は、後世の分派を正当化するポジショントークが混じり込むため評価が難しい。そういう意味で、彼を知るには選択本願念仏集、日蓮は縮めて、選択集、とだけ書いているが、これを読むしかないのであって、その辺りの事情は、日蓮とて同様であったのではないか、と思う。

 

 実際、第四答では日蓮は選択集からかなりの文量を引用しつつ、その教義を難じている。その詳細は追って見ていくとして、ここではその大前提となる基本事項を抑えておこう。これを理解しておかないと、日蓮が何を難じているのかがわからなくなる、いや、抑えてもわからない、というか、そりゃ無茶振りだろう、という難癖も少なからずあるのだが。

 

 第一に、法然は称名念仏(しょうみょうねんぶつ)、すなわち南無阿弥陀仏と唱えることが究極の行であるとした。これは、よく知られていると思う。ただ、南無阿弥陀仏というフレーズが法然の発明によると勘違いしている人は、少なからずいるのではないか、と個人的には思う。彼以前にも、南無阿弥陀仏と唱える人はたくさんいて、彼はその系譜上に現れた一つの結節点である。彼の独自性はむしろ“専修念仏(せんじゅねんぶつ)”といったときに端的に表れるのであって、念仏を唱える以外の行は必要がない、と主張したところが肝になっている。

 

 ただし、彼は日蓮のように他宗派の排撃を目論んだワケではないし、そもそもの選択集からして、安国論がそうであるように誰かを自身の教説でもって説得することよりは、むしろ、自分自身が自分の教説に納得するために書かれたようにボクなどには読める。無論、他の誰かが自説を参照することで救われることも彼は期待していたようだが、願はくはこの功徳をもつて、一仏土に往生せんのみ(選択集の末尾、原漢文)を見ると、それも、余人を浄土へ導いた功徳が、自身の浄土往生を実現すると考えてのことのように思われる。

 

 第二に、上記の通り法然の関心は、如何にして“往生を遂げる”か、その一事のみに注がれると言ってよい。ここでいう“往生”とは、すなわち現世における死後、阿弥陀仏の待つ西方極楽浄土へ迎え入れられること、このファンタジックな字義的な意味、そのままのことを指している。対する日蓮は、安国論第一問の読解でも示したように、概して法然の言う往生には特別の関心がないように見える。この点において二人はまったく目指すところが噛み合っていない。

 

 一方で、片や南無阿弥陀仏、片や南無妙法蓮華経の違いはあれども、仏や経典の名を唱える行為のみで必要十分である、と主張した点では二人は極めて思想的に近い位置にいる、という見方も出来る。私見では、共に、末法の衆生に仏典すべてを学び理解することは実質上困難であり、とはいえ、釈迦の慈悲は広大無辺であるから、何人であっても参加可能で、確実に救済へとつながる何かがあるはずである、あらねばならない、という信念がその根底にあるように思う。個人的には、もし二人が直接会話することがあれば、意外に意気投合したのではないか、と思ったり思わなかったり。

 

 短くまとめるつもりが無駄に長くなってしまったが、とまれ、第四答における日蓮の法然に対する論難を検討してみよう。

 

 

                    *

 

 

 (1)後鳥羽院の御宇に法然というもの有り。(2)選択集を作る。則ち一代の聖教を破し、(3)遍く十方の衆生を迷わす。

(付番、下線は引用者による、以下同)

 

 第四答を読むと、日蓮が法然をどのように理解していたかがわかる。上引用の冒頭文は、簡潔に彼の法然観を要約しているので、これに沿ってまず概括してみよう。

 

 (1)は、法然の生きた時代、についての認識ということになる。源平合戦で壇ノ浦に沈んだ安徳天皇の死を待たずに、後鳥羽天皇が即位したのが1183年。上皇として、いわゆる治天の君として実権を全掌握したのが1198年。以降1221年の没落までは、概ね法然晩年の京都での活動時期に重なる。

 

 既に述べたように、法然を流罪に処したのも後鳥羽上皇である。思うに、日蓮の念頭にそのことがあって、それを読み手に想起させるべく敢えて後鳥羽院の御宇にという書き方をしているような気がしないでもなく、仮にそうだとするといささか意地が悪いのではあるが、まぁ、そこは捨て置こう。

 

 (2)は、法然の主著『選択本願念仏集』と、そこに何が書かれていたかについての認識となる。ここでいう一代の聖教とは、日蓮の理解としては釈迦がその一代においてすべて説いたと認識しているところの八万法蔵とも称される仏典群のことを指しており、これを破したというのは、法然が専修念仏、つまり、称名念仏が救済の必要十分条件であり、その他は一切要らないのだと主張したことが、日蓮主観からは釈迦仏法に対する破壊行為に見えた、ということを言っている。

 

 詳細は追ってみることとするが、意外なことにこの日蓮の見解は概ね間違ってはいないし、この見解のみについて言えば、日蓮は同時代人の中で孤独であったワケではなく、むしろ同時代の同じ見解を有した仏教僧の中でも日蓮は後発組に当たる。もちろん、だからといって日蓮の主張が正しい、ということにはならない。天台教学の体系から言えば、この一点については、日蓮はさほどおかしなことを言っているワケではない、という意味である。

 

 (3)は、(1)と(2)の結果によって何がおこったのかについての認識である。ここまでの流れから容易に想像できるように、日蓮は、法然の“邪義”が遍く十方の衆生を迷わせた結果、“悪比丘”がはびこる(第三答)ようになり、ゆえに仏法が正しく敬われず(第二答)、善神・聖人が去る一方で魔・鬼がやって来て(第一答)、世の中が災厄につつまれているのだ、と主張している。

 

 これについては、日蓮の見解は二重におかしい、とボクは思う。第一には、これまで述べてきたように、第一~三答は<仏教>史的にはそれなりに筋が通ってはいるものの客観的な真実にはほど遠く、身内で話題にして盛り上がる分には勝手にやれば良いが、国主に申し出るような話ではない。むしろここで注目したいのはもうひとつの点、すなわち日蓮は、法然が遍く十方の衆生を迷わせた、と言っているが、はたしてそれは本当だろうか、についてである、結論から言うと、もちろん法然の事績が日本仏教史上において特筆すべきマイルストーンではあることは認めた上で、同時代人としての日蓮は、いささか法然の影響を“過大評価”している感がある。

 

 以下、詳細な読みに移る。(1)法然の時代、については、第四答では冒頭で触れられているのみであり、また、追って異なる観点から論じたいと思うので、ここでは捨て置く。

 

 第四答は、冒頭の要約以降は(A)選択集からの引用、(B)日蓮による選択集の内容要約、(C)日蓮が認識している選択集が世に与えた影響、の三段構成になっている。(B)は前述の(2)、(C)が(3)に対応し、(A)はその根拠として示されている、といった体裁である。まずは(A)、日蓮による選択集の引用の形態について見てみることにしよう。

 

 選択集はそれぞれ冒頭に、~之文という表題を掲げた全十六章から成っていて、日蓮はこの中の第一章、二章、十二章、八章、および結句(これは正しくない、後述)から引用をおこなっている。左記の順番は、日蓮の引用順にならべたのでこうなった。略本と広本では二文字の差異があるが、これは互いに一箇所ずつ脱字があるのみとなっている。

 

 第一章引用部書き出しは、其の選択に云く道綽禅師・聖道浄土の二門を立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文、初に聖道門とは之に就いて二有りと書き出されていて、下線を付したのが選択集第一章の表題になっている。章が改まるに際しては、又云くの地の文が挿入され、やはり次に引用される章の表題がまず示される。ただし、第十二章引用については表題が省略されている。これは、略本・広本に共通しているので、書き忘れたワケではないようだが、意図はわからない。

 

 第三答まで見てきた日蓮の仏典引用については、概ね彼は当該経典の一続きの部分を抜き書きしているが、選択集引用についてはそうなっていない。たとえば第一章からの引用は、計四箇所からの引用をまるで一続きの文のように引いていて、これは法然の側からすれば不本意な引用の仕方であるかも知れない。ただ、当時としては(中略)のような、今日当たり前とされる引用上の表現が確立されていなかったから、というだけの話とも言える。

 

 素直に読むと引用部末尾の、又最後結句の文に云く夫れ速かに生死を離れんと欲せば二種の勝法の中に且く聖道門を閣きて選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲せば正雑二行の中に且く諸の雑行を抛ちて選んで応に正行に帰すべしから、下線を付した夫れ速かに~正行に帰すべしが選択集の結句、すなわち最末尾の文であるような印象を受けるが、これは正しくなくて、当該部は選択集第十六章の中ほどの文になる。これも法然側からは不本意かもしれないが、日蓮が参照した選択集写本が末尾を欠いていた可能性がまず考えられるし、日蓮から見ると十六章の残りの部分は粉飾語句であり、この引用部が全体の結論に見えたから……概ねそれで間違っていない、とボクも思う……というのもあるかも知れない。

 

 以上、細部については疑問が残るものの、概ね日蓮の引用は、当時の慣行としてはおかしなものではない、とボクは判断した。少なくとも論難を目的とした改竄はないし、章中からの恣意的なピックアップについても、ザッと各章全体の内容と照合してみたが、切り文で以って難癖する意図、のようなものは見えない。この点については、論敵でありつつも、仏道における先達としての法然に対して、日蓮は一定の敬意を払っていた、と見てよいのではないだろうか。もちろん、被攻撃側となる浄土宗の人は異なる見解をお持ちかと思うが、それはそれ、としておこう。

 

 続いて(B)日蓮による選択集の内容要約、について追ってみよう。

 

 まず、日蓮は法然の論の拠って立つところとなっている大陸浄土教の三師を、曇鸞・道綽・善導の謬釈、すなわち誤った仏典解釈である、と切って捨てている。これは、客観的に見れば立脚点の相違、という他ない。日蓮が拠って立つ天台教学の観点からは確かにそうであろうが、<仏教>史観点からすれば、それぞれがそれぞれに完結した体系と見做せるからである。

 

 強いて言えば、最も釈迦の直説に近いとされるパーリ語経典中の有名な“毒矢のたとえ”で知られるように、“元来の仏教”においては死後の生命に対しては“無記”、すなわち、それは原理的にわからないし、我々の目下の問題とは関係がないので、釈迦はそれに言及することを避けた、という立場だったはずであるから、死後の西方極楽浄土への往生を説く浄土思想は、それに対してむしろ思想的には後退している、という言い方はできる。

 

 もっとも、浄土思想もその発端は、観念される“仏”の広大無辺な慈悲を想起し、それを以ってままならぬ世に乱される自らの心を安からしめるべく編み出された壮大な“比喩”であったはずだから、無記ゆえに浄土思想は仏教に非ずという立場を、少なくともボクは採らないし、そもそも日蓮の法然批判はそのような文脈でおこなわれているものではない。

 

 一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以って皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ。此の四字を以って多く一切を惑わし

 

 日蓮が法然を難じている論理は畢竟上引用部に集約される。ここでいう四字が、いわゆる“捨閉閣抛(しゃへいかくほう)”ということになる。これは先に見た、日蓮が選択集の結句と認識していたところの、夫れ速かに生死を離れんと欲せば(中略)諸の雑行を抛ちて選んで応に正行に帰すべしを日蓮側の表現に改めたものである。西方極楽浄土へ往生するためには、正行(称名念仏)すべきであって雑行(その他の仏典に由来する諸行)は捨て去るべきだ、という認識においては、法然と日蓮の間でズレはないと言えよう。

 

 問題は、その認識に対する両者の温度差である。

 

 日蓮が引用している部分に限っても二箇所、選択集全体では十箇所に、私に云くという表現が出てくる。これは、法然が真正直に「以下に述べることは仏典や過去の経論に拠るものではなく、私個人の見解ですけれども」と断っている部分になる。実のところ、日蓮が最も問題視していると思われる、夫れ速かに生死を離れんと欲せば~の一節も、選択集第十六章において『阿弥陀経』とそれに対する善導の経釈を引いた後に、私に云くと断った上で自説を述べ、その末尾に出てくるものとなっている。

 

 この法然の姿勢は、第二答で見たところの、仏典引用に際してまったく付加説明をしなかったり、ここぞという断言に際して「仏典に書かれた通りであるならば」という白々しさすら感じるエクスキューズを添える日蓮のそれとは、極めて好対照であると言えよう。

 

 つまるところ、諸の雑行を抛ちて選んで応に正行に帰すべしというのは、法然が個人的な見解、あるいは信念として表明しているものであって、少なくとも他者に勧めている類のものではない。むしろ、法然に倣って「私に云く」と断って私見を述べるが、そもそも選択集全体が、彼の往生成就に対する自身の迷いを振り払うべく陳述されたもの*1であって法然に、他者に対してそれを強く勧める気持ちがあったようには思えない。

 

 後に弟子の親鸞によって大成されるところに従って言えば、個々人がどのように考えるか、果たしてそれがこの世の実相であり得るか、はともかくとして、彼らの信念としては、阿弥陀仏の誓願によって往生は既に決定(けつじょう)しているのであるから、それを殊更他者に訴える必要性は、少なくとも法然自身にはない、というか、絶対他力を確信しているのであれば、そのような思いは本来あってはならない*2と言っていいくらいなのである。

 

 対する日蓮は、諸の雑行を抛ちてを“捨閉閣抛”と要約したように、法華経を含む全仏典への積極的全面否定と解釈している。これはどちらの言い分が正しいか、という問題ではなく、日蓮と法然の、言わば現世に対するコミット度の差であるようにボクは思う。突き詰めれば、法然は現世に何も期待していないし、日蓮は信仰によって世界を変えられると本気で信じていて、実際に命懸けで背負い込んでいる。

 

 この両者の乖離が、(C)日蓮が認識している選択集が世に与えた影響、に色濃く反映されている。結論を先に示すと、日蓮は法然が当時の社会に与えた影響を過大に見積もっている節があり、かつ、それは事実誤認していたのではなく、彼自身、論述と実態が一致しないことを承知の上でやっていた疑いがある。

 

 故に上国主より下土民に至るまで、皆、経は浄土三部の外の経無く、仏は弥陀三尊の外の仏無しと謂えり

(下線は引用者による)

 

 第四答中盤において日蓮は、法然が『選択集』で主張したところをほぼ的確に要約した上で、上引用を述べる。そのまま真に受けると、当時の日本で念仏が大流行したような印象を受けるし、実際そのように書かれた歴史教科書も決して珍しくはない。が、ちょっと冷静に考えれば、周囲を見回すだけで上記主張が、まったくの嘘ではないにせよ大袈裟であることはすぐにわかる。

 

 日蓮の語るところが真実であれば、この時代に他の諸宗派が断絶していることになる。しかし、現在の我々は、彼らの時代以前から存在した比叡山延暦寺(天台宗)や高野山金剛峰寺(真言宗)が、当時はもちろんのこと、今日もなお隆盛を誇っていることを知っている。このズレはいったい何なのだろうか。

 

 日蓮自身の認識の検討は先送りして、まず我々の認識側のズレ、つまり歴史教科書などの言う「念仏の流行」と日蓮の主張のズレの原因を確認しておこう。これは実は簡単な話で、“称名念仏”と”専修念仏”の違いが、一般に意識されていないことによる。繰り返しになるが、称名念仏、すなわち南無阿弥陀仏と唱える行為は、法然が発明したものではない。我が国においては、いわゆる“末法”の到来が意識されはじめた平安時代後半から、貴族階級を中心に既に流行が始まっていた。鎌倉時代に至ってこれが、武士・庶民階級にまで広がっている。これは、法然の活動と無関係とまでは言わないが、基本的には独立したものと見るべきである。

 

 正しくは統計を採らねば断言はできないが、直感的には、現代の一般的な日本人にとって最も馴染み深い仏教上のフレーズも、南無阿弥陀仏ではないか。少なくとも南無妙法蓮華経や摩訶(まか)般若(はんにゃ)波羅密多(はらみった)や南莫(のうまく)三滿多(さんまんだ)嚩日囉(ばさら)赧憾(だんかん)よりは知られているのではないか。もちろん、ボクは、ここに挙げた例を他ならぬあなたがすべて知っていることを否定するものではない。極々一般的な日本人に「あなたの知っている仏教のフレーズを1つ教えてください」と問うたら、南無阿弥陀仏と答える人が一番多いだろう、という意味である。そして、そうなる原因は、まさにこの時代にこのフレーズが人口に膾炙したことに起因している。

 

 が、南無阿弥陀仏と唱えることの流行と、日蓮がここで言っていることとは、似て非なるものである。

 

 日蓮が問題視しているのは、経は浄土三部の外の経無くとあるように、専修念仏、すなわち念仏のみに専念し他の諸経は顧みなくてよい、むしろ害になる、とする法然の主張である。称名念仏の流行、イコール、専修念仏の流行ではないのだ。

 

 大雑把に言ってしまえば、歴史的には、専修念仏を奉じる集団が社会に影響を与える規模にまで成長するのは、親鸞*3に始まる浄土真宗(一向宗)の教線拡大を待たねばならず、早くても室町時代以降の話となる。これが後には戦国時代の有名な一向一揆となり、その社会的な影響力は決して過小評価すべきではない。が、その彼らとて、他諸宗派を圧倒するほどには至らず、江戸時代の到来を迎えては、他諸宗派同様に寺檀制度を通じた支配秩序に呑み込まれていくことになるのは周知のことだろう。

 

 さて、日蓮は何か誤解していたのだろうか。つまり、たとえばたまたま鎌倉で彼の目の届く周囲に専修念仏をする人がたくさんいて、それが日本全体の状況だと思い込んだのか。あるいは、何か彼にそう思い込ませる要因があったのだろうか。いや、違う。以下、私見であることを断った上で、日蓮自身はちゃんとそうではない、つまり、専修念仏が彼が本章で主張するほど流行などしていない、ことを知っていたことを示してみたい。

 

 第一の証拠は、先に引用した文、そのものに含まれている。下線部国主は、例によって広本改定部になる。略本では、実はここは“国王”になっていた。日蓮が国王と言うとき、これは天皇のことを指している。が、実際には、法然を流罪に処した後鳥羽帝を含め、称名念仏をおこなった天皇は皆無ではないだろうが、専修念仏にハマった天皇は知られていない……国宝『法然上人行状絵図』の編纂を命じた後伏見院は日蓮の死後に生まれている。流石にこれはマズいと気付いて“国主”、すなわち北条一門に差し替えた可能性が高い。このとき、確かに法然の末流を自称する僧侶が北条家の庇護を受けて鎌倉に寺門を構えていたから、少なくとも嘘にはならない。

 

 が、これも怪しいのである。

 

 法然上人の門弟と称し、諸行往生を立つるは逆路伽耶陀の者なり。当世も亦諸行往生の義を立つ。而も内心には一向に念仏往生の義を存し、外には諸行不謗の由を聞かしむるなり。

 

 上記は、安国論略本よりも1年早くに書かれ、近代まで真蹟が存在したが明治の火災で惜しくも失われてしまった『守護国家論』の一節である。法然上人の弟子であると言いながら(専修念仏ではなく)その他の行も往生のためにやって良い、と言っている連中は師に対する裏切り者である。実際、今の念仏者は他の行でも往生すると言っている。しかも、そう言いながら内心では一向(専修に同義)念仏と考えていて、外へ向かっては私たちはその他の行を非難していない、と言っている……ほどの意味になる。

 

 いったい日蓮は誰に対してシンパシーを感じているのだ!?という気にもなるのだが、それはさておき。ここで日蓮に非難されている裏切り者(?)は、具体的には法然の孫弟子で、鎌倉で北条一門の庇護を受けていた良忠(りょうちゅう)、道教(どうきょう)のことをいっているらしい。そして、鎌倉で念仏と言えば、彼らが主流派であった。日蓮はその彼らを指して、言うなれば、オマエらはオレが批判したい専修念仏を正しくやっていない、と怒っているのである。

 

 この奇妙な捻れを理解するには、一旦日蓮の批判は棚上げして、当時の社会において専修念仏がどのような意味を持っていたか、結果的に持ってしまったか、について知っておく必要がある。話は法然の履歴、中でも“承元の法難”に遡る。発端となった『延暦寺奏状』『興福寺奏状』が法然……厳密にはその弟子たち……の何を問題視したのか、であるが、要するに専修念仏を奉じる人々が延暦寺、興福寺が有していた既存の権威に従わなかったことが問題だったのである。

 

 日蓮が仏は弥陀三尊の外の仏無しと謂えりと表現しているように、専修念仏には、阿弥陀仏、及び伝統的に脇士とされる観世音(かんぜおん)菩薩と勢至(せいし)菩薩以外の権威を否定する一面が確かにある。私見では、法然自身の真意は、歴史経緯が降り積もって複雑怪奇に膨れ上がった神仏の権威を一旦棚上げし、ともかく阿弥陀仏にすがろうじゃないか、と言いたかっただけだろう、と思うのであるが、弟子たちはそのように受け取らなかった。と言うか、そこに別の意味を見出してしまった。

 

 中世権門体制下においては、ある神仏・経典の権威を認める、ということは、単に信仰の問題ではなく、その神仏を奉じる権力構造を受容することとイコールであった。たとえば、法華経の権威を認める人は、比叡山関係者が山王権現の神輿を担いで何がしかを要求してきたら、拒絶できなかった。拒絶すると、自らがその権威を認めるところの法華経に対する反逆の罪を問われてしまうからである。これはある意味において、先に指摘した文献・前例至上主義の負の側面、とも言えるかも知れない。

 

 法然は、その現世に対する執着のなさゆえに聖者と見做され、ゆえに尊崇を受けたのであるが、その法然が、現世への執着がないがゆえにその無邪気さで以って“専修念仏”を言うとき、法然ほど現世への執着を断ち切れない、あるいは、そもそも断つ気のない人々にとって、聖者の言は延暦寺、興福寺の既存権威を無視してもいいのだ、という“お墨付き”として受け取られてしまった。法然が専修念仏を宣言した時点(1175年)と、法然に対する社会的な反動が生じる時期(1204年〜)が大きく離れているのは、彼の周囲の人々が、専修念仏に秘められた既存権威超克の論理に気付き、それが広まり、かつ、それによって既得権益を脅かされた人々が反応するのに要した時間なのである。

 

 日蓮がそのように承知していたかどうかは定かでないが、法然自身はこの問題には自覚があったようだ。前述の延暦寺奏状に対して法然側から『七箇条制誡(しちかじょうせいかい)』なる文書が提出されており、これは彼とその弟子たちが、比叡山側が問題視しているような既得権益を脅かす意図が自分たちにないことを宣誓する内容になっている。また、他ならぬ選択集の奥書に、不特定多数の閲覧に供することを戒める文言があることも見逃せない。

 

 おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり

(選択集奥書より)

 

 ここで言われている、破法の人とは、まさに、法然の言に権威付けられたと感じて延暦寺や興福寺の既得権と衝突した人々である、と考えられる。つまり、法然は自分の説が何を引き起こすのか、ちゃんとわかっていたということだろう。

 

 前述の、日蓮からわかったようなわからないような批判にさらされている良忠、道教が、師の論に暗に秘められたこの構造に、自覚的に気付いていたかどうかはわからない。が、百歩譲って日蓮の批判が正しいとしても、彼らが諸権門との衝突を通じて得た経験則に基づいて、専修念仏を表立って主張しなくなったのは、十分理解できる。そして、表立って主張されていないことを実は内心隠し持っているのだ、という日蓮の難癖は、筋が悪い。

 

 さらに言えば、日蓮が立正安国論を提出する以前から、鎌倉幕府は何度も『念仏停止の下文』を出しているのである。無論、ここでいう念仏は、最早ワケもわからず人口に膾炙している南無阿弥陀仏をヤメろ、と言っているのではなく、専修念仏を掲げて近隣の神社や仏閣に喧嘩を売るな、という治安上の理由からである。『守護国家論』において法然の孫弟子を「師を裏切っている」と非難し、幕府法典たる『御成敗式目』を自ら書写して所持していた*4日蓮が、以上のことを知らなかったはずはない。

 

 悲しい哉、数十年の間百千万の人、魔縁に蕩かされて、多く仏教に迷えり。謗を好んで正を忘る。善神怒を為さざらんや。正を捨てて邪を好む。悪鬼便りを得ざらんや。如かず、彼の万祈を修ぜんよりは此の一凶を禁ぜんには。

 

 歴史史料でしばしば見られる数値の誇張を、中国古典になぞらえて“白髪三千丈”ということがある。上引用、第四答末文に見られる百千万の人は、その白髪三千丈ですらない。日蓮は、称名念仏はともかくとして、自らが禁ずべき此の一凶と見做す専修念仏が、決して多く仏教に迷えるほど人々に広まっていないこと、国主がそれを重んじるどころか弾圧していること、を知っていたはずなのだ。

 

 いったい、これはどういうことなのだろうか?

 

 もちろん、理由はちゃんとあるのである。が、敢えて結論は急がずに、今しばらく立正安国論の流れに沿って読み続けてみることにしよう。自ずと答えは見つかるはずである。

 

*1:
 前ローマ教皇ヨーゼフ・ラツィンガー師の著書『ナザレのイエス』(里野泰昭訳/2008〜13年,春秋社)と性格が近いように思う

*2:
 浄土真宗に連なる現代教団の中には、個々人の決定の自覚に重きをおくがゆえ、積極的に布教するものもあることを付言しておく。

*3:
 余談になるが、現在知られている日蓮遺文に、文字通り“真”の意味で専修念仏を貫いた親鸞に対する言及は一切ない。どうやら日蓮は存命中についぞ親鸞の存在を知る機会がなかったようである。同時代を生きた良くも悪くも日本思想史の巨人たる二人が、もし直接相見えて何らかの論争をおこない、筆まめな日蓮がそれを文書に遺していてくれたとしたら……ボクなんかは一年はオカズに困らない(ぉぃ)のに、残念なことである。

*4:
 本稿底本『日蓮の真筆文書をよむ』に詳しい。

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