第五問答は、ボクが見るところ、最も日蓮の筆が踊っている部分になる。良く言えば精神的にタフであり、悪く言えば恐ろしく我田引水に過ぎる。
客、殊に色を作して曰く、我が本師釈迦文、浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞法師は四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し...
第五問は、上引用の書き出しに始まり、以下滔々と
興味深いことには、日蓮は広本改訂にあたり、安国論全体の論旨から言えば特に深い意味を持たない本節に対し、略本にはなかった永観律師……平安時代後期の三論宗の僧で、法然に先んじて専修念仏を勧めたとされる……をわざわざ加えている。永観はここにしか登場しないので、この増補の意図は不明なのであるが、ボクは確信を以って、後述する日蓮の作為を感じるのである。
それはともかく、続いては他ならぬ法然の事跡が、客の言葉で以って持ち上げられる。
就中法然聖人は、幼少にして叡山に昇り、十七にして六十巻に渉り、並に八宗を究め具に大意を得たり。(中略)其の上一夢の霊応を蒙り四裔の親疎に弘む。故に勢至の化身と号し、或は善導の再誕と仰ぐ。
前述したように、日蓮ほど筆まめでなかった法然の事績の多くは、彼の没後かなり経ってから編まれた文献を通して今日知られている。例えば国宝『法然上人行状絵図』(絵巻物による法然の伝記)は日蓮の死後、1300年代前半に成立したものと考えられているがそこに、一夢の霊応を蒙り~善導の再誕と仰ぐに対応する記述、すなわち法然が夢の中で善導に出会ったとするエピソードが見られる。
このことから、浄土宗では伝統的に“二祖対面”と呼ばれるこの逸話が、行状絵図の成立からさらに半世紀遡って必ずしも法然に共感しない人々にまで知られていたこと、つまり、絵巻物を作成する段ででっち上げられた話ではなく、より古い人口に膾炙した伝承に拠っていたことがわかる。これを証明しているのが、誰よりも法然をボロカスに非難した日蓮の筆だ、というのが何とも面白いのであるが、それはさておき。この下りはとても流麗で、この部分だけを抜き出して読むと、日蓮による法然賛歌とでも呼ぶべき内容になっている。
さらに日蓮は、第五問末尾で、客の口をして自らを以下のように罵倒する。
何ぞ近年の災いを以って聖代の時に課せ、強に先師を毀り更に聖人を罵るや。(中略)昔より今に至るまで此くの如き悪言未だ見ず。惶る可く慎む可し。罪業至つて重し。科条争か遁れん。対座猶以て恐れ有り。杖に携われて則ち帰らんと欲す。
ここでも我々は、日蓮が自分の口の悪さに存外自覚的であったことを知らされるのである。無論、次下からの第五答冒頭を読むと、このように書きながら日蓮は、他人からは悪口に見えたとしても、自分は断固として正しいことを主張しているのだ、と確信していることも、また知られるのではあるが。
主人咲み、止めて曰く、辛きことを蓼の葉に習い、臭きことを涸厠に忘る。善言を聞いて悪言と思い、謗者を指して聖人と謂い、正師を疑つて悪侶に擬す。其の迷誠に深く、其の罪浅からず。事の起りを聞け。委しく其の趣を談ぜん。
以上が第五答の書き出しになるが、激怒して席を立とうとする客とは対照的に、主人、すなわち日蓮は、
ついつい忘れそうになるが、そもそも立正安国論は、その気になれば日蓮を殺すことに何の躊躇もいらない北条得宗家の首領に対して差し出されたものである。そこに、相手=時頼に擬した客をここまで怒らせておいて、それを微笑んで小馬鹿にしながら諭す自分自身を描き出すとは、どういう心臓なんだろうか、と感心を通り越して呆れてしまうのであるが。
こうして余裕をかます彼のその余裕は、果たして本物なのだろうか。これがまた、かなり怪しい。
以降、第五答は三つの部分から成っている。
最初の段は、一言で要約してしまえば天台・日蓮教学でいうところの“
面白いのは広本増補部で、この下りの中に突如として、慈恩・弘法の、三乗真実・一乗方便、後に望めば戯論と作すとの邪義にと、法然浄土宗以外への批判が、なし崩し的に組み込まれているところだろうか。日蓮自身の意識としては、第四答冒頭の多事を止て、且く一を出さん。万を察せよを受けて、のつもりかとは思うのだが、あまり上手い繋がりとは思えない。これも、現代から振り返る我々には彼の言いたいことがわかるが、同時代人の読み手にとっては、藪から棒に何だ?な気分になる一節ではないか。
さらに、続く段で話が妙な方向に流れる。
抑近年の災難を以って往代を難ずるの由、強に之を恐る。聊か先例を引いて汝が迷を悟す可し。
これは第五問末尾の、何ぞ近年の災いを以って聖代の時に課せ、強に先師を毀り更に聖人を罵るや、つまり、どうして最近災難が多いことを以って昔の聖人(ここでは法然を指す)の責を問うのか、という客の投げかけに対し、先例を引いて客の迷いを諭すのだ、と言っているのだが、ちょっとこれは第五問の内容を矮小化し過ぎている感がある。
第五問の骨子は……そもそも日蓮が自分で書いているのだから、これを横からツッコむのも変な話ではあるのだが……客の立場からすれば、それなりに伝統に則って自説を論じたようにみえる法然を、主人が殊更に批判するのは不愉快極まる、というものだったはずである。なので、第五答は本来は、天台以来の法華経解釈の伝統と曇鸞以来の浄土教解釈のそれとを対比し、その優劣を計るものでないとおかしい。
ところが、日蓮は自身の教学の根幹に当たるこの話題を、前段で「アイツらは法華経が凄いのを知らんのだ」とレッテルするのみで流してしまい、現在の災難の原因を少し以前の罪人に求めることの是非に矮小化してしまっている。私見では、おそらく日蓮は続く論述に“現証”としての説得力がある、と過信していたのではないか、と思うのであるが、以下紹介するように、ちょっと首を傾げざるを得ない内容になっている。
止観第二に史記を引いて云く……
止観とは、天台大師
本稿冒頭で触れた、広本にて増補された永観律師の下り、また、前段における慈恩・弘法への突如の言及も含め、素なのか故意なのかは俄に判じ難いが、日蓮には明らかに大量の情報を相手に投げかけることで結果的に相手を屈服させようとする悪癖、があったように思われる。悪癖、と敢えて呼ぶのは、結局のところ、彼は自身のその悪癖によって、得られたかも知れない理解者をむしろ失っているように見えるからなのであるが、それはともかくとして、彼の言い分をまずは聞いてみよう。
大雑把にまとめると、史記に「周王朝の末に、礼儀に則らない衣服や髪型が流行った」と書いてある、と。さらにこれを弘決、すなわち、中国天台宗第六祖にして、しばしば日蓮が好んで引用する
そして日蓮は高らかにこう宣言する。
爰に知んぬ、徴前に顕れ、災後に至ることを。
見よ、前徴が先に現れて、災難が後に起こることがあるのだ……ほどの意味になるが、さて、読者諸兄は、これで日蓮が何か論証している、と思われるだろうか。
ボクは思わない。
そもそも、摩訶止観の該当部を読んでみると、どうも天台自身はこの安国論の第二答と同じ考え方、つまり、思想の乱れが国家の命運を左右することがある、という見解に対し、その世俗での実例として史記を引いているように読める。とすると、これはいわゆる循環論法である。論証すべき論点を、その論者の論で証明できるのであれば、何だって証明できてしまう。
しかも、続いて日蓮は、又、阮籍が逸材なりしにと、三国志が好きな人であれば“白眼視”という故事成語の由来となったことでよくご存知であろう人物のエピソードを持ち出し、やはり彼の奇矯な行動が後の司馬氏(魏を簒奪した晋朝)の滅亡の予兆であった、みたいなことを書いているのであるが、実はこの話は摩訶止観において、先に挙げた周の末に云々の話のすぐ次下に載っている話なのである。こうなってくるとやはり日蓮は、安国論の読み手はいちいち引用原典なんか確認したりはしないのだ、と開き直った上で、確信犯的にもっともらしい話を安易に引いているだけじゃないのか、という疑惑も生じてくる。
続いて彼は、日本天台宗第三代座主
そして、問題の三段目に至るのであるが、
法然は後鳥羽院の御宇建仁年中の者也。彼の院の御事既に眼前に在り。然れば則ち大唐に例を残し、吾が朝に証を顕す。
前段では、果たしてそれが論証になっているか否かはさておき中国大陸に故実を求めていた日蓮が、ここで法然に話題を引き戻す。法然は後鳥羽上皇の時代の人で、彼の院の御事、これは要するに1221年の承久の乱で後鳥羽上皇が敗北し隠岐島へ流罪になったことを言っているのだが、どうも日蓮は、阮籍が晋朝滅亡の予兆であったように、法然が後鳥羽上皇の没落の原因なのだ、と言いたいようである。
が、ちょっと待て。
法然を流罪に処したのも、他ならぬ後鳥羽上皇ではなかったのか。そして、百歩譲って日蓮が言うように法然こそが諸悪の根源なのだとしたら、その罪を問うた……内実が愛妾の寝取られ問題であったとしても……後鳥羽上皇は、日蓮的には称賛すべき賢王ということにならないか。その賢王たる人が、自身法然よりも過酷な遠島刑に処せられたのであるから、むしろ日蓮は持論の破綻にこそ気付くべきではないのか。
汝疑うこと莫かれ、汝怪むこと莫かれ。唯須く凶を捨てて善に帰し、源を塞ぎ根を截べし。
が、上引用の第五問末文、また続く第六問を読む限り、どうも日蓮はそのような疑問を抱いてはいないようである。凶を捨ててもなにも、既に示したように、鎌倉幕府はもちろんのこと、市井においても、日蓮の言う捨てるべき凶たる専修念仏は、この時代においては省みられることの少ない異端に過ぎなかったのであり、そのことは日蓮自身も百も承知だったはずなのに、この力説である。これは一体どういうことなのか。
私見では、少なくとも略本執筆時点の日蓮は、ある明確な意図を以って故意にこれをやっている、と考えているのであるが、今のところは、この第五問答が数々の論理破綻を内包しつつも、それを書いている本人だけは故実家の面目躍如とばかりにやたらと楽しそうだ、という点のみ指摘して一旦筆を置く。