ようやく折り返し点を越えた。もっとも、立正安国論の十問九答は必ずしも均等ではないので文量としては既に5分の3を超過しているのであるが、ともかく、ここまでやったものであるから最後まで読み解き通してみたい。
客、聊か和ぎて曰く、未だ淵底を究めざるに、数ば其の趣を知る。
第五問末では則ち帰らんと欲すと怒りを顕わにしていた客が、第五答の何に納得してかは現代の我々からするとまったく理解不能ではあるものの、一旦落ち着きを取り戻し、立場の相違はあるが主人の言いたいことは概ねわかった、と応じるところから第六問は始まる。前稿でも述べたように、これは、日蓮自身が、第五答の“論証”に自信があったことの反映なのだろうと思う。
さて、これは日蓮の自信過剰、思い上がりなのであろうか。
無論、現代人の目から見れば、それ以外に形容のしようもないのではあるが、同時代的な目線に思いを馳せるとき、ボクは必ずしもそのようには思わないのである。少なくとも、繰り返し述べているように、当時の知識人が自身の何らかの見解や決断を正当化する際、仏典や四書五経、その他の文献の記述に依ったのは、身分や立場の違いを超えて普遍的な思考様式であり、日蓮のみが特別にそうなのではないし、むしろ彼は、その思考様式を徹底してはいるのである。
また、これから読んでいく第六問答以降は、第五問答で主人側から半ば揶揄的に示された“真理”について、客側がその細部についての疑問を呈していくという流れになっているのだが、現代的なディベートの修辞としてはこのような手法は決して珍しくないどころか、むしろオーソドックスですらあるものの、やはり当時の感覚からすると、かなり斬新で衝撃的なものであったとは思うのである。
また、詳細に論じだすとキリがないので触りに留めたいとは思うが、相手が納得しやすい情報を小出しにして徐々に誘引教導するのではなく、まず核心となる部分を論敵に提示すべきとするこの手法が、日蓮教学における“
ただし、この点については、特に立正安国論の執筆真意については、ボク個人はいささか疑念を抱いているのであるが、今のところはともかく第六問答を読み進めてみたい。
第六問の要旨のみを抜き出せば、以下の部分になる。
未だ勘状を進らせず、上奏にも及ばず、汝賤身を以て輙く莠言を吐く。
客は、第五問答までの主人の主張について、
結論から言うと、日蓮は故意に事実と異なることを書いている。既に述べたように、法然の専修念仏に対する勘状や上奏は日蓮以前にたくさんあるし、専修念仏停止令をしばしば発した鎌倉幕府が、その正当性根拠となるそれらの勘状や上奏の存在を、知らなかったはずはない。では、なぜ日蓮は敢えて客の口をしてこのようなことを問わせているのか。その意図を第六答から探ってみよう。
順序が前後するが、先に第六答後半部、客の第六問に直接応じている部分を引いておく。
去る元仁年中に、延暦・興福の両寺より度度奏問を経、勅宣・御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんが為に、之を焼失せ令む。
日蓮は元号を元仁(1224~5年)としているが、内容から察して、今日においては続く元号を冠して“嘉禄(1225~8年)の法難”と呼ばれている事件についての言及と思われる。これは法然の死後15年を経て起こった、主として天台宗延暦寺の僧が主導した専修念仏に対する弾圧なのだが、興味深いのは、法然の選択の印板~を焼失せ令むだろうか。法然自身は必ずしも不特定多数の閲覧に供するものではない、と考えていた
余談になるが、この後に続いて以下に示す下りがある。
法然の墓所に於ては、感神の犬神人に仰せ付けて破却せ令む。
これは延暦寺の僧が、埋葬されていた法然の遺体を掘り起こして鴨川に流してしまえ、と要求した話を伝えている……浄土宗の伝承では、弟子筋が実施の寸前に遺体を回収したとしている……のだが、ここに
ともかく、この事例を挙げて主人は、豈未だ勘状を進らせずと云わんや、つまり、客は勘状がないと言うが出ているではないか、と第六答を締めくくるのであるが、これは二重におかしい。
第一には、前述したようにこの顛末は、北条時頼、時宗、各個人が諳んじていたかどうかはともかく、幕府の人間ならば記録を調べればすぐにわかる話であり、日蓮から教えられるまでもないこと。
第二に、こちらの方がより本質であるが、日蓮の言によれば法然は遺体を破却されるという裁きを既に受けているのであり、では日蓮はこの上いったい何を幕府に対して求めているのかわからなくなること、である。
といったところで、以下は論証が難しい私見であることを断って述べたいと思うのであるが、思うに、少なくとも立正安国論略本執筆時点での日蓮は、文面の印象とは異なり、本気で法然が諸悪の根源であるとは考えていなかったのではないか、とボクは思っている。
では、この意地悪なまでのこれらの法然批判はいったい何なんだ、ということになるのだが、思うに、日蓮は鎌倉幕府が専修念仏に対し快く思っていないことを承知の上で、その見解を追認すべく法然批判をくどくどと展開したのではないだろうか。
つまり、第六答後半の嘉禄の法難への言及は、客が知らない事実を提示するため、ではなく、客と主人の歴史認識が一致していることを確認するためのものなのである。
それは何のために?
実は、第六問の主題は未だ勘状を進らせず、上奏にも及ばずの部分ではなく、それに続く汝賤身を以て輙く莠言を吐くに対する日蓮の反論である、というのがボクの読みだ。要するに、狭くは第六問答、広くは第一問答以来ここまでの議論は、法然を攻撃することが主目的なのではなく、法然の専修念仏を忌避する幕府見解と同じ視点に日蓮が独自並行して至ったことを立証すべくおこなわれたものであり、ゆえに、少なくとも略本執筆時の日蓮は、幕府がすんなりと自説を認めるものと思っていたのではないか、という話である。
これが、先に、立正安国論の執筆真意に疑念がある、とした理由であり、早い話が、これは日蓮にとってはいわゆる折伏ではないのであって、自身が“まつりごと”に口を挟むに足る一角の人物であることを示すためのデモンストレーション、と考えた方が、いろいろと納得がいくのである。
ここで、読み飛ばしていた第六答前半分を振り返ってみよう。第六答は以下に示す日蓮の謙遜から始まる。
主人の曰く、予少量為りと雖も忝くも大乗を学す。
私はほんの少しではあるが大乗仏教を学びました、ほどの意になる。もちろん本人の意識としては仏教、厳密に言えば天台教学体系を究めている自覚の上で言っているのは明らかだが、第六問の主題が「権威ある筋から法然の批判がないではないか」にあると前提して読むと、噛み合わない応答になっている。なぜ、日蓮は謙遜しているのか。答えは続く仏典引用部にある。
大涅槃経に云く、若し善比丘あって、法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駆遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、真の声聞也、と。
略本では引用は以上で、広本ではこれに加えて法華経から7箇所、大涅槃経から1箇所の引用が加わっているが、概ね同主旨の内容になっている。
上記引用部の大意を取れば、正しい僧がいたとしても、この人が仏法を破壊する人を批判したり追放したりしないのであれば、これは仏法の敵である。正しく批判し追放するのであれば、この人こそが真に私(釈迦)の弟子である……といったところか。これもいわゆる未来記の一種であり、<仏教>の歴史において、自分こそが釈迦の真の弟子である、という修辞でもって見解の異なる他者を論難したものが多かったことを反映したものである。無論、日蓮は文字通り理解していると考えて間違いあるまい。
これが第三問答に際して、是れ邪見の人・外道の論議を説くと声高に叫んでいるのは他ならぬ日蓮自身なのではないか、と指摘したことに対する日蓮自身の反論に当たるのだが、彼は自分の仏典解釈は絶対に正しいという確信の下でこう言っているのでこれで良いのだろうが、聞かされる立場からするとまったく納得がいかない。
第六答における日蓮の真意が、法然批判の前例を挙げることではなく、自分こそが幕府が頼りにするに足る真の声聞であると立証すること、と仮定すると、狭くはこの第六問答、広くはここまで繰り広げられていた、いささか筋違い感の漂う法然に対する批判の動機が理解しやすくなる。それは、ここまで彼が引いた釈迦の未来記に擬した偽経が作られた動機、すなわち偽作者が自身の論敵を貶め、以て相対的に権力者の覚え目出度かろうと目指したのと同様であろう、ということだ。
では、立正安国論は、日蓮にとってはリクルート活動に過ぎなかったのだろうか。これも私見であることを断った上で言うが、結果的にはそうであり、いささか邪推気味ではあるものの、略本執筆時点での日蓮にとっての理想の着地点は、時頼をして自身が鶴岡八幡宮の別当に推挙され、伝教大師よろしく八幡神に法華経を講読することだったのではないか、そしてそれがすんなり実現すると考えていたのではないか、とボクは思う。
とは言え、安国論が日蓮にとって就職先を求めての芝居だった、とまでは流石のボクも思わないのであって、日蓮は上記が実現すれば、『扶桑略記』が伝えるように、八幡神が降臨して彼に衣を与え*2、ひいては日本国に守護の善神が舞い戻ってくる、と本気で信じていたのではないか、というのがボクの現時点での理解である。当所の法然批判は、その足がかりとしての幕府の専修念仏禁令を追認したものでしかなかったのではないか、少なくとも略本を書いた時点では。
一方で、広本増補時の日蓮はそれとは異なる境地に達していた、というか“達してしまっていた”こともまた明らかであるように思うワケで、そこにはいわゆる予言書としての立正安国論について考察する必要があるのだが、それについてはそこに至った際に改めて論じてみたいと思う。