【本編完結】レッドキャップ:ヴィランにTS転生した話 作:WhatSoon
「私がまず君の魂を剥離させ、
スティーヴンの右手に魔法陣が生まれた。
そして、空いた左手で……眠っているミシェルを指差した。
「そして、彼女の精神世界へと送り込む」
「精神世界……?」
「記憶や魂の片鱗が生み出す、彼女の心に存在する夢のような世界だ」
……結局、その返答も抽象的で理解できなかった。
「彼女の肉体は生きている……肉体、脳が作り出す精神世界から魂との繋がりを遡り、君を彼女の魂の元へ送る」
「……何となく、分かりました」
僕の言葉にスティーヴンが薄く笑った。
「そうだ。何となくで良い。結局の所、理屈は君にとって重要ではない」
視線を落とす。
血で汚れたまま……眠る、ミシェルの姿があった。
「重要なのは呑まれない事だ。ピーター、君は彼女の記憶の濁流へと落ちるが……そこで心を折られてしまえば──
スティーヴンが指を立てた。
「彼女を助ける話どころではない。君の
思わず、喉を鳴らした。
緊張のせいだ……怯えてなんか、いない。
ただ僕がそんな理由で死ねば……彼女を助けられない。
それは確かに怖い、けど。
「……そして、彼女の魂への繋がりを辿り、地獄へ向かい……魂を盗んだ
「……はい」
彼女の魂を盗んだ相手に交渉するなんて……何だか、馬鹿げた話だ。
魂の持ち主は彼女自身なのに……まるで自分のモノのように扱ってるなんて。
そう思っていると、スティーヴンが僕の目を見た。
「ピーター。時間はあまり無い……本当に良いんだな?」
「……はい!僕は、いつでも」
覚悟はとっくに出来ている。
助ける覚悟も、危険を伴う覚悟も、失う覚悟だって。
「……何か、言っておきたい事はないか?」
しかし、スティーヴンは気を利かせて、そんな事を訊いてきた。
言っておきたい事?
……そんなの。
あぁ、一つだけある。
「……もし、ミシェルが僕のことを訊いても……何も教えないでくれるかな?」
「どうしてだ?」
「……きっと、自分を責めてしまうから」
スティーヴンが息を吐いて、目を瞑った。
ミシェルは……優しいから、僕が彼女のために危険を犯したのだと知ったら……自分を責める。
僕はそうなって欲しくない。
彼女には笑っていて欲しいから……何にも、傷付けられる事もなく。
自分自身にでさえ……だから、こんな事を知る必要はないんだ。
「……分かった。約束しよう」
「ありがとう、スティーヴン」
目を開いて、僕を見た。
「……今から、君の
スティーヴンの手をミシェルへと近付ける。
彼女の胸の辺りに、黒く、鮮やかな色が見える穴が出来た。
……これが、ミシェルを助けるための、道。
「……ありがとう、ございます。無理を言って──
「良い。私は君を責めはしないさ」
僕と目があった。
辛そうな顔をしていた。
「さようならだ、ピーター・パーカー。君の事は……せめて、覚えてはおこう」
スティーヴンの手が僕に、触れた。
瞬間、何もかもがスローになった。
身体が凄く、軽くなった。
まるで浮き上がるような……重さを感じず、何処が下かも分からなくなって……。
ぽっかりと空いた、黒い穴へと吸い込まれた。
声、姿。
景色、思い。
匂い、感触。
喜び、怒り、悲しみ、哀れみ、苦しみ、痛み、妬み、愛おしさ、退屈さ、希望、夢、絶望。
全てが混ざり合って、僕に打ち付けられる。
『……っ!』
声が出ない。
落下しているのか、登ってるのか、それすらも分からない。
ただ、奥へ、奥へと入っていくのは分かった。
少しずつ、奥へ、奥へ。
真っ暗な世界の中で、煌めく幾つかの色。
歪んだ光の流れ。
記憶の奔流。
目を瞑っても見える世界に、圧倒されながら……僕は……僕は……光の泡を見た。
虹色に輝く光の泡が浮かんでいる。
それらの間を通り抜けて……そして。
黒く、燻んだ泡へ、飲み込まれた。
◇◆◇
それは、真っ白な部屋だった。
毒々しいほど白く、ベッドだけ置かれた部屋。
そこに私は座っていた。
私……?
いや、違う、僕だ。
何をしに来たか、思い出すんだ。
僕は──
『13番、外へ』
13番。
それが名前……なんだろうか?
頭で考えるのとは別に、身体が勝手に動く。
……視点の高さに違和感がある。
手足も細く、短い。
……あぁ、これはきっと、ミシェルの記憶だ。
僕は……いや、ミシェルは白い服を着ていた。
簡素な、まるで病衣のような服装。
彼女はスピーカーから聞こえた声に従って、部屋の外に出る。
外には……黒い近代的なフルフェイスのマスクを被った兵士達が数人いた。
その手に武器を持っている。
ミシェルは彼らの後ろを追って、黙ったまま付いていく。
やがて、別の部屋へと入れられた。
兵士達とはそこでお別れだ。
部屋は……さっきと同じ、外壁は白かった。
だけど……赤茶色の汚れが目立っていた。
背後のドアが閉まった。
……音がして、ドアの上にあるランプが緑色から赤色になった。
部屋の向かい側にも、ドアがあった。
そのドアが開き……怯えた様子の女の子が現れた。
「……ひっ」
女の子はミシェルの顔を見て、怯えた。
『13番、68番、殺し合え』
スピーカーから声が聞こえた。
……ミシェルは目の前の女の子に向かって歩き出す。
ペタペタと、何も履いてない足が音を立てた。
「ま、待って!」
女の子が制止するように声を掛けても、ミシェルは足を止めない。
少しずつ、近付いていく。
「やめよ、やめようよ……!」
少しずつ、少しずつ。
「ね、だって、痛いし……怖いし……!」
近付いて……そして。
ミシェルが手を動かすよりも早く、女の子の手が動いた。
ミシェルは一歩引いて……彼女から離れた。
目の前に鈍い銀色の輝きが見えた。
それは金属製のフォークだ。
隠し持っていた武器で、ミシェルを攻撃したのだ。
「な、なに……?こうやって、隠し持ってたら悪い……?」
ミシェルは一言も発しない。
「な、何よ……あんたが先に殺そうとしたのに……!何か言いなさいよ!」
何も言わない。
焦れて、焦って……女の子が手に持ったフォークをミシェルに突き出した。
ミシェルはそれを手で逸らして、手首を掴んだ。
小さな、破裂音。
関節が折れた音だ。
「いっ──
女の子が声を出すよりも速く、ミシェルは首に拳を叩き込んだ。
足を蹴り、姿勢を崩させて、顔を殴った。
血が飛び散る。
「や、やめっ──
赤黒く変色した手で持っているフォークを、ミシェルが奪った。
それを……少女の目に──
やめてくれ。
僕は思わず、そう言葉を漏らそうとして……それでも声は出ない。
誰にも聞こえない。
血が飛び散る。
悲鳴が聞こえる。
「や、やだっ、痛いっ」
ミシェルは手を止めない。
効率的に体を破壊して……やがて、少女は黙って……震えるだけになった。
『13番、殺せ』
そして、ミシェルは……女の子の首を絞めて……。
へし折った。
◇◆◇
次に見た記憶は、もっと後の事だと思う。
ミシェルの手足は伸びていたし……僕の知っているように、少し人間離れした力を持っていた。
そんなミシェルの。
爪が剥がれる。
体験している僕にも、激痛が走った。
声は出ない、出せない。
だけど叫びたくなるほどの痛みだった。
ミシェルは金属製の椅子に座らせられて、拘束されていた。
『13番、問題なし。痛覚耐性訓練を続行』
スピーカーから聞こえる声を耳に入れて、黒い服を着た男が……ペンチでミシェルの爪を摘んだ。
悶えるような、激痛。
脳が焼かれるような痛み。
少しでも気を抜けば、意識を失ってしまうような痛み。
……だけど、必死に耐える。
ミシェルも経験した出来事なんだ……だから、だから、だから、耐える。
痛い。
辛い。
気持ち悪い。
色々な負の感情が胸を占める。
ミシェルは声を上げない。
黙ったまま、表情すら変えず……ただ、その悪感情を受け止めていた。
これは、もう起こってしまった出来事だ。
だから、助けることはできない。
僕は苦痛を与えられるミシェルと、同じ苦痛を追体験していた。
耐える。
大丈夫だ。
僕は耐えられる。
どれだけ折れそうになっても……僕は、彼女を助けなきゃならないから。
だから、負けない。
彼女の感じた痛みだから……僕は、耐えられる。
◇◆◇
次に見た記憶は……真っ赤な光景だった。
どこかの研究員らしき人をナイフで引き裂いて、バラバラにした。
何人も殺した。
逃げる人も、立ち向かう人も、命乞いをする人も。
殺した。
かぶったマスク越しに、血の臭いがした。
ここはどこかの研究所で……地下にあった。
出入り口だと思わしき扉は、ミシェルがドアを押し曲げて出られなくなっている。
逃げ場のない中で、全員殺したんだ。
彷徨うように歩いて……発砲されて反撃されても、気にせず詰めて刺し殺す。
体の重要な部分は避けて、何度も傷を負いながらも……殺す。
傷付いた体は、数分経てば元に戻っていた。
彼女は……傷が治るのは早いんだ。
殺して、殺して、殺して。
両手で数えられる量よりも殺して……ミシェルはふと、机の上を見た。
そこには……新聞だ。
死んだ研究員が持って来ていたのであろう……半分はコーヒーが溢れて読めなかった。
だけど上半分のアベンジャーズの記事は無事だった。
ミシェルは動きを止めて、それを見ている。
今まで感情らしきものを見せなかったミシェルが……熱心に新聞を読んでいた。
「……キャプテン・アメリカ」
手に取って、写真を眺めている。
「アイアンマン、ソー、ハルク」
その顔は、彼女と体験を共有している僕には見えない。
「ブラック・ウィドウ、ホークアイ……」
だけど、少しだけ……頬が緩んでいる感触があった。
それは僕が初めて感じた、彼女が笑おうとした瞬間だった。
血と臓物が撒き散らされた部屋で、ミシェルは……希望を見つけたんだ。
◇◆◇
次に見たのは、年季の入ったアパートの一室だった。
白い部屋から離れて……彼女はようやく、自分の時間を手に入れたみたいだ。
毎朝、新聞を購入して……時々、人を殺して。
雑誌や新聞の表紙にヒーローが写っていたら、迷わず購入して持ち帰った。
それを本棚に並べて……やがて、直ぐに本棚はいっぱいになってしまった。
彼女は雑誌や新聞から、ヒーローの写っている記事だけを切り取って……紙に貼り付けた。
それをバインダーで閉じて、残りは捨てる。
……彼女はスクラップブックを作っていた。
それを愛おしそうに撫でて……本棚に仕舞う。
そのままクローゼットを開き……黒いスーツを着る。
赤いヘルメットのようなマスクを被って……また、人を殺す。
何日も、何日も、そんな日が続く。
外がクリスマスだろうと、イースターだろうと、雪が降っても、雨が降っても、どんな日でも。
ふらりと外に出て、人を殺す。
数え切れないほどの屍を作って……彼女は朝刊を手に取った。
味覚がおかしくなるかと疑う程に砂糖を入れたコーヒーを飲みながら……朝刊を読んでいた。
ふと、手が止まった。
「あ…………」
そこにあったのは……赤と青のタイツを履いた男の写真だ。
変装の達人、『カメレオン』を捕まえた時の記事だ。
……僕が初めて捕まえた、凄い能力を持った悪人。
新聞でも大々的に載って……それをミシェルは見たんだ。
「……スパイダーマン」
名前を呼んで……新聞が少し濡れた。
雨漏りじゃなかった……だから、これは、彼女の──
目元を拭って、ミシェルは新聞にハサミを入れた。
その手は少し、震えていた。
真っ白な紙に記事を貼って……新しいバインダーに入れた。
他のヒーローとは違うスクラップブックだ。
それをジッと眺める。
彼女と共有している視線の隅で、鏡に反射している彼女の顔を見た。
……笑ってた。
過去に一度も笑っていなかったのに……ただ、新聞の記事を見ただけなのに……スパイダーマンの存在を知っただけで、笑ってたんだ。
それは彼女の薄暗く濁っていた感情の中に、一筋の光のように入り込んだ。
◇◆◇
どれほど記憶を追体験したのかは分からない。
辛い記憶ばかりだけど……時折、ミシェルは喜びを見つけていた。
彼女の拠り所は……僕、だった。
スパイダーマンという憧れだったんだ。
……少し、恥ずかしい気がした。
だけど、同時に嬉しかった。
悲しかった。
落ちて、曲がって、飲み込まれて……早く、彼女を助けなきゃならないのに。
記憶の中で……何を頼りに、彼女の元へ向かえば良いのか分からなくて、僕は……。
ふと、呼ばれた気がした。
声だ。
だけど、ミシェルの声じゃない。
白い光が伸びていて……。
いや、あれは糸だ。
それは僕を引き寄せて……僕を、引き上げる。
『こっちだ!』
それは誰だ?
……僕の声だ。
何で、僕の声なんだ?
姿は……?
赤いマスクの男。
……スパイダーマンだ。
僕?
でも、今着ているナノマシンスーツとは違う。
僕が長年着ていた布製の、ハンドメイドのクラシックスーツだ。
赤と青、黒い蜘蛛の巣のスパイダーマン。
古い姿の僕が、僕を引き上げる。
誰?
いや、僕なんだけど。
なんで僕なんだ?
そのまま引き寄せて……何か、別に記憶に入り込んだ。
薄暗い……真っ赤な世界。
「君は……あれ?」
声が出る。
不思議に思って首を触ると、目の前の……スパイダーマンは居なくなっていた。
……アレはきっと、ミシェルの中にあるスパイダーマンへのイメージだ。
だって、僕より少し身長が高かったし。
僕が作ったハンドメイドスーツと違って、糸がほつれて無かったし。
声も……何だか少し、凛々しかったし。
多分、美化されたイメージだ。
……僕、あんなにカッコよくないよ、ミシェル。
そして、ここは……記憶の中じゃないみたい。
果てしなく広がってるのは暗闇。
酸っぱいような臭い。
足元は……柔らかい。
肉を踏んでるような感触だ。
……いや、違う。
肉だ。
それも人肉。
死体が山積みになって、地面を作ってる。
この死体は……見覚えがある。
さっき見た人だ。
ミシェルが殺した研究員の死体。
組織で訓練していた時の女の子の死体。
邪魔して来た警官の死体。
……アレは?
ミステリオだ。
紫色のスーツ姿の男もいる。
眉を顰める。
「……随分と悪趣味なインテリア」
柔らかい感触を足に感じながら……僕は足を進める。
何処に向かって?
分からない。
だけど、何となく……こっちだって、
強烈な悪意が、そこにある。
きっとそれが──
『よく来たな、ピーター・パーカー』
暗闇が晴れて……空が赤く染まる。
まるで血の色だ。
……それにしても、ピーター・パーカー……か。
「どうも、僕って有名人なのかな?」
油断はしない。
恐れていないと態度で示す……軽口を叩きつつ、状況を見定めるんだ。
『あぁ、有名人だとも……』
真っ赤な肌をした……赤いマントを羽織った男。
大きさは……3メートルはある。
2本の尖った耳、鋭い牙……充血した瞳のない目。
僕の中にある悪魔のイメージ、そのままだ。
「そっか、じゃあサインでも──
『そんな話をしに来た訳ではない。違うか?ピーター・パーカー』
軽口を咎められて……思わず黙ってしまった。
得体の知れなさが、目の前の悪魔から感じられた。
今直ぐここから逃げ出せと、本能はそう言ってる。
だけど……逃げ出さない。
「……お前が盗んだ魂を返して欲しい」
ミシェルを助けなきゃならない。
『……人の運命を決めるのは、ほんの些細な出来事だ。小さな躓きが命を落とす事にもなる。あの女もそうだった……遅かれ早かれ……ならば、後悔せず死ねる時に死ぬべきではないか?』
「……何を言ってるか分からないな」
『建前の話だ。私には未来が分かる……あの女は生きていれば不幸を振り撒き、己を傷付ける。それは不幸、喪失、苦痛、絶望、悲哀……私の好むものだがね』
「……何が言いたい」
僕の言葉に、目の前の赤い悪魔が笑った。
いいや、嘲笑った。
『分かろうとしない。いや、分かりたくない……か?』
「……御託はどうでも良いんだ。僕は彼女の魂を連れ返しに来たんだ」
『知っているとも。私は全知だ』
……あれが、ミシェルの魂、なのか。
『ミシェル・ジェーン……お前達がそう呼ぶ物の魂は、ここに』
「……僕の魂を代わりに──
『断る』
狂気的な笑みで僕を見下した。
『そんな取引は……もう、何百年も前に辞めた。誰かを救ったと誇る魂の味の、なんと下劣な事か』
いつの間にか現れた人骨で出来た玉座に、悪魔が座った。
『なにも、おもしろくない』
「……それなら、何を──
『私が欲しいのは、ちっぽけな魂なんかよりも遥かに大きいモノだ。個々の魂を奪っても得られない甘美なモノ……そのために、この女の魂を奪った』
僕は眉を顰めた。
……ミシェルの魂を盗んだのは……目的じゃなかった?
僕をここに誘き寄せて……より大きなものを取引させるために盗んだんだ。
『私が欲しいモノは、お前に喜びを与えるモノだ。お前が立ち上がる時に必要な心だ。記憶だ。存在だ。願いだ。愛だ』
真っ赤な指が、僕を指差した。
『私は、それを踏み躙りたい』
物静かな地獄では風も吹かない。
時間の流れも主観的なものに頼るしかない。
だから、長い間……黙っていた気がした。
だけど、覚悟を持って……僕は頷いた。
「いいよ」
『……ふむ?』
「条件を……欲しいものを言ってよ」
ニタリ、と悪魔が笑った。
『奪うのはお前の持つモノではない』
指を鳴らした。
稲妻のような音がした。
『世界から、お前の痕跡を消す。お前の積み上げてきた物を全て消す』
「……それって──
『誰もお前を知る者は居なくなる。お前の名や姿が刻まれた物から姿を消す』
「……そんな事したら、矛盾が──
『出来ない。シュトーレンのように真ん中を切られ……左右がくっ付くだけだ。矛盾なく、そうであったのだと誰もが認識する。世界すらも』
狂気的な笑みを浮かべて、悪魔が僕を見た。
『さぁ、どうする?ピーター・パーカー。お前の築き上げて来た愛も、名声も……全てを──
「分かった。具体的にどうすれば良い?」
僕は頷いて……悪魔が少し、驚いたような顔をした。
『……クク、ク、思ったより早い返答だ。事の重大さが分かっていないのか?』
「いいや、分かってるよ……」
僕は首を振った。
失う事は怖くない。
僕はずっと失ってばかりだった。
大切な人も……失った。
今度は僕が失う番なんだ。
命じゃないだけマシさ。
何も怖くなんかない。
グウェン、ネッド、ハリー、スタークさん、メイ叔母さん……ミシェル。
忘れられても、生きていてくれるなら……それで良い。
『素晴らしい自己犠牲精神だ。それを滅茶苦茶に出来るのが……最高の娯楽だ』
悪魔が両手を宙に掲げた。
握られていた白い魂が宙を漂い、姿を消した。
「ミシェル……!」
『そう不安になるな。彼女の魂は肉体に返してやった……じきに目を覚ますだろう』
安堵して、息を吐いた。
『悪魔は契約に忠実だ……私は特に、な』
両手から赤い稲妻が放たれた。
それは僕と悪魔を中心として回転し、音を響かせる。
『我が名は『メフィスト』。悪魔の王。その契約を以って、お前の愛し、守って来た世界を歪めよう』
光が幾重にも輪を作る。
スティーヴンの作っていた魔法陣よりも大きく、複雑な模様が刻まれる。
眺めていると……悪魔、メフィストが口を開いた。
『あぁそうだ。ピーター・パーカー?』
「……何?はやくしてくれないかな」
悪魔の囁きに耳を貸すなって……どこかで偉い人が言っていた。
だから、聞くべきじゃないのだろう。
『先程の契約に一つ、譲歩してやろう……このままでは、少々私が貰い過ぎている』
「何を言って──
『だから、一人だけ。そう、一人だけ……この現実改変から取り除いてやろう』
それは思わぬ提案だった。
息を呑んだ。
……一人だけ。
一人からは忘れられない。
『さぁ、どうする?』
脳の中で何人もの人の顔が巡る。
誰を?
誰かを……。
僕の悩んでいる姿を見て、メフィストが愉快そうに笑った。
……あぁ、人の苦悩が大好きだって言っていたな。
この提案も僕を揺さぶる為の思いつき、なのだろう。
本当に気分が悪い。
「決めたよ」
悩んだ末に、一人の顔を思い付いた。
『ふむ』
「────の記憶は消さないで欲しい」
一人の名前を答えた。
その答えを聞いて、メフィストは……頬を緩めて、笑った。
『フ、クク、なるほど……どこまでも、自己犠牲の男だな。ピーター・パーカー』
僕らを取り囲む光が弾けて、地獄を照らす。
『取引、完了だ』
少しずつ、光が失われて、視界が真っ黒になっていく。
何かに引っ張られる感覚と共に……目を開けているのか、閉じているのか分からないまま。
暗闇の中に……僕は沈んだ。