【本編完結】レッドキャップ:ヴィランにTS転生した話 作:WhatSoon
今年もよろしくお願いします。
時間は少し遡る。
私がブラック・ウィドウに、決意を話す前。
選択をする日……その前。
前日の夜。
クイーンズの公園、そこのベンチで二人語り合っている時。
そこまで遡る。
「まぁ、そんな感じで……えっと──
ピーターが言葉を紡ぐ。
私が知らない、私の話。
ピーターだけが知っている、私の思い出。
確かに、その場面に遭遇すれば私はそうするだろうと思える思い出。
疑う訳ではないが、ピーターの語る話は事実なのだと納得した。
そして、それは……凄く──
そう、私にとっては、凄く──
「……羨ましい」
羨ましく聞こえた。
「ミシェル?」
私が小声で呟いた言葉に反応して、ピーターが首を傾げた。
「……何でもない」
取り繕うように下手くそな笑みを浮かべて、首を振る。
誰を羨ましく感じるのか?
ピーターに対して、ではない。
私自身だ。
正確には、私の知らないピーターの記憶にいる私に対してだ。
私はピーターの顔を見る。
頬を掻いて、ピーターは不思議そうな顔をしている。
凛々しさと優しさの中に……ほんの少しの臆病。
陽気かと言えばそうではなく、大人しい性格。
彼の思い出話を聞けば対人関係に対しては臆病……だけど、誰かを助ける時は勇敢。
頼りないけど、本当は頼りになる。
矛盾した二つを兼ね備えた、そんな人だ。
「……ど、どうしたのかな?僕、変な事言った?」
そう言って慌てる様子を見ると、少し愉快な気持ちになる。
虐めて楽しいって訳ではない……だけど、その、愛おしく思えた。
こうやって彼の知らない表情を見ること、それが堪らなく嬉しい。
「ううん、大丈夫。もっと、話を聞かせて欲しい」
私は笑いながら、そう言った。
元々、スパイダーマン……いや、ピーター・パーカーに対して私は、好意を持っていた。
コミックのヒーローに対する好意だ。
だけど、こうして出会って……彼の献身を知り、私は彼が好き『だった』のだと確信した。
今も……記憶を失った今でさえ。
思い出話で……今の私自身も惹かれている。
前の私と、今の私。
記憶を失っても根本は変わらない。
どちらの私も彼が好き、なのだろう。
だからこそ、羨ましい。
私の知らない彼との出会い、出来事、全て。
自身の唇を、指でなぞる。
キスの感触も……私は覚えていない。
それが羨ましい。
そんな私の無意識の行動を見ていたのか、ピーターが顔を赤らめた。
……私も少し恥ずかしくなった。
しかし、記憶を失う前の私を羨ましいと思いつつも、一つだけ褒めるべき所がある。
それは──
彼の『
ピーターの口から恋人だとか、そういう話は出てこなかったけれど……二度もキスしているのだ。
二度も。
間違いなく、付き合っていた。
何度もデートをしているし。
そうでなければ、お互いに奥手過ぎる。
流石に……ありえないだろう?
だから、私とピーターは付き合ってる。
間違いない。
「……うん」
私が一人、そう頷いていると……ピーターが何かに気付いたようにスマホをポケットから出した。
最新機種の二世代ぐらい前の型落ちしたスマホだ。
それのボタンを押すと、画面に時刻が表示された。
もう、日が変わる寸前だった。
「ミシェルってさ、今は何処に住んでるの?」
「……マンハッタン、だけど?」
そう、返す。
「この時間は……うん、送っていくよ。もう夜も遅いし、帰った方がいいよ」
そう言って、ピーターがベンチから立った。
確かに夜も遅い。
マンハッタンとクイーンズは隣と言えども、距離はそこそこある。
夜のニューヨークの治安を考えれば、送っていくのが正解だろう。
普通の女性に対してならば。
「私は一人で大丈夫、だけど?」
だが、私は超人だ。
夜間に婦女暴行を仕掛けてくる卑怯者程度には負けない。
それよりも、決して近くない距離を往復する事になってしまうピーターを労わりたい。
私の考えに気付いたようで、ピーターが苦笑した。
「いやいや、遠慮しなくても良いよ」
「……でも、ピーターの帰りが遅くなる」
「気にしないよ」
気にしない。
そう、ピーターが言っても……私は気にしてしまう。
だから、立ち上がったピーターの服……その裾を掴んだ。
「なら……ピーター」
「ミシェル……?」
「もう少しだけ、話したい」
「でも、もう遅いし……」
私は仄かに笑った。
「ピーターはクイーンズに住んでる。違う?」
「いや、そう……違わないけど……?」
想定通りだ。
だから、私は考えていた言葉を、口に出した。
「泊めてほしい」
「泊め……え?」
「今日、ピーターの家に……泊めてほしい」
普通の男性に対してなら、遠慮する。
変な事されないか心配だし。
相手も困ってしまうだろう。
だけど、ピーターは違う。
だって私達は『恋人』なのだ。
だから、一緒の部屋で寝るのも普通だ。
「あ、え、でも……」
しかし、ピーターが言い淀んだ。
私は目を細めた。
……急に誰かが泊まりにくるのは、流石に迷惑……なのかも知れない。
「……ごめん、無理言ったかも」
距離を測り損ねてしまった……だって、仕方ないだろう?
何も覚えていないのだから。
……ほんの少しの自己嫌悪。
心の中で自身を罵倒する言葉が反射する。
そう、反省していると──
「む、無理じゃないよ。うん、大丈夫……」
ピーターが私に対して、努めて笑った。
そして、言葉を繋いだ。
「泊まりに来て良いよ。僕は全く、迷惑じゃないからさ」
「……ん、ありがとう。嬉しい」
私は安堵の吐息を吐いた。
一瞬、ピーターを不快にさせてしまったかと思ったからだ。
だけど、彼は笑顔で許してくれた。
立ち上がっていたピーターの手が、私に触れた。
驚いて私は、反射的に引っ込めてしまった。
「あ……」
声を出したのは私か、彼か。
いいや、両方だ。
少し。
ほんの少し。
気まずく感じながら私は立ち上がり、ピーターに視線を合わせる。
ピーターは少し……視線を逸らした。
彼の手が私に触れた理由、それはきっと──
「ピーター」
私は彼の手を握った。
こういう事、なのだろう。
私達は普段から手を繋いでいた、のかも知れない。
『
だから、私が手を引っ込めた事に、ピーターは少し傷付いたのだろう。
「……行こ?」
別に、ピーターと手を繋ぐ事は嫌じゃない。
寧ろ……いや、嬉しい……の、かも?
私自身の手とは違う、少し骨張った手。
ゴツゴツとしていて、それでも細い。
それが、優しく触れ合った。
「……うん、行こっか。ミシェル」
まるで壊れ物を扱うように、私の手を握り返した。
手が触れ合うだけで、これだけ幸福な気持ちになれるのだから……幸せとは本当に些細な物から感じられるらしい。
私の幸せは安上がりだ。
だけど、それで良い。
胸にできていた空白が埋まっていく。
そんな気がした。
◇◆◇
ニューヨーク。
クイーンズ。
ピーターの部屋。
ピーターが壁についている小さなレバー型のスイッチを跳ね上げた。
パチン、と音がして電気がついた。
壁は……少し黒い汚れが目立つ。
家具を擦った後だろうか?
所々、床を踏む場所によっては軋んだ音がなる。
頭上にある灯りは……LEDでもない、白熱電球だ。
「えっと……取り敢えず、ベッドにでも座っていいよ」
「う、ん……」
私は少し、思っていたよりも……その、見窄らしい部屋に驚いていた。
前に私が住んでいたアパートよりも……だ。
ピーターは隣室に住んでいたと言っていた。
つまり、住居の質は私と同じだった。
……だから、この様子なら間違いなく下がっている。
それは……私の所為だ。
胸元を抑える。
「……ミシェル?」
ピーターが心配そうに、私へ視線を向けた。
私が今、住んでいるのはスターク家が作ったマンションだ。
豪華……とは言えないが、かなり良い暮らしをさせて貰っている。
金銭も貰っている……仕事もしていないのに。
食事にも困って居ない……多少、無駄遣いしても問題ないほどに貰っている。
なのに。
ピーターは、この様子なら……あまり、良い暮らしではないだろう。
助けられた私が、何の苦労もなく生活して。
助けてくれた彼が、こんな暮らしをしている。
「…………」
心が軋む。
この部屋の床のように、音を立てて。
不協和音を奏でている。
こんなの、私は──
「ミシェル」
ピーターが肩に手を置いた。
正面から、私の顔を見ている。
「その、大丈夫?」
大丈夫か訊きたいのは私だ。
「ピーターこそ……その、辛くない?」
私の言葉にピーターは首を傾げた。
「えっと、何が……かな?」
「その……」
私が部屋を見渡すと、察したようでピーターが苦笑した。
「確かに、ちょっとボロいね」
「……ピーター、私は──
「でも、全然辛くないよ」
ピーターは否定した。
そんな筈、ないのに。
彼の頬が緩んだ。
思わず──
「……ピーター、ありがとう」
私は、感謝の言葉を告げた。
彼はきっと、私が罪悪感を抱く事を良しとしない。
だって、私のためを思って……この一ヶ月間、記憶のことを黙っていたのだから。
だから、私に出来るのは自身を責める事じゃない。
彼を思いやって、彼に幸福感を与えること……それだけだ。
そのためなら──
何でも。
私のあげられる物なら──
「ピーター、洗面台、借りても良い?」
「勿論」
私はベッドから腰を上げて、洗面台へ向かう。
ポーチを手に取って……化粧を落とす。
鏡の向こうの私は、少し……不安そうな顔をしている。
息を深く吐いて……洗面台に置かれたコップを見る。
白い、無地のコップ。
それには歯ブラシが一本、入っていた。
洗面台から離れて、ピーターに向かって顔を出す。
「ピーター……その、予備の歯ブラシ、とかある?」
「え?あー、うん。あるよ」
ベッドメイキングをしていたピーターが、洗面所まで来る。
ピーターが棚の上に手を伸ばして、開く。
すぐ側で背を伸ばす、彼。
私はピーターの顔を見上げていた。
……そう、見上げていた。
私よりも……10センチは高い。
ピーターは別に、身長が高い方ではない。
だけど、男女の違いというか……差を感じて。
私は少し圧倒されていた。
「はい、これ」
梱包された歯ブラシを開けて、私に手渡した。
「……ありがとう。お金は──
「いいよ。安物だから」
そう言って笑いながら、私から離れる。
私が恥ずかしく感じないように、洗面所から出ていったのだ。
歯ブラシを、手に取る。
背後のドアを見る。
コップに入っていた歯磨き粉を使って、歯を磨く。
コップを手に取り、縁に目を向ける。
ピーターの口元が脳裏に浮かんで……また、洗面台に戻す。
手で水を掬って口に含み、吐き出す。
手に持った歯ブラシを……少し迷って、コップの中に入れる。
色の異なる二つの歯ブラシが、寄り添うようにコップの中で収まった。
その姿に少し、頬を緩めて……背後のドアから出る。
「ありがとう、ピーター」
ベッドを整えていたピーターに、感謝の言葉を伝える。
「ん……?どういたしまして?」
当たり前だと思ってた事に感謝されたのが不思議なのか、ピーターは首を傾げながら頷いた。
その様子に、私は胸が温かくなった。
彼は優しい。
どうしようもない程に、優しい。
感謝の言葉を欲しがらない。
見返りを必要としない。
無償の優しさだ。
だけど……それでも、私は感謝の気持ちを返したい。
言葉として、態度として……返せる物なら、何でも。
私の行動で、心で……体でも。
鼓動が高鳴る。
ピーターがベッドから離れて、私の方を見た。
「今日はここで寝てもらって……その、ごめんね?少し……いや、かなりボロいけど」
「ううん、ありがとう」
私は上着を脱いで……ピーターがそれを自然に受け取った。
そのままハンガーに掛けて、タオルを持ってきた。
私がベッドに腰掛けると、ピーターは机の前にある、椅子に座った。
……私は首を傾げる。
「ピーターは、どこで寝るの?」
「え?ここ……だけど」
私は思わず、呆けてしまった。
「ベッドでは寝ないの?」
「だって一つしかないし……」
その言葉に、私はまた呆けた。
ベッドに誘導された時に、少し勘違いをしていたのだ。
「ピーターも、一緒に……寝ないの?」
ベッドの布団を、軽く手で叩く。
そう。
私は……その、ピーターと添い寝するつもりだったのだ。
だって、それは『
前に恋愛映画で観たから、間違いない。
添い寝だけじゃなくても、もし求められるなら──
「……え?」
だから、ピーターが戸惑っている様子に、私は違和感を覚えた。
「ピーター?」
「そ、そんなの、良くないと思う、な」
ピーターが視線を宙に彷徨わせながら、そう言うから……私は首を傾げた。
「どうして?」
「どうしてって、そんなの……」
目を瞬く。
私は疑問を口にする。
「『恋人』なら普通の事、だと思う……けど?」
そう、言った。
ピーターの表情が固まった。
驚いたような表情で、固まった。
唇が震えて、かろうじてと言った様子で、言葉を紡ぎ始めた。
「あの、ミシェル?」
「……どうしたの?」
「誰と誰が……その『恋人』なの?」
「それは──
私は自信満々に答えた。
「ピーターと、私」
ピーターが咽せた。
そして、この距離からも見えるレベルで震えた。
顔を上げれば、困っているような表情をしていた。
「あ、あの、ミシェル?」
「なに?」
私はピーターが何を困っているのか分からなくて、首を傾げた。
「その……僕と、ミシェルは、その──
「私と、ピーターが……なに?」
少し迷ったような表情をピーターがして、息を深く吐いた。
そして──
「別に……『恋人』って訳じゃないんだ」
そう言った。
「え?」
脳の中に大量の疑問符が浮かぶ。
「だから、えっと……僕とミシェルは付き合ってないって事で……」
何?
え?何?
どういうこと?
心がぐちゃぐちゃになる。
思考回路が停止。
混乱している。
「で、でも、私とピーター、キ、キスしたって……」
「それでも……その、うん。違うんだよ」
徐々に頭が整理されてきて……同時に顔が熱くなっていく。
わ、わわ、私、別に付き合ってもない男の子にキスをした、の?
そんな、そん、そんな尻軽、だったの?
そう思いつつ、現状を客観的に見てみる。
彼氏でもない男の子の部屋に押しかけて。
ベッドに誘っている。
「ぅ、ぁ……」
とんでもない女だ。
恥ずかしい。
頬が熱くなる。
私が彼に抱いていた好意。
それが一方的なものだと思い知って……この場から逃げ出したくなる。
「ピ、ピーター。ごめん、ね。い、今から帰る、から」
フラフラと立ち上がろうとして──
「ちょ、ちょっとミシェル」
ピーター私の肩を掴んで、止めた。
心臓がバクバクと鳴っている。
恥と、愛おしさ。
入り混じって、顔を赤に染める。
「ピ、ピーター……」
自分でも驚くほど、情けない声が出た。
震えていて、か細くて、裏返っていた。
「ミシェル……」
「わ、私……凄く、恥ずかしい勘違いしてた……ごめん、ごめんね。その、迷惑になると思うし、私──
「迷惑じゃないよ」
視線を上げて、ピーターを見る。
さっきまでの困っていた表情では、なくなっていた。
少し、凛々しい表情だ。
自分の鼓動の音が、聞こえた気がした。
「ピーター……」
「僕は君の事を迷惑だなんて思った事、一度もないから」
私の記憶になくても。
彼の身体を傷つけたのに?
彼の心を引き裂いたのに?
彼の居場所を奪ったのに?
それでも──
「大丈夫だから、そんなに自分を責めないで」
ピーターの手が、私の手を握った。
……この感触、覚えてないけど……凄く、心地良かった。
安心できた。
「ほら、深呼吸して」
息を吸って……吐く。
震えていた喉が、緩んでいた涙腺が、少しずつ治まっていく。
「……ピーター」
もう、声は震えていない。
「私、ピーターのこと……す、す……好き、だから」
「……うん、僕もミシェルの事が好きだよ」
お互いの好意を確かめ合う。
「う、あ、えっと……私、ピーターと……えっと……その……」
次に口にする言葉は、言葉は、言葉……喉の奥から、出てこない。
そんな私の様子にピーターが薄く笑った。
「ミシェル?」
「は……はぃ」
変な返事をしてしまった。
だけど、ピーターは馬鹿にしなかった。
真剣な目で私を見ていた。
「僕はミシェルの事が好きだから……」
「う、うん」
「『恋人』扱いされた事だって……嬉しかったとしても、迷惑だなんて思わないんだ」
「……ぅ、うん」
視線が混じり合う。
ピーターの表情は穏やかだけど、少し緊張している様子だった。
「だから、言うよ。ミシェルに……お願いがあるんだ」
ピーターの瞳の中にいる私は、顔を赤くしてしる。
「僕を、君の……『恋人』にして欲しい」
それは、先程までの勘違いを真実にする言葉だった。
返事、返事を、返事をしないと。
「……ぅん」
小さく、本当に小さく、俯きながら返事をした。
聞こえなかったかもしれないと、そう後悔しながらもピーターを見ると……彼は安堵の表情をしていた。
そして、そのまま──
抱きしめられた。
優しく、だけど力強く。
ピーターの熱や、匂いが、固さが、鼓動が感じられた。
「ありがとう、ミシェル」
「……ピ、ピーター?」
どうして感謝されるのか分からなくて。
「ありがとう」
それでも、ピーターは感謝の言葉を繋げた。
私は……。
私も。
彼を抱き返す。
手を後ろに回して、密着する。
うん。
もっと、熱を感じられる。
もっと、鼓動を感じられる。
ここにいるって。
分かる。
少しして。
いつまでそうして居たかも分からないほど、抱き合って居て。
それでも、時間が過ぎて。
ピーターは手を解いて。
離れていく感触に、私は少し、未練を感じて。
ピーターはくしゃり、と笑った。
「……本当はもっと、雰囲気がある場所で告白したかったんだけどね」
その言葉に、私は眉尻を下げた。
「ご、ごめんね……」
「ううん、僕の我儘だから……良いんだよ。それに、どこで告白しても……きっと、この嬉しさは変わらないと思うから」
そう言って、笑った。
もう、帰るつもりはなかった。
ピーターに誘導されて、元々いたベッドに座らされた。
「……ピーターも」
「あ、えっと……うん」
ピーターが横に座った。
緊張感で、心臓が高鳴る。
今まで、命の危機を感じた時だって動悸はしていた。
だけど、この動悸は不快じゃない。
ドキドキと、脈打つ。
あぁ、恋愛漫画なんかで『ドキドキ』という擬音を見て大袈裟だと思っていた。
だけど、あれは本当だったんだ。
確かに、私の心臓は大きな音を立てて脈打っている。
ピーターの置いた手に、手を重ねる。
恋に浮かれて、思考が微睡む。
正常な判断はもう出来ない。
だけど、それで良い。
それが良い。
きっと素面なら、私はこんな事を出来ないから。
「ぼ、僕さ、寝巻きに着替えてくるから……」
居た堪れなくなったのか、ピーターが私から離れようとする。
「ピーター、私も……パジャマなんて、持ってきていないけど……大きめのシャツとかある?」
そう聞きながら、立ち上がる。
「あ、あるけど」
「借りてもいい?」
「……いいよ」
ピーターがクローゼットから出したシャツを手に取る。
それを私に手渡して、私はそれを見た。
三角、四角の図形が並んでいる。
ピタゴラスの定理。
それが図解されている白いシャツ。
……めちゃくちゃ、ダサい。
でも、確かに大きい。
ピーターがクローゼットを漁っている間に、それを着る事にする。
私は着ていた服のファスナーを下ろして、椅子に掛ける。
そんな布が擦れる音に、クローゼットを漁っているピーターの動きが固まった。
……あ。
私が着替えているのに気付き、振り返らないように気を付けているのだろう。
……別に見られたって、良いのに。
もう本当に……『恋人』なのだから。
シャツに頭を通すと……なるほど、大きい。
身丈だけで、まるでミニスカートになるほど。
……うん。
これなら、スカートも要らないだろう。
履いたまま寝て、折り目を崩したくないし。
私は履いていたスカートのボタンを外して、それも椅子に掛ける。
「ピーター、もう大丈夫」
私がそう声を掛けると、ピーターは安堵の息を吐いて振り返り──
私を見て、固まった。
「ミ、ミシェル、下、下は?」
下?
……あ、スカートの事か。
「大丈夫、下着は履いてる」
「そ、そうじゃなくてさ……え?僕がおかしいの?」
ピーターが困惑しながら、私から視線をずらした。
手を口元に当てて、視線を戻そうとしない。
「『恋人』なら、下着ぐらい見られても困らない……から」
何よりスカートに変な折り目が付く方が嫌だ。
これはグウェンに選んでもらった服なのだ。
「そ、そうなのかな……」
「うん」
「そっか……いや、そうかな?」
ぶつぶつと言ってるピーターを見て、私は微笑む。
結局、ピーターは観念して、それ以上何かを言う事はなかった。
だけど、私と話す時に視線を下げないように気を付けているようだった。
二人、パジャマに着替えて……ベッドに戻る。
灯りを消して、背を向け合って……布団に入った。
ピーターの部屋のベッドは、特別大きくはない。
一人で寝る事を想定しているベッドだ。
だから、二人で入ろうとすれば自然と密着する形になる。
示し合わせた訳ではないけれど、背中合わせになる。
互いに密着した状態で、寝顔を見るのが恥ずかしいからだ。
ベッドの中で、記憶を失う前の話を聞こうと思っていたけど……それどころではなかった。
ピーターも同じ考えらしい。
ただ、黙って……背中を付けて、横になっていた。
素足が触れ合って、ピーターがぴくり、と動いた。
小さな掛け布団を分かち合う。
引っ張らないように気を付けて……はみ出さないように、密着する。
ピーターの呼吸が聞こえる。
だから、私の呼吸音もきっとピーターに聞こえる。
……このまま、ずっとこうしていてもいい。
だけど、私は口を開いた。
「ピーター……もう少しだけ、お話ししても良い?」
そう、訊いた。
「……良いよ、ミシェルが話したいなら」
そう、返された。
私は安堵して……小さな声で話しかける。
「……私、ピーターには感謝してる」
「……そっか」
「助けてくれたから……命の恩人だから……」
「気にしなくて良いのに……」
本当に、なんて事ないと言った態度に私は苦笑した。
「……でも、私は……ピーターに恩を返したい」
「…………十分、返してもらってるよ」
「ピーターがそう思っていても、私は……もっと、返したい」
部屋に月灯りが入り込む。
薄く、白い、黄ばんだレースのカーテンでは光を防ぎきれない。
私は口を開く。
「ネッドやハリー、グウェンにも……貴方の事を紹介したい」
「……それは」
「過去の話を信じて貰えないと思うなら……私の友達だ、って紹介するから。新しく、また友達になればいい……」
「……ありがとう」
私の提案、ピーターはそれを呑んだ。
安堵して、深く息を吐いた。
そんな私に、ピーターが言葉を投げかける。
「ミシェルは……いつも、僕を助けてくれるね」
「……覚えてない、けど」
「それでも。きっと君の本質は変わらないから……」
「そうかな……」
「そうだよ……」
私の存在が助けになっているのであれば……それは、嬉しい事だ。
人に迷惑を掛けるだけの存在である私が──
「ピーター」
「うん」
「私、ずっと貴方に憧れていた……」
「……うん」
コミックのヒーローへの憧れ。
身を犠牲にしても誰かを助けられるヒーローへの憧れ。
強く、優しいヒーローへの憧れ。
私も、そうなれたら良いと……漠然と思っていた。
それはサッカー選手や野球選手、アイドルに対する憧れのような……どこか、他人行儀な憧れ方だった。
だけど──
「私、貴方の隣に立っても……相応しい人間になりたい」
「……相応しいよ、今でも」
「納得、できない。私が……だから──
ポツリ、と言葉を漏らした。
「私も、ヒーローに……心は難しくても、行動ぐらいには……責任を持って、人助けしたい」
「……そっか」
少し、静かになる。
否定されないか怖くて……目を、閉じる。
そして、ピーターが口を開いた。
「……応援、するよ」
「……ピーター」
「本当はもう、戦って欲しくないけど……君がやりたい事なら、僕は応援する」
そう、優しく言ってくれた。
涙腺が緩んで、目が潤む。
「……ピーター」
「……うん」
「……私、ね」
「うん」
涙で布団を濡らさないように、腕で拭う。
「この世界に生まれて来て……良かった」
やっと……そう、思えた。
辛い出来事が沢山あったけれど、今は本当に幸せだから。
「……僕も、ミシェルがいてくれて、嬉しいよ」
私は寝返りをうって、ピーターの背中に……手を伸ばした。
私よりも大きな背中を抱きしめる。
意識は微睡みの中に落ちていく。
穏やかな闇の中へ、沈んでいく。
今、ここで見ている事、触れている事。
眠ってしまっても無くならないように、抱きしめながら。
私は……この、幸せに身を任せて……意識を手放した。
◇◆◇
朝。
マンハッタン。
私の住んでいるマンション。
その、入り口。
共通で配られている鍵を使って、玄関の鍵を開ける。
吹通しの良い廊下で、風を感じながら……奥へと進む。
息を深く吸って、深く吐く。
スマホを開くと……連絡先には『ピーター・パーカー』の文字。
思わず、頬が緩む。
ポストが空の事を確認して、共有のキッチンの前を通る。
……少し、戻る。
誰かが居た。
小さな人影……いや、人ではないけど。
「コスモ?」
それは犬だ。
宇宙服を着た犬。
犬種は……レトリバー。
コスモ、という名前の犬が私へ振り返った。
『あ、ミシェル。丁度いい所に帰って来たね』
脳に直接、声変わり前のような声が聞こえた。
「どうかした?」
私はキッチンに入り込み、コスモの側に立つ。
コスモは……超能力を持った犬だ。
昔、人類が宇宙開発に躍起になっていた頃、宇宙に飛ばされて行方不明になってしまった犬。
宇宙のエネルギーを浴びせられたコスモは、超能力を身につけた。
そして、その力を使い……巨大な宇宙基地『ノーウェア』の警備主任となった。
結構偉い犬なのだ。
なのだが……今は、事情を知らないけれど、何故かここに住んでいる。
私と同じアパートに住む、住人……住犬なのだ。
『上の棚にあるシリアルを取って欲しいんだ』
「いいよ。でもテレキネシスで取れば良いのに」
棚を開き、シリアルの箱を手に取る。
コスモは人語を喋っている訳じゃない。
テレパシー能力で、直接脳に思考を飛ばして来ているのだ。
『だーって、面倒なんだもん』
「……別に、私は良いけど」
箱を開けて、ボウルを取り出し中に入れる。
「牛乳は?」
『お、気が利くね。勿論、いるよ』
牛乳を注ぎ、それを床に置く。
スプーンは入れない……だって、そのまま食べるから。
『やった、ありがとう』
「どういたしまして」
ガツガツと食べるコスモを見ながら、私もコップを取り出して牛乳を入れる。
それを口に含んで……飲み込む。
ちら、とコスモが私を見た。
『ミシェルは何処に行ってたの?』
「ん?えーっと……」
何と言えば良いのか分からなくて、返答に迷う。
すると、コスモは私に鼻を近付けて臭いを嗅いだ。
『……む、男の臭いだ』
「あ、うん。まぁ……彼氏の所、かな」
そう言うと、コスモは意外そうな顔をした。
『え?あんたって、
そう脳内に直接飛んできて、私は苦笑した。
「……片付けは自分でしてね」
『うん、それぐらいは。自室に戻るの?』
「今日、予定があるから」
『予定?』
コスモが首を傾げた。
……思わず撫で回したくなる可愛さだ。
「『S.H.I.E.L.D.』と話があるから」
『……ミシェル、ここから出ていくの?』
くぅんと、鼻が鳴った。
「ううん。きっと、ここにはまだ、お世話になるから」
『なら良いや。僕の召使が減ると困るからね』
そう、冗談を言う。
私は笑いながら、キッチンを出た。
取り敢えず服を着替えて……それとシャワーも浴びないと。
私は自室に戻ろうと、足を進めた。
◇◆◇
ニューヨーク、マンハッタン。
マンションの合鍵を使って、中へ入る。
『あ、ハリー』
そう呼び止められて、僕は視線を下に下げた。
犬……いや、コスモだ。
「やぁ、コスモ」
『ミシェルに用事?』
そう聞いてくる。
「そうだよ、今日は彼女を『アベンジャーズ・タワー』までエスコートするんだ」
『ふーん?でも、今丁度、彼女は帰って来たばかりだよ』
その言葉に、僕は首を傾げた。
「帰って来た?朝に?」
『うん。彼氏の家に泊まってたらしいよ』
「え?」
僕は脳が破壊されるほどの衝撃を受けた。