【本編完結】レッドキャップ:ヴィランにTS転生した話   作:WhatSoon

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#5 グレート・レスポンシビリティ part2

壁を蹴り、ワイヤーで宙を舞い、猫のようにしなやかに屋上へ誰かが着地した。

 

銀髪の黒いライダースーツの女……ブラックキャット、フェリシア・ハーディだ。

 

フェリシアは髪を掻き上げて……僕へ視線を向けた。

 

 

「良い夜ね、スパイダー」

 

「……そうかな?」

 

 

空を見上げると、月は雲で隠れている。

ニューヨークは真っ暗だ。

摩天楼の光だけが僕達を照らしている。

 

僕の疑問をフェリシアが笑った、

 

 

「私のような人間には良い夜、なのよ」

 

 

……泥棒だからか。

暗闇は彼女の味方をしてくれるのだろう。

 

僕はマスクの下で苦笑しながら、口を開いた。

 

 

「僕がどうやって先回りしてたか、とかは訊かないんだ?」

 

「えぇ、良い女は慌てないものよ?」

 

 

頭の中で一瞬、シリアルをぶち撒けてしまい慌てているミシェルを思い出した。

 

首を振る。

今はそんな事、考えてる場合じゃない。

 

 

ここはマフィア『マギア』の拠点の一つ……その屋上だ。

スタークさんの逆探知アプリで彼女の目的地を推測した結果、先回りする事が出来た。

 

彼女はここで『マギア』と取引する予定だったのだろう。

 

僕は意を決して口を開く。

 

 

「フェリシア、君の持ってる解毒剤をくれないかな」

 

「『マギア』との取引後、余ってたらね」

 

「それじゃダメなんだ」

 

 

顔を突き合わせる。

 

彼女の言葉は、一見すると誰も不幸にならない回答に見える。

だがしかし、『マギア』の規模を考えれば……『デビルズブレス』の解毒剤は、あの量では足りない。

 

充分な量が残るとは考えられない。

 

確かに、彼女の案が上手くいけば誰も傷付く事はない。

だけど、上手くいけばの話だ。

 

万全を期すのであれば、今すぐに解毒剤を受け取り……『S.H.I.E.L.D.』の研究施設に預けるべきなんだ。

 

僕の手を見て……フェリシアが少し、意地悪そうな笑みを浮かべた。

 

 

「貴方が買ってくれるのなら、それでも構わないわ」

 

「……えっと、幾らかな?」

 

 

お金で解決できるのなら、僕はそれで良かった。

自分の全財産、大学の奨学金の事なんかを考えながら──

 

 

「1万ドル、でどうかしら?」

 

 

思考が停止した。

 

1万ドル?

途方もない金額に、頭が混乱する。

 

 

「……え?本気?」

 

「本気よ、払えないの?」

 

「あ、いや……えっと……」

 

 

僕は貧乏学生だ。

大学の学費は無返済の奨学金、セプテンバー資金奨学金で払っている。

食費と生活費をアルバイト代から捻出しているけれど、カツカツな生活だ。

 

ミシェルが事あるごとに僕へ奢ろうとする程だ。

 

少なくとも、そんな額の現金は持っていない。

 

 

「……ふぅん?」

 

 

僕の慌てた様子を見て、フェリシアが黒いルージュが塗られた唇を綻ばせた。

 

 

「払えないのなら別のものでも良いわ」

 

「別……?」

 

「そう、私は優しいから別案も出してあげる」

 

 

フェリシアが僕へ近付き、僕の胸板を撫でた。

 

 

「スパイダー、貴方が──

 

 

そして、妖艶な笑みを浮かべる。

 

 

「私の物になってくれるのなら、考えてあげても良いわよ」

 

 

胸元を強調して、体を押し付けるように寄り添ってくる。

ほんの少し、弱さを見せるような表情に……僕は胸が痛んだ。

 

強烈な色香、誘うような香水の匂い。

男なら誰でも陥落してしまいそうな、そんな仕草。

 

だけど──

 

 

「ごめん……それは無理、かな」

 

 

僕は首を横に振った。

 

 

「……どうしてかしら」

 

「僕、恋人がいるんだ」

 

「そう、それがどうかしたの?」

 

 

あれ?

……思わず、目を瞬く。

普通、諦めてくれるんじゃ……ないのかな?

 

 

「え?その、恋人がいるんだけど……」

 

「そんなの、その女を捨てて私に乗り換えれば良いじゃない。退屈はさせないわ」

 

 

思わず、頬を引き攣らせる。

……そう、彼女は泥棒だ。

 

自分の欲しい物が、他人の物だからって諦めるような人間ではないのだ。

 

で、そんな事よりも。

 

 

「い、いやいや……それは良くないよ」

 

「そうかしら?ただ、順番が違っただけじゃない……私が偶々、遅かっただけ」

 

 

首の裏がピリピリする。

超感覚(スパイダーセンス)に反応がある。

 

目の前のフェリシアからじゃない。

じゃあ、マギア?

それも違う。

 

冷や汗を流しながら、フェリシアを引き剥がした。

 

 

「だ、ダメなものはダメだって!」

 

「……つまらないわね」

 

 

僕は咳払いをする。

 

 

「とにかく……死人を出さないためにも、君の持つ解毒剤が必要なんだ」

 

「そう。私には関係のない話ね」

 

 

悪びれる様子もなく、彼女は口にした。

その仕草に、思わず眉を顰める。

 

 

「君は、誰かが傷付くことを見逃すような人とは……思えないけど」

 

「随分と買い被ってるのね。確かにイタズラに人を傷付ける事は好きではないわ」

 

 

フェリシアが……ほんの少しだけ眉を顰めて、諦めるように苦笑した。

 

 

「だけど、貴方のような……お人好しって訳でもないの」

 

 

……その返答に、僕は訝しむ。

 

 

「どうして……そんなに、お金が必要なのかな?僕に手伝える事なら──

 

「無理よ。貴方には無理。自分の事ですら手一杯じゃない」

 

「それは……そうかも知れないけどさ──

 

「貴方に出来る事は『私を見逃す』ただそれだけよ」

 

 

僕は自身の手を握る。

力を込めると……キリキリと音がした。

軋むような音は、僕の心を表しているように感じた。

 

 

「君には凄い才能がある。それを誰かのために役立てて欲しいんだ……それに、君のせいで誰かに傷付いて欲しくない。僕はっ──

 

「愛してるわ、スパイダー。それじゃあ、またね──

 

 

彼女が僕の横を通り過ぎた。

過ぎようとした。

 

脳裏に、記憶がフラッシュバックした。

 

強盗が横を通り過ぎ、それを見逃してしまった時の事を。

その強盗がベン叔父さんを殺してしまった時の事を。

 

 

何も行動しなければ、僕はいずれ後悔する。

 

 

気付けば──

 

 

「……しつこいのね」

 

 

彼女の腕を掴んでいた。

 

 

「フェリシア……僕は君にっ──

 

 

瞬間、僕の視点が上下回転した。

腕を強く引かれて、そのまま投げ飛ばされたのだと……地面に転がってから気付いた。

それ程までに鮮やかだった。

 

 

「しつこい男は嫌われるわよ」

 

「そ、それでも──

 

 

地面に手を突いて、立ち上がろうとして──

 

 

『交渉は決裂だな』

 

 

足音が響いた。

フェリシアが眉を顰めて、音に視線を向けた。

 

 

「……貴方って彼のストーカーなのかしら」

 

『いいや、違う』

 

 

ナイトキャップ、ミシェルが立っていた。

 

……元々、彼女はブラックキャットの持っている解毒剤を無理矢理奪おうと考えていた。

 

しかし、僕は反対だった。

彼女を説得したかった。

分かり合えると思っていた。

 

……僕は説得できなかった。

だから姿を現したのだろう。

 

 

『それに、ストーカーはお前だろう。彼に発信機まで付けて』

 

「……ふぅん。この茶番は貴方が仕組んだのね」

 

『茶番ではない。彼は君に愚行を犯させまいとしてるだけだ』

 

「余計なお世話。正しいとか、愚かだとか、そんな物差しで私を測って欲しくはないの」

 

 

空気が重くなる。

ミシェルが一歩、フェリシアのいる方へ踏み込んだ。

 

 

『フェリシア・ハーディ。その解毒剤を渡して貰おう』

 

「……いやよ」

 

『勘違いしているようだが、拒否権はない』

 

 

ミシェルの圧に押されたのか、フェリシアが一歩後退した。

 

 

『お前が痛みのない交渉を無下にした。だから、多少の痛みは覚悟して貰う』

 

「すぐ暴力に頼るのね」

 

『生憎、私はそれが取り柄だからな』

 

「悲しい奴」

 

『自覚はしている』

 

 

空気が重い。

フェリシアは目に見えるぐらい眉を顰めているし、ミシェルも挑発するような言葉を掛け続けている。

 

ミシェルは無意味に人を煽ったりしない。

これはきっと、彼女を逃げさせないためだろう。

 

あまり、僕にとって好ましくない話だけれど……彼女は僕に出来ない事をしてくれている。

 

だから──

 

 

瞬間、ミシェルがフェリシアに接近した。

急に変わった歩幅の所為で、フェリシアの反応が遅れた。

 

 

「……っ!?」

 

 

そのままフェリシアの腕を掴み、腕と膝で挟み──

 

 

地面に引き摺り倒した。

フェリシアとミシェルの身体が絡まり、転がる。

 

 

「痛、っいわね!」

 

『痛むようにしているからな』

 

「……っ、ホント腹立つ奴」

 

 

フェリシアが地面に手を突き、足を曲げ……ミシェルの腕を足で挟んだ。

そのまま、身体を捻り腕を締め始めた。

 

 

『随分と身体が柔らかいな』

 

「……チッ!」

 

 

ミシェルに有効な攻撃ではないと気付いたようだ。

ヴィブラニウム製のスーツで身を固めているのだ。

普通の人間の力はスーツを貫通する事すら出来ない。

 

 

『解毒剤を渡せ。これ以上、痛め付けずに済む』

 

「……これは私のモノよ」

 

 

フェリシアが離れようとした。

まるで猫の柔らかい身体のように、ミシェルの手から抜けようとした。

 

しかし、ミシェルの腕力に締め付けられ……それは無意味に終わった。

 

 

『このまま、腕の一本でも貰うとするか』

 

「……っ」

 

 

ミシミシと骨が軋む音がした。

 

フリじゃない。

本気で折る気だ。

 

……彼女らしくない。

 

そう思った瞬間、僕は──

 

 

「ま、待って!」

 

 

ミシェルを制止していた。

 

フェリシアは純粋な悪人ではない。

ただ己の目的のために優先順位を付けているだけだ。

なのに、こうして怪我までさせようとしている。

 

まるで何かに焦っているかのような態度だ。

 

……それが何かは、僕には分からないけれど。

 

 

『……彼女の心が折れないのであれば、身体を折るべきだと思っただけだ』

 

「だとしても、それはダメだ。ダメなんだ……!」

 

 

ミシェルが僕に視線を向けた。

 

 

『………』

 

「僕達は分かり合える筈だ。互いに傷つけ合って、罵り合って……そんなの、絶対に嫌なんだ」

 

「……スパイダー」

 

 

フェリシアに視線を落とす。

 

 

「彼女は悪人じゃない。それは君だって分かる筈だ。思い通りに行かないからって、自分の意見を通すためだけに人を傷付けるのは……ダメだよ」

 

 

ミシェルは視線を逸らさず……小さく息を吐いた。

 

 

『……すまなかった』

 

 

小さく、謝り……フェリシアの拘束を解いた。

 

 

「…………」

 

 

フェリシアは信じられないかのように、僕とミシェルを見比べて……座った。

 

 

「……大丈夫?フェリシア」

 

「え、えぇ……少し、痛むけれど」

 

 

僕は彼女が自身の肩を抑えているのに気付いた。

……僕はミシェルに視線を向けた。

 

 

『…………』

 

 

ミシェルは腕を組み、僕から視線を逸らした。

その仕草に、思わず……彼女の手を引っ張った。

 

 

「ごめん、ちょっとキツく言ったかも」

 

『……いや、良い。私が悪かった……焦っていた』

 

 

焦っていた?

何に……焦っているのだろう。

 

僕の疑問は他所にミシェルはゆっくりと、フェリシア向けて視線を落とした。

 

 

『……すまなかった』

 

 

そして、頭を下げた。

先程との様子の差に、フェリシアは首を小さく傾げた。

 

 

「貴方、何なの?彼に辞めろって言われたら辞めるって……言いなりのね。奴隷?それとも犬なの?」

 

 

ぽつりと溢したフェリシアの小声での悪態。

それを訊いても、ミシェルは姿勢を崩さなかった。

 

 

『……パートナーだ。彼とは』

 

「パートナー?」

 

 

濁すようなミシェルの言葉に、フェリシアは顔を顰めた。

 

パートナーという言葉では幅が広過ぎる。

具体性のない回答……はぐらかすように聞こえたのだろう。

 

フェリシアはそのまま僕へと視線を向けた。

 

 

「……スパイダー、貴方にとって彼は何なの?何故、そうも信頼しているの?」

 

 

肩が痛むのか、摩りながら……僕へと近付く。

 

……あぁ、そっか。

フェリシアが何故、ミシェルの事を邪険にしているのか分かった気がする。

 

それはきっと……。

 

フェリシアは、僕を信頼している。

いいや、信頼しようとしている。

 

なのに僕は彼女よりも……彼女の知らない何者かを信頼している。

 

……自分よりも信頼している誰かがいる。

その事が彼女の心に影を落としているのだろう。

 

 

「フェリシア」

 

 

彼女は異性に対しての警戒心が強い。

それは彼女の過去から来るものだ。

 

自身が信頼出来ない、裏組織からの裏切り者であるナイトキャップという『男』。

それを僕が無条件に信頼しているのが、気に触るのだろう。

 

 

「彼女は……僕の恋人なんだ」

 

 

だけど、それは勘違いだ。

彼じゃない、彼女なんだ。

 

……フェリシアが肩をピクリ、と動かした。

 

 

「……誤魔化そうとしてるのかしら?」

 

「いいや、本当だよ。彼女は僕の恋人だ」

 

 

フェリシアは目を細めて、ミシェルを一瞥した。

ミシェルは腕を組んだまま……僕達から視線を逸らした。

 

 

「そう。貴方がこういう所で嘘を吐かないのは私、知ってるつもり」

 

「……ありがとう」

 

「別に、感謝されるためにお世辞を言った訳じゃないわ」

 

 

呆れたように息を吐き、フェリシアは僕の横を通り過ぎ……排気口の上に座った。

……他所を向いていたミシェルがフェリシアに視線を向けた。

 

 

『フェリシア・ハーディ。金銭が必要なのであれば、私が──

 

「嫌よ。貴方は癪に触るから」

 

『そうか』

 

 

フェリシアが自身の胸元に手を突っ込み……解毒剤の入ったアンプルを取り出した。

それをどうするつもりか……僕は身体を強張らせた。

 

 

「スパイダー」

 

「……な、何かな?」

 

「本当に私のモノになるつもりはないの?」

 

 

ちら、と僕はミシェルを一瞥した。

彼女はレンガの壁に背を任せて、腕を組み……視線を落とした。

 

……先程、僕が彼女を叱った……ような件で、少なからずショックを受けているみたいだ。

 

彼女から視線を逸らし、フェリシアに向ける。

 

 

「……ごめん、フェリシア。僕は今の恋人と別れるつもりはないよ」

 

「どうして?貴方と彼女は……価値観にズレが見えるけれど」

 

 

ミシェルが肩がピクリと跳ねた。

僕は首を横に振る。

 

 

「価値観の違いは、相手を愛せない理由にはならない」

 

「そうかしら?」

 

「そうだよ。僕と彼女は別人だ。価値観が全く同じ人間なんて、存在しない」

 

「……それも、そうなのかしら?」

 

「違うからこそ、寄り添える。互いに出来ないことを補い合える。そんな形でも……そんな形が良いんだって、僕は思ってる」

 

 

僕は自身の手を強く握りしめて、数歩下がる。

視界の中にミシェルとフェリシアが収まる。

 

これはフェリシアに向けて「だけ」の言葉じゃない。

ミシェルにも聞いて欲しかった。

 

 

「一人で出来ない事でも、二人なら出来る……それがパートナーなんだ。だから、僕は……彼女が例え僕の価値観と違う事をしても、嫌いになんかならない」

 

「…………」

 

 

フェリシアは自身の腕を、指で叩き……感情の読めない笑みを浮かべて、ミシェルに視線を向けた。

そして、ゆっくりと口を開いた。

 

 

「スパイダー、彼女は何か隠している。貴方に嘘を吐いているわ」

 

『…………』

 

 

ミシェルは否定しなかった。

それは沈黙による肯定だった。

 

確かに、彼女の行動からは何処か焦りが見える。

普段とは違う。

 

でも──

 

 

「それは分かってる」

 

「……彼女は信頼を裏切っているのに、どうして貴方は彼女を信頼出来るの?」

 

 

ミシェルは……僕を一瞥した。

後ろめたい感情があるのだろうか、ハッキリとは顔を合わせられないようだ。

 

 

「彼女は僕を傷付けようとはしない。例え何が合っても、それだけは変わらないって知っているから」

 

 

僕の言葉にフェリシアがまた、苦い顔をした。

 

 

「……随分と盲信的ね」

 

「違う、事実なんだ」

 

 

……僕の返答に、フェリシアは顔を顰めて……ため息を吐いた。

 

 

「知らなかったわ。貴方の恋愛観って随分と子供(ガキ)っぽいのね」

 

「……そ、そうかな」

 

「えぇ、世の中、綺麗事ばかりじゃないわ。それは貴方も知っている筈なのに」

 

 

そう言いながら、フェリシアが……解毒剤の入ったアンプルを僕に向けて投げた。

 

それを手に取る。

……体温のせいか少し温かい。

 

 

「フェリシア……」

 

「これは、埋め合わせ。彼女を止めてくれたお礼……だから、絆された訳じゃない」

 

「それでも、ありがとう」

 

「……やっぱり、貴方は頑固でお人よしな蜘蛛ね」

 

 

彼女は鼻を鳴らして、排気口から降りた。

そして、フェリシアはミシェルに指を向けた。

 

 

「もし彼女と喧嘩したら、私の元に来なさい。慰めてあげるから」

 

「あー、いや、それは……無い、かな。ごめん」

 

「……そう、残念」

 

 

彼女は数歩下がり……建物の縁に足をかけた。

 

 

「さようなら、スパイダー」

 

「あっ──

 

 

そのまま僕の返事を待たずに、宙を舞うように飛び降りた。

 

僕は視線をミシェルへ向ける。

 

彼女は腕を組んだまま、立っていた。

何かを話す訳でもなく、何かする素振りもなく。

ただただ、立っていた。

 

 

「……ミシェル」

 

 

敢えて、僕は名前で呼んだ。

黒いマスクが僕へ向いた。

 

反射して、僕の赤いマスクが映っている。

 

 

「…………」

 

『…………』

 

 

彼女は何か、隠している。

僕に言っていない事がある。

 

そして、その「何か」に焦っている。

 

彼女はそれに後ろめたさを感じているのだろう。

 

沈黙が二人の間を流れる。

 

この空気感を打ち破りたくて……僕は口を開いた。

 

 

「……帰ろう、ミシェル」

 

『……だが』

 

「良いんだ。帰って、話をしよう」

 

『……そうだな』

 

 

僕は手を伸ばして、彼女の手を握った。

ヴィブラニウム製の装甲を纏った手だ。

この鎧の下に、華奢に見える手が存在していることを……僕は知っている。

 

強さの下に、繊細さを隠している。

それは物理的にだけではない。

心もそうだ。

 

『S.H.I.E.L.D.』のエージェントという強さの下には、年相応の少女らしい弱さを隠している。

 

 

手を握りしめて……僕は彼女を引き寄せる。

抱きしめて……(ウェブ)を宙に飛ばした。

 

 

「大丈夫だよ、ミシェル」

 

『……すまない』

 

「いいよ、君が……僕に出来ない事をしてくれるって分かってるから」

 

 

そのまま引っ張って、ニューヨークの摩天楼を駆ける。

ビルの谷間を通り抜けて、宙を飛んだ。

 

夜風が僕の身体に残っていた熱を覚ましてくれた。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

自室に戻ると……ミシェルはスーツのアーマーの接合部を解除して、脱ぎ捨てた。

アーマーの下に着ている、防刃防弾の黒いタイツ姿を僕に晒している。

 

その顔は……酷く、苦しそうだった。

後悔しているように見えた。

 

僕もマスクを脱いで……彼女と向かい合う。

 

 

「ミシェル……何か僕に隠し事を──

 

「さっきは、ごめん」

 

 

言葉を遮って、謝罪された。

誤魔化されているような気がしながら、それでも僕は頷いた。

 

 

「……僕の方こそ、ごめんね。君はただ、目的のために頑張っているだけなのに……僕は何もしてない。なのに、説教なんかして」

 

「……いい。ピーターが止めてくれて良かった……あの時、私は少し錯乱してた」

 

「ミシェル……」

 

 

彼女は眉尻を下げて、僕に顔を向けた。

 

 

「ピーター……もし、私を邪魔に思ったら……いつでも、捨てて、良いから」

 

 

ぽつり、ぽつりと、言葉に自己嫌悪を込めて口にしている。

僕は首を振った。

 

 

「違う。君を邪魔になんて思った事はないよ」

 

「今までは……だけどっ──

 

「これからも、邪魔に思わない。僕はずっと君と一緒にいたいから……そんな悲しい事は言わないで欲しいな」

 

「ピーター……」

 

 

ミシェルが僕に数歩近付き、手を伸ばし……引っ込めた。

もう片方の手で、手を覆い……僕から視線を逸らした。

 

 

「私、ピーターに言ってない事がある」

 

「……うん、そうだね」

 

 

彼女の手を握る。

 

ミシェルは少し、目を見開いて……僕を見た。

涙で潤んでいる。

 

 

「ミシェル……」

 

 

僕は自分が情けなく感じた。

 

いつからだろう。

いつから、彼女は僕に隠し事をしていたのだろう。

どうして、気付けなかったのだろう。

 

 

僕は彼女の手を引いて……ベッドの上に座らせた。

横に並ぶように、座る。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

……彼女が、ゆっくりと僕に寄りかかってきた。

優しく、軽く……僕へ体重を任せてきた。

 

幾分か、そうして寄り添い合っていた。

黙って、ただ静かに。

 

心地よい時間が過ぎていく。

手を繋ぎ合ったまま……熱を感じ合いながら。

 

 

……そして、長くもなく、短くもない時間が経ち……ようやく、彼女が口を開いた。

 

 

「ピーター、私ね」

 

「うん」

 

 

彼女の言葉に相槌を打つ。

話しやすいように、心地よいように。

 

 

「夢を見た、の」

 

「夢?」

 

「ん……今まで、夢なんて見た事、なかったのに」

 

 

そういえば……言っていた。

彼女は夢を見ないと、話していた。

 

なのに、夢を見た、と。

 

 

「酷い夢だった。私の大切なものが壊れてしまう夢」

 

「それは……それで、焦ってたの?」

 

「ううん……そうだけど、そうじゃない」

 

 

ミシェルが震えている。

その感触は、触れ合っている手を通して伝わってくる。

 

 

「ピーターは夢を見た事、ある?」

 

「え?……うん、あるよ」

 

「夢は、可能性の世界。貴方が見た夢は、どこか遠くの並行世界(マルチバース)の記憶……そう、言われてる」

 

「……うん」

 

 

ドクターストレンジ、スティーヴンに言われた事があった。

夢とは並行世界(マルチバース)に存在する僕の記憶だと。

 

だから、すんなりと受け入れられた。

 

 

「私には夢が見えない。きっと……私が生きている世界はここだけ、だから」

 

「……え?」

 

「身体の中にある『ウォッチャーの眼』、それがイレギュラーとして私を生かしてくれた。そう……思ってる」

 

 

彼女は自分の胸元に手を当てた。

 

 

「私が見た『夢』は、並行世界の私の記憶じゃない。『ウォッチャーの眼』を通して、他人の記憶を読み取ってしまった……」

 

 

ミシェルの目が潤む。

呼吸が荒くなる。

 

 

「私が見たのは、ここと似通った世界。限りなく、ここと近い世界……」

 

「ミシェル……」

 

「私は知っていた。知っていたのに……!目を逸らして、逃げていた……!」

 

「ミシェル……!」

 

 

気付けば、彼女の手を強く握っていた。

背中を摩り、呼吸を整えさせる。

 

 

「何を、見たんだい?」

 

 

優しく、そう問いかける。

彼女を安心させたくて、僕は──

 

 

「人が、死ぬところ」

 

 

ミシェルが唇を噛み締めた。

 

 

「私の大切な人が、死ぬところ」

 

「それは……辛いと思うけど──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ピーターが、死ぬところ」

 

 

 

「え?」

 

 

握りしめていた手が緩む。

ミシェルが僕に顔を向けた。

 

 

「スパイダーマンは無敵じゃない。死の危険が伴う……知っていた。知っているのに、貴方は絶対に死なないのだと、私は勘違いをしていた」

 

 

震えるような声で、彼女は言葉を紡ぐ。

 

 

「私は怖い。ピーターが死ぬのが怖い……!」

 

「ミシェル……」

 

「だから、だから……危険に飛び込んで欲しくない。私が、私が全部何とかするから……」

 

 

震える声は、涙と共に慟哭になった。

苦痛を吐き出すように、不安を吐き出すように、恐怖を吐き出すように。

 

……こんな、こんなに苦しんでいたんだ。

なのに、僕は気付いていなかった。

 

だけど、それでも──

 

 

「僕は、親愛なる隣人なんだ」

 

「……知ってる」

 

「だから、近くで誰かが傷付きそうなら、助けなきゃならない」

 

「……それも、知ってる」

 

 

ミシェルは理解しているのだろう。

僕に何を言っても、スパイダーマンを辞めないのだと。

 

だからこそ、黙って……僕を危険から遠ざけようとしていた。

リスクを取り除こうとしていた。

焦っていたんだ。

 

 

「ミシェル……」

 

「……幻滅してくれていい」

 

 

ミシェルが吐き捨てるように口にした。

 

 

「結局私は、誰かを助けるために……全員を助けようと出来ない。自分の中で優先順位を付けて、切り捨てようとしてしまう」

 

 

懺悔するように言葉を口にしている。

 

 

「そんな私が、ヒーローであろうとしようだなんて、烏滸がましい……浅ましい」

 

 

彼女の流した涙が頬を伝い、ベッドのシーツを濡らした。

 

 

「だから、私は──

 

「君は僕のパートナーだよ」

 

 

これ以上、自分を卑下して欲しくなかった。

だから僕は、彼女の言葉を遮った。

 

 

「ピーター……」

 

「ヒーローの定義なんて、僕にとってはどうでも良いんだ。ただ、人助けを出来るなら、それでいい」

 

 

想いを彼女に告げる。

 

 

「ミシェルの行動で救われている人がいる。それで充分だと思わないかい?」

 

「…………」

 

 

ミシェルは小さく、本当に小さく頷いた。

納得はしていないけれど、僕の理屈には同意したのだろう。

 

 

「それと、僕はスパイダーマンである事を辞めない」

 

「……ピーター」

 

「だから、君に支えて欲しいんだ」

 

「……う、え?」

 

 

予想外の回答だったのか、ミシェルは目を瞬いた。

 

 

「僕が死にそうになったら、僕を助けて欲しい。そしたら、きっと……何とかなるよ」

 

「……そ、そんなの」

 

「だって、僕が死んだ世界にはミシェルが居なかったんだよね?」

 

 

僕の言いたい事に気付いたのか、ミシェルは目を見開いた。

 

 

「だから、大丈夫だよ。僕には頼りになるパートナーがいるから……死なない」

 

「……ピーター」

 

 

僕は指で、恋人(パートナー)の涙を拭う。

 

 

「ピーター……ごめん、なさい」

 

「いいよ、気にしてないから」

 

 

ミシェルが僕に手を伸ばして……抱きついて来た。

 

 

「……少し、このままで、居させて」

 

「いいよ。少しじゃなくて……いつまででも」

 

 

震える彼女を抱きしめて、ベッドの上で転がる。

 

彼女の不安や恐怖を、僕へ……全て吐き出して欲しかった。

 

僕は彼女が好きだから。

愛しているから。

 

だから……全部、全部、受け止めたかった。

 

 

握りしめた肩は、小さかった。




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