――私は『あなた達』に愛を与えます
――私は『あなた達』が愛することを求めます
――家族を、隣人を、見知らぬ誰かを愛し、抱きしめてください
――ほんの僅かな心の豊かさを得るため、その両腕で誰かを包み込んでください
――それが愛です
――何も難しくはないのです
――小さな暖かさが、温もりが愛を誰かに伝えることになるのです
――だから、私の愛を受け入れてください
――そして、私の愛に気付いてください
――それがいつかあなただけの私に辿り着く道になるのだから
1
蝉が泣き始める季節。どこにでもある、ごく普通の高校の一室、教師が授業をする声と、黒板にチョークを走らせる音だけが響く。
一心にノートに授業内容を書き込む生徒、ノートに落書きする生徒、机に顔を伏せ眠る生徒、彼らの反応は様々だ。その中の一人、長い前髪で目を隠した少女が窓から外を眺めていた。
陽の光が僅かに眼鏡に反射し、その光が窓の縁を照らす。少女の視線の先には何か特別な物が映っているわけではない。ただ、外を眺めているだけで、その行為に目的はなく、意味のある行為ではなかった。
教師が怒鳴る声が聞こえた。それは眠っている生徒に向けたものなのか、はたまた落書きをしている生徒に向けたものなのか、少女は気に留めることもなく外に視線を向けたままだ。
怒鳴られた生徒が謝罪をしたのか、教室内に小さな笑い声がいくつか上がる。そうしている内に校内にチャイムが鳴り響き、授業の終わりを告げた。教師はため息を吐きながら、教室を出る準備を始めた。
疎らに生徒たちが教室から出ていく中、外を眺めていた少女は立ち上がってカバンから本を一冊取り出す。後ろに束ねた髪を揺らしながら、再び席に着いたあとそのまま本を開いて読書を始める。
外で鳴り響く蝉の声も、教室内に木霊する生徒たちの談笑の声も、彼女の耳に届くことはない。
「
男性教師に声をかけられた少女は顔を上げる。教師は少し困ったような表情を浮かべながら言葉を続けた。
「近々授業で使う予定の資料を図書室で探したいんだが、手伝ってくれないか?」
少女にとってはもう慣れたお願いの一つだ。彼女は図書室の本の場所を細かく覚えていることもあって、図書室関係の手伝いをよく頼まれる。
「わかりました。放課後でいいですか?」
「図書委員でもないのにすまないな」
ただし、彼女は図書委員ではない。暇な時間のほとんどを図書室で過ごし、放課後もギリギリまで図書室で読書をしている。本のジャンルにこだわりはなく、あらゆるジャンルの本に手を出す為、図書委員よりも図書室に詳しいだけだ。
病的なまでに読書が好きなだけの地味な少女、それが西八
「ねぇねぇ、こんなとこで何してんのさ。もう暗いし、わるーい人もでちゃうかもよ? 俺が家まで送ってあげようか?」
地味なだけのはずの少女に頻りに声をかけるのは、一人の顔立ちが整った少年だった。染めた派手な髪、耳にはハートを模ったピアスを付けている。
教師の頼まれごとを終え、いつものように最終下校時間まで読書をしていた華凛だったが、帰り道に少年と遭遇し、いきなり話しかけられて現在に至る。ずっと無視してはいるのだが、少年は話しかけるのをやめることはなく数十分が過ぎていた。
「愛の探究者としてはさ、こんな時間、一人歩き女の子見つけちゃったらエスコートするしかないよな! 俺、喧嘩もそこそこ強いし安全に自宅まで送ってあげるよ」
愛の探究者を名乗る少年は軽い調子で話しかけるが、彼女にとってそれはただの音でしかない。草むらから聞こえる虫の声と同じ、応える必要も意志もない。だから、ただ無視して自宅へ向けて歩き続けるだけだった。
引き留めようとした少年の手が背中に触れるその時までは……
「触らないでっ!」
触れられた瞬間、彼女は振り向いて少年の手を振り払った。今まで無反応だった少女が突然声を荒げたことで、少年は驚いた表情のまま固まってしまう。
「迷惑です。放っておいてください……」
そう言って彼女は暗い道を走り去っていってしまった。少年はその姿が見えなくなっても呆けた顔のまま立ち尽くしていた。彼女が振り向いた時に見えた『初めて見る表情』が頭から離れない。
「うそだろ。今の子、え? え?」
少女の僅かに涙を溜めた瞳が忘れられず、少年はしばらくの間その場所に立ち尽くしていた。彼が再び動き出したのは、スマホの着信音が鳴った時だった。
華凛がマンションの一室、自宅のドアを開けた入った時、室内は真っ暗だった。彼女は部屋の電気を付け、和室へと向かうと一つの仏壇の前に正座する。仏壇の遺影には仲の良さそうな一組の夫婦が映っていた。
「ただいま、お父さん、お母さん……」
それは彼女の両親だった。数年前に事故で失った家族、その日は旅行のために父の運転する車で道路を走っていた。そこに暴走車両が突っ込んできて、というのが事のあらましだ。それ以降、彼女は父方の叔母に引き取られてこの家に住んでいる。
叔母は多忙な人ではあったが、彼女と正面から向き合い、家族になろうとしてくれた。父の残した大量の本を嫌がることなく引き取ってくれたし、時間がある時はよく話しかけてくれる。理想的とも言える引き取り手だと言えるだろう。
仏壇に手を合わせ終わった後、キッチンに足を運び料理を作り始める。叔母が遅い時はこうして彼女が夕飯を作っている。叔母はそんなことする必要がないと言うが、彼女自身が頑なに譲らなかった。
作り終えた食事をテーブルに並べ、叔母の分にはラップをかけておく。自分の分の食事を口に入れながら、彼女の視線はただテーブルの中央にだけ向けられていた。作業の様に食事を終えた後は食器を洗って、部屋に戻って本を読む。
本に目を向けている時間は彼女にとって癒しともいえた。文章の一つ一つに目を向ければ、そこから伝わってくる様々な感情達。人間を感じることができるかけがえのない時間だった。
本を読んでいると、ドアが開く音と聞きなれた声が聞こえてきた。部屋から顔を出してみれば、叔母が多少疲れた表情で立っていた。
「お、今日も美味しそうなご飯、いつもありがとね、華凛ちゃん」
笑顔でそう口にして椅子に座って食事をとり始める叔母の姿を見て、彼女が思うのはいつも一つだった。それはこの家に来てから、否、事故にあったその日から彼女が変わらずに抱くものだ。
そんな彼女を周りは『物静かな子』、『地味な子』としか思っていない。叔母はいい人で、そんな人に引き取られた彼女は事故という不運のあとではあっても、幸運だったのだろう。
「んー、美味しいっ! 華凛ちゃんが料理上手に育ってくれて嬉しいわー」
叔母は満面の笑みを浮かべているが、当の言われた本人はその言葉の意味『しか』理解できない。
「うん、よかった……」
その一言だけ残して自室へ戻って再び読書を始める。
(やっぱり、本はいいなぁ。もう、本にだけ埋もれていたい……)
彼女の本好きは本蒐集が趣味だった父の影響もあるのだが、それ以上の理由が存在した。それは決して他人に打ち明けない秘密であり、彼女が抱える重大な問題でもあった。
(本だけが、文字だけが私に感情を伝えてくれる……)
彼女は文章から感情を読み取る才能を持っていた。しかも、それは描写されていない作者の感情まで読み取ってしまえるほどのものだ。反面生の言葉や表情からは一切感情を読み取ることができず、意味は理解できても意図を感じることができない。
それが彼女の抱える問題だ。
言葉を言葉のままにしか受け取ることしかできないことは人間関係によい影響を与えなかった。それに加えて感情というものを知っているために自身の異常性にも気付いてしまう。だから彼女は他人と距離を空けることを選んでしまう。
本にしおりを挟んで立ちあがった彼女は、制服を脱いで『爆走!』と書かれたTシャツとジャージのズボンを取り出す。制服を脱いだ彼女の背中には事故の時に負った大きな傷が残っている。
元から他人とは距離を空けていることもあって、学校のプールでも傷が原因でイジメられる様なことはないが、身体の傷は心にまで深く刻まれてしまっている。
彼女は傷を隠す様に手早くシャツを着て、ベッドに横たわる。そこに感情はなく、ただ天井を見上げるだけだった。これが彼女の日常だ。
この日、一つだけ違ったのは帰りに少年に会ったことだけだ。自身の背中の傷に触れた少年、突き放す様に去ってしまった。そのことに少しばかり罪悪感が沸く。そもそも、信頼できる相手でもないのだから、あれが正解だったのかもしれない。そう考えれば、僅かに沸いた感情も鳴りを潜めて消えていく。
瞼を閉じれば、徐々に意識が沈んでいく。明日に何があるかの期待も、いつか訪れるかもしれない変化への希望も、愛を失った少女にはない。当たり前の日常を当たり前に過ごして、変わることのない日常の中に沈んでいくだけだ。