2人で、進もう。
悲しくなんてないさ。

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役・ことのはあおい


まるで譫言のような

 ずっと変わりのないディスプレイを眺めていると、溜まった疲れを一層強く感じられてしまって厄介なものである。

 もはやマウスに触れた手は同じ動きを繰り返すばかりだ。

 再生、巻き戻し、再生…自分で作ったものを幾度となく見返しては、どこに問題があるのか。あるいは違和感の原因は何なのか、を探し続ける行為を続けている。

 ひどくつまらない作業だった。

 先に進めない焦ったさと、無益を極める自分の行動を眺める不快。

 これだけでも十分な苦痛であるというのに、自らの程度を弁えない願望を見詰めることに寒気さえ覚えるのだ。

 

「どうにも、だめやなぁ」

 

 ボソリと呟く。

 ディスプレイから溢れる光が唯一の光源となっている締め切られた自室、どこかじっとりとした憂鬱な雰囲気が蔓延するそこは、意味を求めず漏らした言葉を本当に意味の無いものにしていた。

 視界の端で茜色の髪の毛が、まるで心配するように揺れている。

 そんなこと、あるわけがないのに。

 

 それは手慰みであった。

 キーボードの脇に置かれたマグカップの中身を飲もうと思ったのだ。

 

 特に視線を送るわけでもなく脊髄反射で手を伸ばし、触れたそれの取手を掴んで持ち上げる。

 もはや冷めきってしまっているようで、湯気の立っている気配が無いそれは、どうしてか香り立つこともなく無臭であった。…しかしその違和感を気にすることもなく、適当に縁に口を当てがって傾ける。

 そのまま啜れば口内に入り込んできたものは、人肌程度に温かい、少しとろみのある無味無臭の液体であった。

 決して、インスタントコーヒーなどではない。

 もっとも特に驚くということはなく、大きな感情の変化は生まれなかった。

 ただ疑問を覚えてマグカップの中身を見れば、そこに入っているのは、いつかどこかで見たカタツムリに寄生する虫。あれめいて奇妙に色彩豊かであり、まるで水面に映像が現れたかのように二次元的に蠕動する、得体の知れない液体であったのだ。

 明らかに普通ではないものである。

 

「えぇ…?」

 

 思わず困惑の声を漏らした。

 

「うち…こんなん、用意しとらんはずなんやけど…」

 

 よく見れば暗がりにあってそこだけ暗さを感じさせないあたり、何かがおかしい。不自然だった。

 少しくすんだパステルカラーが、波紋を広げたり縮めたりして蠢いている。おそらく輝いているわけでは無いだろうに影は無く、ありのままの色が直接目に飛び込んできているのだ。

 まるで世界が、そこだけ影を塗り忘れたように。

……ふとその液体から視線を逸らして、キーボードの右脇に目を向けた。

 そこはいつも飲み物を置いている区画。視線の先には今持っているものの他に、暗闇の中で一層黒々とした液体が注がれているマグカップがあった。

 見慣れたコーヒーが汲まれている、青い装飾のある私専用のカップ。

 きっとこれと取り間違えたのだろう。

 

「いや、訳分からんわ…」

 

……しかし改めて考えてみても、2つも飲み物を用意した記憶は無かった。

 片手に本を、もう片手にマグカップを持って、椅子に座ったはずなのだ。もう一個分別のものを持てる余裕などなかったはず。

 困惑のままにもう一度、今持っているものに視線を送る。

 マグカップには赤い装飾が描かれていた。直接口を付ける食器としては久しく使われていないそれの中に満たされ、微かに揺らめいているのだ。

 

「はあ、ほんと…なんやろなぁ、これ」

 

 いよいよもって強まる疑問。

 私は一人暮らしだ。家に誰もいなくなって、もう随分と経っているはず。

 いったいどうして、このようなことが起こったのだろうか?

 一呼吸を挟んで、思考を冷やす。

 今の私が冷静さを欠こうとしていることを自覚して、一旦手に持ったそれを置いた。

 ひとまず何が起こっていたのだとしても、元々このマグカップを置いていた場所を確認するべきだろう。

 

 あぁ、でも…明らかに普通ではない液体や、それを飲んだことで起こりうる身の危険よりも、使う人のいなくなったマグカップなどを優先するのは、常識的に考えておかしい行動だろう。

 動き出そうとする最中にふと、私の行動が些か不自然に見えるものであることに気がついた。

 疲れによる判断ミス。そう言ってしまうことは簡単であった。簡単だったけれど、そういう訳ではない気がした。

 きっと疲れなんて欠片もなくて、冷静だったとしてもそうしただろう。

 それほど私にとってこの、使う人のいなくなった食器は大事なものだったのだ。

 

 机に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。

 

 長時間座っていたこともあって、腰にも疲れが溜まっているようだ。そのままの流れで身体を逸らせば、ぼきぼきと骨の鳴る音がした。

 気持ちはいいけれど、腰に溜まった疲れは取れなかった。

 喘ぎともあくびとも取れる、なんとも微妙な声を漏らしながら軽く腰を叩いて、気にしたってどうしようもない怠さへの抵抗を試みる。そんなことをしながら自室を出ようと歩き始めると…

 

「…?」

 

 ふと奇妙な感覚に襲われた。

 視界がおかしい…世界が先程飲んだ液体の表面みたいに、不規則な蠕動を始めている。

 最初は緩やかに、徐々に速くなっていく。全てが波紋のような形でカラフルに染まって、それが幾度となく拡張、収縮をしているようだ。

 それ以外に直接的な変化は無かったけれど、すごく酔う景色だった。

 気持ち悪くなって、しゃがみ込む。それが徐々に激しくなるにつれて、平衡感覚も失われてくる。

 

「ぅえ…」

 

 一度飲み下したコーヒーが迫り上がり、溜飲となって喉に異物感をもたらした。悪心と頭痛が同時に加速して、逃れられない不調により呼吸が激しくなってゆく。

 おそらく表情はなんとも深刻そうなものになっているだろう。…青褪めてもいるはずだ。

 それから逃れようと目を閉じたけれど、やはり視界の異常から逃れることはできない。

 蠢く波紋の向こうに、うっすらと見える背景が若干変わるだけだ。

 

 いったいどうなっているのだろうか。何が起こっているのだろうか。

……いや、原因は分かりきっているだろう。

 ただ致命的な問題がひとつだけある。どうすればこれを治せるのかがわからないのだ。

 

「〜〜っ!」

 

 思いつきで喉の奥に指を突っ込んだ。

 喉びこより若干奥を意識して伸ばし、舌の奥を乱暴に擦る。

 早く吐きたい一心で行った行動は、ぐちゅぐちゅという水音と共に嘔吐感を刺激して…

 

「おええっ…」

 

 餌付いて、そのまま吐瀉物を撒き散らした。…けれども不調は治らない。

 即効性の薬物と言っても実際に効くまでは、十五分から三十分くらい掛かるものだろうに。

 もっとも毒の知識など欠片もないのだが、少なくとも私の知る頭痛薬はそうである。…だから、飲んで一分もしないうちに、ここまで酷い目に遭うなんておかしいだろう。

 まるで某ネットの玩具たちが扱う睡眠薬ことホモコロリのように…

 

……いや、そんなこと考えたって仕方ないでしょ。

 

 意図せず組み上がったあまりにもくだらない思考に、思わず冷静さを取り戻す。人間でもない相手に…いや、たとえ人間が相手だったとしても、心中で異議を訴えることは無意味だ。

 徐々に激しくなる変調をどうにかすることは、少なくとも今の私にはできそうにないらしい。

 もはや考えることさえままならなくなる中で、湧き上がってくるのはそんな諦めであった。

 自然にどうにかなるのを待つか、死ぬのを待つか。それくらいしかできないのだと。

 そうして蹲った姿勢のまま耐えて、耐えて、あるいはたまに耐えきれず、吐いたりして…忍んだ果てにどうにもならず、結局私は気を失うまで苦しみ続けたのであった。

 

◇    ◇

 

 なんとも悲しげな嗚咽だった。それはひどく聞き覚えのある幼い子供のもの。

 おそらく少女のものであろう泣く声が、絶え間なく響いている。

 

「…ん……して……」

 

 それによって目を覚ましてみて、真先に見えたものはどこか懐かしいような…少なくとも良い感情を思い起こさせるものではない、白く清潔な天井であった。

 おそらくここは病院なのだろう。そして寝転がっている場所は、病室のベットだと思われる。

 久しく忘れかけていたソファーやベッドのそれに近い感触が…いや、近いというよりはベッドそのものなのだ。柔らかくて心地良い、ちゃんと寝るために必要な快適性を有している寝具。

……とてもじゃないけれど思い出したくもない、絶望を彷彿させる場所である。

 

 次に自分の身体を見下ろしてみた。

 肩の露出が特徴的な海老色の、そこはかとなく振袖の面影がある衣装。結ばれた赤い紐の装飾。頭に触れてみれば胸元のそれと同じ赤い紐と、きっと青色であろうリボンの存在も確認できる。…もっともこれは寝転がっていたことで、少し崩れているかもしれないけれど。

 どうやら着ていた服装はそのままであるようだ。少なくとも意匠に関しては、だが。

……ただ気になるのは、視界の端にチラつく水色である。

 それは間違いなく髪の毛、それも私の地毛…だと思われる色であった。

 ちゃんと染めていたはずなのだが、なぜか一部だけ色が抜けてしまっているらしい。

 あるいはそこだけ染まっている、という可能性もあるだろう。

 

「おねえちゃん…おいてっ、いかないで…」

 

……声がする。

 私ではない誰か、私の大事な人。あるいは私を呼ぶ、私の声が。

 いい加減、別のことを考えるには無理があった。あえて確認することを避けていた問題であったのだが、最も目立つ異常を無視し続けるというのは難しい。

 その方向へと視線を向ければ、見えたのは小さな…十歳にも満たない子供の人影であった。

 

 

 

 それは、私。

 琴葉葵という、双子の姉を亡くした妹…その幼少期の姿であった。

 

 

 

 脳裏に深く刻まれているのだ。

 

 本当に脈絡もなく死んでしまった姉の寝姿…いや、死相が。

 随分と後になってから、脳出血が死因であったのだと教えられた。

 最後に対面した時には綺麗に設られて、とても穏やかな表情をしていたけれど『茜はもう目覚めない』と…実際に会う前から、既に確信していた覚えがある。

 それはある種の共感覚であったのかもしれない。

 趣味や性癖こそ似通っていたものの、双子特有の能力と呼べるようなものはなかったはずだった。…しかし彼女が死んだ時。そのことを知る前から悍ましく、耐え難いような酷い喪失感に身を貫かれていたのだ。

 

 そしてベッドに寝転がる彼女を、いや…彼女だったものを見つけた。

 子供ながらに誰のせいでもないことを自覚して、ただ理不尽に打ちのめされたのだ。

 恨む相手も居なければ誰にも非がない不運は、喪失感と漠然とした絶望で胸の内側を満たしてゆくもの。頭の内側で響く鼓動のたびにそれらは増幅していった。

 今ある世界の全てが、これからの未来の全てが、鮮烈な暗闇で覆われてゆく感覚を知った。一寸先も見えないように分厚い、得体の知れないもので目が塞がれてゆく感覚を知った。

 いまだに思い出せる、最も恐ろしいもの…それは私の全てが音を立てて崩れ落ちていく感覚であったのだろう。

 

 それでも最初に見た時は、本当に訳が分からなくて、泣くことさえままならなかったのだ。

 別れの言葉の一つも言えず、お姉ちゃんが遺した言葉も無かった。

 

 病院の一室で呆然と姉の抜け殻を見詰めて、気が付けば家。玄関の前に立っていた。

 時間的には聞こえるはずであった「ただいま」が、扉を開けても聞こえないという違和感は強烈なもので…人気のない静かな賃貸の一室は、まるで自分のいるべきではない世界かのようにも思えたものである。

 そして座り心地の悪いソファで目を瞑った。

 あの時、私が寝られたのかどうかは分からない。きっと戸締まりさえしていなかっただろう。…気が付けば朝になっていて、時計がいつも起きている時間を指していることに気がついて、目覚めた感覚もなく起き上がったのだ。

 そしてシャワーも浴びず、起きたままの衣装で病院に向かって、別の場所に移された姉の抜け殻を見て、そこで初めて泣いた。

 

 生涯を共にするはずだった人との、虚しく味気無い別れ。

 

 生きてゆくのは、苦痛だった。生まれたことは絶望だった。

 それでも私は「お姉ちゃんがいれば、それだけでいい」と思えたのだ。

 よく覚えている。…よく、覚えている。

 

……この、酷く懐かしい景色は、その記憶の初めにあった。

 思い出せばいつも死んだような病室で眠る彼女がいて、それは紛れもなく、私が眠っているこの場所から始まるのだ。

 

 もっともどうやら、今私が見ているものは、私の記憶とは少し違った形になっているらしい。

 病室の中で泣いている私はおそらく、初めて茜の死相を見た時の私だろう。

 記憶の中の私と彼女の様子が異なるのは、『琴葉葵』が私とは違う性格であるということなのか、あるいは琴葉茜の状況がまた違ったものであるということなのか。

 単なる記憶の誤りということもあるかもしれないが、きっと後者なのだろう。

 なぜなら今の私はもし琴葉茜が目醒めていたら見ることになったであろう景色を見ていて、泣いている私。つまり琴葉葵は、私の横で琴葉茜を呼んでいるのだ。

 それは私が『琴葉茜のフリをする琴葉葵』ではなく、『琴葉茜そのもの』になってしまったということを示している。

 これが最も分かりやすく、最も大きな差異であった。

 

 斜め上方に置かれた機械によって、規則的に鳴らされるビープ音が何よりの証拠だろう。

 この身体がまだ死んでいないことを示しているのだ。

 

 どれほど求めたところで私のお姉ちゃんは帰らなかったけれど、私がお姉ちゃんになることは許されたということなのだろうか。

 その推測を否定する材料はなく、肯定する材料ばかりが無数に散りばめられていた。

 

「あー、葵?なんで泣いとるんや?…大丈夫、痛いんか?」

 

 私…いや、葵が驚いたように目を見開いて、私を見つめた。

 まるで死人が蘇った顔、というのは余りにも趣味が悪いだろう。…実際茜は目を覚ましたけれど、蘇った訳ではないのだから。

 もっとも彼女にとって『正確な事実』というのは欠片も価値がないものなのだ。

 きっと言っても理解しないだろう。理解する必要もない。他ならない私がそう断言する。

 

 私は愚かにも琴葉茜になる為の準備を整えていたのだ。

 まさか本当になれるとは思わなかったけれど、あの無益な時間が意味を持つことになった。

 

 本当に、最悪だけれど。

 

 私がこの場所にいること。それに何かの意志が関係しているのだとしたら、そいつは随分と素晴らしい性格をしているものだ。

 あの変な液体が原因なのだろうか?…きっとそうだろう。これが現実だったとしても、幻覚だったとしても、本当にひどいことをするものだと思う。

 

「おねえ、ちゃん…?」

「おー、あかねちゃんやでー」

 

 そんな本物を冒涜するような返事をする(ウソをつく)なり、葵はワナワナと震え出して…先程までとはまた違った様相で今にも泣き出そうとしていた。

 脳裏に過るのは『あぁ、そうなるだろうなぁ』という、何とも言えない共感である。きっと私もあの時お姉ちゃんが目を覚ましていれば、このような反応をしたのだろう。

 

「そんなとこで我慢してへんで…ほおら、お姉ちゃんが胸貸したるからなぁ、こっち()いよ」

 

 そう言い終えるや否や、胸元に衝撃を受ける。

 もっとも彼女も遠慮しているのか、あるいは配慮しているのか…そこまで激しい勢いではなくて、実際の感触は少し重い程度のものであった。

 私は飛び込んできた葵を出来るだけ優しく抱き止めると、そのまま背中に手を回す。

 

「葵は甘えんぼさんやなぁ。ほおら、背中とんとんとん…いっぱい甘えてええんやでー」

 

 懐かしい声が自分の喉から出ている感覚。

 幼い自分、何よりも夢見たこの光景を、この視点で見ているという状況。

 私は耐え難い吐き気を堪えながら、穏やかな表情を演じて…葵の背を撫でたり叩いたりして慰め続けていた。

 

 あるのは慈愛などでは無い。

 

 この幼い琴葉葵への同情と、罪悪感。

 そして他ならない自分、悍ましい精神異常者への嫌悪だけだった。

 

 あぁ、きっと…私にはこの地獄から逃れることができない。

 狂気に染まることのないまま育ってゆく、正しい琴葉葵を見続けてしまう。

 それは琴葉葵を否定して、琴葉葵でいることを捨てた私への罰だと言うのか。…きっと違うかな。




 夕焼けの刻が過ぎ去れば、茜色は失われ、
 世界には、暗闇ばかりが広がった。

 即ち、夜である。

 ただ、夜だけでなく…

 朝焼けの茜も共に去り、日の出の色はとうに無く。
 それなのに夜明けの刻が訪れるなど、有り得るものなのだろうか。

 暗がり、果てなく。

 もはや茜は取り戻されない。
 無いなら無いなりに、やり方もあっただろう。
 適当に補えばいいものを、彼女はそれを拒んだのだ。

 故に、故に…

 夜明けず、どこまでも。
 無限に続く、夜闇を歩くは宵張りか。
 夜しかないのに夜更かしか。

 葵色…元は鮮やかな紫の色。
 今は暗闇に落ちてしまって見る影もない。
 明けようとして明けられぬ、愚かで哀れな空色よ。

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