あれから実に二ヶ月が過ぎた。
僕はあの合同トレーニングの日の夜、それまで使っていたトレーニングメニューを見直した。
これまでのメニューは、一般的なスタミナトレーニングに僕独自の調整をしたものだった。
しかし、一般的なトレーニングで得られるのは、常識の範疇を出ない結果でしかない。
僕はさらなる効率を模索し、トレーニングの様々な部分を調整した。
これは完全に僕の独断で行ったことなので、このメニューをチヨノオーのところに持っていった時は、「このメニューでトレーニングをするかどうかは、君が決めていい。」と言った。
しかし、彼女は躊躇なくそのトレーニングを始めた。
正直、そのメニューは初めは酷いものだった。
余計に負荷がかかってしまっているものや、得られる効率が見合っていないものなどもあった。
しかし、彼女は決して投げ出さず、僕と共にメニューの改善に努めてくれた。
あのレースの日以降、彼女のトレーニングに対する向き合い方も変わったように思う。
これまでがやる気がなかったわけではないが、あの日からはただ提示されたメニューをこなすだけでなく、自分から改善案を出してくれるようになった。
そうして一ヶ月が経つ頃には、僕らの作り上げたトレーニングメニューは、徐々に完成形へと近づいていった。
このメニューを他人に勧められるかと言われたら、正直難しいだろう。
このメニューは僕が完全に『サクラチヨノオー専用』に調整したメニューだ。
他のどのウマ娘のトレーニングにも使うことは出来ないだろう。
しかし、サクラチヨノオーがこのトレーニングをこなす分には、最高の効率を発揮する。
そんなトレーニングメニューを作り上げたのだ。
そのトレーニングをこなすこと二ヶ月。
そして、遂にその日はやってきた。
太陽が今日という日を明るく照らす。
今日はサクラチヨノオーのデビュー戦だ。
レースはジュニア級メイクデビュー。
距離は1800m、函館レース場で行われるマイルのレースだ。
今のチヨのスタミナで問題なく全力でスパートをかけることが出来る距離。
それがマイルの1800mだった。
函館レース場は右回りだ。この点は問題ない。普段の練習から、右回りのコースの対策は行ってきた。
そして、今日は快晴。バ場状態は良だ。
雨でも大きな問題はなかったが、晴れであるのはありがたい。
雨は芝がかなり荒れてしまい、走りづらくなる。
デビュー戦から雨であるよりは晴れの方が好都合だ。
「いやぁ、遂にお前の担当のサクラ…なんとかもデビュー戦まで漕ぎ着けたな。なんかこう…感無量だな。」
「サクラチヨノオーだろ。もう何ヶ月も一緒にいるんだから、いい加減覚えたりしないのか?」
初めて会ってから数ヶ月が経つが、リュークは未だにサクラチヨノオーの名前を覚えない。
チヨノオーにはリュークが見えないので、必然的にリュークもチヨノオーに無関心なのかもしれない。
「いや、嫌いってわけじゃないんだけど…名前が長いと覚えづらいんだよな…」
そういうものなのだろうか。
とはいえ、今はそんな事を気にしている程余裕はない。
もうチヨノオーが出走するレースまで一時間もない。
一度控え室に様子を見に行こう。
レース場の地下には、出走前のウマ娘が待機している控え室がある。
各ウマ娘毎に一部屋が割り当てられており、レースを前に精神を研ぎ澄ます者、自分の作戦を確認する者、不安を押し殺しながら出番を待っている者、様々だ。
レース前の控え室からは圧のようなものを感じることがあると聞いた。
実際、さっきチヨと共にここに来た時よりも重苦しい雰囲気を感じる。
「チヨ、入っていいか?」
「はい、どうぞ。」
ドア越しにチヨの声が聞こえた。
気のせいか、声の端々から若干の緊張があるように感じた。
ゆっくりとドアを開ける。
すると、そこには『チヨノート』を確認するサクラチヨノオーの姿があった。
「レース前の復習?昨日のミーティングでもしたし、大丈夫じゃないか?」
僕がそう聞くと、チヨはこう答えた。
「いや、まぁ…そうなんですけどね。なにせデビュー戦ですから。
準備不足で負けたなんてカッコ悪いことは言いたくないので。
勝っても負けても、悔いのないようにしておきたいんです。」
そう言ってこちらを見るその目には、確かな闘志があった。
ノートをよく見ると、今回のレース場の情報はもちろん、トレーニングで編み出した走り方、そのコツ、スパートのタイミングなど…
様々なことが書き記してあった。
僕と出会った時もその書き込みの量の多さに感心したが、今は付箋やマーカーなども多用し、前よりも更に使い込まれている。
これまでの日々の努力に甘えず、本番の直前まで自分の全力を出すために出来る努力をし続ける。
当たり前のことだが、大事な事だ。
実際は模擬レースの出走メンバーにも選ばれているし、才能がないわけではないのだが、彼女は、自分には才能がないと思っている。
それ故なのだろう、誰よりも努力が出来るウマ娘であるのは。
「大丈夫、あれだけのトレーニングをこなしてきたんだ。チヨなら勝てるよ。」
月並みな言葉しかかけることは出来ないが、僕は今本気でそう思っている。
「トレーナーさん…ありがとうございます。
実は私、ちょっと緊張してたんです。もし負けたらどうしようって。
でも、トレーナーさんにそう言ってもらえて、元気が出ました。私、頑張ります!『ここもダービーに続く道と思え』です!」
今に始まったことではないが、チヨノートにはレースの詳細な情報、自分の戦略やトレーニングがまとめてあるだけでなく、チヨによる自作の格言がいくつか記されている。
『ここもダービーに続く道と思え』もその一つだ。
「間もなく、レースが始まります。次のレースに出走予定のウマ娘は、パドックにお集まり下さい。」
招集のアナウンスがかかる。いよいよレース本番が近づいてきた。
「よし、そろそろだな。頑張れ、チヨ。」
そうしてチヨノオーは控え室を後にしてパドックへと向かっていった。
というわけで次回は遂にデビュー戦!
そろそろ第一章の終わりも近づいてきました!
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