初めてサクラチヨノオーの過去を覗いた。
それは僕が思っていたよりもずっと重く暗いものだった。
いつだって前向きな彼女は、弱音など吐かないと勝手に思い込んでいた。
言葉を紡いだチヨノオーは話す前よりも血色が良くなっているような気がした。
自身の原点を言葉にしたことでいくらか気が晴れたのかもしれない。
「それから何度かマルゼンさんに併走を申し込もうとしたんですけど…勇気が出なくて…えへへ。」
そう言って照れくさそうに笑う。
詳しく話を聞くと、どうやらサクラチヨノオーはマルゼンスキーと会話をしたことがないし、面識もないとのことだった。
あくまで自分の一目惚れで、片思いの憧れなのだと。
しかし、前に僕がマルゼンスキーと話したとき、確かに彼女はサクラチヨノオーを気にかけていた。
サクラチヨノオーが彼女に憧れていたとき、彼女もサクラチヨノオーを気にかけていた。
結果的に一方的な憧憬ではなかったという事だ。
伝えようかとも思ったが、この件に関してはマルゼンスキー自身の口から聞いた方が良いだろう。
とりあえず彼女の過去について知ることが出来て良かった。
それに、確かめられたこともいくつかある。
彼女は昔から変わらずマメな性格で、ノートをつける癖も昔から変わっていないようだった。
そしてその頃は今のようにリュークや三女神が見えるような事はなかった。
やはりこうなったのはごく最近の出来事が原因なようだな。
今回はそれが分かっただけでも収穫はあったか。
聞きたい話は聞けた。
ここから僕に出来ることは、これを受け止め、今の彼女の胸の内に抱えている問題を取り除くことだ。
「今の話を聞いたからには、半端なコーチングをする訳にはいかないな。僕が必ず君を勝たせてみせる。君を『赤い閃光』に並ぶ最強のウマ娘にしてみせるよ。だから、話して欲しい。今君が抱えている悩みを。」
そう言うと、チヨノオーは虚を突かれたような顔をして驚いていた。
それに続いて彼女の耳がぺしゃっと折れ曲がる。
「何でもお見通しなんですね。…そうです。私、怖いんです。皆の期待を裏切っちゃうことが。」
そして、サクラチヨノオーは今抱えている悩みをゆっくりと教えてくれた。
「最近、私を応援してくれる人が増えて…商店街でも、学園でも、皆が私を応援してる、期待してる、絶対勝ってくれって…そう言うんです。」
「最初はただ純粋に嬉しかったんです、こんな私を応援してくれる人がこんなにいるなんて思っていなかったので。…でも、その声が増えていくうちに、だんだん私の受け止め方が変わっていって。」
「期待に応えたい、期待に応えなくちゃって…義務感みたいなもので胸の中が埋まっていくんです。そしたら足が重くなって、上手く走れなくって…。」
彼女の悩みは、結果が出始めたアスリートによくあるものだ。
唐突に与えられた周囲の期待に応えなければならないと思い、無理をして追い込む。
しかしその結果普段通りのルーティーンが崩れ本来の実力が出せない、というものだ。
幸いなのはサクラチヨノオーに肉体的な不調が発生する前だったことか。
「チヨ、聞いてくれ。君が走る理由は君が決めればいいんだ。他の誰かの為に走る必要なんてない。」
「でも、もし私が負けたら…応援してくれた人達はがっかりすると思います。そうなったら私…」
…どうあっても人を気にしてしまう。
自分自身のことに集中することと周囲の声援を切り捨てることのどちらを選ぶのかを決めかねている。
こうして物事の片方を切り捨てることが出来ないところは彼女の真面目さの悪い部分だ。
だが、それが彼女の優しさでもある。それを否定はしない。
僕自身はあらゆる物を切り捨ててきた。
自身の精神を犠牲にして、時には自分の肉親ですら自身の為に切り捨てた。
そのことを後悔したことなどないが、もしあの時違う選択をしていたらと考えたことが…無いと言えば嘘になる。
「大丈夫だ、君のことを応援してくれる人の中に君が負けたくらいで離れていくやつはいない。もしそんな奴がいたなら…」
「僕が殺してやるさ。」
そんなことを冗談めかして言ってみると、サクラチヨノオーは張り詰めた糸が切れたように笑いだした。
「ふっ、…あははは!真面目なトレーナーさんでもっ、そんなこと言うんですね…あははは!」
僕のセリフは彼女のツボに入ったらしく、しばらく笑っていた。
まぁ、彼女が抱えていた重圧感や期待を少しでも取り除くことが出来たならそれでいい。
「分かりました、トレーナーさんがそう言うなら私、余計なことは考えません。目の前のレースに集中します!明日からもよろしくお願いします、トレーナーさん!」
ひとまず気持ちに整理が着いたみたいだ。
これまでの遅れを取り戻すためにも、明日以降はより頑張ってもらう必要がある。ここで決意を新たにしてくれたことは大きい。
「よし、それじゃあ明日から現地に向かうまではこれまでより少しハードなトレーニングにするよ。でも、キツかったらすぐに言ってくれ。」
「はい!頑張ります!…はっ!新しい格言、思いついちゃいました!『思い立ったら全力ダッシュ』…なんてどうでしょう?!早速ノートに書き留めておかないと…!!」
どうやら完全にいつも通りの状態に戻ったらしいサクラチヨノオーは、そう言って一心不乱に格言をノートに書きつけていた。