サクラチヨノオーの悩みを聞いた次の日、彼女は早速これまで以上に熱心にトレーニングに打ち込んでいた。
最近は最高速度アップを目標とした走り込みが多かった。
その結果としてスパートの速度は前走よりも格段に良くなった。
が、しかし…
「はぁ…はぁ…やっぱりタイミングとか忘れちゃってました…。」
やはり、がむしゃらに走っていた分レース全体を見据えたペース配分が疎かになっている。
レース場のある千葉の方に行くまでの期間は今日を入れて3日。
この3日のうちに彼女には自身のレースプランをしっかりと叩き込んでもらう必要がある。
「そうか。それじゃあ現地の方に行くまではペース配分をしっかりと覚えることに集中してほしい。千葉の方に着いたら向こうの芝の感覚に慣れるための練習があるから、レースプランはこの3日で細かい調整まで終えてしまいたい。今から一度僕の考えたペースで皐月賞と同じ条件でコースを走って、その上で何か調整案があれば教えて欲しい。出来るか?」
「はい!大丈夫です!…。」
返事がどこか歯切れ悪い。
「どうかした?何か言いたいことが?」
そう言うと彼女は大振りに手と首を振り、「違う違う」といったような素振りを見せた。
「いや、違うんです!ただ、今回は秘策!とか新技!みたいなのはないのかなと思いまして…ほら、この前の『花道』みたいな!」
なるほど、チヨノオーが気にしていたのはその事か。
確かにそういった新技…もとい小細工のようなことはした方がいい時もあるのだが、今回に限ってはそうでもない。
まず、そもそもサクラチヨノオーは今の段位で『花道』を完全に使いこなせている訳ではない。
これ以上やることを増やしても、思考を圧迫するだけだ。
新たな技を考えるよりも今ある走法を完璧にした方がずっと効率が良い。
「いや、今回はそういう特殊なことはしない。僕は今回の皐月賞、チヨが自分の全力を出し切ることが出来れば勝てると思っている。変に普段と違うことをするより、今まで積み重ねたことをしっかりと出し切ることに力を入れたい。」
「なるほど、基本に忠実にってやつですね。確かに『花道』も前より使えるようになったとは言っても、それでもまだまだですもんね。分かりました、いつも通りの実力が出せるように、とりあえず走ってきます!」
そう言ってサクラチヨノオーは走っていった。
彼女の、思考を引きずることなく割り切ることが出来るのは良いところだと思う。
「おい月、お前宛てに手紙が届いたぜ。」
そう言って僕宛ての手紙を持ってきたのはもちろんリュークだった。
「リューク、そうやって目立つようなことはするな。お前は周りの人間からは見えないかもしれないが、お前が持っているものはちゃんと見えているんだからな。」
リュークは手紙をぶらぶらと指で摘んで持っているが、この様子はリュークが見えない者からすれば手紙が浮いているように見えているはずだ。
幸い今は人が少ない時間帯なので周りに見られることはそうそうないと思うが、注意を払うにこしたことはない。
「月は細かいな、どうせ今は人なんていないのに。」
叱責を受けたことに対してリュークは若干不満の色を滲ませていた。
「そういう話じゃない。万が一にもお前の正体を誰かに勘づかれて、それがきっかけでLが…」
「あぁ、分かった分かった。それより月、この手紙の中身見ないのか?」
僕の話を遮るようにリュークが手紙を見るように促す。
正直リュークにはまだ言いたいことがあるが、確かに手紙の内容も気になる。
ここは先に手紙を見ることにした。
ご丁寧に蝋で封をしてある。
URAからのものやサクラチヨノオー絡みの手紙では無さそうだ。
封を切るとそこには1枚の厚めの紙が入っていた。
そこにはこう書かれていた。
『皐月賞への出走を棄権しろ』
それ以外には何も書かれていない。
どうやらそれは脅迫文のようだった。
本来ならこういった類のものは学園の検閲で弾かれるはずなのだが、恐らくこの丁寧な包装のせいで検閲をすり抜けて僕のもとに届いたのだろう。
しかしこの文章、少し妙だ。
この手の脅しにしてはお決まりの『対価』が書かれていない。
誰かしらの人質、所定の建造物の損壊予告、そういった代償をちらつかせ相手に条件を呑ませるのがこの手のやり口の定石のはずだが…
あるいは…
いや、考え過ぎだろう。
どのみち対価があったとしても、この程度のイタズラを鵜呑みにして出走を棄権するウマ娘やトレーナーがいるはずもない。
皐月賞への出走は曲げない。
そしてその優勝を掴むのも、僕たちだ。
◆◆◆
◆◆◆
そこは、トレセン学園から離れた場所にある教会だった。
その辺りに住んでいる人達はみな、その教会を所有している人物を一度も見たことがないといういわく付きの建物だった。
その上何故か手入れが行き届いていて、常に清潔に保たれているというのも周囲の人間からすれば不気味な話だった。
そんな人たちも大半が寝静まる丑三つ時に、その教会は動き出す。
その日も教会には数名の人物が集まっていた。
全員が全員白のローブを纏っており、人物を特定するのはこの教会では禁忌とされている。
お互いがお互いのことを知らずに集まる場所が、この教会であった。
「……」
「会長、本日の集会はどのようなご要件で。」
静寂に包まれた教会で、ローブを着たうちの一人が声を発する。
その言葉に対し、会長と呼ばれたその壇上の人物が話しだした。
「本日は、先日行ってもらった皐月賞中止計画についての報告について話し合おうと思う。」
「一昨日、URAに対して提出した皐月賞の中止に関する嘆願書類は無念にも通らなかった。そこで皐月賞の出走者に対してその中止を訴えかける手紙を送らせたが、皐月賞の出走取り消しの締切である今日までで出走取り消しの表明を出したものはいなかった。」
「こうなってしまってはもう穏便にこの件を解決することは出来ないだろう。そこで、我々はかねてより計画していたプランに計画を変更することにした。」
その言葉を聞くなり、他の白のローブを纏った人物達がざわつきだす。
「まさか…」「あの…」と、口々に話している。
何人かは否定的な意見を言っているようだが、その声が壇上に届くことはない。
会長と呼ばれる壇上の人物が彼らを制し、話を続ける。
「我らの意思は一つ。ウマ娘を救うというその一意に心血を注ぎ、必ずやこの理想を現実のものとしよう。全ては三女神の御心のままに。」
こうして夜神月やその他のトレーナー、ウマ娘たちの理解の及ばぬ所で、悪意は静かに爪を研ぎ、機会を窺っていた。