トレセン学園のある府中からそう遠くない地にある都会の喧騒から少し離れた土地に、その日夜神一行は降り立った。
それはもちろん皐月賞に出走する為である。
今は皐月賞当日の5日前、世間では皆が今年の三冠レース開幕に催して誰が有力候補かを議論していた。
そして、そんな有力候補の一人に名が挙がるウマ娘、サクラチヨノオーは大事な皐月賞の5日前に…
「トレーナーさん!イルカですよ、イルカ!凄いですね!」
…千葉の観光を楽しんでいた。
無論、夜神月も最初は反対していた。
他のライバル達は今も厳しいトレーニングに精を出し死力を尽くしているに違いない。
呑気に観光などしている暇はない、とサクラチヨノオーに伝えたのだが…
「えぇ〜っ、でも…もう連日トレーニング続きでくたくたですよ〜!こんな状態で無理にトレーニング重ねても、結果に結びつかないと思うんです!だから、ちょっとだけ!ちょっとだけ観光しましょう!」
…彼女が言うことも全くの的外れではない。
実際精神の状態というのは肉体のコンディションにも大きく影響し得るし、芳しくない精神状態での肉体の酷使は様々な問題を引き起こす可能性もある。
「分かった、少しだけだぞ。」
そう言うと彼女の表情はぱぁっと明るくなり、もう一度先程見ていたイルカショーの方に目を向ける。
普段はアスリートのようなトレーニングをしている面ばかり見ているが、こういう所を見ると彼女たちも間違いなく年相応の少女なのだと感じさせられる。
そんな彼女たちの人生の一端を預かっている僕たちの役割は、考えているよりもずっと重いように思えた。
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結局その日はトレーニング施設に向かうことはなく、一日中観光を楽しんでしまった…。
昼までは水族館でイルカを見て、昼はなめろうを食べ、そこからそれなりに時間をかけアウトレットまで行き、ショッピングを楽しんでいた。
無論、それらは僕の話ではない。サクラチヨノオーが、だ。
大量の戦利品を抱え予約したホテルに着いた頃にはもうすっかり日は沈んでいた。
しかし僕の胸中に広がっているのは今日の疲労ではなく、明日の不安だ。
今日行う予定だったこちらの環境に慣れる為の軽いウォームアップは、結局出来ずじまいだ。
明日以降のスケジュールは少し詰めて行っていかなければな…
僕のそんな雰囲気を感じ取ったのか、サクラチヨノオーはおもむろに買い込んだ落花生をひとつまみくれた。
「チヨ…こんなもので明日のトレーニングは減ったりしないからな。」
そう言うと、うっと怪訝そうな顔をする。
こうなることが分かっていて、なぜ観光を夜まで強行したんだろうか。
「分かってますよ〜…ただ、トレーナーさんも疲れてそうだったから」
「ここ最近、私のせいでちょっぴり負担が増えてたじゃないですか。ほら、一時期トレーニングに集中出来てない時期もありましたし、その分の調整とかも大変そうだったので。だから、その…罪滅ぼしじゃないですけど、トレーナーさんにも少しは楽しんでもらえたらいいなって思って…」
なるほどな、自己を顧みない性格のサクラチヨノオーが今日の観光を強行した理由はそこにあったのか。
数多くの人間と関わり、嘘を見抜いてきた僕だから分かる。
彼女のこの言葉は本心だ。
そうでなくとも、彼女は元来こういう嘘をつけるウマ娘ではない。
それはこの一年で十分に理解させられた。
「そうか、ありがとう。とはいえ、それでチャラにするほど僕が甘くないのも分かっているだろ?覚悟はしておいてもらうよ。」
そういって少しおどけた口調で返す。
本人には伝えないが、明日以降のスケジュールを少しだけ緩和しようと思う夜神月であった。
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それからしばらく歩き、予約していたホテルに着く。
「それじゃ、チヨは先に行っててくれ。僕はもう少し外でやることがあるから。」
そう言って予約した番号と部屋の場所を伝え、サクラチヨノオーがホテルな中へ入っていくのを見届ける。
「なぁ月、俺も先にそのホテルってとこに入ってたいんだけど…」
今から僕が何をしようとしているのか何も知らないリュークが呑気にそう話す。
「リューク、お前もしかして気づいてないのか?」
その問いに対して、リュークは返事をせず首を傾げた。
どうやら本当に何も気づいていないらしかった。
「…なぁリューク、こんなことは言いたくないが、少したるんでるんじゃないか?」
僕がそう言ってもリュークは話の流れがまだ見えていないようで、的を射た反応は返ってこない。
仕方がないので説明することにした。
「いいか、よく聞け。今日僕らが電車を降りて千葉に着いたタイミングから今までずっと、誰かが僕らを尾けている。」
だが、僕の言葉を聞いたリュークは思ったよりも冷静だった。
「そりゃあ…皐月賞に出るウマ娘のトレーナーってことなら、チヨのファンが尾けてたり、同じ皐月賞に出走するウマ娘のトレーナーが視察ってことで尾行してたとか…色々あるだろ。今日は大したことしてないし、そんなに問題ないんじゃないか?」
リュークにしてはかなり的を射た分析だ。
ここまで理知的な思考を持ち合わせているなら尾行している存在がいることに気づいてもよさそうなものだが…
「いや、恐らく今僕らを尾けているのはそういう奴らじゃない。もし僕らに対して探りを入れてきている人物なら、周囲に溶け込み目立たないようにするはずだ。」
正直、僕も初めは皐月賞関連の誰かが興味本位で尾けてきているのだと踏んでいた。
しかし、それだと腑に落ちない点があったのだ。
「彼らは今日一日、全身を黒を基調としたコーディネートで固めている。これは目立ちたくない人間のする服装ではなく「素性を隠したい人間」のする服装だ。つまり今僕らを監視しているのは素性がバレるとマズい奴である可能性が高い。」
「ここまで特に何も干渉してこなかったから僕も下手に手を出すことはしなかったが、今後皐月賞までの間拠点となるこの場所を知られたからにはみすみす返すわけにもいかなくなった。リューク、奴らはそこの陰に2人でいる。目標は尾行の目的を聞き出すことだ。チヨの為にも、やってくれるか?」
最近思っていることなのだが、今のリュークは三女神と近しい存在…所謂「ウマ娘を導く存在」ということだ。
そして、こっちに来てからのリュークはやたらチヨ絡みの問題に対して積極的に動いてくれる印象を受けた。
しかしそれらの願いはかつてのリュークであれば面倒臭がってやらなかったものや興味のなさそうなものもある。
このことから僕は一つ仮説を立てた。
三女神の性質を持ったリュークは今「ウマ娘を導く」という目的に絡んだ頼みは基本受けてくれるのではないだろうか、と。
なので今回の尾行犯の鎮圧という頼みは仮説の検証も兼ねている。
「あぁ…仕方ないな。やってくるぜ。」
そうして夜の空にリュークが高く舞う。
その姿を見た夜神月は、改めて思い出すのだった。
彼は人々が数多くの神話や伝承の中で恐れた生物、死神であったという事実を。