「うん、この事は告げなくても良いだろう。彼女は既に舞台から降りてしまった。話した所で今更だ。何の意味にもなるまい」
手の中の透明なクイーンの駒をもて遊びながら話す。対する相手は可笑しそうに相変わらずの笑みを浮かべた。
「そうは言っても、迷っているのだろう? 私がこうしている事がその証左だ、ギルバート」
参ったな、と肩を竦めてしまう。こうして時折頭の中にラウが訪れる。言葉を交わすのは私にとって良い息抜きだ。彼が愉快そうに笑うのを眺めながら、レイ達には伝えなかった彼女の誕生経緯と、それにまつわる懐かしい日々へと想いを馳せた。
博士の旧友だという夫人の頼みであの少女はアコードとして生を受ける事になった。依頼を受けた時の博士が嬉しそうに笑っていたのをやけに覚えている。ツツジ色の長い髪を一緒に見送ってから彼女の夫にはナイショなのだと困ったように教えてくれた。そうして産まれたのがラクス・クラインだ。
まるでおとぎ話や童話に出てくる女王や姫君のような魅了の力を授ける遺伝子が組み込まれた。彼女が何をしても疑う事なく人々に肯定されるはずだ。そんな得意気な話を聞き、祝福の言葉を贈った後で予想だにしない問題が現れた。依頼主が自分の手で育てたいと主張してきたのだ。
一番最初のアコードはオルフェとラクスの二人だけだった。ただでさえ人の脳には未知の部分が多い。誕生後にも生育環境を整えて適切な教育を施し、力の訓練をさせないと能力は芽吹かないだろう。事前に話した際には彼女も躊躇う事なしに快諾していた。それなのに嫌だと、離れたくないと意見を翻したのだ。もう一度言葉を砕いて説明し、焦った様子で懸命に博士は説得を試みていた。
しかし、クライン夫人の決意は揺るがなかった。世界を我が子のものとする力が手に入らない可能性まで告げた時にも、きっと大丈夫と笑って自分と同じ髪を持つ赤子を放さなかった。瞳を星のように煌めかせて切望していたと言うのに。その後も日を分けて続いた話し合いは平行線を描くばかり。もう一人いた彼女の助手から二人の最後は喧嘩別れのようなものだったと聞いた。
可愛がっていた歳下の友の心変わりにアウラ博士は酷く荒れた。私もオルフェ達も、誰も彼も遠ざけられて一人きりで閉じこもってしまった。物が割れる音と何故だと言う胸を裂くような嘆きが分厚い扉を隔てて襲いかかってきた記憶は今でもまざまざと思い出せる。癇癪を起こした博士に研究室を追い出され、当てもなく廊下を進んでいた。
博士の狼狽えようには納得していた。それは嬉しそうにあの方はラクスをつくっていた。可愛いあの子に良い贈りものが出来る。そう笑っては寝る間を削って配列を考え、培養器を見ていた。それを知らないあの女性は感謝の言葉すら無く立ち去ったそうだ。お世話になっている方がそんな酷い対応をされた。どんな声をかければ立ち直ってくれるだろうか。分からずに途方に暮れてしまう。母の哀しみを感じていたのか火がついたように泣きじゃくるオルフェを抱えて立ち尽くすしか出来なかった。
そんな時に、あの人と出会った。ヴィア・ヒビキ博士。栗色の髪を持った綺麗な女性がどうしたのと声をかけてくれたのだ。
アウラ博士と彼女の夫は犬猿の仲だ。当時のメンデルでは誰もが知っていた。まだ子供の自分ですらだ。そして、自分はアウラ博士の直属で、彼女はユーレン博士の助手だ。敵対派閥の人間になる。自分が頼って良い人ではない。無意識のうちに足が引いてしまった。そんな私に困ったのか一瞬だけ眉を寄せた後、明るく笑いかけてくれた。
「誰か知らない人に会えるなんて久しぶり。君、良かったらちょっとした話し相手になってくれない? あの人ったら妊娠が分かってから過保護なの。ドアを開けっ放しにしてたら怒られちゃう。ほらほら、早く入って。小さな弟くんも風邪引いちゃうわよ? 安心して、研究の詳しい話は何も聞かないからね」
イタズラっぽく笑って手招きしてくれた。今思い返せば彼女の娘そっくりの明朗さだ。最後に真摯な顔で付け足された言葉からアウラ博士に迷惑はかからないだろうと気が緩む。暖かな色に包まれた部屋へ足を踏み入れた。
「そうなの……最近のアウラ先輩はご機嫌だったから一際悲しんでるでしょうね……ギルバート君もお疲れ様。でも、私はその方の気持ちも分かるわ」
意外な言葉に瞬きの回数が増えてしまう。僕の様子を見た人はふわりと笑ってから言葉を探し始めた。
温かいスープをご馳走になり、備え付けられていたベビーベッドで眠りについたオルフェを眺めていると一気に身体の力が抜けた。自分も気を張っていたのだと気づき目を丸くしてしまうと幼子にするように頭を撫でられた。不思議と不快ではない事に自分でも驚く。恐る恐る何があったのかと聞かれた。心から心配してくれている事が暖かな手のひらから伝わってきて、気づけば誘われるように話していた。話を聞き終わった彼女から返ってきたのが先程の言葉だ。自分で頼んでおきながら約束を反故にして去ったあの女性が私には分からない。不思議でたまらなくて、疑問が口からこぼれ落ちていた。
「なぜですか? ここで育てれば自分の子供に素晴らしい才能が花開くのに。それも普通とは違う特別な力が。ずっと離れ離れになる訳でもないんですよ?」
「それでもよ。子供の成長はあっという間だもの。一瞬だって目を離したくないわ。それまでは納得していたとしても、ね。子供を産むと変わってしまう事って珍しくないのよ。たとえ自分のお腹を痛めていなくても。もちろん、全員がそうなるって決まってはいないけれど」
穏やかなこの人もそう遠くない日には変わってしまうんだろうか。たった一時間程しか共に過ごしていないのにその可能性を疎む気持ちが生じていた。 遠目に見ていた先日までは彼女を苦々しくさえ思っていたのに。実際にこうして言葉を交わせばすっかり変わった自分が少し、おかしかった。
そんな事を考えていれば思わず口元が緩むのが自分でも分かる。こちらの反応を受けた人は美しく笑ってくれる。その後は弾んだ声で問いかけを投げかけてきた。今は出られないから外の話を聞きたいらしい。明るい話題を選びながら久々の他愛ない話を楽しんだ。
「たくさん話してくれてありがとう。君のおかげで久しぶりに楽しい時間だった。それじゃあ、頑張ってね。アウラ博士にもよろしく。あの人、ユーレンと付き合うまでは私にも良くしてくれてたの」
「いえ、こちらこそありがとうございました。あの、どうして優しくしてくれたんですか?」
オルフェの目覚めを合図に、腰を上げる。穏やかなこの場所にもっといたい。そんな名残惜しさを押し込みながら気になっていた事を尋ねる。驚いたように目を見開いた後、色鮮やかな笑みで問い返された。
「目指しているゴールが違うからって、仲良くしちゃいけない決まりなんてあるの? 目の前で辛そうに困ってる人が自分と真逆の考えだって分かったら無視して知らんぷりする? そんなのは悲しいじゃない。私がそうしたくなかっただけ。ただのワガママよ。だから、そんなに気にしないで? それじゃあ、またね」
人懐っこく笑ってくれた人に頭を深々と下げる。たくさん眠ったからか、オルフェが機嫌良く笑う。可愛い子を抱き直して明るい気持ちでしっかりと足を動かした。今の話をアウラ博士にも伝えよう。きっと喜んでくださるはずだ。そんな希望を抱いて顔を上げた先、耳をつんざくような音が前方から聞こえてきた。
嫌な予感がして足を早める。そちら側から来た同じ派閥の大人は青白い顔をしていた。私達を視界に捉えて大急ぎで駆け寄ってくる。大きく息をついて血色の良くなった顔から嬉しそうに言葉が放たれた。
「あぁ、良かった! 無事だったか! 本当によくやってくれた、デュランダル! これまでの研究が水の泡になったかと思ったよ。産まれたての子があの薬まみれの場に居たらどうなっていたか! あの場に居たのはアウラ博士だけだ! 手元に残った成功作は無事! あの人も若返って寿命が伸びた! まぁ、ちょいと戻り過ぎだがね。君の薬も床の染みになっちゃったけど、レシピは覚えて記録を残しているんだろう? ならまた作れるさ。何も問題はない! あはは、みんな、良かったなぁ!」
静まり返ったその場で身体が芯から凍りついていった。
アンチエイジング薬。アウラ博士が資金集めのために手をつけ、それを知った私が友であるラウの為に研究を進めた夢の欠片。保管していたその薬品の容器が破損し、他のものと混ざって彼女に降りかかったらしい。結果、どんな化学反応の産物かあの人は幼子の姿になってしまった。敬愛していた人がそうなった事に愕然となり思考が停止する。その間に、オルフェは他の大人の手へ移されていった。
その後、しばらく時間が経って落ち着いたあの人はラクスの代わりとなるような子を作ると息巻いていた。私もそれに協力し、そうして産まれたのがイングリットだ。あの子の誕生を祝って直ぐに私はメンデルを離れた。
あの日に現れた効能からして私が作り上げた薬が博士を変えてしまった。それだけが原因ではないと理解はしている。しかし、数日前までは見上げて報告していたあの人をすっかり見下ろしてしまった事がどうしようもなく後ろめたかったのだ。ヒビキ博士のチームから漏れ聞こえてきた噂の事もあった。
あの日、優しくしてくれたヴィア博士。彼女が我が子に力を与えようとした夫に反対し、冷遇されていると言う話だ。メンデルを発つ前に挨拶を告げようとした。その時に彼女が望んでくれたなら酷い人の元から連れ出すつもりでもいた。しかし、会う事すら大人達によって阻まれた。
仕方がないと今ならば分かる。やっと叶いそうな研究を部外者に見せる訳にはいかなかったのだろう。ユーレン博士は万能の人間を求め、アウラ博士は超常の特別な人間を目指した。どちらも一つの正解ではある。ただ、お互いが相入れなかっただけだ。
当時は分からずに唇を噛みながら後にしてしまった。快く笑って送り出してくれたアウラ博士へ迷惑をかける訳にはいかなかった。悔しさから逃げるようにシャトルへ飛び乗ったものだ。
大人になった今は懐かしく思い出される記憶を眺める。ラウが質問を投げかけてきた。
「ギルバート。君はキラ・ヤマトの実の母に焦がれていたのか? これは意外だな」
面白がっている声音に苦笑いを返す。あの施設での日々を話すのは彼が生きている内には出来なかった。漂いながら待ってくれる友に胸の内を明かす。
「いいや。あの感情は恋や愛ではない。ただ、そうだな。今こうして見ると笑ってしまう程に淡い憧れだった。あの人は立場に囚われず、対立する双方の意見に理解を示していた。子供心にこうありたいと思ってしまっただけだよ」
我ながら気恥ずかしくなる程に単純だった。笑い声をあげて肩を叩いてきた友人の手がすり抜ける。その事から目を逸らしていると笑ったままのラウが真摯に問うてきた。
「それで? ラクス・クラインはアコードだと? 彼女の歌は好きだったがね。この好意は力によって無意識のうちに強制され、押し付けられた感情なのか?」
腹立たしげに尖った声によって脳をまわす。この事は本当に不確定要素が多すぎる。クライン夫人がラクスをどう育てたか、縁の切れた私達には知りようが無かった。思考がまとまったため、口を開いて前置きを一つしておく。
「あくまでも私の見解だ。今から述べる事が真実とは限らない。それでも良いかい?」
鼻で笑って頷かれた。こちらの反応が愉快なようだ。相変わらずだと笑い返して言葉を並べる。
「どちらの可能性も有り得る。ただ、歌に対する感情は君自身のもので間違いない。アスランからキラ・ヤマトの助命嘆願が来ただろう? あの中にはこう書いてあった。ラクス・クラインの言う事や行動を疑う気持ちを当時の彼は感じていないような口ぶりだった故、責任能力は低いと思われる、と」
万が一の可能性に怯えた彼から来た文書を思い返す。クライン派におけるキラ・ヤマトは影響力が無く、全体の指針を決められる立場には無かったであろう事に基づいた懇願だった。その中に彼から見た心象も書かれてあったのだ。ラクス・クラインの会見乱入を予見した事といい、彼の直感は軽く扱わない方が良い。そんな勘で手元に置いてある。読み直しながら話を続けた。
「先日話したアスハ代表も言っていた。あの頃は何故ラクスを止めなかったのか自分でも分からない、彼女に従って力になる以外の選択肢が当時は頭に浮かばなかった、とね。故に、彼女にアコードの力が発現していた可能性は否定できない。しかし、だからといって決めつけるには弱い」
一度言葉を切って目の前の親友を見つめる。顎に手を当てて思案していた彼は口の端を上げて私の言葉を奪った。
「政権奪還後は静観したオーブ代表、捕縛後は気にする素振りも無かったと書かれているキラ・ヤマト。両名とも物理的な距離が離れればラクス・クラインへの献身は失われた。好意が裏返ったクライン派も同様だ。つまりはその程度だったか。これは確かに根拠としては弱いな。しかしだからと言って、と言う訳か」
したり顔で頷いたラウに頷く。近くに居た時はその光に灼かれてしまうが、距離が離れた程度で求心力が薄れる。そんな人間は珍しくもない。しかし完全に能力が無いとも言い難い。確かめようにも今ラクスが何処に居るのかは誰も知らない。各地を転々とさせられているのか、誰も来ないような地に留まり続けているのかは私にさえ知らされていない。
かつては一挙手一投足にプラント中が視線を注いでいた彼女の今を思っていると、いつもの嘲り笑いに戻ったラウが言葉をこぼす。
「まるでシュレディンガーの猫……いや、歌の上手さから言ってカナリヤだな。それで君は蓋を開けない訳か」
「開けようにも在処が分からないからね。下手にまた探されても良い事がない。やはりこのまま黙しておくに限るな。ありがとう、ラウ。君のおかげでまた答えに辿り着けた」
容易い事さ、と笑って親友が消え去る。悲しくはない。また私が迷ったら会いに来てくれる事を知っている。
小さなチャイムの音で顔を上げた。折角の休暇をあげたレイが私と過ごしたいと来てくれたのだ。今ラウと話していたと言えば、悔しがるだろうか。久しぶりに三人での想い出話に浸るのも一興だろう。愉快な気持ちになりながら扉を開けて明るい光の中から来た子を出迎えた。