前世が男の浅倉透   作:早見 彼方

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第3話

 曖昧な意識の中で、暗闇に浮かぶ無数の泡を捉えた。大きさは様々で、そのいずれにもいろいろな想いが宿っていた。それらは全て僕の想い。僕がまだ僕だったときの記憶。生まれてから十四年という歳月を過ごしてきた証が僕の目の前に散らばっている。

 

 僕は大切な想いの詰まった泡に手を伸ばす。けれど、どれも手繰り寄せることができなかった。今の僕には手がなかったから。足も、頭も。両親から貰った大事な身体がどこにもない。

 

 失ってしまったのだと、僕は遅れて気がついた。

 

 僕の近くで揺蕩っていた泡に、僕の最期の記憶が映し出されていた。

 

 茜色に照らされる通学路。中学校からの帰り道。仲の良い友達と途中で別れて、一人で家路に就く。学生服を着て、通学用のリュックを背負って、今日の夕飯は何かと予想しながら帰るいつもの変わらない日常風景。

 

 楽しかった。

 

 毎日が充実していて、明日が来るのも楽しみだった。

 

 きっと、こんな日が毎日続くのだろう。世間を大して知らず、楽観的だった僕はそう信じて疑わなかった。安全なはずの歩道を歩いていた僕の背後から、猛スピードで車が突っ込んで来るのを目撃するまでは。

 

 咄嗟に反応できなかった。場違いにもぼうっとしてしまって、やけにゆっくりと景色が流れるような感覚を覚えながら、僕は少しずつ迫ってくる車に跳ねられた。

 

 直後、これまで当たり前にあった僕の意識は簡単に途切れた。

 

 呆気ないとか、死の恐怖とか、そんなことを考えている余裕もなかった。理不尽な死に見舞われて、失ってからようやく後悔することが許された。

 

 これで終わり? もう生きられないの? もう家族にも会えないの? 友達とも遊べないの? まだやりたいことがたくさんあったのに。いっぱい勉強して、いっぱい遊んで、大きくなって、働いて、家族に恩返しをして、できれば僕自身も家庭を持って、それで。それからーー。

 

 漠然と抱いていた未来図が唐突に終わりを迎えた。それ以上、自分の願望を言葉にするのが辛かった。もう終わってしまったから。僕の人生は十四年間で確定されてしまったから。

 

 なんで、こんな、僕が。

 

 ねえ、どうして?

 

 終わってしまったけど、僕は諦めきれなくて、僕はこれまでの記憶を抱え込んだ。体だけでなく、このまま全てを失うのが怖かったから。いつまでも過去に縋ってはいけないとわかっているけど、簡単に諦めきれるほど、そのときの僕は大人じゃなかった。

 

 体を失って、剥き出しの魂だけになった僕は、そうして自分の想い出を内側にしまい込んだ。絶対に離すものかと強く心に誓いながら、いつまでも。やがて光が訪れて、僕の意識が再び現実へと浮上する瞬間まで、ずっと。

 

 

 

「ぅ……」

 

 目を覚ました私が感じたのは、胸から下を包む温もりと、瞳を刺激する淡い光だった。徐々に目が慣れて瞼をゆっくりと開いていくと、周りの景色が見えてくる。

 

 乳白色の壁と天井に囲まれた空間。息を吸うと、室内に満ちた熱気と湿気が喉に触れる。

 

「お風呂……」

 

 浴槽の縁に両腕を置いていた私は、手の甲に乗せていた顔を持ち上げて周囲を見遣った。浅倉家の浴室。壁に取りつけられたモニターが示す時間は午後六時すぎ。照明の落ち着いた光が行き渡っている。私以外に誰もいない空間は静かで、蛇口からぽたぽたと落ちた水滴が風呂桶に当たる音が大きく響いた。

 

 どうやら、お風呂に入っているうちに眠くなって、そのまま眠ってしまったらしい。私は眠る前の記憶と共に、その後に見た奇妙な夢を思い出した。

 

「変な夢……」

 

 ぽつりと呟いて、浴槽に張られた温かなお湯の中に肩まで体を沈める。露出して少しだけ冷えていた肩がお湯に包まれてじんわりとした熱が肌に浸食してくる。心地いい感覚にまた眠気を覚えたけど、今度は眠ってしまわないように注意して欠伸をするだけに留めた。

 

 体が温まっていく。あと少しだけ温まったら、湯船から上がろう。

 

 思いながら何気なく目線を右に振ると、壁に取りつけられた鏡に映る、一人の少女と目が合った。

 

 今は少し眠たげな、穏やかな印象を与える目元。ショートに整えた髪は水気を帯びて、頬に毛先が張りついている。白い頬には普段よりも赤みが差して、寝起きに伴う気怠さを宿した表情は憂いを抱いていた。男性も、女性も、どちらも関係なく惹きつけてしまいそうな端正な顔の少女がそこにいる。

 

 この世界の両親から貰った大切な身体。私以外の誰のものでもない。だけど、じっと見つめたその顔を、私は自分のものだと認識できなかった。どこか他人事のように眺める。これが今の私なのだと時間を掛けてようやく自分を納得させたけど、一度覚えた違和感を完全に拭うには至らなかった。

 

 さっきの夢を、私はまだ引きずっているみたいだった。

 

 立ち上がって浴槽から出た私は、さっさと眠気を覚ましてしまおうと、シャワーを頭から浴びた。降り注ぐお湯が少し乾いていた髪を再び濡らして、そのまま体へと流れていく。

 

 その状態で私はまた横目で鏡を見た。

 

 裸になってシャワーを浴びる少女。細身だけど、女性特有の柔和な曲線ははっきりと確認できる。胸とお尻はしっかりとした膨らみを描いていて、腰は括れている。太ももはちょうどいい肉付きで、今の私の姿を男性が見れば興奮するのだと思う。男性としての立場を失って十七年も経っているから、本当にそうだとは断言できはしないけど。

 

 私の意志と関係なく、最近また大きくなった胸に手を当てる。指先を柔らかな肌に軽く沈め、綺麗な曲線に沿って下方へと移動させていく。普段とは違う変わった触り方をしてみても、私の中にある男性の心は何も反応を示さなかった。心がまだ男性の部分を持っているとは言っても、さすがに自分の体に対して劣情を抱くことはない。

 

 それでも、女性としての欲求を覚えることはある。頻度は多くはないけど、これまでにもう何度も経験してしまったあの感覚。あのときの全身を包む火照りと、意識が一瞬弾けた後にやってくる蕩けてしまいそうな気持ち良さを思い出し、私は慌ててシャワーを水に切り替えて、邪念を洗い流した。

 

 冷たい水を頭から被ったことで邪な感覚は拭い落とせた。完全に目が覚めて、私は鏡に映る少女、浅倉透を自分のことだと認識する。そこに疑いはない。でも、喉の奥に軟い小骨が引っ掛かっているような微々たる違和感はまだ残っていた。

 

 僕は男なのか。

 

 私は女なのか。

 

 どちらであるのが正しくて、どちらでありたいのか。

 

 周りの人は私のことを女として認識している。人の心なんて見透かすことはできないから、私の歪な精神状態を勝手に理解してはくれない。口に出して言わないとわかってもらえないけど、それを人に伝えるというのは並大抵のことじゃない。

 

 言えば、人によっては気味悪く思われるかもしれない。そもそも言って何かが変わるものでもない。結局は自分の考え方次第で、それ以外で判断すべきことではないと思う。

 

 他人に相談するのはやめる。

 

「ねえ……」

 

 だから私は、僕と相談する。

 

「どうなりたい……?」

 

 問いを投げかけてみるけど、答えは口に出せなかった。

 

 答えを出すにはまだ材料が足らない。思えば、女性になったというのに、女性らしいことをなるべく避けていたように思える。小さい頃はまだ一人称も『僕』のままで、男の子と同じ格好をして、男の子と同じように遊んでいた。そのときにいた周りの男の子たちも私を男の子だと思っていたようだった。

 

 女性らしいことをこれからたくさんしていけば、女性としての自覚を得られるのかな。女性らしいこと。たとえば、身嗜みに気を使って、女性的な衣装を着て、部屋を可愛いもので飾りつければ、それは女性なのだろうか。女性とはいったいなんなのか。

 

 思案を深めるごとに深みに嵌っていく。そのうち何がなんだかわからなくなってきて、私はこれ以上一人で考え続けるのはやめた。下手に頭を悩ませているよりも、思いついたことを実践してみるのが一番いいと思う。

 

「まずは、化粧、とか?」

 

 思い立ったが何とやら。私はお風呂を上がって体を拭いて手早く着替えると、台所で夕飯の準備をしていたお母さんに声を掛けた。

 

「お母さーん」

 

「なにー?」

 

「化粧して?」

 

「私が? もうしてるよー」

 

「いや、違う。私に」

 

「誰が?」

 

「お母さんが、私に、オーケー?」

 

「オーケーオーケー。じゃあ、今から始めようか」

 

 お母さんの承諾を得られたので、早速化粧をしてもらうことになった。今度、教えてもらった通りに化粧をして、外出してみよう。それで少しはこの複雑な心境が変わるかもしれない。なんて前向きに思いながら、勉強のためにゆっくりと手順を教えてもらった。

 

「二人とも、夕飯できたよ」

 

『あ……』

 

 いつの間にか仕事から帰ってきたお父さんにそうやって声を掛けられるまで、私とお母さんは夕飯の準備が途中だったことを完全に忘れて初メイクに没頭していた。

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