兄ちゃんのインスピレーションがあふれるポイントは主に喫茶店と水族館、読書中、後は湯船に浸かっている時だ。カフェは特に、作詞の時に使われて水族館は作曲の時に使うらしい。なぜ水族館なのかと言うと暗いところに青い水槽が浮かんでる景色が兄ちゃんにとっての音楽に近いから? らしい。俺にはよくわからない感性だったけど。
「できないことだけど、一回水族館の水槽の前でギター鳴らしてみたいんだよな」
「できないことだけどね」
「最初に言っただろ」
──なんて唇を尖らせる兄ちゃんには、それ関係でよく出会う女の子が一人いた。それが、ハロハピのドラマーでファストフード店でバイトをしていて、更に水族館に通うのが趣味で羽沢珈琲店の常連さんという、兄ちゃんと動線被りまくりの人だ。しかもかわいくもあり美人でもある。
「あ、シュウくん、こんにちは」
「花音さん、今日は一人ですか?」
「千聖ちゃん忙しくって」
時は一月、兄ちゃんの誕生日会やらが終わって二ヶ月が経ち、すっかり寒くなった頃のことだった。
羽沢珈琲店でホットコーヒーを飲みながら残り少ない冬休みをのんびりと過ごしていたところで、ふわりと柔らかな声がした。かわいい声、全体的にふわふわした印象の女の子が俺に向かってにこやかに挨拶をくれる。
「私、ここでもいい?」
「もちろん」
向かいを指されて訊ねられるが聖母の笑みをされて断れるわけがない。一応、兄ちゃんの紹介、というか兄ちゃんと一緒に羽沢珈琲店に来た時に二人が知り合いなのを知った、みたいな感じでその前から個別で知り合いだった。けど兄弟なのを知らなかったということだった。
「──それでね、その時ボーカルの人がね四月からはもっとガチでやっていきますって、なんだか嬉しくなっちゃって」
「花音さん、ホントそのバンド好きですね」
「うん、あ、他にもね──」
普段は親友の白鷺千聖さんと一緒に来ることもあって、その時はほとんど話さずに挨拶だけってことも結構多いが、お互い一人かもしくは兄ちゃんと二人で花音さんが一人だと決まって話しかけてくる。その時は千聖さんに対してとは違ってバンドの話が多い。
これは多分だけど千聖さんがそんなに興味がないというか、趣味じゃないことも一因なんだろう。ふわふわしててちゃんとしたドレスとか着たらお嬢様かお姫様か、みたいな見た目で結構ロックな感じのバンドが好きというのもギャップがあるけど。
「あとは浩介さん、いつの間にかすごく人気になったよね」
「そうですね、兄ちゃんも今年度は躍進したって言ってます」
東京来る前からチェックしていたけど、今年でプロ三年目、本格的に人気が出て外から出演の依頼も来るようになったみたい。地方局だけどテレビ番組にも出演を果たした。前々から配信とかでも結構な人気があったと思ったけど、知名度としてはまだまだとのことだ。兄ちゃんはどこまで行こうとしてるんだろうなぁ。
「ふふ」
「どうしたんですか?」
「浩介さんの話をしてる時のシュウくん、いい笑顔してるなぁ……って」
「なんですかそれ、からかってます?」
「そんなことないよ〜」
こう、花音さんと話していると元々が兄ちゃん経由だったこともあるけど、気分的には優しくてかわいくて絶妙に女性として意識してしまう兄嫁、のような。なんともいえないそこはかとないエロさを感じてしまう。なんでなんだろうな。つぐみ、ひまりと比べても女性らしさと言えばいいのか、落ち着いた印象があることも理由なのかもしれない。それでいて見た目の女性的な部分──というのは多分セクハラに該当するので考えないようにしておこう。
「ど、どうしたの……?」
「いえ、いつかの未来に花音さんを
「あ、あね……ふえぇ」
ちなみにこの間、花音さんと付き合ったの? と訊ねたらめちゃくちゃカラっとした笑顔で、ないないと言われてしまった。いいと思うんだけどなぁ俺は。兄嫁ポジなら断然つぐみより花音さんの方が姉として接しやすい。年上だし。
「浩介さんと結婚の予定はないかなぁ……」
「余裕の返しに疑いを持ちました、むしろ」
「どっちかというと、シュウくんのほうが……あ、今のなしで」
「さてはやっぱりからかってますね?」
「ふふ、どうでしょう……?」
あざといなぁ、なんだそのあざとい返しは。このままだと精神的な優位は一生取れないだろうから、再びバンドの話に戻していく。花音さんはいつも名前の通り花が咲くように笑う。誰に対しても基本的にはこの笑顔だと思う。後は、彼女は自分の好きにまっすぐってことくらいかな。それでも前はそうでもなかったらしいけど。詳しい話はちょっとはぐらかされてしまうことが多い。
「でも、勇気を出そうって思えたのは、こころちゃんのおかげなんだ」
「こころちゃん、ああハロハピの」
「うん、会ったことないんだっけ?」
ないですね、ハロハピで会話したことあるのは花音さんとこの店の道挟んで向こうにあるコロッケがおいしい精肉店の元気娘、北沢はぐみくらいだ。あの子とも知り合ったのはつい最近のことだったけど。
どうやら弦巻こころさんもまたこの辺に出没する花咲川の生徒らしい。世間はなんと狭いんだろうか。
「あ、花音さんに修斗くんっ」
「あ、つぐみに、ひまりも」
「あれ、花音さんだ」
「こんにちは、制服ってことは部活?」
「そうなんですよ〜」
どうやらつぐみは生徒会、ひまりはテニス部だったようで、でもどっちも学校の都合で三時には終わったらしい。なんだか自然と元々四人席だった場所に、花音さんの隣にはひまりが、俺の隣にはつぐみが座る──わけではなく、そのまま立ち上がって裏に行ってしまった。でもなにやら待っててと口にしていたから、戻ってくるようだ。
「つぐみは元気だね」
「私は部活でくたくただよ〜」
「テニスっていっぱい動くもんね」
「そーなんですよ、いっぱい走らされました」
「よしよし」
花音さんが頭を撫でるとひまりはちょっと気持ちよさそうにしていた。この二人はバイト先が同じの先輩後輩関係なので、このように仲がいい。後はアイドルの丸山彩さんともバイト仲間だと知ってびっくりした。今推しておけばミーハー相手に古参ぶれると噂の急上昇アイドルも、バイトをしなきゃいけない下積みがあるようだ。
「おまたせ、ポテト揚げさせてもらっちゃった! 紅茶も淹れてきたよっ」
「サービスいいね」
「えへへ」
「ふふ、本当に」
そんな常連客相手へのサービス精神に感動していると花音さんが意味深な感じに言葉を重ねて、ちょっとだけつぐみが慌てていて、俺とひまりが首を傾げた。どうやらわかっていない仲間がいてくれたようで、助かった。
──それはさておき、揚げたてポテトは無言になりそうなくらいに美味しかった。羽沢珈琲店のポテトはこのサクサク感にちょっとしたこだわりがあるらしく、ファストフード店でバイトをしていて、恐らくまかない等で食べ慣れているであろう花音さんやひまりも目を輝かせているように感じられた。
「あ、修斗くんにはコーヒーと、唐辛子マヨも用意したよ」
「おお……んっ、うっま!」
「本当? よかったぁ」
隣のつぐみがすごくニコニコしていて、何かしてもらったのはこっちなのに、その笑顔でまた嬉しくなってしまう。ひまりは俺のリアクションが気になったのか一口つけてその辛さに慌てて水を口に含んでいた。そりゃ俺が美味しいって言うんだから辛いに決まってるって、知り合って半年くらい、ご飯も結構一緒に食べてるんだからさ。
「き、気になるし……ちょっと、辛いのも興味ある的なね!?」
「なんでキレ気味なのさ」
「だって……だってぇ」
「わたしも味見して大変なことになったから……あはは」
「味の好みかぁ……私も甘いもの好きだからなあ……」
ところですごく俺や兄ちゃん好みの味付けなのはいいんだけど、これ多分ピリ辛の領域は超えてる気がする。唐辛子マヨってピリ辛だから味変としていいと俺は思うんだ。いやこれは俺としてはかなり好きなんだけどさ。
──というところでハッとする。なるほどな、俺が美味しいって言えばつまり兄ちゃんの好みに合うもんな。これを作ってあげたらきっと兄ちゃんは大喜び間違いなしだ。しかもポテトも好きでよくファストフード店寄るって言ってたし。
「これ、兄ちゃんにもあげたいな」
「浩介さんに? そうだね、きっと喜ぶと思うよ! レシピ教えてあげよっか?」
「……え? あ、それもいいけど俺んちで作ってほしいかなって」
「わかった!」
うん? なんかちょっと思ってたのとリアクションが違って戸惑ってしまったけど、なんだか嬉しそうにニコニコしてるし、まぁいっか。この違和感に対して助けを求めると花音さんは微笑ましげに見守ってるだけだし、ひまりはまだ辛みと格闘していて内容を聞いていないようだった。
「そういえば、シュウは実家に帰らなかったんだね」
「年始の話?」
「うん、テキトーに誘ったけどまさかホントに暇とは思わなかった」
「誘った?」
「はい、初詣に行こうって言ったんです。蘭が家のことで、巴はバイトで、モカは寝正月宣言して本当に連絡つかないし」
「それで最初は二人だったんですけど、集合した時に修斗くんもって」
「でもつぐが、お兄さんは年末年始は必ず帰省してたって行ってたから、ダメ元だったんですけど」
そう、兄ちゃんは前は年末になると必ず帰ってきてた。でも今年はどうするのと訊ねたら別にいいだろって言って当日も仕事入れちゃってた。まぁでも俺も帰る理由なんて特にあるわけじゃないから、ゴロゴロしてたらひまりとつぐみが家の前にやってきて、誘われたから行くかぁ、みたいなテンションだった。
「ふふ、シュウくんってモテモテなんだ」
「だから、そういうからかいはやめてくださいってば」
「そうですよ、シュウはモテません。便利なだけです、優男だし」
「後ろから刺してくるなこのやろう」
「修斗くんって、モテるの……?」
なんでそこで疑問形になるかなつぐみまで。なんでびっくりみたいなリアクション取るの? そりゃ兄ちゃんに比べたらイケメンじゃないだろうし、そもそも似てないねって絶対言われるくらいだし。うるせぇ似てないの当たり前だろ義兄なんだから! 顔はともかく性格とかはそこそこ似てるところがあるのだとか、それは十年以上兄弟として過ごしたんだから当たり前だ。
「大丈夫、モテないから。モテたこと一度たりともないし」
「そうなんだ」
「そもそもシュウって男子校通いだったよね?」
「それじゃあモテてたら大変だね?」
「えっ、モテてたの……?」
「だから、モテたことないって!」
女子三人にいじめられてる。男子校でも男子にモテたことすらないから。そんな急なびっくりエピソードがつぐみの脳内で捏造されそうになっているところで、花音さんが急に水族館でデートしてたカップルの話をし始めた。もしかして体験談ですかとからかいたかったけど、またいじめられそうなので黙っておこう。いじめられなさそうなタイミングで茶化そう。
「それで、カレシの方がちょっと強引にキスしちゃって」
「うわうわ……大胆だ〜」
「カノジョさんも抵抗しないままで、しかも、結構ねっとり長めでさ」
「ひ、人いたんです……よね?」
──そんな仕返しのチャンスも内容が生々しすぎタイミングすら奪われた。ねっとり長めってことは舌とか入れてたのかな、洋画のキスシーンとかって結構目を覆いたくなるんだよな、なんとなく居心地悪くなる。あんなん人前とか明るい場所でするもんなのか!? みたいな気分になる。
「し、舌入るって……どういうのなのかな……?」
「な、なっ、なんで俺に訊いたんですかねつぐみさん……」
「だ、だって……」
これも花音さんのいたずらの一環なのか、つぐみの顔は真っ赤だ。しかも異性に問いかけられるのは余計に居心地が悪いんですけど、俺なんてまともなキスの経験すらないよ? 子どもの時に遊びで、なんてかわいらしくもませたエピソードすらないからね?
「と、ところでさ! みんなってファーストキスとかの経験はあるの?」
「なんでこのタイミングでそっちの話題に持ってこれるかな、ある意味天才だよひまり」
「私は弟かな」
「それ、回数にカウントされるんですか……?」
「入らないの? 私お兄ちゃんなんだけど」
ひまり、お前もか。きょうだいカウント入れるのアリでも俺の記憶では兄ちゃんとキスしたこともないんだけど、マジでファーストキスの牙城守ってる気がしてきた。すごいな、鉄壁だ。
「わたしは……こ、浩介、さんに……」
「えっ」
「それマジで言ってるのつぐ!?」
「え、えへへ……昔ね、中二の夏に……寝てるところに思わず」
思った以上に甘酸っぱいエピソードが飛び出してきて俺はイスからひっくり返りそうになっていた。中二ってことはまだ兄ちゃんが東京に来たばっかりの頃か。そんな前からつぐみは兄ちゃんに想いを寄せてたんだなぁ。ひまりもすごく興奮気味にそれでそれでと続きを催促していた。
「それでって、それ以上もないよっ、あの頃は浩介さんが好きだったから……つい」
「……ん?」
「どうしたの、シュウ?」
「いや……」
なんか、つぐみの言い方が変で、妙に引っかかってしまっていた。あの頃は? っていう言い方だとまるで今は違うみたいだなって。そんな疑問に気付いたのは花音さんで、まるで誰かさんに助け舟を出すように俺の疑問を言葉に変えた。
「あの頃って、ことは今は違うの?」
「はい、中二の時にそのまま振られちゃって……しばらくは引きずってたんですけど、中三の時にきっぱりと割り切りました……」
「そ、そうだったの!?」
「うん……って、わたし、もしかしてずっと好きだって思われてた……?」
「俺も、ひまりから言われてて」
「……そ、そうだったんだ──それで」
つぐみが俺とひまりを交互に見て、何かに納得したようなリアクションをした。何気ない会話から衝撃の事実が発覚した俺はそれの真意なんて考える暇もなくオロオロとしていて。
──俺にとって、全ての見方が変わるような、そんな感覚すら覚えて、でもそれは何も終わることではなく、むしろ全ての始まりであるように思えた。