1.
日本の地に足をつけるのは一体いつぶりだろうか。
そんなことを考えながら、私は旅客機から降りた。
ターミナルまでおよそ300メートルくらいかな。
キャリーバッグを受け取るまでに色々な広告を目にした。
中には化粧品だったり、新作映画だったりがあったけれど。
やはり1番興味を引いたのは、ラーメン。
新作のカップヌードルは後で食べよう、と思った。
ほぅと息を吐くと、隣のSP隊長が「いよいよですね」と。
うん。
キャリーバックを引く手が軽い。
それは物理的な意味ではなくて、もっと曖昧で情緒的な理由だったりする。
そうやって、私はどんどんと前に進んだ。
誰よりも早くセントラルゲートを抜けて、空港内特有の長くて平べったいエスカレーターに乗った。
右手側にすれ違うヒトは家族だったり恋人だったり。
誰もが幸せそうに見えるのである。
少しだけ、胸に高鳴りを覚えていた。
約束したフードコートで“彼”を待つ。
「ファイン!!!!!」
背後から男性の低い声がした。
それは、明らかに肉声だった。
治療期間中に聞いていた電話越しの音とは違う。
優しい“彼”の響き。
空気が震えるからこそ、声は温もりを帯びるのだ。
ゆっくりと振り返るには、あまりにも反射的だった。
──久しぶりだね。
「トレーナーさんだ!!」
何度だって会いたいと望んだ人が、そこに立って居た。
「待ってたよ」って顔をしながら、両手を広げて。
まるで待ち侘びているみたい。
早く私を捕まえて。
私はキャリーケースを置き去って、既に走っていた。
私服のスカートが、後ろにパタパタとなびいた。
彼の両腕がさらに広がったから、全力でその中に飛び込んだ。
勢いが強すぎて、そのまま後ろに押し倒したけれど。
一旦そのままで良いだろう。
愛おしくて仕方なかった胸板が、そこにあったのだ。
以前まで生えていなかった顎髭が、チクリと私のミミを刺した。
「おかえり」
トレーナーさんも立ちあがる気ないらしく。
それからずっと、背中に手を回し合っていた。
別れ際にされた強いハグとは違う、包み込むような抱擁。
彼のワイシャツの匂いが、身体の柔らかさが、嬉しい。
永遠に、こうしていたいとさえ思っていた。
「お疲れ様……」
その声が、震えていた。
今の私たちは、誰が見たって恥ずかしいようなカップルなハズだ。
でも隊長さんは、ただ静かに見守るのみで。
ハンカチをそっと目尻に当てていた。
「待っててくれてありがとう。これでやっと夫婦だね」
その発言を許されるまで、一体どれだけの時間を費やしたことか。
少なくとも、3年が経っていた。
でも、これからはずっと一緒だ。
数十年の長い付き合いだと考えてみる。
時には喧嘩をして、仲直りをするのだろう。
いつか私が立てなくなっても、彼が車椅子を押してくれるのだろう。
そう思い描くだけで、その3年間がちっぽけなモノに感じられた。
「はい。約束のやつ」
トレーナーさんがポケットから、一枚の葉を模したヘアピンを取り出した。
ガラス細工のように透き通った緑色を、私の茶毛に重ねていた。
そういえば。
──クローバーの髪留めは壊しちゃったもんね。
呪いのクローバーとは、もう決別したのだ。
「後これも渡してなかったよね」
「髪留めだけじゃないの?」
「ならこれは、指留めって言うのかな」
あまりにも自然過ぎて、気が付けなかった。
彼の両薬指に通されたリングが、銀色に光っていた。
右手のそれを私に移し変えてから、彼は「もう一度言わせて」と続けた。
「結婚して下さい」
「お願いしますなんて、言うまでもないよね?」
アハハ、国際問題だ。
彼はつまむようにして、何度もヒゲを梳いていた。
†
──「新婚旅行で行きたいところって、ある?」
──「うーんとね。もうめちゃくちゃに暑いところ!」
グアムを目指してプライベートジェットが離陸する。
プラベートジェットに乗ってから、ファーストクラスで見かけるような椅子に座った。
カーテンは閉めていた。
外の景色は雲ばかりで海が見えなかったのだ。
「何か飲む?」
「うーん。そうだな〜」
前の座席から机を引き出して、隊長さんにオレンジジュースを注文した。
コップは1つだけね、でもストローは2つ下さい。
彼から飲むまで待ってみる。
5分、10分。
まだ口をつけない。
氷の溶け水が、上澄みに透明な層を作っていた。
とても雰囲気なんて作れそうになかったから、わかりやすいGOサインを出そうと思った。
「ねぇねぇ、ハネムーンって何をするのかな?」
私がそう聞くと、彼は困ったような、期待するような。
わかりにくい顔をする。
ハネムーンは新婚旅行における“夜”のことだ。
何をするのかなんて聞かなくても、ね。
でも、それが私なりのサインなのだ。
「何しても良い?」
「良いよ」
そっか、と一言。
トレーナーさんは、やっとストローに口をつけた。
一口飲んでから、指先でピンと私の額を爪弾いた。
気が早いよ。
そうだね。
†
「わー、キレイ!!」
人生で初めて蒼い海を見た。
底に沈んだサンゴ礁が、道路越しにもハッキリとシルエットを見せている。
フナムシがカサカサと目の前を通り過ぎて、テトラポットの隙間に消えた。
石灰質の黄色い砂は、サンダルの隙間に挟まりやすい。
そうと知ったのも、今日が初めてのことだった。
ノースリーブの白シャツは、風通しが良いから好きだ。
足首まで隠れるスカートをヒラつかせながら、終点の見えない海岸線を歩く。
麦わら帽子が潮風にさらわれそうになって、右手でパッと押さえ込んだ。
日差しを帯びたその帽子は、激しい熱を持っていた。
「あづいよ〜……」
「今日の最高気温、39度らしいよ」
「うっそ〜?!」
グワムは明らかに、雪国生まれの私が選ぶべき場所ではなかったのだ。
でも気になるんだもん。
もっと色んなことを知りたいの。
初めて雑誌でここを指差した時、トレーナーさんは「ファインらしいな」と言っていた。
「私っぽいでしょ? 」
「……何が?」
「なんでもありませーん」
「え〜、教えてよ」
「じゃあ、追いつけたらね」
私はサンダルのままで、トコトコと3歩だけ前に出た。
忘れていた太陽が、カッと肌を照りつける。
「ちょっと待ってよ」って追いかけられたら、イジワルっぽく、また1歩だけ前に進む。
「追いつけないじゃん!!」
「いえ〜い! 私の勝ち〜」
そうやって勝ちを譲ってくれるの、優しいよね。
右手でピースサインを見せつけたら、トレーナーさんがその指を、ギュッと握ってくれた。
その2本繋ぎを5本に変えて。
恋人繋ぎってやつをした。
夏らしく、汗がうっすらと滲む手のひらが、互いにピタリと貼り合わさった。
恥ずかしいような嬉しいような。
途端に、何を喋るべきかがサッパリと分からなくなった。
波のさざめきだけが、ミミに残っていた。
会話もなく、ゆっくりと歩を進める。
暫く黙っていると、トレーナーさんの鼻歌が聞こえてきた。
曲名もリズムも分からないけれど、なんとなく混ざってみる。
彼がメロディーを辿っていたから、私はハミングで後を追う。
「今度は私が追いかける番だね」
「ちゃんと付いてこれる?」
歌のテンポが、少しだけ緩まった。
そういうところだよ。
本当に気が利いて、優しくて。
──大好き。
そうやって手を繋ぎながら、鼻歌を重ね合った。
ホテルに着くまでずっと、その手を離さなかった。
†
今日泊まるホテルはいつも通りに、五つ星を誇っていた。
夜になったら光るだろうと検討のつくライトアップ
フロント前から見上げたら、背中を仰け反るような高層。
部屋だって、普段のホテルと大差はないハズなのに。
確かにそこが、この世で最も美しい場所だと感じていた。
私服の下に緑色のビキニを着てビーチに向かった。
私はスペちゃんの水着衣装みたいな、フリフリの付いたやつで勝負を仕掛ける。
──新婚旅行ってことで、攻めてみました。
でもトレーナーさんは。
「可愛すぎて目立つからコレ着とけ」だってさ。
上着をくれた。
嬉しいけど嬉しくない、やっぱり嬉しい。
沿岸部ともなれば、やはり人が多かった。
海岸に近づくにつれて、出店の数が増えた。
泳ぐ前の腹ごしらえ。
チャモロ語が読めなくて、何を売っているのかの判断はできなかった。
でも恐らく、それは焼きそばだった。
焼きそばとは言えども、香りが独特で。
隊長さんが「毒味をします」とか言った。
ナンプラーの魚くささを危険に感じたのかな?
知らないもんね、とパクリ。
隊長さんから「ヒィ──」と金切り声のような声がした。
飲み込んでから、グッと親指を立てたら。
「いけません!!!」
って怒られた。
でも多分大丈夫だよ?
割り箸で一口分を掴んで、彼女の口元に押し込んだ。
隊長さんは飲み込んでからフゥと胸を撫で下ろしていた。
後2つください。
それが「大丈夫」の合図になった。
そうやって新しいことを知る。
今日は新たな味を開拓した。
きっとこれからも、色々な未知に挑戦するのだろう。
2.
蜜月の香る夜だった。
映画のスクリーンのような窓ガラスに、満月が透けている。
まるで微笑んでいるみたい。
エアコンから漏れる冷気が、焦茶色のカーテンをヒラヒラと揺らす。
窓に掌を貼り合わせてみると、おぼろげに熱を奪われた。
なんとも涼しげ匂い見えるアンティーク。
木製家具の色調がブラックブラウンに統一されている。
それはソファだったり机だったり。
ウッドランプから漏れるオレンジ色の灯りが、夕焼けみたいに、ボンヤリと辺りを照らす。
その中で唯一ダブルベッドだけが、純白を残していた。
ギシリと軋んだのは、2人で座ったからだった。
「やっとだね」
「うん」
そろそろシンデレラが帰城する時間。
ここが私にとってのお城だから、帰る必要なんてないけれど。
鐘の代わりに、私の心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
トレーナーさんに聴こえているのではないだろうか。
頬に火照りさえ覚えていた。
誤魔化さないと、いつか伝わってしまいそう。
「病院でした約束、覚えてる?」
「子供ができたら名前に必ず『葉』を入れるって約束なら」
「それそれ。ウマ娘として授かったら『リーフ』」
「そしたら『リーフ・モーション』になるのか」
「どうしたのそんな感慨深い顔しちゃって〜。今からお父さんになるんだよ?」
「いやー、長かったなって思ってさ」
本当に長かった。
そして辛かった。
彼に聞かれたわけでもなく、私は自然と闘病中の話をした。
ホルモンバランスを安定させるために、色々な薬を試したこと。
代謝をコントロールするってことは、拒絶反応が出るわけで。
その度、高熱に見舞われてずっと床に伏せていたこと。
──初めて身体に合ったお薬を見つけた時なんてね、もうずっとお屋敷の中を走り回ってたんだ。
お医者さんがその薬のリスクについて、小難しい漢字の羅列を使って説明していたけれど。
私は、それが意志の確認であると分かっていた。
治療に成功するか失敗するかの話ではなくて。
覚悟が有るか、無いか。
そう理解した。
私は「アハハ」と笑って、続けた。
「こんな辛気臭い話、ここでするべきじゃなかったね」
「そんなことない」
トレーナーさんはそう言って、私を押し倒した。
2人用の長い枕に、頭が吸い込まれた。
フカフカとした感触に跳ね返されて、後ろ髪を止めるリボンが少しだけ、緩んだ。
「笑っちゃダメだ」
「うん」
私が鼻を啜ったから、偉い偉いと頭を撫でられた。
トレーナーさんも、鼻をズルズルと鳴らしていた。
──おいで。
撫でられた手がリボンに触れた。
シュルリと解けて、やがて一本に。
彼は崩れた私の後ろ髪を指で梳いた。
私がワイシャツのボタンに指をかけると、彼はネクタイを緩めた。
──あと少しだけ、心の準備をさせてよ。
「初めての時みたいに前髪モシャモシャしなくて良いの?」
「うん大丈夫。もう恥ずかしくないからさ」
私の目をジッと見つめて、彼はそう言った。
違うよ。
恥ずかしいのは。
「じゃあ、私がしまーす」
掻き分けた彼の黒髪が甘く香る。
その余韻をラベンダーだと識別できた。
それは私が使うシャンプーの香りと一緒だったからで。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「本当に、嘘みたい」
私達がいつか子を成したとして。
その子に「名前の由来はこの葉っぱなんだよ」と説明できたなら、なんて幸せなのだろう。
大葉の髪留めを外してから、私達は唇を重ね合った。
1秒にも満たないキスを交わして、次に5秒。
また1秒。
歯磨き粉のミントが混ざり合う中で、私は夜空に浮かぶ月を見直した。
満月はそこにあるだけで、疑いようもなく美しいのだから魅入ってしまう。
然るべくして目尻に熱を感じていた。
涙を溜めた私は、満月よりも満ちていた。
今日はいっぱい愛してね。
†
──「ねぇママ。パパのこと、すき?」
「大好きだよ。もちろん“リーフ”のことも」
「きしゃま〜」
同じセリフで、笑っていた。
ファインモーションの劣等‐fin-
読了ありがとうございました。コメント頂けると嬉しいです。