シドの国   作:×90

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156話 ゲームセット

〜診堂クリニック 第三診堂総合病院 カジノバー“ 兎ノ鹿蝶(うのしかちょう)”〜

 

「賭け金は2。山札の上から42枚をオープン。43枚目をキープ。……ニクジマさん。あなたの負けです」

 

 臓器ギャンブル”ダークネス・ポーカー“四回戦。シスターは見事ジョーカーの位置を言い当て、出目39を獲得。これにより、後攻のニクジマは何の札を選んでも倍の出目で敗北。総賭け金の倍になるよう、5つの臓器を支払わなくてはならない。

 

 レシャロワークが山札を(めく)ると、確かにシスターが指定した場所からはジョーカーの札が出てきた。

 

「こ、こ、こ、こ」

 

 ニクジマは握り拳を震わせ、乱れる呼吸を必死に抑え込んでから大きく叫ぶ。

 

「こぉぉぉおの塵屑(ゴミクズ)がぁぁあああっ!!! 何が”負け“だっ!!! たった一回!!! たった一回のく〜っだらない上がりでっ!!! つけ上がるなこの犯罪者がっ!!! 第一にっ!!! お前にはとっくに(ろく)な臓器は残っていない(はず)だっ!!!」

 

 そう言ってシスターが先程レシャロワークに提出した白い箱を奪い取ると、すぐさま蓋を開けて中身を(あらた)める。

 

「……っ!? な、何だいこりゃぁ……!!!」

 

 そこには、握り拳程の大きさの肉塊が2つ。

 

「じ、腎、臓……!?」

 

 ありえない。既にハピネスの腎臓は2つ摘出されており、シスターの腎臓もひとつ抜かれている。では、この2つの腎臓は一体誰の物だろうか。視線を感じたニクジマがバッと顔を上げると、シスターの奥でハピネスが力無くピースサインをしているのが見えた。口を開く気力もない彼女に代わって、シスターが血反吐と共に言葉を吐き出す。

 

「重複腎。世界には、ごく稀に“腎臓を3つ以上持って生まれてくる人がいます”。まあ、ハピネスさんのように正常な状態の腎臓を4つも持っている人は例外中の例外でしょうけど」

 

 それを聞くと、ニクジマはレシャロワークを鋭く睨みつける。

 

「お前っ……!! 知ってて黙ってたのかい……!!!」

「サ、サーセン……」

 

 レシャロワークがハピネスの2回目の手術に立ち会った時に目にした“モノ”。それは、腎臓がひとつ摘出されている筈のハピネスの3つの腎臓であった。世にも珍しい重複腎。しかし、真に奇妙なのは2人の行動。折角余分な臓器が2つもあるのに。シスターは初手でハピネスの胃袋と肝小腸と腎臓を賭け金として提出した。これが示す意味。それは、いずれ訪れる起死回生の一手の創造。腹を裂いて血反吐を撒き散らして、針の(むしろ)を渡り切った先にある反撃の刃。しかし――――――――

 

 

「ま、いいだろう。どうせこんなモノ、何の役にも立ちゃしない……!!!」

 

 ニクジマは腎臓をシスターに返すと、レシャロワークが持ってきた新しい臓器ケースを3箱、シスターの方へ蹴飛ばして差し出す。

 

「たった一回の勝利で、なぁにを調子に乗っている? カードの位置がわかったから何だ? 覗き見だろうが未来予知だろうが……その程度のイカサマ、このゲームじゃ土俵に立つ最低条件に過ぎない!! 次はオールインだ……!! 支払う額は総賭け金の倍っ!! 防いで見せろよペテン師がっ!!」

 

 しかし、シスターは受け取った臓器ケースの中身を少し覗いただけで、それを丁寧にニクジマに差し出した。

 

「受け取れません」

「…………ああ!?」

 

 再びニクジマの頭に血が昇り、それでも冷静さを保って貧乏揺すりと共に言い返す。

 

「構やしないが……支払いは義務だが受領は義務じゃない。私が支払い行為を済ませれば、“支払った“という事実は達成される。契約魔法による縛りは受けない」

「いえ、そういう意味ではありません」

「……ごちゃごちゃうるさい奴だな……!! じゃあどういう意味だって言うんだいっ!?」

「これは飽く(まで)も、私個人の見立てに過ぎないのですが……。この臓器――――」

 

 

 

 

 

旋毛虫(せんもうちゅう)に感染しています」

 

 

 

 

 

旋毛虫(せんもうちゅう)……?」

「主に哺乳類を中心に寄生し、何の宿主も終宿主とする。トリキネラ属に分類される寄生虫の一種です。確か、ルールにこうありましたよね」

 

 “ ゲーム中に扱われる臓器は全て“診堂クリニックの法律上移植可能な健康な臓器”でなければならない。”

 

「寄生虫に感染している臓器は、法律上でも、健康上でも、移植可能とは言えないのではありませんか?」

「そ、そんな……っ……ばっ……」

 

 ニクジマが声を震わせる。それは地震の予兆のように静かで、直後に巨大な本震を爆発させた。

 

「〜っ馬ぁ鹿言ってんじゃねぇよっ!!! こりゃあ隔離してるガキ共の臓器(モツ)だっ!!! 外に置いてきたあのラプー(デブ)も見張ってる!!! そんな虫籠の中で、どうやったら寄生虫なんかに感染――――」

 

 ニクジマは激昂の最中に気が付いて言葉を止めた。そう言えば、シスター達を案内する時に、彼はガラスケースに近づいている。もしかしたらその一瞬のうちに、彼は遺児に何か細工をしたのかも知れない。(たる)いっぱいのワインに、一匙(ひとさじ)の汚水を加えれば、それは樽いっぱいの汚水になる。大量のドナー。その内1人だけが寄生虫に感染しているとしたら、それの他の遺児達は果たして“臓器移植に適した安全なドナー”と呼べるだろうか。

 

 ニクジマは急いで電子パッドを取り出し、遺児のバイタルチェック画面を呼び出す。表示はオールグリーン。健康面に問題無し。しかし、寄生虫を保有しているかどうかまでの判別は出来ない。

 

「おいレシャロワーク!! ちゃんとガキ共全員見てきたんだろうな!?」

「いやぁ〜大体はサラッと見ましたけどぉ、全部は無理ですよぉ」

「な、に、を、ふざけたこと抜かしてるっ!!! すぐに全員検査しろっ!!! 片っ端から抗体検査だっ!!!」

 

 ニクジマは声を張り上げつつも、レシャロワークの行動が今回の結末に影響していないことは理解している。レシャロワークが遺児の異変を報告していようが、寄生虫の検査など行わない。重複腎の存在を知っていたとしても、勝負を降りたりもしない。全ては、起こるべくして起きている。

 

 と、その時、ニクジマの持っていた電子パッドが短い電子音と共に黄色い正方形を映し出す。

 

 No.113。バイタル異常。

 

「ははっ……ははははっ……」

 

 映し出された文字を見たニクジマは勝利を確信し、発作のように笑って狂喜する。

 

「あーっはっはっはっは!!! 見つけた!!! 見つけたっ!!! コイツだ!!! コイツがお前の細工したガキだろう!!! ツいてなかったなぁこのクソ間抜けがっ!!!」

 

 メイン通路に面した、入り口から数えて13番目のガラスケース。丁度、シスターが見ていた遺児の場所。No.113個体の排泄物異常をバイタルチェッカーが検知した。

 

「おいレシャロワーク!!! 検査だっ!!! この際解体(バラ)してもいい!!! そのガキから1匹でも寄生虫が出ればっ!!! 追加で持ってきた臓器の安全性は保証されるっ!!! あーっはっはっはっは!!! この勝負!!! 私の勝ちだっ!!!」

 

 意気揚々と指示を出すニクジマ。しかし、レシャロワークは動かない。それどころか、難しそうな顔をしながら首筋を引っ掻いてニクジマを見つめている。

 

「おいっ!! レシャロワーク!? 何をボサっとしているっ!!! さっさとあのガキを調べるんだよっ!!!」

「……へ〜い」

 

 レシャロワークは依然として困り果てていたが、ニクジマに逆らえず(きびす)を返して外へと出ていった。それを見送ると、ニクジマは勝ち誇ったような顔で哀しげに俯くシスターを見やる。

 

「くっくっくっくっく……!! 残念だったなぁ屑が……!! お前みたいな敗北者は、どうせ何も成し得ない……!!! 焦って、苦しんで、藻搔(もが)いて、省みて、天に祈りを捧げたところで……全ては後の祭りだ!! 天の導きには抗えないっ!!!」

 

 

 

 

 

 

「はははっ」

 

 部屋の隅から、あどけない失笑が転がってきた。声の方にニクジマが目を向けると、血塗れのハピネスが楽しそうに腹を抱えて笑っていた。

 

「いやあ面白い。大変良いものを見させてもらった。腹を切った甲斐があったよ」

「……何が面白い? 臓器(モツ)と一緒に脳味噌まで持って行かれたのか?」

「そう言う貴方は脳味噌を足してもらった方がいい。そんな弱い頭じゃ、標本にだってなりはしないだろうよ」

 

 ハピネスは大きく咳き込んで血を吐くと、タオルで口を拭ってニクジマに微笑みかける。

 

「ニクジマ・トギ。お前、ずっと勘違いしてるよ」

「何をだ」

「全部。全部だよ。何もかも。当たってることが一つもない。(むし)ろ、ここまで真逆を選べるってのが不思議だよ。もしかして全部分かってやってる?」

「負け惜しみなら死んだ後で聞いてやる!! 死に損ないは黙っていろ!!」

「まずさ、何で疑わないの? シスター君が“旋毛虫(せんもうちゅう)に感染してる“って言った時」

「ぁあ!? 疑ったから調べてるんだろうが!!」

「違う違う。”何で態々(わざわざ)寄生虫の種類まで言ってくれたのか“って話」

 

 見下すようなハピネスの指摘に、ニクジマの表情筋がほんの少しだけ弛緩する。

 

「詳しくは知らないけどさ、毒の検査とかウイルスの検査とかって、何の毒に侵されているのか、何のウイルスに感染しているのかを調べるのが厄介なんじゃないの? アニサキスとピロリ菌とかって対処法違うんじゃない? だからさ、シスター君が病気の原因を“旋毛虫(せんもうちゅう)”って教えてくれなかったら、特定作業がまず難しいんじゃないの?」

 

 当然の指摘。ニクジマの心の奥底に、小さな小さな肯定が芽を出す。

 

 私は、間違えたのか?

 

「ニクジマさん」

 

 シスターがニクジマの名を呼ぶ。その顔は、今まで時折見せていた“あの”表情。()ねているような、不貞腐(ふてくさ)れているような、哀しげな目。楽しみにしていた旅行が、雨で中止になってしまったかのような。不満げな顔。

 

「なんだい……勝手に憐れむな……!! その顔をやめろっ!!」

「ニクジマさん。貴方の敗因は、私のことをギャンブラーだと思ってしまったことです」

 

 シスターはぽつりぽつりと懺悔(ざんげ)するように語り始める。

 

「貴方はこのゲーム、ダークネス・ポーカーをギャンブルと形容しました。でも、こんなイカサマと穴だらけのゲーム。到底ギャンブルとは呼べません。本物のギャンブラーは挑戦なんかしないでしょうし、参加する人はただの賭博好きだけです。貴方は今まで多くのギャンブラーを()じ伏せてきたと思ってるかも知れませんが、事実まるでその逆。素人を一方的にルールで蹴散らしてきた普通の悪党です」

「何を知った口を……!!」

「分かりますよ。だって貴方は、私のことを見なかったじゃありませんか」

「何だと?」

「私の態度を勝手に怪しんで、自分だったらどうするかなんてことばかり考えて、私という人間を勝手に恐れて大きく見て、勝手に悪手だの罠だのを警戒して、一人相撲もいいところではありませんか」

「それがお前の狙いだろう? 逃げるフリをして、残念がるフリをして、私の隙を刺そうと踊ってみせた!!」

「逆です。私はずっと、本当に逃げようと思っていましたし、貴方の選択を残念がっていました」

「さっきから何を訳のわからないことを……!!」

「私はずっと、貴方に助かって欲しかったんです」

「……はぁ!?」

「貴方を懲らしめようと思い参加したのは事実です。でも、私刑なんて(おぞ)ましい行為に中々決心がつきませんでした。だから、何度も貴方に助かる道を提示しました。もし貴方が私を殺す手を一度でも止めていれば、私は貴方を人道的に裁くだけに留めるつもりでした」

「負け惜しみも大概に――――」

「でも貴方はここまで来てしまった。逃げる私を追いかけ、追い詰め、私を完封するためにジョーカーを(わざ)と素通りした。自らの足で、ここまで来てしまった」

 

 その時、丁度レシャロワークが部屋に戻ってきた。彼女は険しい表情のままニクジマに近づき、検査結果が書かれた報告書を手渡す。

 

「検査結果でぇす。普通に腹裂いたら虫がいたんで、種類だけ調べて書いておきましたぁ」

 

 ニクジマは報告書を受けとり、内容に目を通す。鮮明な旋毛虫(せんもうちゅう)の写真と、種類が記載された文面。予想通り、期待通りの報告書。しかし、今ニクジマを支配しているのは想像とは全く真逆の感情。感染の証明はシスターの予想通りでもある。ならば、この先に何か大きな落とし穴がある。それが何なのか、ニクジマには予想もつかない。

 

 シスターが椅子に座ったままレシャロワークを見上げると、彼女は小さく溜息を吐いてから事実を伝える。

 

「……と言うわけでぇ、ニクジマさん。遺児の寄生虫感染が認められたのでぇ。”この遺児安置所は封鎖“することになりましたぁ」

「………………ぁ?」

 

 ニクジマの思考が止まる。

 

「隔離された子供のうちぃ、一人が寄生虫に感染ってことはぁ、他の子も感染してるかも知れないじゃぁないですかぁ」

「な、な、ななななんっなんでっ」

「だって隔離施設ですよぉ? なら疑うべき原因は、点滴とかぁ、投薬システムじゃないですかぁ。それ、同じやつ全部の子供に使ってるわけですしぃ」

「ここここコイツがっ!!! コイツが仕組んだ虫だろうがっ!!! システムは関係ないだろうっ!!!」

 

 動揺と混乱で取り乱すニクジマに、シスターが静かに指摘をする。

 

「私は何もしてませんよ。ただ、”飽く迄も私個人の見立て“と言った筈です」

「何を白々しいことをっ……!!!」

「じゃあ裁判でもやりますか? 警察と鑑識を呼んで? 違法賭博で子供をチップに使ってたら細工されて負けそうだから、犯罪を立証してくれって?」

 

 レシャロワークが小さく失笑して反論する。

 

「ありえないですねぇ。仮にそれが通って立証されたとしてもぉ、安置所の封鎖は決定事項ですよぉ。万が一他のも寄生虫に感染してたら、臓器使った患者からとんでもない訴訟が飛んできまぁす。鳥インフルが流行った鶏舎を封鎖するのと一緒ですねぇ」

「だそうですよニクジマさん」

 

 ニクジマは全身を震わせたまま動かない。彼女は全て分かってしまった。理解してしまった。自分が立っている場所が、どこなのかを。それに追い打ちをかけるように、レシャロワークが言い放つ。

 

「というわけなんでぇ、自分がさっき持ってきた追加の臓器は全部廃棄でぇす」

 

 ニクジマは最後の希望に(すが)るように、ハピネスの臓器が入っている容器に手を伸ばす。今までゲームに使っていたこれなら、賭け金を支払える。まだ戦える。まだシスターを殺せる。しかし――――

 

「ニクジマさん。貴方はこのゲームに精通しているようで、実のところ何も知らない。普通は、相手に渡した臓器なんて再利用させないんじゃないですか?」

 

 ハピネスの腎臓と、大腸と、肝小腸が浮かぶ培養液。その端っこに、薄い半透明の物体が浮かんでいる。それは、小さい卵の形をしたオブラートであり、“中から何かが這い出たような穴”が空いていた。

 

「〜〜〜〜〜〜っ!!!」

 

 バカラテーブルから臓器ケースが転がり、中身が床に零れ落ちる。シスターはゆっくりと立ち上がってニクジマに近づき声をかける。

 

「今のニクジマさんの手持ちの臓器は、賭け金として出したひとつと、さっき出さなかったひとつだけ……。清算にはあと5つ足りませんが、どうされますか?」

「ひっ……ひっ――――!!」

 

 椅子から転げ落ちるニクジマを、シスターが重い足取りで追い詰める。

 

「両目で良ければすぐに摘出()れますが、他は消化器官とかでも構いませんよ。あ、でもニクジマさんの年齢だと、渡せる臓器が限られていそうですね」

「や、ややっ、やめっ」

「安心して下さい。私も、あと一回くらいなら執刀出来そうです。ただ……見ての通りの瀕死ですので、“ある程度の医療ミス”は目を(つむ)っていただきたく思います。もしかしたら、一生寝たきりとかになってしまうでしょうね」

「やめろっ……やめろっ……!!」

「でも不安がることはありません。ここは医療大国“診堂クリニック”。例え食事もトイレも1人でできなくなったって、生きていくことはできますよ」

「ふざけるなっ……! 嫌だっ……!! 嫌だっ……!!!」

「ほら、早く決心して下さい。じゃないと、私が失血死してしまいます。契約魔法のルールでは、支払いまでが義務でしょう? 私が死んだら、義務を果たせませんよ。ほら、早く」

「クソっ、クソっ……!! 殺すっ……!!! 絶対に、殺してやるっ……!!!」

「ほら、負けたんだから、大人しくして下さい」

 

 シスターの手がニクジマの首筋へと伸びていく。その指先が触れた瞬間、ニクジマは意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜診堂クリニック 介護付き老人ホーム”ハートホーム 徒守(あだがみ)

 

「おはようございます! ムラサビおばあちゃん、朝ですよ〜!」

 

 彼女の名前はセンテイファ。介護福祉士2年目の、少しドジな女性職員である。今日も彼女は、半年前からこの施設に預けられている老人“ムラサビ”の世話をしに来ていた。

 

「あ! おばあちゃん見て! 鳥が巣を作ってますよ! 可愛いですねぇ〜!」

 

 センテイファは明るく振る舞ってムラサビに話しかける。しかし、ムラサビは虚な目で(うつむ)いたまま何も言わない。聞けば、この老人は身寄りもないままこの福祉施設に預けられてきたのだと言う。担当医師(いわ)く、健康面は問題ないが重度の認知症、もしくは“記憶喪失”だと言う。そのせいで、立って歩くことや、物を食べること。排泄の我慢も難しいという。出身も不明、関係者も不明、名前すら分からなかったため、ムラサビと言う名も仮名である。ただ時折、譫言(うわごと)のように“許さない”とか“殺してやる”などと物騒な言葉を呟いているので、恐らくは酷い差別を受けて暮らしてきたのではないかと思われている。

 

 そこでセンテイファは、ムラサビの世話を自ら志願した。センテイファはお世辞にも優秀とは言えない人間だが、情熱だけは人一倍強かった。ムラサビが酷い仕打ちを受けて生きてきたのなら、その心を癒してあげたい。寄り添ってあげたいという、センテイファの優しさと強さによる申し出だった。

 

「じゃあ身体を拭いて行きますね〜。っと、あららららっ!?」

 

 センテイファがムラサビに寝返りをうたせると、臀部(でんぶ)付近に大きな染みがついていることに気がついた。

 

「あちゃぁ〜! ごめんなさいっ! 昨晩トイレ行けてませんでした!? ごめんなさい〜!」

 

 それでもセンテイファはムラサビを責めることなく、自分の手が汚れることも(いと)わずに掃除を始める。勤勉で、努力熱心な真人間。ムラサビは、センテイファに下着を脱がされると静かに涙を溢した。

 

「おばあちゃんごめんなさい〜! すぐに終わりますからね〜!」

 

 センテイファは慣れた手つきで汚物を拭き取り、ベッドを掃除するためにムラサビを車椅子に乗せる。すると、抱き上げた時ムラサビがぼそぼそと呟いた。

 

「……ろす」

「はい? おばあちゃん何ですか?」

「殺す……殺して、やる……」

 

 センテイファは一瞬ビクッとするも、すぐに優しくムラサビを抱き締めて撫でた。

 

「大丈夫ですよおばあちゃん。私がいます。私は絶対におばあちゃんの味方ですからね」

 

 献身的なセンテイファの介護に、ムラサビは涙を目に溜めたまま再び呟く。しかし、呂律(ろれつ)の回らぬ口ではそれが言葉となることはなかった。

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