2022年 春 某県都市、甲丸市にて
人々で賑わう大通り、そこから少し離れた路地を少女が駆けていた。歳の頃10代後半といったところ、美しい黒髪をたなびかせ、その美貌を苦しげに歪ませている。なぜ逃げているのか? 鬼ごっこ? 答えは否。
「サッサと諦めろ!」
「はぁ……はぁ……イヤよ!」
そう、彼女は何者かに追われていた。鬼ごっこのような遊びではなく、明確に害意を持った相手から。その上、少女の走ったあとには赤いモノが点々と続いている。ケガをしているのだ。
血を流していても、未だ彼女には走りながら追跡者に言い返す体力が残っている。しかし、相手は屈強な男な上、負傷はしていない。本来なら、少女の力でも撃退することは容易なのだが、今の彼女にそこまでの力は残されていなかった。
このままではいずれ追いつかれ、捕まってしまう。その事実が少女を焦らせていた。なんとか人混みに紛れるなりできればどうにか撒けるかもしれないが、運悪くこの路地は人通りが少なく、他の策を考える余裕もなかった。
「この……いい加減に、しろッ!」
なんとか少女が男を振り切ろうと何度目かの曲がり角を曲がったところ、ついに痺れを切らしたらしい男が右腕を水平に振るうような動作を行う。すると、その手の爪が急激に伸長、数十センチもの長さとなった。そして指を少女に向けて指差すように構えるとバシュッと音を立てて爪を射出、5本発射された爪のうち2本が少女の背に勢いよく突き刺さった。その衝撃で倒れ込む少女。
「うあっ……」
「ようやくか、手間かけさせやがる」
それでもなんとか這いずって逃げようとする少女に向かって、今度は左の爪を伸ばしてわざとゆっくり振りかぶる。誰がどう見ても絶体絶命のピンチで、次の瞬間には5枚に卸されてしまうかに思われた。
「何やってんだテメェ!」
ゴッ! と人体から鳴ってはいけないような音を立てながら男は吹き飛ばされていった。男の後ろから駆けてきた青年が、とんでもない威力の飛び回し蹴りを喰らわせたのだ。
蹴り飛ばした男には目もくれず、青年は血を流す少女に駆け寄る。専門的な医療知識のない彼から見ても彼女の傷はかなりの重症、あるいは致命傷と言っても良いほどに見えた。
「おい! 大丈夫……じゃねえな、これ。クソ、とりあえず止血を……」
「う……あ……」
「意識があるのか!? もう一度言ってくれ!」
何事かを掠れた声で話そうとする少女の声を聞くため、青年が耳を口元に近づけようとした、ときだった。
「んむっ……!?」
なんと、傷ついた少女が青年に口づけをした。口内に広がる血の味、それを感じたと思うとこんどはガリッという音と唇に鋭い痛み。どうやら唇を噛みちぎられたようだ。
「っぷは、何しやが……? なんだ、これは……?」
解放された青年が文句を言おうと口を開いた直後、青年と少女、二人を光が包んだ。青年はジェットコースターのような状況の変化についていけず、ただ混乱するだけである。
光が消えたそこにいたのは、青年と致命傷を負った少女……ではなく、なんの傷もない少女だった。
「ふぅ、死ぬかと思ったわ。よくもやってくれたわねコイツ!」
先程までの青息吐息は何だったのか、しっかりと己の足で立ち上がった少女は先程蹴り飛ばされて気絶している男に向かって歩み寄って。
口から炎を吐いてその体を焼き尽くそうとした。
「チッ、帰還術式ね。ご苦労なことだわ」
黒焦げになるかと思われた男が光の粒子となって消えていくのをみて、少女は悪態をつく。そして、
「ごめんなさい。助けてもらったところ申し訳ないのだけど、もう一度助けてもらって構わないかしら?」
青年に向き直ると、しっかりと90度の角度で頭を下げたあとそう言った。
「内容による」
「ここではちょっと……。少し落ち着いて話ができるところで」
「ま、いいぜ。場所に心当たりはある。こっちも聞きたいこといくつかあるしな」
そう言うと、青年はついてこいよ、と言いつつ振り返って歩き出した。少女はそんな青年に追従しつつ問いかける。
「そういえば、あなたの名前は?」
「そういうお前はなんていうんだよ? 俺は……」
「私は……」
「祈龍。野上祈龍だ」
「マナ。そう呼んで」
二人は互いに自己紹介をする。この二人の出会いがどのような物語の始まりなのか、今は誰も知らなかった。
「落ち着いて話ができる場所」として祈龍が案内したのは、少し歩いたところにある喫茶店だった。
「定休日」の札が掛かっている扉の鍵を開け、マナを店内に招き入れる。
「定休日なのではないの?」
「俺、ここの二階に住んでんだわ。戸締まり任されてんの」
店内はさほど広いわけではないが、穏やかな良い雰囲気が漂っている。確かに落ち着いて話すことができるだろう。
祈龍はテーブル席のひとつにどっかりと腰を下ろすと、マナに着席を促した。それに従って祈龍の向かいに座り、本題の用件について話し始めた。
「それで、頼みたいことというのが───」
「私を、匿ってほしい、ということなの」
神妙な様子で話す彼女によると、自分はこの地球とは違う世界の者である。理由は分からないが命を狙われているので逃げてきたが、身の着のままで逃げてきたのでどこかに匿ってほしかった、とのこと。
怪しい。祈龍はおそらく理由は「わからない」のではなく「話せない」のだろうと感じた。なんの根拠もない、ただの直感だが。しかし、どちらにせよ彼の意見はひとつだった。
「匿うことについては、おっちゃん──ここの店長に聞いてみねえとわからねえな」
「……そう」
「けどな、どう話が転がろうと、俺はお前のこと助ける。追われてるんだろ?」
一見すればマナに対して同情や下心を抱いての言動だが、それだけではなかった。祈龍自身にとっても彼女との縁を切りたくない理由があるのだ。
「……ありがとう」
「礼はいらねえよ。じゃ、ちょっと電話してくる」
祈龍はそう言って立ち上がると、店の奥にある居住スペースへ繋がる階段の方へと歩いて行った。
残されたマナは、改めて店内を見回す。カウンターには小さな観葉植物が置かれていて、壁に掛けられた時計の針の音だけが響く店内はとても静かだ。
しばらくすると、祈龍が戻ってきた。
「なぁ、コーヒー飲む?」
「……コーヒー、とは?」
「えーっと、豆を煎じて作る飲み物だよ。お前も飲めるか?」
「わからないわ」
「そっか。まあとりあえず飲んでみな」
祈龍はそう言うと、キッチンのほうへと向かった。しばらくして、彼は湯気の立つカップを持って戻ってくる。
マナの前に差し出されたそれは、黒い液体が入っていた。祈龍は自分の分のコーヒーを飲みながら、口を開く。
「さっき連絡したら、今から来るってさ」
「……ごめんなさい。こんな急に押しかけてしまって」
「気にすんなって」
「……」
「?」
マナが何か言いたげにしていることに気づき、祈龍は首を傾げる。
「どうかしたか?」
「あなた、どうして私を助けてくれるの? 見ず知らずの私のために……」
「ああ、そのことね。簡単な話だ」
そこで一度コーヒーを啜り、一拍置いてから祈龍はこう言った。
「俺な、探してる奴がいんだよ」
「それがどうして……まさか」
「そう。俺が探してんの、お前と同族かもしれねえ」
マナの顔が驚きに染まる。しかし納得することもあった。尋常ならざるものの存在を知っていたからこそ、自分の言うことを疑わなかったのだろう、と。
そんな彼女をよそに、祈龍は話を続けた。
祈龍はとある人物を探している。数年前、彼の家族を奪った騎士を。
当時祈龍が暮らしていた街では、奇妙な噂が流れていた。
夜になると鎧姿の怪人が現れて暴れ回り、人々を恐怖させている、というものだ。
初めは祈龍自身も、ただの噂だと思っていた。しかし、祈龍の家族……両親や妹を奪われ、彼自身にも消えない傷痕をつけられてからは、信じざるを得なくなっていた。
もちろん、噂になっていても具体的な目撃情報のない相手など、一介の高校生に見つけられる訳もなかったし、様々な要因によって叔父────彼のいうおっちゃん────に引き取られたと同時に街を去ってしまったため、探しようがなかったのだが。
しかし、マナと出会ったことで状況が変わった。彼女が地球人ではないとしたら、あるいは──と考えたのだ。
「つまり、あなたは復讐をするために私を助けた、ということかしら」
「まぁ、そういう気がないとは言わないが……でも、それだけじゃないぜ」
「?」
「俺は、お前に生きててほしいんだ。もう誰も、あいつらの犠牲にさせない……!」
祈龍の言葉を聞いたマナは少しだけ目を丸くしたあと、くすりと笑った。
「あなたは優しい人ね」
「……何がおかしいんだよ」
「いえ、なんでもないわ」
マナは祈龍に微笑みかけると手元のカップの中身をゆっくりと口に含む。目を閉じて少し味わった……が、少々顔を顰める。
「……少し、苦いわね」
「そうだな。でも、慣れると美味いんだぜ」
「そう。……なら、楽しみにしてるわ」
それから数分後。
祈龍は、マナと共にある男と対面していた。男は壮年で、白髪交じりの黒髪を短く整えている。祈龍より頭ひとつ分程大きい長身で、体格はかなり良い。
「悪いな、おっちゃん。相談って言うのはさ、この娘についてなんだ」
「なるほどなぁ……訳ありか?」
「まあ、そうだな」
祈龍の説明を聞いて、店長はマナの顔をじっと見つめる。その鋭い眼光はすべてを見透かすようで、マナは居心地悪そうに視線を逸らした。
「そうか……。いや、確かに訳ありなのは見てわかるが」
「いろいろあってさ。ちょっと放っとけなくてよ」
「ふむ」
祈龍の言葉に店長は小さくうなずくと、今度はマナのほうへ向き直って口を開いた。
「嬢ちゃん、名前は?」
「……マナ」
「歳は?」
「15」
「そうか。俺は荒野樹。祈龍の叔父だ」
そう名乗った男はそう言ってニカっと笑う。先程の鋭利な雰囲気が嘘のように、柔らかく優しい雰囲気だった。
「祈龍から話は聞いたぞ。追われてるらしいじゃねえか」
「ええ」
「まあ、詳しいことは聞かねぇけどよ。とりあえず、ここに匿うことはできると思うぜ」
「マジか!?」「本当!?」
「おう」
祈龍とマナの声が重なる。樹は親指を立てて答えた。
「それにしても、まさかあの祈龍に女の子の知り合いができるとはなぁ……」
「それどういう意味だよ」
「そのままの意味だろ。お前、彼女どころか女友達すらいなかっただろうが」
「ぐっ……そ、そんなことねえって」
祈龍が言葉に詰まるのを見て、マナは思わず吹き出しそうになる。それをなんとか堪えている間に、話題は次のものへと移っていた。
「ところで、嬢ちゃんはどうする? ここで働くか、それともどこか別の場所で暮らすか」
「私は……」
マナはそこで一旦言葉を区切ると、祈龍のほうへと顔を向けた。
「私、祈龍と一緒にいたいわ。……ダメかしら?」
「ああ、いいぜ。むしろ大歓迎だ。よろしくな、マナ」
「こちらこそ」
祈龍が差し出した手を、マナはそっと握り返した。
こうして、マナと祈龍の共同生活が始まったのであった。
「ここが俺の部屋な。狭いかもしれないけど、我慢してくれ」
祈龍が借りている、喫茶店の二階部分。その部屋にマナを招き入れた祈龍は、そう言いながら部屋の電気をつけた。
「大丈夫よ。ありがとう」
マナはそう言うと、部屋の中をぐるりと見回した。
六畳ほどの広さの室内には、机やベッド、クローゼットといった家具が置かれている。窓際には観葉植物が置かれており、角にはサンドバッグが吊り下げられている。
「結構片付いているわね」
「まぁ、物が多いわけじゃないしな。散らかしててもしょうがないしさ」
「そう」
マナは少し意外そうな表情を浮かべる。祈龍の性格を考えれば、もっと部屋が乱雑になっていると思っていたのだ。
「そういや、どこで寝る? 俺のベッドでいいならそこでもいいし」
「祈龍は?」
「俺は床かな。あんまり気にしないでくれ」
「わかったわ。……流石に同衾は恥ずかしいから」
「はは、そりゃそうだ」
少し照れくさそうにしている祈龍を見ながら、マナは思う。
──この人は、本当に優しい人だ。
マナは祈龍のことを、まだよく知らない。しかし、彼に対して好感を抱いていたのは確かだった。
そしてそれは、これからも変わらないだろうと彼女は思った。
「……なぁ、マナ」
「何?」
「お前ってさ、なんか欲しいものとかあるのか?」
祈龍の突然の質問に、マナは首を傾げる。
「どうして?」
「いや、お前、荷物ないだろ。いろいろ買いに行かねえと」
「……確かに、それもそうね」
マナは少し考え込むような仕草を見せたあと、祈龍のほうへ視線を向ける。
「じゃあ、一緒に行きましょう? あなたと一緒のほうが楽しいでしょうから」
「……! ああ!」
祈龍はその提案を快諾すると、笑顔を浮かべて立ち上がった。