判裁と別れた貫志は道に迷っていた。
普段から山道や森の中を練り歩いてはいない上に、元より迷いやすいたちである。
貫志は日も徐々に落ちて来ている中で、未だに里の景色が見えて来ない事に内心では、帰り着かないのでは無いかという恐怖を覚え始める。
「…………まずい。とてもまずい事になったな」
そうして、一度声に出すといよいよ自分が道に迷ったという事実を自覚して本格的に焦りだす。
「落ち着け……里は下にあるんだ。降って行けばいつかは里の方に出る筈で近くに水音もする。最悪、河川の方に寄れれば今日は越せそうだな。よし、取り敢えず水音の方へ行くとするか」
独り言を呟き自分はまだ冷静だと言い聞かせつつ移動を始めようとした時、消え入りそうな声が貫志の耳に届く。
「あ、あの……そっちは崖になってて、行っても滝に繋がっとって……危ない……よ?」
声のした方へと貫志が振り返ると影と一体化しそうな暗い紫色の短髪を揺らす、背の低い少女が木の影から此方の様子を伺うように顔を覗かせていた。
「あ……え〜っと、そっか。教えてくれてありがとう。君はどうしてこんなところに居るんだ?日暮れも遠くないのにこんなところにいたらご母堂様に怒られてしまうぞ」
迷子になっていた貫志は少女が現れた事でほんの少し安心し、努めて態度には出さずに少女に話しかける。
「お母さんは……いないよ。お兄さんこそ、ここで何してるの?ここ……里とは逆方向だけど」
「うっ。いや、ただ道に迷っただけだ。で、でも大丈夫だぞ。ちゃんと君の事も里に……ん?里とは逆方向……という事は君は里の場所がわかるのか?」
貫志の言葉に少女は薄く微笑んで貫志の手を取る。
「うん…………こっち。うち……この辺りの道詳しいから……だからお兄さんのこと……案内してあげられるよ。お兄さんが……嫌じゃなければ……だけど……」
言葉がたどたどしく、こちらの顔色を伺うようにして会話をする少女に貫志は人見知りなのだろうと考える。
普段であればもっとハキハキと元気に話さないかと言うところだが、親切で穏やかな少女の表情を見た貫志はそんな事を言う気にはなれなかった。
「嫌なんて事はない。俺は道に迷った一人じゃ里まで帰れない。だから、俺の方からも頼む。里まで案内して欲しい」
「うん……わかった。案内する」
少女は貫志の言葉を聞けば、そのまま手を引いて歩き出す。
そこからしばらくの間会話は無かった。
元々口数が少ないのか、それとも何かの切っ掛けで話さなくなったのか、彼女はとても静かだった。
貫志は最初こそ気を遣って少女に話しかける事は無かったが、やがて沈黙に耐えかねて口を開く。
「君はこの山の中に住んでるのか?里では君みたいな子は見当たらなかったんだが」
「…………うん……ずっと前に里には入れなくなったから……それからは……ここについてる」
「(ついてる?……変な表現だな。この辺り特有の表現か?)……そうか。ご母堂が居られないならご尊父はどうしておられる?」
「お父さんは……うちが生まれる前に……死んだって聞いた……悪い妖さんに食べられたって……」
少女は貫志の質問に淡々と答える。
しかし、その表情からは何の感情も読み取れなかった。
「そ、そうか……悪い事を聞いたな。すまなかった。」
「…………?……あぁ、別に……そんなに何も思ってないから……大丈夫。それより……お兄さんは里で見たこと無いけど……どこの人?」
「俺か?俺はここからずっと西……西?
今迷ってたから自信は無いが……多分西に行ったところに故郷がある。今は鶴要のお屋敷である人のお世話になってる。ここの里に来たのもその人に頼みでここに来たんだ。」
「鶴要って……都じゃなかった?あの…………この国の偉い人が……沢山いるとこ」
「そうだな。そこで間違いない。俺はそこで産まれた訳じゃ無いが帰るべき場所は……もう、あそこにしか無い」
「……そうなんだ。じゃあ早くお務め終わらせて帰らないとね。
あ、お兄さん……もう少し後ろ」
貫志の言葉に足を止めて振り返った彼女は感情の無い瞳で貫志を指差す。
違う……彼女が指を差したのは貫志の背後、本来先程通って来た故に危険など無い筈の場所。
彼女が指差した方向から貫志の耳元に生暖かい風が吹く、じっとりとした嫌な汗が背中を伝う、貫志の神経が告げ、そこに何かが居る事を貫心に確信させる。
貫志が真っ先に取った行動は全力で走る事、振り返らずに少女の手を取り短い距離を駆け抜けて旋回する。
予感は的中し、稽古の為に捲っていた袖口の余った布地が引き裂かれる。
貫志が背後に居たそれを目視した時、彼の中で思考が凍りつく。
旋回し振り返った彼の目に飛び込んで来たのは大きな猿の頭、獅子の様な体と四肢、尻尾は蛇になった妖と、その妖が貫志が居た場所に前足を振るい叩き付けられてへこんだ地面だった。
「ぬ、鵺……こ、殺される……」
直感で悟った貫志は異形の妖、鵺に対して踵を返し逃走を試みようと体の向きを変えようとした。
そこに武人としての彼は無く、目の前の脅威に怯え逃げようという本能のままに行動する怯者の姿だった。
しかし、貫志は手を引いていた少女を目にする。
少女はただ此方を見つめていた。
それは貫志の心を試しているのか、臆病者と蔑んでいるのか、それとも怯えて声が出ないのか、無表情なままの少女の顔を見て貫志は古い記憶が蘇る。
泣き叫ぶ弟、助けを求める村人の声、命を弄ぶ妖の笑い声、火の海になった村で自らは両親に守られて逃げ延びた。
そうして、助けられた自分は判裁と今の主に誓ったのだ。
力に臆してただ逃げ延びる事はしないと、だからこそ今、自分の腰には刀が差してあるのだと貫志は自分の手にある守るべき少女の手を見て思い出した。
「君!……逃げなさい…………ここは……俺一人で十分だ。俺は……俺は君よりも強いからな」
貫志は少女の手を離し刀を抜いて前に出る。
小刻みに震える刀身を力を籠めて抑え込み、対峙した鵺を真っ直ぐに睨む。
「……消えないでね……寂しいから」
少女は貫志を見ずに怯えすら感じさせない声音で不思議な言葉を溢して少女は踵を返して走り去る。
残されたのは剣士一人と獲物を狙う妖の一匹だった。