汐と義勇が吹き飛ばされた後、炭治郎は一人で猗窩座と対峙していた。
一向に衰えない猛攻に、炭治郎は必死で食らいついていた。
だが、炭治郎は戦いのさなかで煉獄を侮辱され、心に冷たい怒りを宿していた。
猗窩座は弱者を反吐が出る程嫌悪し、弱者は強者に淘汰される。これが自然の摂理だと語った。
しかし炭治郎はその考えを真っ向から否定した。
生まれた時は誰しもが弱く、小さな赤子であり、誰かの助けがなければ生きていくことができない。
それはかつて人間だったであろう、猗窩座も例外ではないはずだ。
「強い者は弱い者を助け守る。そして弱い者は強くなり、自分より弱い者を助け守る。これが自然の摂理だ」
炭治郎の脳裏に浮かぶのは、自分を守り、そして自分が守った者たちの姿。愛する者たちの顔だった。
そんな炭治郎に猗窩座は心の底から嫌悪感を覚え、不愉快だと言わんばかりに猛攻を仕掛けた。
まるで羅針盤のように確実に隙を刺してくる、正確すぎる技の数々に炭治郎は押され始め絶体絶命の危機に陥っていた。
その時だった。
間一髪で義勇が駆け付け、猗窩座を吹き飛ばすと炭治郎の窮地を救った。
「義勇さん!!」
義勇の無事な姿に、炭治郎は安堵の声を上げた。
「俺は頭に来てる。猛烈に背中が痛いからだ」
表情はあまり変わらず声にも抑揚がないが、炭治郎が感じた匂いが義勇が怒りを覚えていることを証明していた。
「よくも遠くまで飛ばしてくれたな、上弦の参」
義勇は痛みをこらえるように大きく息を吸い、水の呼吸特有の静かな音が響き渡った。
「義勇さん」
炭治郎は思わず息をのんだ。義勇の左頬全体に、雫のような痣が浮き出ていたからだ。
「無事か、炭治郎」
「は、はい!!」
義勇が静かに声を掛けると、炭治郎は慌てて返事をした。だが、そこに汐の姿がないこと気づき、焦った表情を浮かべた。
「義勇さん、汐は、汐はどうしたんですか!?」
「・・・」
義勇は言葉を切ると、猗窩座を見据えたまま静かに言った。
「汐は追っ手と戦うために一人残った。俺に、お前を助けるように頼んで」
「そんな、何で・・・」
炭治郎は何か言いたげに義勇を見るが、義勇は汐の決意に満ちた表情を思い出しながら言った。
「汐は強い。それはお前が一番よく知っているはずだ」
「・・・!」
「それと、伝言だ。『あたしの分まで、あの野郎をぶちのめせ』だそうだ」
汐らしい言葉に炭治郎は表情を微かに緩め、湧き上がってきていた考えを振り払った。
義勇の言う通り、汐の強さを誰よりも近くで見てきた炭治郎は、汐を信じると決めた。
ならばやるべきことは一つだ。必ず勝って生き残り、鬼舞辻無惨を討ち倒す!
炭治郎は決意を胸に抱きながら、猗窩座に向かって刀を構えるのだった。
* * * * *
――"かわいそう"に・・・。
――絹ちゃんのお母さん、まだ若いのに小さなあの子を置いて死んじゃったんだって?
家の前で、一人さめざめと涙をこぼす少女に、村人たちはそんな声を掛けて去って行く。
――お父さん、漁に出てから何日も帰らないんでしょ?
――一人で"かわいそう"・・・
村一番の美少女と謳われた少女は、かわいそうという言葉に囲まれ、いつもその中心にいた。
かわいそうな少女。それだけで皆は少女を憐み、そしてその健気さに心を打たれた。
少女にとってそれは当然であり、心の安定剤だった。
だが、その心の平穏は突如として破られることになった。
『なによ。みんなして寄ってたかってかわいそう、かわいそうって』
その言葉に少女は、今までにない程驚いた。
『勝手にかわいそうなんて決めつけるんじゃないわよ。絹はかわいそうな子なんかじゃないわ』
その言葉は少女を作っていた世界を粉々に破壊し、少女が今まで作り上げてきたものを零にしてしまった。
『自分だけが不幸だなんて思わないでよ。だってあんたは、一人じゃないじゃない』
その言葉を発した人は、そう言って笑った。目が覚めるような、真っ青な色の髪を揺らして・・・。
* * * * *
「絹・・・?」
汐が震える声で呼んだ瞬間、それはぶるぶると小刻みに震えたかと思うと、突然閃光と共に破裂した。
汐は間一髪で身をひるがえし、爆発を回避する。
すると爆発四散したそれの残骸が部屋中に飛び散ると、触れた場所がみるみる変色し魚介類が腐ったような悪臭が充満した。
「わあ、あれを躱せたのね。やっぱり汐ちゃんはすごいわ!」
この場に似つかわしくない、心からうれしそうな声が聞こえ汐は視線を鋭くさせた。
その視線の先には、海藻と白いサンゴがちりばめられた西洋風の衣服を纏った少女の鬼が静かにたたずんでいた。
「久しぶりね、汐ちゃん。相変わらず元気そうで何よりだわ」
鬼はそう言ってほほ笑むと、目をゆっくりと開けて汐を見つめた。その双眸には【上弦の伍】と刻まれていた。
「生きていたのね・・・、絹」
汐がそう言うと、絹はその反応が少し不満なのか困った顔をした。
「あれ?思ったよりも嬉しそうじゃないのね。こっちはせっかくあえて嬉しくて堪らないのに」
絹は両手を頬にあてると、顔を高揚させながら言った。
「だって、だって・・・。私の手で、汐ちゃんを殺せるなんて、こんなうれしいこと他にないわ!!」
血気術
絹が高らかに叫んだ時、絹の衣服から根のようなものが伸びだし、部屋中に張り巡らされていく。
畳や襖は瞬時に水分を含んで腐食し、フジツボや海藻が浮き出していく。
やがて絹を中心とした悍ましい結界が完成した。
「これは・・・、炭治郎がここに居なくてよかったかも」
汐は充満する悪臭に吐き気を覚えながらも、汐は絹がいたであろう方向を向いた。
だが、そこに絹の姿はなく、照明の光も遮られた真っ暗な空間が広がるばかりだ。
「ねえ、汐ちゃん、聞こえる?」
暗闇の中から絹の声が聞こえ、汐は刀を構えなおし、少し口を開けながら表情を硬くした。
その時だった。
突然汐の死角から何かが飛び出し、その背中を容赦なく穿った。
汐の身体は反動で浮き上がり、口からは血があふれ出す。
「私ね、汐ちゃんにずっと言いたいことがあったの」
汐の身体が天井すれすれまで上がったかと思うと、今度は天井から刃の様に鋭い海藻が飛び出し、汐の全身を薙ぎ左手を吹き飛ばした。
「私ね、ずっとずーっとまえから汐ちゃんの事・・・」
――大っ嫌いだったの
その言葉に汐は目を見開き、喉を締め付けられるような感覚に襲われた。
「私はね、自分の舞台を壊されるのが大嫌いなの。私が泣けば、皆が私をかわいそうっていって、私を見てくれるわ」
絹は姿を見せないまま、結界から様々なものを呼び出し汐に猛攻撃を仕掛けた。
汐は成す術のないまま、全ての攻撃をその身に受け続けた。
「私の舞台には私と、私を引き立ててくれる脇役と舞台装置があればいい」
真っ暗な空間に、絹の澄んだ声と汐の身体を穿つ鈍い音だけが響き渡る。
「身内が死ねば、私は"悲劇をその身に受けたかわいそうな子"になる。困った人に笑いかけて手を差し伸べれば"心の優しい健気な子"になる。そうすれば周りは私に優しくしてくれるし、欲しいものだってなんでもくれる。何もかも思い通りにすることだって!!」
絹は甲高い声をあげて笑い出すが、ふと、声を落として言った。
「でも、汐ちゃん。あなただけは違った。あなたは私の思い通りには決してならなかった」
絹は結界中から巨大な珊瑚を出現させると、汐が倒れたであろう場所を容赦なく突き刺した。
「ううん、思い通りにならないどころか、あなたがいると皆私を見てくれなくなった。皆あなたをみて、あなたに笑いかけて、あなたに何もかも与えた!!」
絹の声は怒りと憎しみに満ち、布を引き裂くような悲鳴を上げながら何度も何度も珊瑚を振り下ろした。
「いつの間にか私の周りには私の外見だけを見る連中が集まり、あなたの周りにだけ人が集まるようになった。大して美人でもない、どこにでもいる平凡なあなたの周りに!!」
絹は片手を上げ、血をまき散らすと更に珊瑚の数が増え、あたりに降り注いだ。
「あなたさえ、あなたさえいなければ!!私の舞台は壊れなかったの!!私が主役で私を引き立てる脇役がいる、私だけの舞台は続いていくはずだったの!!それなのに、それなのに!!それなのにいいいいいいい!!!!」
攻撃のあまりの激しさに、珊瑚にはひびが入り、あたりにはもうもうと砂煙が上がった。
やがて少し落ち着いた絹は、汐の死体を確認しようと一旦攻撃をやめた。
「ああ、少しやりすぎちゃったみたい。でも、汐ちゃんが全部悪いのよ。あなたが私の気持ちも知らずに、いつもへらへらと何も考えないで適当に生きているから・・・」
絹は恨みの篭った言葉を漏らすと、砂煙が上がる中汐がいるであろう場所に近づいた。
その時だった。
風を切るような鋭い音と共に、絹の両腕が切断され頸から鮮血が飛び出した。
「えっ・・・!?」
絹は慌てて一歩下がると、頸から滴る血を見て驚愕に目を見開いた。
「どうして・・・!?」
絹は表情を強張らせたまま石のように固まった。
やがて砂煙が収まり、その場の全容が見えてくる。
そこには。
床に突き刺さった無数の珊瑚の残骸の上で、真っ青な色の髪を静かに揺らす汐が佇んでいた。
「そん・・・な・・・なん・・・で?」
絹の口から、声にならない声が絞り出された。さっきの攻撃で、汐は腕を斬り落とされ、珊瑚の圧力で形がなくなる程潰したはずだった。
だが、目の前の汐は最初に出会った時と全く同じ姿。猗窩座と戦った時に出来た傷だけを受けた姿で立っていた。
絹は状況を整理しようと、必死で頭を回らせた。すると、汐の開いた口から、微かに歌が漏れている。
――ウタカタ 肆ノ旋律・転調
――幻影歌
汐の口から洩れる旋律は、絹の五感を全て狂わせ支配し、ありもしない幻を見せていたのだった。
「まさか、全部幻覚だったというの・・・!?あの時私がすべて見たものが・・・!!」
絹は怒りと悔しさに身体を震わせ、文字通り鬼の形相で汐を睨みつけた。
「残念よ、絹」
汐は歌をやめると、ゆっくりと振り返った。
「あたし、あんたが生きてくれてよかったって、本気で思ったのよ。例え鬼になっても、あんたが生きていてくれたことが本当に嬉しかった」
でも、と汐は言葉を切ると顔を上げて絹の顔をしっかりを見据えた。
「あたしの事はどう思っててもいい。でも、あんたを今まで育ててくれた庄吉おじさんや、村の連中を裏切ったあんたを、あたしは絶対に許さない」
汐は目に殺意を宿し、目の前の鬼を睨みつけた。その顔には。
右頬から目の周りを覆い尽くすようにして発現した、鱗のような痣があった。