隣の女子が性処理係に任命された 作:麦茶漬け
「なぁ。おまえ性処理係って、もう使った?」
よく晴れたある日のこと。
窓から差す暖かな日差しを感じながら、教室でコンビニ弁当を貪っていると、昼食を共にしていたクラスメイトから何の気なしにそんな質問を投げかけられた。
本当にただ世間話を振るように聞かれたその言葉の意味を、白米を咀嚼しながら考える。
性処理係。
性処理係──うん。
……うん。
なんだっけか、それ。
「おーい、
「ん」
「何だよ、やっぱ聞こえてんじゃん。で、どうなん?」
どうなん、と言われても。
このクラスメイトの男子の態度からして、コレが至って普通の問いかけだということは察しがつくのだが、困ったことに俺の記憶領域には"性処理係"という単語が引っかかってくれるような過去が残されていない。
少なくとも昨日までは聞き覚えのない言葉だったはずだ。
ここ最近は高校へ行って授業受けて家に帰って、ゲームやって寝るという変わり映えしない毎日を送っていたため、新しい情報を仕入れる機会が少なかったのは事実だ。
しかし仮に性処理係などという意味不明なパワーワードを耳にしていたなら、否が応でも印象に残っているはず。
ここまで頭を捻っても思い出せないのであれば、そもそも知らないという可能性が高い。
「……」
ゴクン、と咀嚼していたものを飲み込む。
それまでに様々な思考が駆け巡ったが、結局答えは出ず俺は黙ったままだった。
そんな様子を前に、彼は怪訝な表情で首をかしげる。
「どした? 急に会話ができなくなったな」
「……いや、おまえの日本語がおかしいだけだろ。なんだよ性処理係って」
「えぇ?」
まるで俺がおかしな発言をしたかのような雰囲気だ。
性処理係などという日常ではまず聞かないであろう単語を投げかけられた人間としては、徹頭徹尾まともな反応をしているはずなのだが。
「マジで言ってんの」
「その言葉、そのまま聞き返していいか?」
「うえぇ……どうしたんだよ柏城。──あっ、そっか。二週間前の全校集会んとき、おまえ休んでたもんな」
彼の反応は解せないが、二週間前の全校集会、という部分は俺にも分かる。
記憶が正しければ、別にその日は休んでなかった。
たしか、話の長い校長がいつも通りためになるようでならない話題を語りつつ、最近は暗い時間帯に変な服を着た不審者が続出してるから寄り道せずに帰るように、といった内容の会だったはずだ。
そもそも俺と彼は全校集会のときは隣同士。
加えて教室へ戻る途中に『でも寄り道して帰りたいよな』なんて集会の内容を思い出しながらの会話すら交わしたはずなのに、なぜか彼の中では俺が欠席したことになっている。
もしや別の誰かと勘違いしているのだろうか。
「ほら、先週からウチの学校でも施行されたじゃんか。性欲処理奉仕係」
「性欲処理奉仕係……?」
「そう、性欲処理奉仕係」
性欲処理奉仕係。
……。
…………?
「なにそれ……」
「お前マジか」
その名称を省略して性処理係と呼んでるんだろうな、ということしか理解できなかった。
性欲処理奉仕係イズ何。
成人向け雑誌に出てくる淫猥なワードかなにか?
少なくとも大勢の生徒が一堂に会する教室の中で、当たり前のように発していい言葉ではないことは確かだ。
「ニュース見てないのか? そうじゃなくても、SNSとかで流れてくるだろうに」
なんで俺が常識を疑われてる空気なんだ。
妙な発言で公序良俗に反することをしてるのはそっちじゃないのか。
普通こっちが糾弾する立場だろう。
「放課後にニ号棟の一階行ってみろよ。予約が埋まってなけりゃ使えるはずだぞ」
「はぁ……」
言われるがまま、流されるがままに時は流れて放課後。
グラウンドで大きな声を張り上げている野球部を一瞥しつつ、理科室や部室が点在している二号棟に足を運んだ。
ここに答えがあるとのことだが、せっかくならこちらへ赴く前に概要を教えて欲しかった。
情報を知るために所定の場所に向かわないといけないなんて、そんなRPGみたいなことしなくても──
「あっ」
性処理室、という表札を発見して足を止めた。
一般的な公立高校ではまず目にすることが絶対にない単語の羅列だ。
例の淫猥ワードの大元はこの部屋だと見て間違いないだろう。
それにしても、性欲処理奉仕係、とは。
いつからこの学校はこんなトチ狂った部屋を作っていたのだろうか。
出席したはずの全校集会で俺をいなかったことにするクラスメイトや、この突如湧いて出てきた性欲処理奉仕という奇妙な概念といい、違和感が拭いきれない。
俺の記憶がおかしいのか、もしくは世間知らず過ぎたのか──何もわからない。
ので、進む。
一旦この部屋に入れば、違和感の元凶を知ることはできるはずだ。
「……本日の奉仕は終了」
部屋の中は机と椅子が一つずつ。
その机の上に紙が一枚貼られており、今日の奉仕活動が終わったという旨の内容が記されていた。
教室内は無人。
答えはおろか説明してくれる人間すら不在の状況は、まさに無駄足という言葉がよく似合った。
性欲処理というくらいだから、何か間違いでも起こるんじゃないか、などと良からぬ心構えをしていたバチが当たったのか、今回の調査は徒労で終わってしまったようだ。
結局何も分からなかった。
軽くため息をつき、教室を出ていく。
ここに留まっていても意味はないし、明日改めてあのクラスメイトの男子に概要を質問しよう。
わざわざこの場所へまた移動するのも面倒だ。
とりあえず今日はもうこの事は考えないことに決め、駐輪場から自転車を出して寄り道せずまっすぐ自宅へと帰っていった。
「……なんだ、あれ?」
道中、大きな広場に目を引く立体物があった。
五十メートルほどの大きさを誇るロボットが鎮座していたのだ。
あんなお台場のガンダムみたいな展示品なんてこの街にあったっけか、と首を傾げつつ、周囲を警備員が固めていたため見学は無理だと判断し、ペダルを再び漕ぎ始めた。
展示にしてはかなり巨大だが、アレはなんの作品のロボットなのだろうか。
性処理係といいアレといい、急に知らないものが増えすぎている。帰ったら小一時間はネットサーフィンに明け暮れることになりそうだ。
「ただいま」
俺の保護者でもある年上の従姉妹が待つ自宅のマンションに到着し、玄関を開ける。
すると、明かりがついていないことに気がついた。
「……千鶴さん?」
玄関に靴はあるものの、返事がこない。
スマホを確認しても、彼女からのメッセージは届いていない。
いつもは家にいるか、出かけるとしても一報くれるはずなのだが。
リビングにもその姿がなかったため、自室をノックしてみた。
「千鶴さん。寝てるの?」
またしても応答はない。
基本的には自宅でイラストレーターの仕事に勤しんでいる彼女だが、生活リズム自体は一般的だ。
しかもどちらかと言えば活発な方なので、この夕方の時間帯に昼寝をすることはほとんどない……というか、いつもなら夕飯を作ってくれているタイミングだ。
「……いねぇし。どこ行ったんだ」
こっそり部屋を覗いても、室内には誰もいなかった。
普段から服やら資料やらが散乱しがちな千鶴さんの部屋が、妙に整頓されている。
というか綺麗すぎる気がした。
必要なものが何も出されていないというか、生活感のない部屋になっている。
ここまでの状況をまとめると、彼女は部屋の掃除だけして連絡も入れず外出した、ということになるが──靴が残っているのだ。
それが不可解だった。
コンビニにでも出かけていると早々に決めつけたかったが、外出の際に履く普通の靴もヒールもサンダルも、その全てが玄関に置いてあったせいで、余計わからなくなってしまっている。
冷静に考えると自宅内にいるはずなのだ。
だが見当たらない。自室にもリビングにもおらず、トイレも風呂場も電気はついてない。
まさか何かあったんじゃ──そう考えたとき、ポケットの中が振動した。
電話だ。
スマホの画面には、件の人物の名前が表示されている。
『もしもし、
「……? あの、千鶴さんいまどこ。遅くなるようなら俺が夕飯作るけど」
そう告げると、電話口の向こう側から困惑の声が聞こえてきた。
『えっ?』
「……な、なに。今日って帰らない予定でも入ってたっけ。担当さんと一緒にいんの?」
『ううん、そうじゃなくて……』
なんだか会話が噛み合わない。
仕事の関係で会うことの多い担当の人と打ち合わせをするときは帰りが遅くなるから、きっとそれだろうと考えていたのだが、どうやらそれも違うしい。
じゃあなんなんだ。
メッセージがなくて靴も残ってたから心配していたのに、この俺が変なことを言っているかのような反応はどういうことなんだ。
『一人にしてごめんね、晴人。最近良くはなってきてるんだけど……まだ退院は難しいみたい』
──退院?
『あっ、でもね晴人。このまま安定してたら来月には一時退院できるかもって、先生が言ってたよ。そしたらまた一緒に……晴人?』
退院する、とはつまり。
彼女は現在入院しているということになる。
悪いところなど一つもなかったはずの千鶴さんが、なぜそんなことになっているのか理解できない。
しかもここ最近の話ではなく、ずっと前から治療を受けているかのような口ぶりだった。
「……ごめん。またかけ直すよ」
通話を切り、吸い込まれるようにソファに座り込んだ。
スマホの画面を今一度確認する。
日付は四月の下旬。
約一週間後が俺の誕生日であるため、その日は二人でどこかへ食べに行こうと
というか、今朝も彼女は朝食にとピザトーストを用意してくれていた。
覚えている。
覚えていて当たり前だ。なにしろ今朝の記憶なのだから。
いつも通り二人で朝食を済ませ、決まった通学路を進み、通い始めて二年目になる高校へ到着した──はずだったのだ。
おかしい。
何か妙だ。
昼休みに”性処理係”という単語を耳にしたあのときから、拭いきれない違和感が延々と脳裏にまとわりついてきている。
存在するはずのない意味不明な概念があって、当たり前のように一緒にいた家族がここにいない。
街並みもクラスメイトも変わっていないように見えるのに、身に覚えのない過去の話や聞いたことがない常識の話をしてくる。
これは何だ。
どういう状況だ。
まるで自分が知らない別の世界にいるかのようだ。
「よっす柏城。シケた面してんな、どした? ……おいおい、無視かい」
今日の登校も変わったことはほとんどなかった。
知らない作品の等身大ロボットが街頭の広場に展示されていることを除けば、いたって普通の街並みだった。
異なるのは朝、明るく見送ってくれる存在が家にいないこと。
もう一つは相も変わらずこの学校に存在する、性処理係という不可解な制度だ。
「あっ、いおっち! おはよ~!」
「ん。おはよ」
朝から甲高い女子たちの声で思考が遮られそうになったが、なんとか耐えつつ逡巡する。
俺が知り得ない前提が存在している別の世界に、いつの間にか移動している──だなんて、あまりにも馬鹿げた仮設を立てる勇気はまだない。
むしろ『自分がおかしくなった』といった可能性のほうが大いにあり得るのだ。
実は千鶴さんとの二人暮らしは、一人で生活するのが寂しいあまり自分で生み出した幻影でした、だとか。
性処理係のことも世間知らず過ぎただけだった、とか。
そう考えたほうがずっと楽で、簡単だ。
昨日は頭が混乱して疲れてしまい、ソファに倒れこんでそのまま朝まで眠ってしまったため、やろうと考えていた調べ物ができなかった。
ので、今日こそ休み時間の合間にスマホでいろいろと──
「おぉ? きょう藤宮きてんじゃん。珍しいな」
黙ったまま考え事をしている俺に構わず話しかけ続けていたクラスメイトの男子こと田中が、教室の前方付近を眺めながらそう呟いた。
釣られてそちらを見てみると
「……藤宮?」
首を傾げた。
それもそのはず。
二年生に上がってクラス替えをしたばかりとはいえ、そろそろ一ヵ月が立とうとしているのだ。
話したことはなくとも、同じクラスの同級生の顔ぶれくらいは把握している。
知らないやつはいない。
特に、あんないろんな人間から声をかけられるような目立つ人物など、分からないはずがない。
だというのに──俺は彼女を知らなかった。
誰だ、あの亜麻色の長い髪の女子は。
「そういや今日から席替えじゃん。はぁー、藤宮の近くにならねぇかな……」
「……なに。あいつのこと好きなの?」
「は。……え、いや。ほら、藤宮って有名人じゃん。普通にお近づきになりたくね?」
「有名人なんだ、あいつ」
そう呟くと、田中はため息をついた。
「……なぁ、柏城。昨日からやってるその無知アピールは何なんだよ。アニメのキャラにでも憧れたか?」
そんなことを言われても、知らないものは知らない。
俺からすればあの見覚えのない女子を、当たり前のように受け入れているクラスのみんなのほうが不可解だ。
「あいつインスタでめっちゃ有名じゃん。モデルやってるし、この前なんてゲスト出演のドラマでスゲぇ演技みせてバズってたろ」
「……マジだ。検索かけたらすぐ出てきた」
「だろ? 知らないわけねーって」
現に知らないからこうして調べたのだが──ともかく出てきた情報からして、かなりの知名度を誇る女子だということは分かった。
芸名も本名そのままで、下の名前だけイオリとカタカナで通しているようだ。
SNSや検索エンジンを使っても、イオリと打てば大体彼女のことが出てくる。
まさにいま日本中で話題の女子高生だ。
だが。
しかし、だ。
そんな女はウチのクラスにはいなかった。
誰もが知っている有名人が同じ学級に存在するなど、そんなドラマかアニメのような事実はなかったはずだ。
俺が在籍しているこの二年五組は、いたって普通のクラスだった。
こんな、一人の女子が登校しただけでわかりやすく沸くような場所ではなく、ただみんなダラダラと日常を過ごす、特筆すべき点など何もない一高校の一クラスに過ぎなかったはずなのだ。
一昨日もその前も、まず二年に上がってこの五組になった始業式の日からずっと、あんな有名人な美少女など露ほども知らなかった。
昨日彼女が休んでいたからその存在を認識できなかっただけで、既に一日前の午前中から俺の周囲では奇妙な変化が発生していたのかもしれない。
「全員席替えのクジ引いたな。じゃあ黒板見て、番号の席に移動してくれ」
あまりにも身に覚えのないことが多すぎる。
ゆえに昨夜考えた”もしも”が脳裏に過ってしまった。
俺の知らない世界。
自分がいた場所とは別の、前提が異なる他の世界線。
そんな、まるでゲームのような、思い込みの激しい中二病ぐらいしか考えなさそうな、あり得るはずのない仮説が顔を出してきた。
「隣だね。よろしく」
胸中で言い知れぬ違和感と不安が燻り続けている。
この感情は、俗にいうところの恐怖というやつかもしれない。
席替えという学生らしいイベントに、クラスメイト達が一喜一憂するなかで、おそらく自分だけがありもしないおかしな"もしも"のことを考えていた。
「……ねぇ。えっと……柏城くんだっけ」
「えっ? ──あっ、俺?」
「なんか顔色悪そうだけど……だいじょうぶ?」
改めて声をかけられ、ようやくそこで気がついた。
俺の左隣の席にいる人物が、違和感の理由の一つでもある、藤宮依織だったということに。
彼女が窓側の席の最後尾で、その隣が自分だった。
「だ、大丈夫。ちょっと寝不足だったから、元気ないだけ」
「そっか」
嘘だ。本当は十二時間以上ソファの上で眠りこけていた。眠気など欠片もない。
「またいつ席替えやるかわかんないけど、それまでよろしくね。柏城くん」
「……あぁ、うん。よろしく、藤宮さん」
若干ダウナー気味というか、落ち着き払っている藤宮に気圧されながらも、なんとか返事を返した。
彼女を囲って騒ぎ立てる周囲とは裏腹に、本人は鷹揚で物静かな人物だったようだ。
ちなみに入り口付近の最前列という、藤宮とは正反対の場所の席になった田中は、不貞腐れて机に突っ伏していた。
「……はぁ」
その日の帰り道の途中、割れたガラスを踏んでパンクした自転車を押しながら、辟易したようにため息をついた。
違和感の一因である藤宮依織という少女が、極めてまともな人間だったことは素直に喜ばしい。
しかし、俺の中で停滞し続けているこの状況への回答は相変わらず見つからないままで、不安だけが募っていた。
授業開始直前で教科書がないことに気がつき、結果として隣の藤宮に見せてもらったせいなのか、拗ねた田中は何を聞いても答えてくれなかった。
いろいろと知らなさすぎる俺に対して、若干嫌気が差していたのもあるかもしれない。
なのでスマホで軽く性処理係について調べてみたのだが、分かったのは基本概要だけであまり多くを知ることは叶わなかった。
正式名称は、性欲処理奉仕制度。
性犯罪抑制のため、男女問わず公共の場で性的な欲求を解消できる場所を設置する──といった目的のもと生まれたのが性処理係だった、ということくらいだ。
SNSでも当たり前のように受け入れられており、詳しい内容は入ってこず進展はほとんど無し。
こんな人権を無視したような制度を、当たり前のように受け入れる世界で生きてきたとは到底思えないのだが、現に自分がいるこの世界での周囲の人間たちがそれに馴染んでいるせいで、頭がおかしくなりそうだ。
何が正しくて何が間違っているのか、まともな判断が──
「あれ。……柏城くんだ」
精神的な疲弊からか足が止まり、加えて思考も停止しかけたその瞬間、何者かが背中に声を浴びせてきた。
振り返るとそこにいたのは、今朝席が隣になったばかりのクラスメイトの女子だった。
「藤宮さん。帰り道こっちだったんだ」
「そこの公園を左に曲がったらすぐウチ。柏城くんは……あ、自転車パンクしちゃってるのか」
不意に現れた彼女は、無惨な姿になった俺の自転車のタイヤを一瞥し、一言。
「……ウチ、くる?」
そんな、思いがけない提案をしてくるのであった。
◆
藤宮が暮らす一軒家に案内され、ガレージにパンクした自転車を置くと、彼女はテキパキと手際よくタイヤの修繕を済ませてしまった。
あまりにも慣れた動作を目の当たりにして怪訝な表情をしている俺に気づき、藤宮は小さく笑う。
「うちのお父さん、昔は自転車屋さんだったんだ。だからちっちゃい頃からこういうのよく触らせてもらってて」
「……パンクの修理めちゃくちゃ早かったよ。すごいな」
「あはは。これくらいなら、まぁ」
近寄りがたい有名人というイメージを勝手に抱いていた自分が恥ずかしい。
想像以上に藤宮は親しみやすく、また隣の席という程度の接点しかない相手でも、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるほどの心優しい女子だった。
何かお礼を、と言ってもしっかり遠慮するあたり、内面的にも成熟しきっている。
俺と同じただの高校生だ、とは口が裂けても言えない相手だ。
芸能界で大人たちに囲まれながら生活を送っていることも、彼女の大人としての側面に一役買っているのかもしれない。
「自転車、わざわざ直してくれてありがとう。……それで、やっぱり何かお礼をさせてほしいんだけど」
「別に気にしなくても。……まぁ、でもそこまで言うなら」
ふーむ、と顎に手を添えて考えこむ藤宮。
モデルやら役者やらをこなしていることもあってか、動作がいちいち様になっている。
平たく言うと、かわいい。
中学生時代の感性をそのまま持って成長していたら、きっと助けてくれたことを理由に『コイツ俺のこと好きなんじゃね?』とひどい勘違いをして告白してフラれてるところだった。あぶない。
「じゃあ、明日お昼いっしょに食べない?」
コイツ俺のこと好きなんじゃね……?
「購買のメロンパンを一個買ってくれたら、それでいいから」
「あ、あぁ……うん、わかった」
パンク修理とメロンパン一個で釣り合いが取れているのかは不明だが、彼女がいいと納得しているなら、きっとそれでいいのだろう。
直してもらった自転車を押してガレージを出ると、近くのコンビニまでいくと言って、藤宮がついてきてくれた。
学校ではどこを歩いても周囲の視線を集めがちな彼女も、勝手知ったる自宅付近では一介の女子高生として認識されているようで、近所のおばさんや犬の散歩をしている子供なんかも、普通に挨拶をして通り過ぎていく。
「柏城くん、意外そうな顔してる」
「いや、なんつーか……ここら辺の人、みんな藤宮さんを見ても驚かないなって。田中が藤宮さんのこと凄い有名人だって言ってたから、不思議で」
俺の隣を歩きながら、藤宮は前を向いて話を続ける。
「まあ、小学生の頃からの地元だから。ドラマに出たときは少しだけ声かけられたけど、基本的にはただの近所の高校生って思われてるみたい。他の場所だとそうはいかないから、アタシとしてはありがたいかな」
「そっか。大変だな」
「んー」
割と緊張しながら話しているせいで、つい適当に聞こえる返事が口から漏れ出てしまったが、藤宮は気にする様子もなく平静だ。スルースキルも備えていたらしい。
「──あっ」
至って普通に、ただ高校のクラスメイトと帰路についていた、そのとき。
普通の中で唯一普通ではない、日常の中に存在するはずのない
性欲処理奉仕センター。
そう書かれていた。
どこにあってもおかしくない個人病院のような、小さくて清潔感がある外観の建物に、まるで似つかわしくない奇妙な看板が取り付けられていた。
思わずつぶやき、足が止まる。
藤宮と当たり障りのないコミュニケーションをとる中で忘却してしまっていた、いまの自分が持つ違和感の元凶を思い出した。
性処理係。
性欲処理奉仕係。
そんな、成人向けの漫画雑誌だとかアダルトビデオだとか、そういった物の中にしか存在してはいけないはずの、公序良俗に真正面から反している頭のおかしい概念が、再び目の前に姿を現したのだった。
「……柏城くん?」
夢を見ているのではないか、と錯覚する。
あんなものが往来にあっていい理由などない。
そう考える俺の倫理観は間違いなく正しいはずだ。
何故あんなものが目の前に鎮座していて、世界がそれを認めているのかが分からない。
元気だったはずの家族が入院していたり、あったら気がつくはずの巨大なロボットの展示物を昨晩まで知らなかったりと、あれらの不可解な事象は『最初から自分がおかしい思い込みをしていた』と言われても、不本意ながら納得はできる。
だが、アレは。
眼前にある、バグった日本語の看板を立てているあの存在だけは、それは違うと確信が持てる。
この常識的なはずの思考が間違いだと揶揄されるのであれば、もはや今いるこの場所は俺の知らない別の世界だ。
頭のおかしな妄想でもなんでもなく、アレがある限りここは前提が異なる別の世界線だ。
そうでなければ、あの概念を”変”だと認識できる俺がどうして存在するのか分からなくなる。
確実に、絶対に、目の前の異変は正しく異変であるはずなのだ。
「──奉仕制度、きらい?」
違和感に強く懊悩する最中、隣にいた藤宮が目の前の建物を眺めながら、そう問うてきた。
唐突だったが、答えは決まっていた。
「……あんなものが存在するなんて、絶対におかしいって。……それだけはわかる」
田中の時のようにまた呆れられてしまうかもしれない。
常識知らずだとバカにされてしまうかもしれない。
だが、それでも譲れない一線というものがある。
これまでの人生で培ってきた自分の中の倫理を肯定するために、俺はアレを心の底から否定しなければならないのだ。
だから言葉にする。
アレはおかしいと、声に出して告げる。
例えそれがこの世界では間違いだったとしても。
「──うん。アタシも、そう思う」
彼女が発したその言葉の意味を、俺は一瞬理解することができなかった。
目をぱちくりさせ、思わず口を噤んで逡巡する。
いま、藤宮はなんて言ったんだ。
「……えっ?」
思わず聞き返してしまった。
カッコつけて世界の常識に喧嘩を売った雰囲気がぶち壊され、場の主導権が藤宮へと移る。
「妹も柏城くんと同じこと言っててさ。こんなのおかしいって、部屋に籠りきりなんだ」
言いながら、藤宮はカバンから一枚のプリントを取り出した。
促されるままに受け取り紙面を確認する。
そこに書かれていたのは、異常な常識を求めるこの世界の圧力そのものだった。
「……性欲処理奉仕係、任命書?」
「あした名簿が出ると思うけど、たぶんそこにアタシの名前も書いてある。放課後からだって」
憂いに満ちた表情で、諦めたようにそう呟く。
「だいじょうぶ……なのか?」
俺が発した意味のない質問にも、優しい彼女は答えてくれる。
「やらなくていいなら、やりたくはないけどね。あのセンターの中にいる人たちも、多分みんなそう思ってるよ」
目の前にある異常な制度に対して、この世界の人間も望んでその身を捧げているわけではないと、彼女はそう言った。
つまり、周囲が俺と異なる倫理観を持っているというわけではなく。
世界に強制されるこの不条理な状況に逆らえないだけだったのだと、その時ようやく察することができた。
「アタシは出席日数が少し足りてないから、その免除の為に受けろって先生が言ってた。病気は持ってないし身体も至って健康だから、問題なく奉仕係になれる──」
「い、いや、待って」
我慢ならず、話を遮る。
「足りない出席日数を補う方法なんて他に何か……ほら、補習講義とかあると思うんだけど」
「……それの代わりに性処理係をやれって話になってるから、無理かな」
「で、でも……拒否とかできないのか?」
俺の言葉に目を見開いてわずかに驚く藤宮。
何もおかしなことは言ってないはずだが、彼女は明らかに俺の発言を意外なものとして受け取っている。
彼女は小さく苦笑いして、再び俺から視線を逸らした。
「できないよ。性処理係は……
低い声音でそれだけ告げると、藤宮は向かいのコンビニへと歩いて行った。
「またね、柏城くん」
「……あぁ」
引き留めることは叶わず、ただ見送ることしかできなかった。
あの雰囲気からして、恐らく俺があの場で何を言ったところで、彼女の奉仕係の任命云々が覆ることはなかっただろう。
彼女が強要されている性処理係は、俺が想像しているものよりもっと理不尽で強大な圧力を持っている。
それを言葉一つで覆せるはずもなく、この場においては俺もこの世界の不穏な空気に抵抗できない市民の一人でしかなかった。
「ほらっ、言った通りちゃんと奉仕しなさいよ! 私が性犯罪者になったらアンタ責任取れんの!?」
性処理係センターを横切るとき、そんな声が建物内から響いてきた。
その聞こえた言葉から察するに性欲処理奉仕制度の現状は、おおかた俺の想像通りの内容で合っていたようだ。
奉仕係に選ばれた者はまともな抵抗は許されず、使用者である相手の要求を飲まなければならない。
逆に制度を利用する側は奉仕係を自分の思うままに従わせることが可能で、そんな状況故にどんどん態度がエスカレートしていく──ひどい悪循環だ。
まともではない。
性犯罪抑制のためと謳っておきながら、合法的に他者を蹂躙する輩を続出させているこの制度が、正しいものであるはずがないのだ。
それから、気になるものが一つある。
先ほど藤宮が口にしていた『勇者様』なる者の概要を、帰宅してから検索にかけてみた。
そうして結果出てきたものは、やはり俺の知り得ない──異世界のものとしか思えないような情報だった。
勇者様とは、世界を救ってくださった英雄である。
勇者様の願いは、
勇者様には、何者も意見してはならない。
勇者様のお言葉を疑ってはならない。
勇者様を敬いなさい。
勇者様を信じなさい。
勇者様のために世界はある……などなど。
大半は新興宗教組織の信者が無心で書き殴ったような、まるで要領を得ないものばかりだったが、これがほぼ世界中で認知されている常識であることは、他の検索結果を見るに明らかだった。
十年前に勇者が台頭する大きな何かがあったようだが、規制されている情報なのか詳しいことは分からなかった。
しかし、これでようやく確信が持てた。
ここは俺のいた世界ではない。
いつ、どこで、どうやって移動してきたのかは不明だが、とにかく今いるのは前提が異なる別の世界線だ。
性処理係なる制度も、それを強要しても人々を頷かせてしまえるほどの恐怖と力を持った勇者とかいう人物のことも、これまでの人生で聞いたことなど一度もない。
千鶴さんが入院していることや、出席した全校集会で欠席したことになっていることも、この世界線で生きていた”柏城晴人”の身体の中に、別の世界からきた俺の意識が入り込んでしまったことによる記憶の齟齬と考えればいろいろと説明がつく。
突拍子もない考えをしていることは分かっている。
だが、俺の目の前にはこの仮説よりももっとあり得ない性処理係とかいう意味不明な概念が実在しているのだ。
例え真実が間違っていたとしても、自分が納得できる理由を用意して、この世界に負けないよう自分自身を肯定することができれば、それでまったく構わない。
まだまだ考えなければならない事象は多いが、いま優先するべきことが何なのかは既に答えが出ている。
それを実行するため──翌日、俺はいの一番に早朝の職員室へと急行した。
「先生。性処理係の利用の予約をしたいんですけど、いいですか」
◆
昼休み。
普段食堂で昼食を取っている生徒や、校庭に出て体を動かしている運動部たちも、皆この日は教室で一堂に会していた。
異様な盛り上がりを見せる男子たちに反して、教室内の女子たちの空気は冷え切っている。
その理由は明白だ。
先日の宣告通り、校内で掲示された来月までの性処理係の担当名簿には、藤宮依織の名前がしっかりと記されていた。
その情報の波及は広く早く、既にこの教室だけではなく校内の男子のほとんどが、待ち望んでいたチャンスに湧いていることだろう。
雑誌でもテレビでもSNSでも、その名を見ない日はないほどの知名度を誇る美少女に、合法的に手を出すことができると考えれば、無理もないことなのかもしれない。
「へへっ……なぁ、藤宮──」
「ちょっと田中、いおっちの奉仕開始は放課後からだよ! てか教室で変なことしようとするのは、普通に犯罪だからね!」
「な、なんだよ。別に、普通に話しかけようとしただけだって……」
黒板の横に掲示された奉仕担当の名簿の前で多数の男子が立ち往生しており、実際にその目で藤宮の名前を確認すると、彼らは席に座っている彼女を横目で観察し始める。
教室にいる男子のほとんどがそうしていた。
いつも制度を利用している盛んな運動部も、無関心を装ってスマホをいじっている生徒も、皆一様に視線がさりげなく藤宮へと向いているのは明らかだった。
加えて、教室の外にも野次馬染みた連中が屯していて、やれ胸がデカいだのどうやって遊ぶかだのと下卑た言葉が漂っており、校内の風紀は余裕で過去最低を記録している。
「いおっちが任命された途端これって、ウチの男子ってほんとうに……」
「アタシは平気だよ、恵。ありがとね」
しかし当の本人である藤宮はどこ吹く風といった平静さを保っており、四限目に使った教科書やノートを整理してカバンから財布を取り出すと、彼女は俺の席の前へやってきた。
「柏城くん。お昼食べにいこ」
昨日の夕べに交わした約束を思い出し、俺は促されるがまま藤宮の後ろをついていく。
購買へ向かう道中、話題の中心人物である藤宮を値踏みするように眺める者や、そんな彼女と二人きりで移動しているどこの馬の骨とも分からない男子である俺を、怪訝な雰囲気で睨みつける視線など、数多の感情を背中に受けながら俺たちは購買へ赴き、昼食を買ってから人気のない校舎裏の非常階段へと足を運んだ。
「これ……メロンパン」
「ん。ありがと」
石造りの階段に並んで腰を下ろし、約束通りの菓子パンを手渡すと、藤宮はそれを小さい口で食べ始める。
続くようにして、俺も先ほど購入したおにぎりを頬張った。
この異常としか思えない状況に陥っている校内で、この空間だけはいたって普通だと感じられる。
相手の知名度を度外視すれば、今日のコレは高校のクラスメイトとただ一緒に昼食を取っているだけの、一般的な昼休みだ。
「──柏城くん」
互いに話すこともなく、花壇を眺めながら黙々と食べ進めていると、不意に隣りから声がかかった。
そちらを向くと、藤宮は教室で保っていた明るいポーカーフェイスではなく、昨日と似た力のない笑みを浮かべていた。
「奢ってもらっておいてなんだけど……ひとつ、お願いしてもいいかな」
頷いて返事をした。
藤宮は目を合わせてくれないまま、続ける。
「……アタシが担当の時は、来ないでほしい……っていうか、そんな感じのお願い」
食べ終わったメロンパンの包装を丸めて、少し先にあるごみ箱へ投げた。
惜しくも入らず、藤宮は階段から離れてゴミを拾いに向かう。
「柏城くんには見られたくないなって。……みんなに使われた後の、自分」
改めて拾ったクシャクシャの袋を見つめながら、小さくため息をつく。
「たぶん、こんな感じになってるから」
言って、ゴミ箱に投棄した。
そのぎこちない笑みは、俺にはひどく痛ましいものに見えてしまった。
どんな返事を返せばいいのか分からなくなっている俺の内心を察したのか、藤宮は『先に戻るね』と告げて踵を返し、校舎裏から離れていく。
彼女は俺に、自分が担当する性処理係は使わないでほしいというお願いをしてきた。
学校中の男子たちに好き勝手された後の姿を見せたくない、見てほしくないというのは、友人としての線引きを俺に求めているのか、それとも単に拒絶しているだけなのか。
分からない。
わからないからこそ、俺は考え過ぎないように決めた。
俺は俺のやりたいことを、自分にできることを可能な範囲でやるだけだ。
厚意で手を差し伸べてくれた隣の席の女子があそこまで追い詰められているというのに、別の世界へ来てしまっただとか何とかのたまって、自分だけ懊悩している時間など無い。
やるべきことをやる。
その為に俺は、こうして放課後の性処理室へと足を運んでいるのだ。
「…………なんで?」
教室の中央の椅子に座っている藤宮が、若干震えた声でそう言った。
困惑するのは至極当然の反応だろう。
たった数時間前に、恥を忍んで願いを告げた相手が、何食わぬ顔でその約束を破りに来たのだから。
「さ、最初の人が柏城くんだとは思わなかったな。……でも、まぁ、仕方ないか」
最初は驚愕に固まった藤宮も、諦めたように目を伏せた。
約束を破ってでも手を出したいと考えるほど、自分が周囲から求められている存在だということは、彼女自身も薄々感づいているのかもしれない。
驕りではなく事実なので、その認識は決して間違ってはいない。
「……あはは、よく予約取れたね。名簿が発表されてから三分くらいで、定員の五十人は埋まってたらしけど」
「発表前の早朝に職員室へ行ったからな。誰かに先を越されるわけにはいかなかったんだ」
「っ。……そっか」
そうまでして自分としたかったのか、とでも言いたげな失望の眼差しだ。
俺の考えを聞いた藤宮は視線を横に逸らせて、遂に目を合わせてくれなくなってしまった。
それでもいいのだ。
俺はただ、自分が決めたやりたいことを実行しに訪れただけなのだから。
「それで、どうするの。……なんでもいいけど」
落ち着いた様子とは裏腹に、スカートの裾を握る手は震えている。
恩を仇で返され、最後に希った思いすらも裏切られて混乱している状態で、これから自分がされることを想像したことで体が強張っている。
恐怖と緊張と悲しみがこちらまで伝わってくるかのようだ。
──だが、安心してほしい。
どうするも何も、別に俺は
「じゃあ好きにさせてもらうから。いいな」
「……う、うん」
「…………」
「…………」
……。
「…………あの、柏城くん?」
なんだ。
いま来週提出しなきゃいけない課題をやってる最中なのだが。
「どした」
「なにしてるの?」
「何って……今日出された日本史の課題」
「……?」
「藤宮さんはもう終わったの」
「えっ。い、いや、まだだけど……──えっ?」
性処理室内の机にプリントとノートを広げて課題を取り組む姿に困惑する藤宮。
そんな彼女に構わず、俺は大塩平八郎の乱についての概要をノートにまとめていく。
数分ほどそのまま続けていると、ついに疑問を抑えきれなくなった藤宮が席を立ち、俺のそばまでやってきた。
「アタシのこと……使わないの?」
「使ってるよ。いま藤宮さんが管理を任されてるこの教室を、こうして使わせてもらってる」
「……ちょっと待って。よくわかんないんだけど」
簡単な話だ。
──俺は藤宮を助けたかった。
本当にただ、それだけの話だ。
自転車の件での借りもあるし、彼女が奉仕制度に否定的だという話も聞いたから、恩を返すという形で藤宮をこの制度から遠ざけることができないか、と考えたのだ。
その結論がコレである。
誰よりも早く予約を取って、奉仕活動の終了時間まで俺がこの部屋を占拠する。
そうすることで誰も藤宮には手を出せなくなり、彼女は一応性処理係として活動しながらも、決して身体を触れられることはない状況になる、という算段だ。
「制度のことを改めて調べたんだが、性処理室の利用可能時間はともかく、性処理係に奉仕してもらうこと自体の明確な時間制限はなかったんだ。あくまでマナーとして、数十分で終わらせるようにってみんなが言ってるだけみたいだな。だから、今日は最後まで俺がここを使うよ」
「……それ、大丈夫なの? 外で何十人も待ってるけど……」
「いや、まぁ……先に予約を取れなかったあいつらが悪いってことで」
「えぇ……」
強引なやり方だということは重々承知だ。
そう長続きする方法でもないだろう。
だとしても今の俺にできる最善がこれなのだ。
ダメになったらまた別の道を模索するだけの話である。
この世界の”勇者”とかいう存在が作った常識を否定するための第一歩として、まずは制度を否定する隣の席の女子から助ける──そう心に決めてからは早かった。
こんな誤謬に溢れたディストピアなどクソくらえだ。
彼女はやらなくていいならやりたくはない、と言っていた。
だから俺はやらなくていいと肯定するために、藤宮が勇者の傀儡にならないで済むように、全力の拒絶ムーブをもってこの世界で立ち回ることにしたわけだ。
大勢の人々が藤宮イオリに手を出そうとしようが、たった一人でも藤宮依織の味方がいれば何かが変わるはずだ。
「性処理制度は勇者様が決めたことだよ。……こわくないの?」
「あぁ。少なくともこうして強がれる程度には、その勇者とやらのことは全然」
「……マジ、すごいね。信じらんないや」
そもそも勇者と名乗っている変人が誰なのかを知らないから恐れようがないのだが、そこは一旦黙っておくとして。
かなり手荒な方法を取った代償なのか、教室の外がやけに騒がしい。
おい早く変われ、藤宮とヤラせろ、等々数多のご意見が壁の向こうから飛び込んでくる。
「長い、ってみんな怒ってるよ」
「鍵閉めてるのにドアぶち破ってきそうな勢いだな……」
カッコつけてこの方法を実践したはいいが、どうやら予想以上に作戦の継続可能時間が短かったらしい。
このままではマズい。
藤宮を安心させるためにドヤ顔してたのに、さっそく狼狽し始めてしまった。
さて、どうするか。
実際にこの教室に押し入られた場合を想定すると、恐らく俺はボコボコに伸されて、藤宮は欲望が暴走した男子たちによって蹂躙されてしまう可能性が非常に高い。
その行為がこの世界で許されるかどうかではなく、事実として藤宮が襲われてしまう点を考えてまず容認できないのだ。
ゆえに彼女を別の方法で守らなければいけないわけだが、困ったことに何も思いつかない。
別の道を模索するだけの話であるとかなんとかさっき思ってたばかりなのに、ここで集団の圧力に負けてしまってはとても格好がつかない。
「仮病……はダメだな。奉仕係として活動してるって事実がないと、出席の補填にならない……ぐぬぬ」
「……ねぇ、柏城くん」
「いっそ完全なる籠城を──あっ。な、なに?」
声に反応して顔を上げると、なぜか藤宮はイタズラめいた笑みを浮かべていた。
なんだ。
もしかしていい方法でも思いついたのか。
察しのいい彼女であれば、俺の行き当たりばったりな作戦が頓挫しそうなことには気づいているだろうが、それってつまり俺に対して呆れかえっているということでもある。
この悪知恵が働いてそうな笑みは、もしかしなくても俺に対する嘲笑だ。
こんなところで詰まるなんてダサいな、アタシのこと好きなのは分かったからカッコつけてないでさっさと帰れよ童貞──なんて言葉をぶつけてくるかもしれない。怖い。言われたら絶対へこむ。
「あのさ。……ちょっと後ろ向いて?」
ま、回れ右して帰ってことか……。
「少しかがんで」
「あ、はい。……あの、藤宮さん?」
「よいしょ、っと」
「うおっ」
俺が背中を見せた途端、藤宮が不意に飛び乗ってきた。
決して重くはないが、突然こんなことをされたら驚いて転んでしまう恐れがある。
おんぶしてほしいなら先に言ってほしい。
急にやるのはホントに危ないのでやめてほしい。
ふわふわのクッションみたいな正体不明の感触も背中に伝わってるので、できればこんな密着するのも勘弁してほしい。
……いや、待て。
なんだこの状況?
「柏城くんはアタシを助けようとしてくれてる……って認識で合ってるのかな」
うわっ、なんか髪から芳醇な甘い香りすんだけど。
「……柏城くん?」
「あっはいっ、はい。聞いてます」
藤宮の認識は間違っていない。
窮地から救う、だなんて驕った考えではなく、彼女の言う通りあくまで物理的な奉仕回避の一助になれば、と思って行動を起こしているだけだ。
方法が違うだけで、藤宮に近づきたいという考えを抱いている点では、壁の向こうでお祭り騒ぎを起こしている男子たちとの違いはない。
ここにあるのは、藤宮が許容してくれるかどうか、という線引きただ一つである。
「藤宮さん。もし、なにか方法が思いついたのなら教えてほしい。できる限りのサポートはするから」
「本当にいいんだ? アタシなんか庇って」
「だって、自転車を直してもらったお礼、メロンパンだけじゃ足りないからさ」
「……アハハっ。そっか。──うん、ありがと」
礼と共に、腕を首に回してきた。
どうやら本格的におんぶを要求してきているようだ。
しかし、これは一体なんのための儀式なのだろうか。
「今からアタシ、めっちゃ激しく犯され過ぎてヘロヘロになっちゃった演技するから」
何を言っているのか分からない。
「だから柏城くんはすごいスッキリした表情で、アタシを保健室まで運んで」
「……えっと、つまり?」
「奉仕係は体力が限界になったら、保健室で休息を取っていいってことになってるから、それを利用する感じ。柏城くんはアタシをまともに立てなくなる状態になるまで使ったっていう演技をしてもらうことになるけど……いいかな?」
なるほど。
要約すると、俺は誰もよりも早く藤宮の予約を取って、ダメ押しに他の生徒たちが使えなくなるまで藤宮で遊びまくった、史上最低の凶悪絶倫クソ男になるってわけか。俺の高校生活が終焉を迎えるなコレ。
──いや、いい。
それしかないなら、やるしかない。
元々選択肢などそう多くはなかったのだ。
とりあえず今日を乗り切れそうな方法があるなら、迷わずそれを実行すべきだ。
「もちろん構わない。ただ、奉仕活動時間内に保健室へ行っても平気なのか?」
「それは大丈夫。風邪とかで休むのと違って、活動による疲弊で保健室送りになるのは、むしろ積極的に頑張ったって扱いになるから」
とにかく、合法的な理由を用意してこのアダルトビデオのネタみたいな部屋から退室することができればこちらの勝利、というわけだ。
あくまで奉仕制度が適用されるのは、指定の場所内のみ。
そこを狙えばこうした裏技も可能なのである。
厳しい制度にも穴はあるんだよな……。
「……んんっ、ぁ、はぁ……っ」
「っ!?」
「あ、演技演技」
「そうでした……」
急に艶めかしい声を出すもんだからビックリして心臓が飛び出るところだった。
準備ができたら肩を叩いて、と促すと程なくして出発の合図を受け取った。
なるべく性的欲求を満たしたような気色わるい笑みを意識しながら、藤宮を背負って教室の扉の向こう側へ身を乗り出す。
すると、外で待機列を作っていた男子たちがギョッとした。
表情が引き攣っているであろう大根役者な俺はともかく、SNSで話題に上がるくらい役者として卓越している藤宮の真に迫る演技は、彼らにとっては本物に見えたのだろう。
「へ、へへっ、悪いなお前ら。一足先に楽しませてもらってたら、藤宮のほうがギブアップしちゃったみたいだぜ」
ヤバい、声が震えてクソみたいな棒読みになってる。
演技するのってこんなに緊張するものなのか。
「はぁっ……はぁっ、んうぅ……ゃ、やだ。さっきの、垂れてきちゃう……っ」
あの待って、ちょっとやり過ぎじゃない!?
くそっ、いきなり演技派女優に合わせるこっちの身にもなってほしいものだ。
「と、とにかくだな。藤宮は俺がやり過ぎて使い物にならなくなっちゃったから、本人の強い希望で保健室へ送ることになったぜ。お前たちはまた今度だぜ。ほら藤宮、早く保健室へ向かうのだぜ」
そんなこんなで。
背負った役者の怖いくらいリアルな演技に若干気圧されつつも、俺たちは妬みやら畏怖の念やらが込められた視線を跳ねのけて、なんとか保健室へとたどり着いたのであった。
先生が不在なのをいいことに彼女を勝手にベッドまで運び、周囲を確認してからカーテンを閉じ、椅子にドカッと腰を下ろしてようやく一息つく。
とても、とても、疲れた。
肉体的にではなく精神的に。
不安要素の多い作戦を成功させることができたのは幸いだったが、心臓に悪いことこの上ない。
出来れば二度としたくないところだが、きっと明日には藤宮を独り占めして剰えめちゃくちゃに遊び倒したカスとして、最悪な噂が伝播されるに違いないので、ここはもういっそ開き直ったほうがいいのかもしれない。
「──ふふっ。……あはは」
「藤宮……?」
疲弊しきってうなだれていると、不意にベッドの上で藤宮が笑い出した。
顔を見ると、彼女は本当に楽しそうな表情で腹を抱えている。
「はははっ……ハァ。あー、すごい面白かった。まさか本当に上手くいくなんて」
「し、失敗すると思ってたのか?」
「だって柏城くん、あんなっ、すごい、棒読みで……ぷっ、ふふっ」
「そんな笑うことないだろ!?」
俺だって結構がんばってたのに!
「ごめっ、はっ、アハハ」
「オイお前な」
「あぁー……あぁ、いや、うん。──でも、ありがとう」
ひとしきり笑い終えた藤宮は、明るい空気のままベッドの上で正座になって改めて俺に向き直った。
そこに昨日のような諦観しきった雰囲気はなく、彼女の表情は極めて自然で柔らかいものだ。
少し気が早いかもしれないが、俺は藤宮のこういう顔が見たかったが為に、こうして無茶で無謀な行動に出ることができたのかもしれない。
「柏城くんが来てくれなかったら、きっと今頃……だから、本当に感謝してる」
「……パンクの修理分は返せたか」
「うん、そりゃあもう、おつりが出るくらい」
そうか。
それは良かった。
本当に、よかった。
──性処理係という単語を耳にしたあのときから、ずっと困惑の只中にいた。
友人は知らない常識を語り、世界には勇者というあり得ないルールが存在しており、しまいには唯一の家族が病院にいてクラスには知らない女子が在籍していた。
正直に言えば初めからずっと恐怖を感じていた。
自分の居場所が消えたような気がして。
突然知らない場所に放り込まれて、右も左も分からなくなっていた。
けれど、そんな状況でも手を差し伸べてくれる人はいて、しかもその人は自分と同じく世界の歪みを認識してくれていた。
だから。
理不尽なルールに押し潰されようとしているその姿を、見過ごせる理由など俺にはなくて。
例え自分に酷いしっぺ返しが来るとしても、やはり動かざるを得なかった。
もう分かっている。
きっと、いま目の前にいる彼女を守ることこそが、この誤謬にまみれたディストピアで、俺がやるべき使命なのだ。
また明日も奉仕を回避するために、様々な苦難を乗り越えなければならないのだろうが、守るべきものを定めた今の俺ならきっと──
「──ッ!?」
ガクン、と。
突如として、大きな揺れ。
「わわっ」
「藤宮!」
ベッドから転げ落ちそうになった藤宮を抱きかかえるも、そこから二度、三度と銅鑼のようなけたたましい地響きが体を揺らす。
地震だ。
間違いなく地震だが、何かがおかしかった。
余震は無く、またスマホの緊急アラームも作動しなかった。
ともかく揺れが収まるまで、と藤宮を連れてベッドの下へ潜り込む。
ズシン、ズシン──大きな物音とほぼ同時に揺れが発生する。
このまま建物中にいていいのか、窓から飛び出してでも屋外へ逃げるべきではないのか、と様々思考が交錯する最中、ふと藤宮が俺の腕の中で小さく呟いた。
「……柏城くん。これ、もしかしたら地震じゃないかも」
この揺れが地震じゃなかったら何なんだ、と抗議する間もなく、今度は藤宮がベッドを抜け出て窓を開け、俺を誘導した。
促されるまま校庭に出て──そこで、ようやくこの揺れの正体をこの目で視認した。
いや、
「…………か、怪獣?」
そう。
まるで、怪獣。
外に出て俺の視界に飛び込んできたのは、高層ビルと同程度という規格外な巨体を誇る、二足歩行の獣であった。
「……なんだ、あれ」
意味が分からない。
地震を警戒して外に出たら、学校から見える距離の市街地で、まるでかの怪獣王の如く暴れ狂うモンスターが出現していたのだ。
これこそ夢ではないのか。
頬をつねると、しかしどうして痛かった。
それは目の前にある特撮怪獣映画みたいな光景が、現実であるという何よりの証拠で。
破壊されるビルも、燃え盛る街も、逃げ惑う人々も、あの意味不明な巨大なバケモノでさえも本物だと告げていて。
──さすがに思考が止まった。
「……うわー、怪獣」
藤宮が何か言ってる。
「うわー怪獣、ってお前」
「いや、だって怪獣じゃん。避難訓練通り、早く逃げないと」
「待って待って、ちょっとまって」
おかしくない?
そのリアクションは変じゃない?
急に現実を否定するような、まるで空想から飛び出してきたような絵面が目と鼻の先にあるっていうのに、なんでそんな落ち着いてんの?
てか怪獣が出現した場合の避難訓練ってなに……?
「三年前も来たでしょ、宇宙怪獣」
知らねえ。どこの世界の歴史語ってるんだ。
もしかしてウルトラマンの話とかしてるんですか。
「……まさかとは思うけど、柏城くん……もしかして知らない?」
はい。
「そんなことあるんだ……もしかして、海外に住んでた?」
「あ、あのそんなことより……いやっ、何であんなのがいんの!?」
ちょっとあなた冷静すぎませんか! 初めて怪獣とやらを目撃した一般人の気持ちにもなって!!
宇宙怪獣ってなんだよ急にSFか怪獣映画始まってるんですけど!?
ここって理不尽で強大な一人の人間が世界を支配してるディストピアとか、そんな感じの世界観じゃなかった……!?
「だってほら、勇者様の願いは
あの怪文書のことか。
「アレ、勇者様が異星人に会いたくて、宇宙に特殊な電波を発信してるってこと。それが原因でたまに宇宙怪獣も飛来しちゃうんだけど……」
とんでもないデメリット付きの宇宙交信してるじゃん勇者様。電波はお前の頭の中だけにしとけよ。
「ほらっ、とりあえず逃げないと!」
「おい引っ張るなって!」
いや、本当に。
少し待って、落ち着かせてほしい。
まず、俺は気がつけば別の世界の自分に憑依していた。
そこは勇者様とやらが支配するディストピアで、性欲処理奉仕制度とかいう、基本的人権を蔑ろにしたようなルールまである地獄だった。
そこで、俺は助けるべき相手を見つけた。
国から強制的に大多数の男に性欲処理のはけ口として使われるように指示されていたから、そんな理不尽が許せなくて行動を起こしたのだ。
なのにもっとヤバい理不尽の塊が空から降ってきやがった。
ディストピアじゃなくて怪獣映画だった。
理不尽の方向性、間違えてますよ。
「──待って、あの怪獣……」
二人で走って逃げていく途中、チラチラと後方の怪獣を確認していた藤宮が立ち止まった。
ていうかこの美少女、さりげなくさっきから俺の手を握ってることには気づいてるのかしら。
プニプニすべすべでやーらかいです。現実逃避が捗る。
「……中央病院に向かってる」
「えっ?」
「お、お父さんが入院してるところなんだけど……」
振り返ると、確かに怪獣の進行方向には大きな病院が鎮座していた。
そこで一つ、忘れてはならなかったはずのことを思い出した。
……千鶴さんが入院してる病院って、どこだ?
「まっ、待って、あいつ止めないとヤバい! もしかしたらあの病院に俺の家族もいるかもしれない!」
「ヤバいじゃん!」
「やばいって!」
「どうしよう!?」
「どっど、どうしよう……!」
マズい、混乱して何も分からなくなってきた。
怪獣(?)から見れば俺たちは道端のアリ同然なので、小石を投げようが大声を上げようが、足止めの一つもできやしないことは理解している。
しかしこのままでは俺と藤宮の家族が危険に晒されるどころか、この街がなくなる可能性すらある。
「藤宮さん、三年前はどうやって解決したんだ!」
「え、えとっ、戦闘機とかいろいろ飛んできてゴリ押しで倒した。でも到着まで凄い時間が……あっ!」
瞬間、何かを思いついたように声を上げた藤宮は、俺の手を引いて走り出した。
急に走ると転ぶから危ないよ!
あとそろそろ手も離してくれてもいいよ!
嬉しさより不安が勝ってるから!!
「あそこの広場にあるの、勇者様が完成させた対怪獣用の機体……! 正式配備されるまえに展示で披露する予定だったやつ!」
帰り道に見かけたあの巨大ロボット、ただの展示じゃなかったの!?
「誰もいないけど……もしかしたらアレ乗ったら動かせるかも。いこっ、柏城くん!」
「いやおかしいって藤宮!! 待って!?」
怪獣映画じゃなくてロボットものだった!!!