Crosses Have Not Banished Yet 作:zoe.
なんでや。
不足は死、
過剰は毒。
深沢宗がその名を石田宗弦と改めてから、それなりの年月が経過した。それまで見えざる帝国という霊子の世界で生活していた自分にとって現世という霊子濃度の薄い世界で生きることは――特に自身の滅却師としての能力を発揮する上で――少なからず制約のあるものであったし、何より霊体で生活していたときと違い器子の体は想像より早く老い、消耗していくという現実に直面することになっていた。一方で現世の定命の人間の生活というのは帝国のような「暴君の気分によって統治される世界」ではなく、一般的な倫理観の上に作られた法によって成り立つ社会というのは非常に居心地の良い環境であった。
瀞霊廷の影という場所に作られた見えざる帝国と大きく異なるのは、現世で生まれる多くの虚に対処を強いられることであろう。自らが現世に来た頃はそれほどではなかったものの、近年明らかに虚の発生数が増えており、この地に派遣されている死神の手に余る状況になりつつある。百年以上前、警告を無視して虚を狩り続けてきたことで最終的には尸魂界からの侵攻を受けることになったという歴史の反省はあり、極力虚の対処は現地を担当する死神に任せるべし、とはされている。しかしながら虚への抵抗力がない滅却師の魂魄にとって虚の存在は通常の人間以上に脅威であり、最終的には現地の死神に「お目溢し」してもらえる範囲で自衛の範囲での対処を続けていた。
とはいえ、現世に点在していた滅却師の共同体はここ数十年で急速に数を減らしていた。戦力の大半を尸魂界の侵攻で失って以降、多くのコミュニティは「滅却師としての活動を縮小し普通の人間に混ざって血を薄めていく」ことを選択しており、その結果が現れてきているのだろう。実際この空座町という東京西部の街周辺では虚の数が増えているが他の地域ではそうした傾向はなく、ほとんどの場合において現地の死神の手に任せておけば十分という状況ではある。滅却師が虚への抵抗力を持たないという「弱点」は、その滅却師としての能力同様「血」の濃さに紐づくものであり、普通の人間との混血を進めていけば必然的に――その力と引き換えに――限りなく安寧に近い生活を手に入れられたのだ。
そうした傾向の中でこの地域の滅却師の共同体が未だに純血統を筆頭とする伝統的な滅却師コミュニティのまま維持できていた一つの理由は、宗弦が見えざる帝国から持ち出してきた技術や装備によって能力の底上げがなされたことにあるだろう。日頃から霊力を貯蔵することによって発展的な戦闘を可能にする銀筒をはじめとした各種霊装や、何よりも「血装」という新たな戦法を手に入れたことで、虚との戦闘において犠牲を出すことはほとんどなくなっていた。少ないリスクで虚と戦えるのであれば、滅却師の誇りを諦めてまで力を捨てるという苦渋の決断をする理由はなかったのだ。
一方見えざる帝国、
キルゲ・オピーは自らの執務室で部下からの報告書に目を通していた。
ユーハバッハからは「捨て置け」とは言われていたものの、半分は帝国に対する義務感、もう半分はかつての自分と同じ甘い夢を見ていた後輩への心配から、深沢宗の行方を追っていた。帝国ではここ数十年の間にユーハバッハから齎された新たな力によって大幅な戦力向上がなされており、彼が持ち出した古い霊装が今更帝国の脅威になる事態は確かに考えにくく、そういった意味ではユーハバッハが「捨て置け」と言ったことは納得の行く話ではある。だが一方で、ようやく現世にて発見した彼の新しい居場所は虚の発生数が明らかに多い地域であり、それは即ち死神の目を引くこと、ひいてはそこから帝国の存在が尸魂界に露見する可能性について一抹の不安があったのだ。そのため、キルゲは部下に対して定期的に「現世に残る滅却師の末裔の動向監視」を命じており、必然的にそれは現世で最も有力な滅却師のコミュニティである空座町周辺に暮らす石田家・黒崎家を中心とした集団が最大の関心事となっていた。
見えざる帝国で暮らす霊体である自分と違い定命の人間の速度で老いていく後輩がいつからか自分の見た目より老いていくのを見るのはなかなかに違和感を覚えるものだったが、何より数年前についに「親」として人並みの幸せを手に入れていた姿を見たときにはほっとしつつもある種の嫉妬を覚えもした。なにぶん「血の濃さ」がそれなりに強さに影響してしまう滅却師は、特に星十字騎士団という立場にあるような人間であればその子孫を残すということについても自らの意思によって行えるわけもない。現に現在騎士団に列されている十数名の中に、ユーハバッハ覚醒後――不特定の相手と関係を持つような輩はいたとしても――そうした伴侶・家族を持った者は一人として存在しないのだ。そんな中で、出奔した先で同じ純血統の滅却師と自らの意思で家庭を設けた元部下は少し眩しく見えた。
報告書を読み終えたキルゲは、満足そうな顔をするとそれを書棚に仕舞った。前回一年前の報告時と比べても彼らの戦力はさほど変化しておらず、一番の戦力である
定命の世界で暮らすということは、霊体で生きていた頃よりも人の生死に触れる機会が増えるということでもある。虚や死神との戦いで命を落とす戦死でなかったとしても、事故や病、あるいは寿命によって定命の人間は霊体のそれより遥かに簡単に死んでいく。
この日、数日前から病床に伏せっていた滅却師が危篤に陥り、半ば共同体のリーダー的なポジションになっていた宗弦が見舞い――というより立会い――に訪れていた。名を黒崎樹といい、黒崎家の一人息子であり、そして石田家の次女を嫁に取った男である。まだ40過ぎとつい最近まで現役だったのだが、しばらく前に体調を崩して検査をしてみたところ手遅れの腫瘍が発見され、そこから急激に容態が悪化していった。
「宗ちゃん、迷惑をかけるなぁ」
樹にとって宗弦は彼が現世に来た直後からの友人関係であり、こうして今際の際に迷惑をかけてしまうことに心苦しさを覚えていた。
「そんなこと、気にしなくて良いよ」
「娘達にも色々押し付けてしまうし、情けない父親だよ」
彼の妻、つまり宗弦の義妹は既に事故で亡くなっており、彼の――宗弦の息子と同じくらいの年頃の――一人娘は今後石田家に身を寄せることになっていた。
「子供たちにこんな事を強いてまで、滅却師の血筋を守る必要なんてあるのかな」
彼の一人娘真咲は宗弦の一人息子である竜弦と、生まれた時点で既に――もちろん本人達の預かり知らぬところで――婚約者として純血統の血筋を守ることを家の意向として強いることになっていた。この決定については親である樹や宗弦よりも親世代の人間が「仕来り」として要求してきたことであり、おおよそ現代的な価値観を持つ樹にとっては内心納得がいっていない部分もあった。
「まあ、仕方ないよ。お義父さんたちにとっては必死に守ってきた血筋だからね。次に繋ぎたいと思うのは当然さ。僕らにできることは、その縁が本人達にとって不幸にならないよう、お互いがいい関係を築けるようにすることじゃないかな」
「…そういう考え方もあるか」
宗弦自身もまた見えざる帝国で自由意志の恋愛など存在しない騎士団隷下の滅却師という立場にいたこともあり、子供たちに押し付けることには引け目は感じるもののそうした圧力をかける側の心情もまた理解していた。避けがたい定めがあるのなら、その定めが本人達の不幸にならぬようお互いが良い関係を構築できるように手助けしてやるのが親の責任だという考えもまた自身のうちにあったのだ。
「真咲のこと、頼んだよ」
「ああ」
そうして樹が息を引き取った瞬間、宗弦は妙なものを目にした。
細い光の柱のようなものが、空へと伸びていったのだ。光は一瞬で消え、その光の先に何があったのかはわからない。思い返せば以前他の老いた滅却師の死に立ち会ったときも薄っすらと光が立ち上ったような気がしないでもないが、ここまではっきりとしたものではなかった。
考えてみれば、樹は自らが持ち込んだ血装という新たな力を早くから使いこなしていた。純血統の滅却師であれば生まれつき使えるその力は「使い方」を知ればすぐに使えるものではあったが、とはいえ樹の素質は黒崎家・石田家の滅却師のなかでも極めて高いものだったと言えよう。一方以前立ち会った滅却師は混血統で訓練の末に使えるようになったとはいえ、その力は樹や宗弦に遠く及ばないものだった。ひょっとすると、滅却師の死の間際の「光」は血装のレベルに応じているのではないだろうか。
そう考えてみると、色々な物事が一つの線で繋がった。血装とは始祖ユーハバッハから連なる「滅却師の血」の力である。そして、見えざる帝国に残されていた古い伝承として、ユーハバッハは「力を分け与え、またその力を集め直す」という言い伝えがあった。そうであるなら、「血装を使えるようになった滅却師の力は、死に際してユーハバッハに回収される」可能性が出てきた。仮にそうであるなら、自らが持ち込んだこの血装という力は現世で平和に暮らしていた滅却師にとってとんでもない劇薬であったということになる。宗弦はこの「劇薬」とどう付き合うべきなのか突き止めようと心に決めたのだった。