トレーナーくん大丈夫?話聞こうか?   作:最低保証

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 インスタントな安らぎを。




わるいゆめ

 

 ひどい顔だと思った。無精髭と隈のせいでまるで落武者に見える。それに気分も良くない。頭痛は酷いし、吐き気や倦怠感もある。だか、ぼくはその表情を教師という仮面を被って隠さなければならない。生徒の前で弱った部分を見せるわけにはいかないから。ぼくは、ここに教師として雇われている。

 揮発したアルコールの匂いが頭痛を誘発し、それが呼水となって様々な不調のサインが身体中のあちこちで発生する。それを何とかねじ伏せながら、ふらつく足取りで洗面台に向かう。顔を洗って、歯を磨いて、髭を剃るだけ。それだけの作業すらも今は億劫だ。だが、社会人としてのマナーや良識がぼくを駆り立てる。すっかりと飼い慣らされてしまった。

 

 ──────線香の匂いも、落とさないと。

 

 そう思った時、きゅっと心臓が竦んだ。それはあの子の証を消してしまう行為ではないのかと。あの子がここにいた証明を、なくしてしまいたくない。だが、もうあの子はどこにもいない。どんなに思っても、どんなに大切でも、あの子はここに帰ってこない。

 

「おぇ……」

 

 数時間ぶりの嘔吐。胃酸しか含まれていない形だけの拒否反応。虚しいだけの生理現象は、ぼくを朝から最悪の気分にさせた。

 

 

 何とか持ち直して出勤すると、すでに朝練に励んでいる生徒やトレーナーが沢山いた。ぼくはそれを極力見ないようにして、教員準備室へ向かう。その場所でやらなければならない事は特にないが、なんとなくの習慣で毎日そこに訪れる。ぼく以外誰も使わない、学園の端にある小さな一部屋。訪れてくれる担当の子たちは、もう誰もいない。去ってしまった。学園から、この世から。

 彼女が好んで座っていたロッキングチェアは片付ける気にはなれない。ぼくが座る事はない上狭い部屋をさらに手狭にしている原因だが、この学園にいられなくなった彼女達の居場所をしまいたくなかった。そんな事をすれば、今度こそ本当に彼女たちの存在を否定してしまうような気がする。誰にも見向きされなかった彼女たちのために、ぼくだけは目を開けていたい。

 

 酷い感傷だ。そもそもそんな事を思う資格なんてない。ぼくは5人の生徒の未来を潰した。夢を見るという当たり前の事すらさせてあげられなかった。そんなぼくが彼女たちのために、なんて笑わせる。何もしてあげられなかったのに。ぼくは絶望的にトレーナー……いや、人と関わる事に向いていない。教師は続投するとしても、最低限トレーナーは辞めたほうがいい。教科書通りの対応ができるだけのライセンスなんて無価値だ。

 

 コンコン。

 

 ……来客。こんな時間に、この場所で。短い勤務年数の中で初めての出来事だ。あいにく心当たりは全くない。担当もいない。同僚とは1人を除いて距離を置かれている。理事長等の上層部は用事があるとしたら呼び出すはずだ。生徒という可能性が一番高いが、テストはまだ行ってすらないため点数調整の嘆願ではない。

 誰が、どんな用事で、ここを訪ねるのか。

 

「どうぞ。鍵は空いています」

 

 ギィ、と木が軋む音と共に入室したのはこの学園の生徒会長……シンボリルドルフだった。とびきり珍しい来客だ。ただの下位トレーナーのぼくに、一体何の用なのか。

 

「失礼するよ、トレーナー君」

「……ロッキングチェア以外でしたらどこでも大丈夫なので、好きな場所にお掛けください。飲み物を出すので少しお待ちを」

 

 座っていたスツールから立ち上がり、簡素な棚に向かう。インスタントコーヒーしかないのが申し訳なくなる。最低限、それなりの飲み物……欲を言えばお茶菓子は常備しておくべきだった。

 シンボリルドルフはこの薄暗い部屋をもの珍しいそうに見ている。いつも大人びている彼女の年相応の振る舞いに少し嬉しくなった。君にもこんな一面があるなんて。

 

「何もない殺風景な部屋だからね。どこを見ても、面白いものはないよ」

「いや。ここには君と君の担当の思い出が詰まっている。面白くないなんて、とんでもない」

「その思い出はみんな生徒たちに持ち帰ってもらったよ。トロフィーとか、盾とか。ここにあるのはぼくの研究資料と、ぼくの思い出だけさ……本当に何もない、空虚な抜け殻。少し前までは、あんなに賑やかだったのに」

 

 頼んでもないお菓子を持ってくる子。狭いといって笑う子。廃棄物でギリギリ使えなくもないものを拾ってくる子。空き時間にボードゲームをする子。写真を貼るためのコルクボードを持ってきてくれた子。

 

「そうか……悪い事を、聞いてしまった」

「いいんだ。全部、ぼくの力不足だ。ぼくは彼女たちに何もしてあげられなかった……飲み物、持ってきたよ。インスタントコーヒーしかなくてごめんね」

 

 背が低い机にコーヒーカップを2つ置く。ルドルフはソファに座っていて、ぼくはそれの真正面に来るようにスツールを動かして、座る。

 

「ありがとう……てっきり、ロッキングチェアに座るものだと思っていたのだが……」

「あれは、あの子達専用の場所だからね。ぼくは座れないんだ。前に座ったら、怒られてしまった……それで、何の用かな。多忙な君がここを訪れる理由が、ぼくにはまだわからないんだ……」

 

 コーヒーカップに口をつけて、目を少し細める。経口摂取したカフェインが脳の覚醒を促し、味覚が苦味を認識する。インスタントの安物だから風味とか深みはないが、デフォルメされたコーヒーの平均値の味だった。

 ──────シンボリルドルフは口を開かない。

 

「……ある時、救われて。でも、その救済の対価を少し後に傘増しして、利子をつけて求められるなら、そういったインスタントな安らぎはいらない。そんなものに縋るくらいなら、いっそ夢現のまま車道に飛び出す方が望みがある」

 

 シンボリルドルフが訪れた理由なんて、本当は分かっていた。分かりたくなかったのは、ぼくだけだ。

 

「あの子のことだろう? 聞きたいのは」

 

 色んなことに疲れて、絶望して。長い眠りを選んだぼくの可愛い教え子。

 

「君は全てのウマ娘の幸福を願っている。その全てには、当然あの子も含まれている。ぼくはあの子の幸せを、未来を、夢を奪ってしまった。あの子だけじゃない。ぼくは沢山の子の夢を奪ってしまった。トレーナーとして、教師として、大人として、最悪な事をやってしまった。到底許される事ではないし、ぼく自身もぼくを許せそうにない。どんな罰も受け入れるつもりだよ。死ねと言われたら出来る限り苦しんで死ぬし、辞めろと言われたら今後一切の教育活動に携わらない」

 

 それが最低限の責任。ぼくは、ぼくを信じてくれたあの子達の為に逃げる事だけはしたくない。それがぼくの出来る唯一の事だから。

 

「あの子を殺したのは、ぼくだ」

 

 





 インスタントコーヒーは財布に優しいから大好き。

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