トレーナーくん大丈夫?話聞こうか? 作:最低保証
吐きたい。
アパートの鍵を閉めて室内に入ると、途端に膝の力が入らなくなり崩れ落ちた。そのままドアを背にずり落ちていき、玄関に座り込んだ。
スーツが汚れるとか、そういったことは頭から抜け落ちている。ただ、今は宛先のない虚しさや侘しさを噛み締めている。
「……疲れた……はやく、楽になりたい」
うわ言のように零れた言葉を、ぼくのものと認識するのに時間がかかった。自分の心の中にある感情を全部ミキサーにかけて絞り出した言葉はなんともありきたりで、声音は暗かった。
嫌な事は忘れないと。折り合いをつけて前に進まないと。このままでは生徒に示しがつかない。ぼくを信じてくれたあの子に申し訳がたたない。いつまでぼくは学生でいるつもりなんだ。もう24になるのに。
這いつくばりながらリビングルームに入り、段ボールからコデインシロップを出す。学生時代に先輩から押し付けられたもの。あまり好きではないが、今のぼくには救世主だった。
「嫌なこと、全部忘れられるからね」
だけど、コデインは離脱症状がきつい。身体中がおかしくなったり、変なものが聞こえたり見えたり、不安や強迫観念で胸が押しつぶされそうになったり。でも、こんな現状よりはきっとマシだ。
スプライトとシロップを混ぜて、宝石みたいに綺麗なパープルドリンクのリーンを作る。仕事なんてどうでも良かった。明日の僕がどんな状態であろうと、スーツを着て仮面さえ被れば外面だけ立派な教師という名の家畜になれる。
早く忘れよう。忘れたんだよ。忘れたいんだよ。
──────あの子の、笑顔なんて。
「……ッ」
脳内にフラッシュバックした残像を振り払うように、ぼくは床にリーンをぶちまけた。ガラスが手に突き刺さった痛みも気にならない。ただ、どうしようもないほど悲しくて。
だけど、涙は強烈な嘔吐感に打ち消された。吐瀉物はほとんど出ない。出るのは少量の胃酸と唾液の混合物。腹の中の異物感だけが消えない、最悪の気分だ。
「……なにも……」
したくない。考えたくない。眠りたい。この現実から一刻も早く逃れたい。ソファーに沈むように、夢に堕ちていきたい。だが、その考えにぼくの思想が突き刺さる。
『夢に、意味はない』、と。活性化合成仮説を、ぼくは信じている。
「自虐だよ。笑ってくれ。夢に意味はないんだ。だから、ぼくは夢の中で一時の安らぎを得たくない。ひどい矛盾だよ。夢の中で眠りたいけど、そんな安らぎをぼくの思想で拒絶するなんて。融通が効かないにも程がある。柔軟性が足りないんだ。世渡りが上手くない。向上心がない」
このトレーナーという職業を志す前は、官公庁の職員になろうと思っていた。ぼくは、ぼくを一つの歯車と見做せ、形のない誰かに奉仕することも然程苦ではなかった。だが、ぼくは出世には全く興味がなかった。ぼくの性格が致命的にシステムと一致しなかった。
そこからぼくは教師を目指した。この時点でもぼくはトレーナーの就職は考えておらず、教師という枠組みの中の職種と考えていた。目指していたのは中高の教員であり、トレーナーをするつもりは皆無だった。
だが、卒業研究に目をつけたトレセン学園がぼくをスカウトした。トレーナーをやらないかと。
体の一部を義体化する研究は、レースで体を壊しやすい彼女たちにとって第2の生を歩む上で重要だと……。提示された条件は、トレセン学園の大学にあたる機関でポスドクとして勤務し研究を続けること、トレーナー免許を取得すること、トレセン学園で教員として座学を教えることだった。
今思えば、この時点でぼくはこの現状を予想していたのかもしれない。
壊しやすいって何だよ。生徒の無茶を止めるのが仕事じゃないのか。断崖の果てを飛べって背中を押すのがトレーナーなのか。それとも単純に気づかないだけなのか。だとしたら、ただの監督不足だ。誰もが限界ラインでブレーキをかけれるような器用さを持ってるわけじゃない。知らずに追い越して、おかしくなってから気付くのが大半だ。
だから、その考えが自分にそのまま帰ってくる。
壊してしまった。無茶を止められなかった。断崖絶壁で背中を押してしまった。気づいていてもなお、ろくな行動を起こさなかった。監督不足なんて綺麗事じゃなくて、ぼくは生徒を殺したのだ。この手で。
「君は、どうしてぼくを責めなかったんだ。君にはぼくを恨む正当な権利があった。君はまだ15歳で、たくさんの未来があったはずなんだ。レースでも、レース以外でも。選手として生きる未来、普通の人と同じように生きる未来。君には、それだけの可能性があった。君は沢山、ぼくに語ってくれた。将来の夢、やりたい事。レースは高2でやめて、高3は受験勉強をして外部の大学に進学する。そこで4年間勉強して、保育園の先生になりたいって……ぼくは、それを……それ、を……」
奪ってしまった。
それなのに、ぼくを恨まない。あの遺書には、感謝の言葉しか見当たらない。恨んでもよかった。憎んでもよかった。君の全てを奪ってしまったぼくは、君に殺されてもよかった。君の殺意で死ねるなら、それがぼくの運命だとさえ思った。
だけど、ぼくはこうも醜く生にしがみついている。君が見れなかった、ぼくが奪ってしまった明日を、こうして生きている。
それには、果たして意味があるのか。君に譲りたかった未来を、ぼくが生きる意味は。
何もかもが墓標に見える。あの子の亡骸と白い骨が全てに付随する。
遺影が蜃気楼のように。
「君は、この世界でうまく笑えたのかい? 君は、君の物語に満足しているのかい……?」
主人公くんの過去って需要あったりするんですかね。設定はあるので、ご要望があったら書きます。創作や現実でも掃いて捨てるほどある平凡なルーツですが。