黒橋西菜はチャイナドレスを着て、俺を誘惑しやがったんだ。
「……何よ、その顔」
「いや、別に」
そうだった。あの日も、こんな風に雨の音がしていたっけ。
「あたしね、実は今日、お兄ちゃんと喧嘩したんだ」
西菜はテーブルに肘を突いて、掌の上に顎を乗せながら言った。俺は何も言わずに、ただ黙って耳を傾けた。
「それでね、仲直りしたいから電話してみたんだけど……繋がんなくてさ。だからメールで謝ろうと思ったら、今度は返事すら来ないんだよ?ひどくない?」
「…………」
俺は何も言えなかった。
「あーあ。どうしたら許してくれるかなぁ」
「知らんわそんなん」
俺は思わず本音を漏らしてしまった。
「えぇ~、冷たいなぁ」
西菜は少し悲しげな表情を浮かべる。
「じゃあさ、代わりに考えてよ」
「なんでだよ……」
「いいじゃん!お兄ちゃんなんだから!」
そう言って彼女は口を尖らせる。こういう時だけ都合の良い事を……。
「つっても、何を言えば良いのかなんて分かんねぇぞ?」
「何でも良いよ。『ごめん』でも、『愛してる』でも」……後者はちょっと違う気がする。
「う~ん……そうだな……」
俺は頭を悩ませる。そもそも、あいつが何に対して怒っているのかもよく分からないのだ。まあ、確かにこっちにも非があるっちゃあるけど……。
しかし、いくら考え込んでみても、何も思い浮かばなかった。
「悪い。やっぱり分からん」
素直に白旗を上げると、西菜は「そっか……」と言って溜息を吐いた。
「分かった。もういいよ。自分で考えるから」
そして、そのまま立ち上がる。
「おい、どこ行く気だ」
「決まってんじゃん。家に帰るの」
そう言うと、西菜は玄関に向かって歩き出した。
「待てよ。傘持ってけよ」
「いらない。濡れたくないもん」
「風邪ひくぞ」
「大丈夫だって。私、バカだし」
「そういう問題じゃないだろ」
「うるさいなぁ。ほっといてよ」
西菜はそのまま扉を開けると、外に出てしまった。バタンという音と共にドアが閉まる。
「……まったく、しょうがない奴だな」
俺はリビングに戻ると、ソファに置いてあった自分の上着を手に取った。そして、それを羽織ると再び玄関に向かう。
「おいっ!」
外に出るなり、大声で叫んだ。すると、数秒遅れて彼女の足音が聞こえてくる。振り返ると、そこには驚いた様子の西菜がいた。
「何やってんの?」
「お前こそ何やってんだよ。ほら、これ使え」
俺は手に持っていた上着を差し出す。しかし、彼女はそれを受け取ろうとしなかった。
「要らないって言ったじゃん」
「いいから着とけっつの」
無理やり押し付けるようにして渡す。彼女は渋々といった感じで袖を通した。
「……ありがと」
「おう」
「でもさ……何か恥ずかしいね。この格好で外歩くのって」
そう言いながら、彼女は少し頬を赤らめる。
「安心しろ。俺も同じだから」
「ふぅん」
それからしばらくの間、二人の間に沈黙が流れる。雨の音だけが響いていた。
「……ねえ、お兄ちゃん」
先に口を開いたのは西菜の方だった。
「何だよ?」
「今度さ、二人でどこか遊びに行かない?」
「別に良いけど、どこに行きたいんだ?」
「どこでも良いよ。お兄ちゃんと一緒なら」
そう言うと、彼女は微笑む。
「そうか……」
俺もつられて笑みを浮かべた。
「じゃあ、近いうちに行こうぜ」
「うんっ!」
西菜は大きく首肯する。その笑顔には曇り一つ無かった。
「あ、そうだ。お土産買ってきてあげるから楽しみにしててよね!」
「ああ、期待しとく」
「じゃあ、また明日学校で!」
「おう。気を付けて帰れよ」
手を振る彼女に背を向けると、俺はゆっくりとした歩調で帰路に就く。そして、その姿が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
その日を境に、黒橋西菜の姿を見掛けなくなった。