中ボス悪役令息くん、度重なるループの末に悪役『令嬢ちゃん』に至る 作:TS幼馴染は必ず勝つ党第809代党首
前方の角から、おそらく何も知らない下級生がやってきていて。
そして後方からは手負いの魔族が追いかけてきている。
考えられる限り最悪の展開だ。
なんで、と心が不運に泣き言をもらす一方で、頭はひどく冷静に状況を分析していた。
ここまで来て今さら進路は変えられない。
しかも、まずいことに背後のバケモノの狙いは明らかに自分から逸れてしまった。
たとえばここで逆走するなりして自分がどうにか進行方向を変えたとしても、あれはおそらく、先ほどまでのようにおとなしくルクレの後を追いかけてきてはくれないだろう。
あれの爪牙は曲がり角の先の、抵抗するすべを持たない後輩に向かって振るわれる。
それがどうしようもない現実だった。
そうして、悲しいことに己にはこの状況を打開できるような手札がないのだ。
杭での足止めはたぶん間に合わない。
数瞬は稼げるかもしれないが、後輩を逃してやれるほどの時間はというと無理だ。ルクレの魔力は尽きかけていて、威力も杭の強度も万全ではない。拘束はたやすく振り切られるだろう。
なによりこのバケモノのリーチを考えると、無事な手足のどれかが彼、あるいは彼女に届きかねない。
そうして障壁はと言えば、もっと役に立たないのだ。
あれは自動起動される代わりにルクレの周りにしか展開されない。しかも硬度を高めた代償に、詠唱で手動発動することも座標を変更することもできない。
ルクレの手札はどれも、自分のことは守れても他の誰かのためには役に立たないものばかりだ。
誰かに助けてもらえるなんてハナから想定していないから、誰かを助けることだって同じだけ勘定に入れていなかった。
なのに。
──どうする。
思考は交錯して、けれど瞬くうちに導き出せたこたえはたったひとつで。
行動は、一瞬だった。
萎えかけの足に鞭打って、ルクレは躊躇うことなく曲がり角に跳び込んだ。
状況がまったくわからないのだろう。いきなり誰かが飛び込んできたことにそこにいた中等部の生徒は、少女はきょとんとした顔をしている。
その痩躯に跳びついてルクレはしっかりと抱き込んだ。そのまま床へ押し倒そうとして。
同時に指輪に魔力を吸い上げられていく感覚と。
ついで、がきん、という鈍い音が続く。
自動発動した障壁は、どうやら振りかざされた凶爪をうまく防いでくれたらしい。
バリアを張ってやれないのなら、その座標を動かすことができないなら、自分が動くしかない。
咄嗟の判断が功を奏したことにルクレはほっ、とひとつ息をついて。
そうだ、息をついた。
油断した。
思うにそれがよくなかったのだ。
しかも誤算があった。
自分の体重が軽くなっていることをすっかり忘れていた。
中等部の生徒相手なら、抱き込んでそのまますぐ床に押し倒せると踏んでいたのに、できなかった。
自分と彼女との体重差があまりなかったのか。
それとも抱き込んだ少女がいきなりのことに動揺して、思わず踏みとどまってしまったのか。
少女を抱き込んだまま、ふたりの身体は一瞬、宙に浮いていた。
──だめだ。
逃げ場のない空中で、ルクレの背中には防御障壁がまだ残っている。
残ってしまっている。
自動で発動できて、硬度も高い。
自己防御においてという点ではおよそ完璧に思えるこの魔術には実はひとつ、大きな欠点があった。
ルクレがどうしても改善できなかった欠点が。
──この防御障壁は、二重に展開することができない。
背後にそれがまだ割られずに残ってしまっている以上、もう一枚新しく張ることはできないのだ。
ルクレの背後には壊れかけの障壁。
そうして、両側に遮るものが何もないまま、ふたりの身体はまだ空中にある。
本当にたった一瞬の隙だった。
けれど、それを見逃してくれるような生易しい相手ではない。
宙に浮いた獲物をまとめて薙ぎ払うように、その傷だらけの腕がびゅうと音高く振られた。
無慈悲な黒い追撃が、ルクレにはやけにスローモーションで見える。
見えるだけだ。
避けられはしないし、何かしらのやさしい奇蹟なんて起こらない。
覚悟どころか、呼吸さえできなかった。
強烈な衝撃がふたりを襲う。
体中の骨が軋む音をどこか遠くで聞いたような気がした。
そうして全身を駆け巡る激痛の、そのすぐ後。
こほ、と肺から空気のかたまりが押し出された。
何かに身体が叩きつけられたのだ、と遅れて理解する。そのままずるりと身体が床に滑り落ちて、そこでやっとその何かが壁だったことがわかった。
ずきずきと身体中がひどく痛んで、うまく呼吸ができない。
しかも先ほどの衝撃に脳が揺らされてしまったのか、ぐらぐらと世界が乱れて四肢はぴくりとも動いてくれない。
立ち上がることもろくにできないまま、それでもルクレはなんとか顔をあげた。かすんで乱れた視界に魔族の姿を探す。
どこだ、どこにいる。
きっとあれの狙いは変わっていない。
その殺意の矛先は、哀れにもこんなところに居合わせてしまったあの下級生に向けられているはずだ。
ぐわんぐわんと揺れて定まらない上、巻き上がった土煙で視界は最悪だった。
けれどその中に、それでもわかるうごめく巨躯の影がひとつ。
そのすぐ近くに、倒れ込んで動かない子どもの足も見えて。
「──な、がれる星を」
それを認めた瞬間に、ルクレはかすれた喉で、枯れかけの魔力をかき集めてささやいていた。
短縮詠唱ではたぶんだめだ、今の自分の状態では十分な威力の保証ができない。
だめだ、と冷えた理性が叫んでいる。
そんなことをすればその殺意の切っ先が今度は自分に向けられることになる。
死ぬ順番がちょっと変わるだけで、何も変えられやしない、と。
確かにそうかもしれなかった。
けれど、何もしなくとも結局死ぬのなら、抗った方がいくらかマシだ。
たいたい、ここに魔族を誘導してきたのはルクレなのだ。
つまりこの下級生が死んだとしたら、それは己の責だ。
くそくらえだ、自分は誰かの死なんてものを負うことはできない。そんな重たいものの責任なんて負えない。これまでの繰り返しで重ねてきた罪のせいで、もう手いっぱいなのだから。
「たばねて、かえす。空が、ひかりで、満たされるように」
ゆっくりと、バケモノの爪が振りかざされる。動くことのできない獲物たちに見せつけるように。その残虐さに今だけは感謝したかった。
「──
詠唱は、果たしてなんとか間に合ったのだ。
収束した真っ白な光の矢が、その肩を貫く。
杭と呼ぶにはもうずいぶんと細すぎる、けれど確かな一矢。
振り上げられた黒い凶爪が動きを止めた。
最後の一撃だ。二発目は続かない。
さっきの障壁と今のそれと。
これできっかり二回、魔術を行使したことになる。
つまり、──魔力切れ、だった。
その証左に鈍い頭痛は頭の芯を突き刺すような鋭いものへと変わり、指先から熱が、体温が失われ始めている。
我ながら自分の限界はよくわかっていたわけだ。
はは、とかわいた笑いが漏れた。静かな廊下に、虚しいそれがやけに響く。
すべての手札を切りきって、悲しいことに助けはいまだ来ないまま。
どうにも運は向かなかったらしい。
けれど、ルクレが最後のちからを振り絞った成果だけは、どうやら無事にあがってくれたようだった。
ぴくりとも動かない足元の獲物からこちらへと、バケモノがその視線を変える。
オレンジ色にぎらつく瞳がはっきりとルクレの姿をとらえていた。
当たり前といえば当たり前だ。魔族は憎悪や悲鳴や恐怖を求めて動く。
意識がない方よりもある方をいたぶりたいのだろう。
そうして、獲物の恐怖をあおるように、じわりじわりと巨躯が歩を進めてくる。
一歩一歩を愉しむように、異形が、死が迫ってくる。
それでもルクレは動じない。
慌てたところで、もうどうにも逃げようがなかった、ということもある。
脳震盪の影響でまだ手足はちっとも言うことをきかない。立ち上がることさえできないままだ。
そんな状況で無様に足掻いて相手を愉しませるつもりはなかった。相手の糧になるのだと知っていて、恐れたり泣きわめいたりしたくない。
それに。
霞がかかりつつある視界で、それでもルクレはただまっすぐに、近づきつつある死を見つめた。
貴族たるもの、いつ何時いかなる状況でも冷静さと優雅さとを失ってはいけない。
それくらいの矜持はまだ、己にだってあるのだ。