中ボス悪役令息くん、度重なるループの末に悪役『令嬢ちゃん』に至る 作:TS幼馴染は必ず勝つ党第809代党首
しまった。
空腹を声高に訴える胃腸を、ぎゅっと反射的に抑えこんでルクレは身をすくめた。
が、もう遅い。
先ほどまでとは打って変わって静まり返った部屋に、自分の腹の音が鳴り響いてしまっていた。
騒ぎの元凶たちは立ち去って、けれど部屋にひとりきり、というわけではない。
まだベッドの下には、いるのだ。
シャニが。
やってしまった。
さっと頬が朱に染まっていくのが自分でもわかる。
思わず羞恥で呻きそうになる唇をかみしめて耐えた。
こんな些事を、恥ずかしい、と自分が思っていると他人に知られることが一番恥ずかしい。なんでもないような顔をしなければならない。生理現象だ、と悠然と構えなければ。
こみ上げた熱を振り払うようにルクレは頭を振った。ついでにこの何とも言えない恥ずかしさも吹き飛んでくれないか、なんて馬鹿げたことを思う。
当然、現実逃避だ。いっそ放っておいてほしい。ベッドの下で眠っていてくれないだろうか。
けれど、そんな願いはかなわないのだ。
「──ん、終わったみたいだな。おつかれ」
「……あ、あ、おまえ、いたんだっけ。よくバレなかったよね」
「運がよかった。ま、先生方も平静じゃなかったからな」
ルクレの切実な願いなんてこれっぽちも知らないだろうシャニが、そろそろとベッドの下から這いだしてくる。
俺も腹が鳴りそうだった。
余計なことを言いながら大きく伸びをした男からは腹の音の代わりに、ぽきぽきと小気味のいい音が鳴った。
この男は、繊細さ、だとか、心の機微、だとか、あるいは思いやり、なんて言葉を知らないのだろうか。
そうやって八つ当たりしそうになって、はぁ、と代わりにルクレは大きくため息をついた。そうして、波打った長い髪が顔色を隠してくれることを期待して、顔をやや伏せる。まだ頬がいくらか熱い気がした。ちょっとしばらく顔を見せたくない。せめてもう少し、平常心を取り戻せるまでは。
ルクレは昔から、どうにも朝にあまり強くなかった。
寝起きは特に意識レベルが下がる。詰めが甘くなったり、感情が今一つ抑えきれなかったり、言わなくてもいいことが口をついて出そうになったり。さんざんだ。
空腹のせいでか、今日はなおさらひどかった。そうだ、いつもならもうちょっとマシに対応できるのだ。そもそもどれだけ空腹であっても、腹を鳴らすなんて失態をしたりしない。感情を表に出すなんてもってのほかだった。
ああ、クソ。おなかがすいた。
身を縮めたまま、ルクレは空っぽの胃腸をなだめるようになでる。なんの慰めにもならないかもしれないが、何もしないよりはマシだ。
と、シャニが何かを探すように棚の扉を開いた。その背中を、ルクレは蒼い髪のカーテン越しに見つめる。
「おまえ、何してるの?」
「いや、どっかこのあたりとかありそうだなと」
「何が?」
医務室に備え付けの棚にあるものなんて、包帯だとか薬だとか、そういうもの以外に何があるだろう。
ルクレが問いかけると、シャニは言葉を探すように少し言いよどむ。
「んー。……ほら、俺はよく怪我するだろ?」
「何の自慢にもならないよな、それ」
「まぁまぁ。で、手当は別に自分でもできるんだが、人前で怪我すると医務室に行かなきゃいけなくなるわけだ」
シャニはしれっとそう言ってのけた。なんなら、わざわざ医務室に行くのがちょっとめんどうだと思っていそうな声色だ。
──本当にばかだな、こいつ。
ルクレは呆れて何も言えない。怪我をしたら普通は医務室に行くものなのだ。よっぽど後ろ暗いことでもない限り。
「で、さっきのキルニスって人はあんまり見ないけど、ここに常駐してる魔術医にはそこそこ世話になっててさ。その人、甘いものが好きな人で、俺もよくご相伴にあずかるんだよ。だからここにも隠してるんじゃないかって」
話をだらだらと続けながらも、シャニの手は相変わらず棚の中をごそごそと漁っている。
そういえば、こいつの交遊関係は謎に広かった。
下級生や上級生だけではなく、普段関わることのあまりない教員にも顔が広いのは、なるほどこういうところで培われてきたわけだ。今までほんのりと不思議に思っていたことがひとつ解決を見て、ルクレは人知れず頷いていた。
750回も人生を繰り返してきて、まだこんなにも知らないことがある。おそらくこれまでの自分が、どうでもいい、と思って切り捨ててきたものだった。
そのどうでもよさは、今の自分だって変わりはしない。こんなことを知ったところで何の役にも立たないのだ。
それでも、どこか、心のどこかがひどくくすぐったくて、ルクレはぱっと顔を上げた。頬はもうさほど熱くなかった。
「お、やっぱり。ほら、あったぞ」
ちょうどそのタイミングで、何かを見つけたのかシャニが声を上げる。
ついで、棚の奥から引っ張り出されてきたのは、愛らしいデザインの缶だ。シャニが持っていると似合わなさに笑えてくるような、ファンシーな四角形の箱がサイドテーブルにそっと置かれる。
装飾に紛れて保存用の魔術が施された蓋を開けると、中には黄金色をした焼き菓子が並んでいた。
「これ、勝手に食べていいの? 話聞いてる限り私物っぽいけど」
「あー。まぁ、たぶん大丈夫だ、そんなに食い意地のはった人じゃないから。いわば緊急事態だしな」
「ふーん……」
シャニにすすめられるまま、ひとつつまんで口に運んでみる。
そのクッキーは少ししっとりめで、バターがしっかりと使われた、けれど素朴な味だった。
店売りのものにしては大きさが均一でないから、手作りなのだろうか。とぼんやりそんなことを考える。疲れた身体にしみいるような、優しい味わいに口角が上がった。
甘さが控えめなのもいい。普段、それこそ茶会でもない限りこういう菓子をあまり口にすることのないルクレにも、食べやすい味だ。
さくさく、とクッキーをはじっこからかじっていると、シャニが白いマグを差し出してきた。
昨日の夜には緑の薬湯が波打っていたそれに、今は透明な水が満たされている。
水場もないのにどこから水を持ってきたのか、なんて愚問だった。シャニの右手のあたりでちょうど、小さな魔術陣がさらさらと空に消えようとしていた。水を大気中から生成して、飲めるように浄化したのだろう。
野営や日常生活で便利だからか、この手の魔術は気負わずにできるのだ、この男も。
その精度と手早さを日頃の授業でも見せてくれたら、教員たちも喜ぶだろうに。
そんなよそ事を考えながら、ルクレは一つ目のクッキーを食べきった。
そうして差し出された水で喉を潤しつつ、次の焼き菓子に手を出すかどうか少し迷う。
シャニにとっては見知った誰かかもしれないが、ルクレには見知らぬ誰かなのだ。
腹だけでなく理性まで蝕んでいたひもじさが落ち着いてくると、今度は、そんな見知らぬ誰かのおやつを果たしてどれだけ食べてもいいものか悩ましくなってくる。
そうやってルクレがためらっていると、武骨な指が二枚目をつまんで唇にぐいぐいと押し付けてきた。目線をあげるとシャニもまた、黄金色をしたクッキーを自分の口に運んでいる。立ったまま食べるのは行儀が悪いと思ったのか、ルクレの視線に男はベッドの隅に腰かけてこちらに向き直った。
「ほら、遠慮してないで食えよ。なんなら俺が食べたことにしたっていいんだから」
その言葉になんと返せばいいのかわからない。
おまえに遠慮してるわけじゃない、とそれでもなんとか言葉を返して、ルクレは二枚目のクッキーを受け取った。
礼を言う代わりに、ベッドの下でついたのか、それとも食料探索中につけたのか。シャニの耳元についていた埃に手を伸ばす。薄灰色のそれを指でつまんで風に飛ばしてやった。これでトントン、だ。
「お、ありがとな」
「別に……」
にっと笑いかけられて、ふい、と目をそらした。
そのままクッキーを食べることに意識を傾けている振りをする。空腹だったせいか、いや、昨日の疲れもあるのかもしれない。今日はなんだかうまく言葉が出てこなかった。糖分補給し始めたのに、舌も頭もまだぎこちない。
でも。
焼き菓子に舌鼓を打ちつつ、ルクレはこっそりとシャニを見やった。
でも、この男がここに来ていたことが教員たちにばれなくてよかった、と思う。副学院長はちゃらんぽらんとした学長の分まで厳格なことで有名だ。しかもさっきのあの状況で見つかっていれば、論戦の矛先をずらすためにきつい罰則が与えられていておかしくなかった。
級友が。
ルクレはともすればそのカテゴリとは違った名前の箱に入りそうになる男を改めて「級友」とつけた箱にしまいなおした。定期的にやっておかなければ、勘違いしそうになる。こいつは誰にでもこうやって無責任に優しいのだ。ルクレだから、なんてそんな甘ったるい理由ではない。断じて違うのだ。
それはさておき、「「級友」」が、自分のせいでいらない罰を背負わさせるようなことになれば、さすがのルクレも寝ざめが悪い。
もしかしなくともルチウスにはばれていたのかもしれないが、言及されなかった以上どちらでも大して変わりはしないだろう。
魔族たちは基本的にかなり気まぐれだ。一秒前の判断でさえ簡単にひっくり返ることがある。あれらのことをあんまり何もかもを気にかけていると発狂しそうで、ルクレはこと日常生活においては、魔族のことを深く考えないように決めていた。
女になったことが魔族にも教員たちにも知られたことは仕方がない。諦めが肝要だ。
どうにもならないことをどうにかしようと足掻くのはつらい。それにひどく疲れる。それでもやらなければならない時というものはままあるが、今回に関してはお手上げだ。
ここから状況をひっくり返すことは難しい。ノスティークの根回しがどこまで及んでいるかもわからないのだし。
おそらく、このまま生徒たちにも、貴族たちにも事は知られるだろう。ルクレティウス・リトグラト・リィが女になった、という事実はすぐに人々の噂を席巻するはずだ。しかも、こんな美少女に成り果ててしまった以上、問題ごとは避けられない。
夏のあの日に死ぬまでのなるべく安穏とした生活を守るために、問題は山積みだ。
「──さて、ともかくいったん戻って着替えてから出直してくるか」
いつの間にかクッキーを食べ終えたのか。ぱんぱん、と手を払いながらシャニが立ち上がった。
「ついでに食堂でも軽食か何かもらってくるよ。おまえがいくら小食だってそれじゃ足りないだろうし、先生方のあの様子だとそこまで気が回らないかもしれない」
「あ、ああ。頼んだ」
そう言い残して立ち去ろうとしたシャニが、すぐに足を止めてこちらを振り返る。
なんだ?
そう問いかけようとして、──はっとルクレは息を呑んだ。
シャニの寝巻のシャツの裾が伸びている。伸びている、というか。ルクレの手が裾を掴んで引きとどめていた。しかも両手ともだ。
手が勝手に出た。指が勝手に掴んだ。聞き分けのない子供みたいで、恥ずかしくてすぐにでも手を放したいのに、指が言うことを聞いてくれない。
「ん? どうした?」
「……な、んでもない。なんでもないんだ!」
腹が鳴ったことなんて比べ物にならないくらい恥ずかしくて、ルクレはふるふると首を振った。顔から火が出そうだと思って、なのに頬からは逆に血の気がひいている。
「うん。そっか、なんでもないよな」
うん、うん、と頷いたシャニの手で、こわばった指が一本一本丁寧に開かれていく。ごつごつとした指がルクレのそれへ熱を移すようにゆっくり、決して無理やりにではなく、なだめるように指を掴んでは動かした。
そうされて初めて、ルクレは自分の手がひどく冷え切っていることに気が付いた。男の体温は燃えているように熱い。その熱に気を取られている間に、ルクレの指は裾から離されてシャニの掌に包まれていた。
──離れた。
そう気づいた瞬間。ルクレはぱっと手を布団の内へとしまいこむ。間違ってもあんな粗相を二度としないように掌を硬く握りこんだ。握った指には、まだシャニの触れた熱が残っているような気がした。
「おし。じゃ、行ってくる。すぐ戻ってくるから、おとなしくしておけよ」
今度こそ踵を返して、シャニはまた窓から外へ出ていく。扉から出たってよかっただろうに、本当にばかだ、
その変わらないばかさ加減に少しだけ心が落ち着いた。こんなことが日常になっている男も、そうしてこんなものに日常を感じて安心している己も同じだけ頭がおかしいな、と苦い笑みが浮かぶ。それがさほど嫌な苦みではないことも、ばかげていると素直に思った。
ひとりきりになった医務室でルクレは自分の身体を改めて見下ろす。
女の体だ。どうしようもない、細くてやわらかい肢体。
小さくて頼りない体は、幻覚という盾を失ってとうとう何の支えもなくなってしまった。
だからだろうか。こんなにも心細いのは。あんなことをしてしまうくらい自制心が揺らいでいるのは。
さらしの上から脂肪を掴む。
掌の下でふにふにと形を変えるそれが、ルクレには憎たらしくてたまらなかった。