中ボス悪役令息くん、度重なるループの末に悪役『令嬢ちゃん』に至る 作:TS幼馴染は必ず勝つ党第809代党首
──エディリハリアの貴族たるもの、いつ如何なる時も泰然と。
それはリトグラト公爵家のみならず、エディリハリア王国の貴族に生まれた子どものすべてが教育係から真っ先に、そしておそらく他のどんな言葉よりも聞かされる貴族の心髄だ。
焦りや動揺を表に出してはいけない。
常に優雅に、悠然と微笑んでいなければならない。
それは己のためであり、己の家のためであり。
エディリハリアの国のためであり、何より民のためである。
上の者が平静を失えば、下の者はそれ以上に取り乱す。
だからこそ、国民を守る貴族として、常に泰然とあれ。
と、まぁそういうことらしい。
貴族には民に奉仕する責務がある、としてきたエディリハリアらしい心髄だと言えるだろう。もっとも、悲しいことにその奉仕の精神は近年形骸化してきている。今となってはその高潔な志の名残がこうして一種の慣習として残るだけだ。
もちろんルクレもエディリハリアに生まれた貴族の嫡子として、この心髄を耳に胼胝ができるほど聞かされている。し、ノスティークやルチウスの手で身に染みるほど叩き込まれてもきた。
リトグラトの子供はみなそうだ。
厳格に定められた基準に達さなければ、屋敷から一歩も外へ出られない。来客と会うこともできない。
今になって思えば、必要な躾で決まり事だったのだろう。
なにせ屋敷の中を魔族が闊歩している、なんて話を外部に漏らされるわけにはいかないのだ。どんなときでも動揺せずに口をつぐんでいられる、そんな子どもになってもらわなければ困る。
ただし。
ただし、あれは8割くらい教育係側のストレス発散も兼ねていた、とルクレは思っている。絶対にそうだと、確信を持って言えた。
だってそうでなければ、一切ひかりの差し込むことのない迷宮だとか、少しずつ水位が増してくる密室だとかに閉じ込められるわけがない。ステージ選択の時点ですでに悪意が溢れていた。
どう考えてもやりすぎだ。
しかも最悪なことにだいたい気が抜けているときを狙われる。そのせいで、便利な魔導具なんてものはたいてい手元になく。
窮地に落とされながらも、ルクレはそのとき身につけていたものだけでなんとか切り抜けなければならなかった。
装身具に魔導陣を刻む方法を覚えたのもこのころだ。身につけたままでいれば、少なくともそれらだけは持ち込める。
なにせ教育中に死にかけても、魔族たちが手を貸してくることはない。なんだか楽しそうにこちらの様子を観戦している声だけが、どこか遠くから聞こえてくるだけだ。
自力でなんとかできないのなら死ね、と言わんばかりに。
ああクソ。僕が秀才でよかったな! と心の中で吐き捨てつつ、必死に足掻いた日々のことを、ルクレは今でも昨日のことのように夢に見る。まさに悪夢の日々だった。
閑話休題。
ともかく、そういう教育を受けていたのでリトグラト公爵家のこどもたちは「いつ如何なる時も泰然と」なんていう心髄を当然のように身につけて、自然にこなしてみせた。
死の危機に直面し続けるとどうにも感覚が麻痺してしまうのだろう。
とあるご先祖は目の前に凶刃が迫ってもなお、微笑んでみせたらしい。それどころか、刃にその身を貫かれた瞬間でさえ、浮かべた笑みを欠片も崩さなかったという。
ルクレもまた、その心髄を体現していると他人から誉めそやされる程度にはツラの皮が厚くなった。並大抵の刃物では通らなくなるほどの厚みが自慢だ。自然と、被る猫も増えた。
だからそう、くどいようだがエディリハリアの貴族はまかり間違っても、人前で焦って取り乱したり、大声なんて出したりしないのだ。 リトグラト公爵家の子であればなおのこと。
それはとってもはしたなくて、何より子どもじみたことなので。
けれど今、ルクレは教育を忘れたように、心をかき乱す焦りを表情にも態度にもありありと示していた。
なんなら喉が張り裂けんばかりの大声も出ていた。
「ぜったいに嫌だ!!!!」
いっそ悲痛なまでの叫びが医務室にこだまする。あんまり声が大きかったのか、風もないのに真っ白なカーテンがぱたりと波打った。
「──でも、お兄様」
その原因は、目の前に立つ少女だ。ルクレの動揺とは対照的に、彼女は落ち着き払っている。
学生服を身にまとった、たったひとりの年下の少女にルクレの思考回路は乱されていた。今にも床に座り込みそうになるくらい、膝ががくがくと笑っていた。
「わがまま言わないでください、ね?」
困ったように、悲し気に、その整った眉を寄せて義妹は言う。
ぐ、とルクレは下唇を噛んだ。我儘なんかじゃない、と言い返すことがどうにもできなかった。ただでさえどこか悲しそうな雰囲気を漂わせるニアにそういう顔をされると、自分の方が悪いことをしているような気分になる。
やめてほしい。過去の事例はともかく、この件に関してはこちらに一切非はないので。
そうだ、自分は悪くない。
だって、こんなのおかしい。
知らず知らずのうちに震え出していた手足に鞭打って、ルクレは義妹と向き合った。一瞬しっかりと見つめ合い、熱い物に触れてしまったように目をそらす。
こちらをおずおずと見つめるニアのその手には、白くてレースがこまやかで清楚な風情を漂わせた、下着がある。
そう。
下着だ。
下着。
それも女性用の下着だ。
色気のない言い方をするとそうなるが、これはたぶん、おそらく、ランジェリーと呼称した方がふさわしいのかもしれない。
やけに精緻なレースとフリルはおそらく魔導を使わない、手作業のものだ。ちまたにあふれる大量生産品ではない。どれだけの時間と手間がかけられたのか、ルクレには想像もつかなかった。素材も、上等の絹あたりを使っているように見える。
つまり、かなりの高級品だった。
それを今、ニアに差し出されている。
誰が?
ルクレティウスが、だ。
どうして、と叫びたかった。
いったいなにがどうしてこうなってしまったのだろう。
女性の下着に詳しくないルクレにも、義妹の手にあるそれが胸部につけるものだということくらいはわかった。間違いなく下半身用のものではない。
そして、そのサイズからしてどうやら義妹のものではなさそうなこともまた、なんとなくだが、わかる。
あいつの胸部についている脂肪はなにせ馬鹿みたいな大きさなので、おそらくこのサイズでは無理だ。あの重さを支えきれない。
つまり、義理の身ではあるが、自分のいもうとが、いきなり自身の下着を見せつけてくるような痴女になったわけではない。
なら、それ──真っ白でふりふりのランジェリー、なんてものがなぜ義妹の手元にあって、自分に差し出されているのか。
考えなくてもわかる。現実を突き付けられて、けれど受け入れられずにルクレはうめいた。
「兄様が今どうされているのかは知りませんけど……下着くらいは身体に合ったものをつけたほうがいいと思うんです」
「いい、いらない。さ、さらしを巻いてるんだ。僕はこれでいい。十分だ。おまえみたいに法外な大きさしてないし」
「はぁ、わたしは確かに人よりちょっと大きいほうですけど」
「ちょっと!?」
思わずまた大きな声が出てしまった。
道行く青少年の目を奪いつくすような凶器をぶら下げておいて、よくしゃあしゃあとそんなことが言える。
ルクレは知っているのだ。ニアの胸部への関心意欲態度で女子生徒が男子をランク付けしているのを。
ちなみに高ランクの男子は優良物件で、ランクが下がれば下がるほど女子から親の仇のような目で見られることになるらしい。
加えて言えばルクレはもちろん高ランクで、シャニもそこそこ上の方にいたはずだ。
まぁ、あいつは女の胸の大小とかそんなに興味ないタイプだし。意外性はない。
どうせ『好きな胸の大きさ? うーん……好きになった人の大きさ、か?』なんて言うのだろう。おもしろみのないやつめ。そんなんだからいつまで経っても魔術も魔法もからっきしなんだ。
「
「ぐ……」
それは確かにそうなので言い逃れが出来ない。今こうしていても若干息苦しいし、魔族との追いかけっこのときもずっと呼吸がし辛かった。もちろん女の身体になって体力が落ちたことも大きいのだろうが、さらしのせいじゃない、とも言い切れない。
「──わかった、百歩譲ってそれをつけてやるとして、だ。ひとりで着られる。おまえの手をわざわざ煩わせるまでもないね。……ほら、さっさとよこせ」
「だめです。おんなのこの下着はたいへんなんですよ、お兄様」
譲歩して出した提案は、けれど軽々と一蹴された。だめだ。取り付く島もない。ニアの藍色の瞳は、怯えたように伏し目がちなくせ、まっすぐにこちらを見据えていた。
いつもあんなにおどおどしているくせに、こいつはわりと頑固なのだ。日常の九割がたを周囲に流されて唯々諾々と過ごしているのに、一度こうと決めたら梃子でも動かないし覆さない。
ああ、クソ。
ルクレは思わず天を仰いだ。神様がいるのなら殴り倒してやりたい気分だった。
次回以降の繰り返しの中でもしも、万が一、億が一、京が一にでもまた女の体になることがあったなら。
もちろん、そんなことは起きない方がいいのだが。
けれどもしも、もしもこんなありえないことがまた起きてしまったら、そのときは。
──次は、絶対に絶対に誰にも、魔族にだってバレないような方法で隠し通してみせる。
ルクレはそう、心に固く誓った。
ことの始まりはほんの五分ほど前に遡る。