中ボス悪役令息くん、度重なるループの末に悪役『令嬢ちゃん』に至る 作:TS幼馴染は必ず勝つ党第809代党首
──熱心に本を読んでいる人間に声を掛けることは難しい。その相手が勤勉であったり、優秀であったり、美人であればなおさらだ。
と誰かが言った。
誰が言ったか知らないが、まさしくその通りだとルクレも思う。
「なぁ、今日の放課後どうする?」
「私は時間いっぱい外かなぁ、今日こそ指導役捕まえるんだ」
「実技指導が一番いいのはやはり3年の先生なんでしょうか?」
「でもわたくし、先達の方に意外と1年生の担任の指導がよいのだと聞いたことがありますわ」
「腹減ってるからちょいメシ行ってくるわ!」
「じゃあ先行ってっから~」
放課後の教室には授業から解放された生徒たちのざわめきが満ちている。
ルクレもまた、ひとり席に着いたまま自室から持ち出した書物に目を通していた。
視線は開いた本の文字列を追ってはいるものの、その内容はというと思考を上滑りして消えていく。一度ならず百度くらいは読んでいる本だ。特に目新しい発見もない。
ルクレは涼しい顔でページをめくりながらも、頭の中ではまったく別のことを考えていた。
ルクレが考えるに、誰かが提言したというあの思考の根底にあるものは無視されることへの恐怖だ。
自分から相手に接触する、という能動的な行動をとること自体が既に一つのリスクだとして。
リスクを背負った行動に出たにもかかわらず見返りがない、どころか無視される、なんて自尊心にどれだけの傷を負うことだろうか。
いくら何かに集中しているのだとしても、いやだからこそお前はそれ以下だと言われるようで、ルクレにはまず耐えきれない。
無理だ。
それでもたとえば、相手が怠惰なら、愚鈍なら、醜怪なら、──自分よりも劣っている者だったなら、まだなんとか言い訳が立つかもしれない。
相手が、その劣等ゆえに優れた自分を直視することができないのだ、とか。
けれど、自分よりも優れた者、あるいは、対等だと思っている者に無関心な態度をとられたとき、人は無傷ではいられない。
だって、おまえは蚊帳の外だ、と明確にそう示されたとき。
ぎちり。
一定の速度でページをめくっていた指が無意識のうちに動きを止めて、紙面に深く皺を寄せる。
自分は誰にも顧みられないのだと改めて突き付けられたあのとき、僕は。
──自分でも気づかないうちによろしくない方向に転がり始めた思索をルクレは慌てて打ち切った。
これ以上はよくない。よくないというかだめだ。
それについてはもう考えないことにしたのだ。
自分にはどうにもならないことをそれでもどうにかしようと足掻く日々にはもう疲れた。疲れてしまった。
いくら繰り返したところで際限はない。だってどうにもならないのだ。どれだけ無様を晒しても望みが叶うことはなく、ただ心も体も馬鹿みたいに消耗するだけ。
だから、煩くわめく感情に蓋をして鍵をかけて、そうしてもう触れないことにした。目減りしていくだけの心をこれ以上すり減らさないために。
──考えない、考えない、考えない。
心の中で呟いた言葉を重石代わりに蓋の上に積み重ねる。万に一つも開くことがないように。
これまでだってずっとそうしてきたのに、最近どうにも駄目だった。
ルクレは周囲から悟られない程度に、ほんのわずかに眉をしかめた。
700何回も人生をやってきたせいか、蓋がどうにも緩んできている。今までうまい具合に見なかったことにしていたことが噴きあがって思考の隙間に入り込もうとしていた。
それもこれもこの身体のせいだ。
こんな、女の身体のせいだ。
狂った運命を罵りつつ、知らず知らずのうちに力を込めていた指先からゆっくりと力を抜いていく。うっかり本を駄目にしてしまうところだった。
紙面に寄った皺を爪の先でぴんと伸ばし、脇道にずれた思考を軌道修正する。
つまり、つまりだ。
先ほどの誰かの言葉に従うのなら、優秀かつ勤勉でしかも美しい自分が集中しているところに声を掛けることはきっと難題になる。
そのはずだ。
ルクレは、さも本の内容に熱中しているように振舞いながら、そっと背後に気を配る。
いまだに男子用の制服を着続けている背中に今日も今日とて突き刺さるいくつかの視線。
その煩わしさに心の中だけでまたひとつため息をついた。
ルクレが経過観察という名の医務室生活を終える頃には、学院もまた平素の日常をなんとか取り戻していた。
先日の魔物の襲撃に関しても、性別が変わったことに関しても、休んでいる間に教員たちから生徒にむけて「納得のいく」説明があったらしい。
呪われた、ということになっているこの身体をどのように説明したのかはわからない。
日頃は背を丸めてばかりの担任は「せ、先生に万事任せてください……!」と珍しく胸を張って言っただけで、どういった説明をするのか詳細までは教えてくれなかった。
そのあとに「何も、何一つも心配されなくていい、ですから……ル、ルクレティウスくんはただ、ゆっくり休むことだけ考えてくださいね……ね?」と続いたあたり、おそらく、一夜にして女子になってしまった生徒にあまり負担をかけたくなかったのだろう。
相変わらず優しいひとだ。疲れ切ったミネアの微笑みを思い出しながらしみじみと思う。
その誠実さは得難いものだ。そういったところが生徒の過半数に軽んじられる要因のひとつとなってしまっているとしても。
ともかく、教員たちの尽力のおかげで生徒たちから向けられる視線のほとんどは以前と変わらなかった。
さすが百花。女性になっても変わらずうつくしい、とほめそやされたりする一方で、過剰にこちらを憐れむような視線はない。ちょっとくらいの憐みはまだ許容範囲内だ。
多くの生徒たちの間には排斥でも憐憫でもなく、受容の雰囲気が漂っていた。
おそらく、時期もちょうどよかったのだろう。
校内に閉じ込められて娯楽の少ない冬のただなかではなく、春の気配が色濃くなり始めた冬の終わり。
そろそろ新学年が見えてきたこともあって生徒の多くは浮足立っていた。
それは、短くも待望の春を迎えるから、というだけではない。春の終わりに行われる、とある催しもののせいだった。
──エヌフォーリア学院祭。
学院の名前を冠するだけあって、この行事は生徒も教員も総力を挙げた催事になる。
智を競う研究発表の部と武を競う魔導大会の部とで文字通りのお祭り騒ぎが1週間も続くのだ。
気の早い生徒たちは今から準備に忙しくしている。
この学院祭で優秀な成績を修めたりあるいは周囲の目を惹くことが将来の就職に繋がっていくのだから、それも当然かもしれない。そんな中で
貴族階級の、就職にさほど興味のない生徒もまた、学院に漂う高揚した空気に充てられて浮つきがちな時期だった。
そういう生徒はかわいいものだ。かわいい。
ルクレの変化に興味を割くほどの余裕はないが、それぞれに抱えた問題を解決するための助けを求めていて。
これまでのようにルクレが救いの手を差し伸べてやれば喜んですがってくる。
そういう生徒はどの生徒もなかなか追い詰められていて、助け船が男か女かなんて気にしているほどの余裕がないのだ。
だから、問題はそれ以外の生徒だった。
一部、ほんの一部の上級生。就職のための学院祭に興味もなく、かといって誰かに助けを求めるほど困ってもいない数少ない生徒のうち、これまた一部。
ルクレは今、そういった数人の上級生から
そう、今もこの背中に突き刺さる視線の主は彼らだ。おそらく。
予想の範疇かつ残念なことに、あのリトグラト公爵家の嫡子が女体になったことに上級生たちは興味津々だった。
公爵家が森の氏族の血をひいていることもひとつの要因だろう。森の氏族に関する研究はあまり盛んではないが、そういう傍流の研究にこそ血道を上げる人々はいつの時代にも一定数存在する。
研究の進んでいない謎めいた種族に、魔導史上類を見ない事象とくれば興味をそそられるのも魔導に関わる者の端くれとして理解はできた。理解できても納得はしたくなかった。
──くそったれ。
彼らも教師の手前、さすがに大っぴらには行動しない。が授業中以外、なんなら授業中もふと何かの気配を感じるときがある。
ここだけの話。自室とトイレにいる以外の、校舎にいる間は誰かの視線を感じるのだ。なんだか頭がおかしくなりそうだった。
あのあたりの人間の倫理観は、ルクレが言えた話ではないのだが、明らかにおかしい。言いたくないが5歳児以下だ。
それもこれも学長が研究を奨励しているせいだった。在学生の中に、おそらくこれまでに類を見ないほどその道に熱心な生徒が、ルクレが知っているだけでも数名。その中には今回の件の上級生も含んでいるのだが、その生徒たちは軒並み、今の学長でなければとっくに退学になっている、と囁かれていた。
確かに、階級の差や教員たちの監視がなければ、彼らはすでに一線を越えていてもおかしくなかった。
どこか遠い目で文字列を眺めながらルクレは思う。
まぁ。5歳児だからな、と。
そうして5歳の子どもと言えば、なんで? どおして? どおやって? が気になるお年頃だ。こうなってしまうのもしかたない。のかもしれない。
そう感じる時点で、もう一線は超えている気もする。
けれど実際のところ現在の被害は、視線を感じる、程度なのだ。これを実害と言えるだろうか。
たかが見られている、くらいで?
じろじろと遠巻きに見られること、それ自体は今までにだってあったことだ。そう思うと、これくらいで教師に被害を言い募るのには自分の外聞が邪魔をする。
だからといって他人の視線を厭って自室に逃げ込むのも無しだ。いつものルクレティウスなら、何をどうまかり間違ってもそんなことはしない。見栄っ張りで高慢な自分にそんな楽な逃げ道は存在しないのだ。
だからこそルクレは今、そんな生徒たちの好奇の目から逃れるための盾がほしかった。何よりも、喉から手が出るほどにほしい。
なのにその当の
ルクレは知っている。
この時期。あいつはいつものおせっかいの一環で、ある先輩の手伝いとやらに精を出している。
先輩。エウリア・サスーシャ。
そうだ、少し前に校庭に大穴を開けてのけたあの人だ。
きっかけも理由も知らない。それまで仲が良かったという話も特に聞いたことはない。けれどあのお人好しのことだから大した動機はないのだろう。
とにかくその人のために、ここ最近のシャニの放課後は使われていた。ルクレのために、ではなくて。
壁役の不在を腹立たしく思いながらもルクレは素知らぬ顔で本を読み続ける。
ふと遠くの方で生徒のざわめきが大きくなった。どこか歓声にも似たその声を、聞き流してまた一枚ページをめくる。
気にしない。
何かはあったのだろう。だが、あの声色からして緊急性は薄そうだ。ここで反応を示せば彼らに付け入る隙を与えることになる。
自分は気づいていない、気にしていない。本に集中していて世間のことなど気にも留まらない。
そういう風に振舞っている限り、彼らも積極的に接触してはこれないはずだ。
そうやって無関心を決め込んだルクレの前に、咎めるようにぶわりと風が吹き込んだ。
無遠慮な風が藍色の髪と書籍のページとを捲り上げる。
──誰か窓を開けていたのか。
乱れた髪をそっと整えながら、ルクレは非難がましく視線を上げた。
その目の前を眩い黄金が横切る。
「──ご機嫌麗しゅう、ルクレティウスさん」
「……王女、殿下」
口からまろびでそうになった嫌悪感を敬意のそれへと差し替えた。
いつの間に目の前に立っていたのか。
いつの間にここまでの接近を許してしまったのか。
そこにいたのはルクレがその人生で指折りに嫌いな相手だった。出来ることならなるべく顔を合わせたくなかった女だった。
真っ直ぐに尻のあたりまで伸びた豊かな金髪。
見事に艶めくその髪を、彼女はいつもひとつに高く結い上げている。
揺らぐことなくこちらを見据える琥珀の瞳は強い意志の輝きを宿してきらめいていた。
すらりと起伏に乏しく上背の高い肢体に周囲とまったく同じ白い制服を纏って、けれど彼女は群を抜いて目を惹く。
──ミルファリオ・エディリハリア・マグナ。
リオ。他称、100年に一度の天才。
エディリハリア王国王位継承権第3位保持者。
王太子のひとり娘にして、ニアの実姉。
この国の王女殿下がそこにいた。