中ボス悪役令息くん、度重なるループの末に悪役『令嬢ちゃん』に至る   作:TS幼馴染は必ず勝つ党第809代党首

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「な、んだよ……これ」

 寝衣の上から恐る恐る体の線をなぞっていく。ほそい。やわらかい。おかしい。

 ローブを捲り上げてまでその()()を確認するような勇気は、さすがになかったが、それでも異常は文字通り手に取るようにわかる。

 頭の中はいくつもの疑問符で溢れかえって、さながら洪水状態だ。は、は、と息が浅く荒くなる。

 冷静で論理的な思考、なんて少しも組みたてていられない。

 ただ、居ても立っても居られなかった。動揺にふらつく体をなんとか動かして、寝台の上から、部屋の隅に置いた姿見の前まで文字通り転がり込む。毛足の長い絨毯を踏む足は、爪の一個までこぢんまりとしてかわいらしい。

 まるで子供の、少女のそれのように。

 

 ──寝ている間に姿が変わる、なんてことありえるわけがない。

 

 本人の意思に反して人体を変化させる魔術が法で禁じられて久しい。しかも禁じられたそれだって、人にちょっと獣の要素を加えるだとか、植物の要素を少し与える程度のものだったはずだ。

 たとえ大魔導師であったとしても、他人をまったくの別人へと変化させる、なんてことは不可能で。そのうえ性別を変える、だなんてそんなこと──。

 すがるような気持ちで鏡を見上げる。

 ああ、そうだ。そんな魔術はありえてはいけない。

 だからこれは、まだあんなくそったれな最期のせいで錯乱しているのか、あるいは幻術の類か。そのどちらかしかありえない。

 けれど、そんな甘ったれた想いはすぐに踏みにじられることになった。

 ──ゆがみのない鏡面に映ったのは、間違いなく女のものだった。

 知らない女の顔だった。

 いや、まったく知らないというわけではない、かもしれない。これとよく似た女の姿を見たことがある。たとえば本邸の廊下に飾られた絵画の列だとかに。

 あるいはそう、もしも自分に姉か妹でもいたら、こんな顔をしていたかもしれない。

 だけど、違う。

 これは、こんなものは違う。

 だって、自分は男だ。男だったはずなのだ。

 幻だ、と言い切りたいのに、魔術の気配はどこにもない。魔法の痕跡だって、どこにもない。

 錯乱しているだけだ、と思いたいのに、頭はやけに冷静だ。すでにひんやりとした日頃の平静を取り戻した脳髄は、鏡面の中の女はほかでもない己だ、と早々に結論を示していた。

 信じてたまるか、そんなこと。

「……うそだ」

 自分に言い聞かせるように呟きながら、冷たい鏡にひたりと手を当てる。

 そこに映る少女はまるで死人のようにひどい顔色をしていて、今にも消えて儚くなってしまいそうな脆さを漂わせていた。

 ──その点を加味しても、うつくしい容姿をしていた。

 鏡の中の少女の輪郭を指でゆっくりとなぞって、どこか他人事のようにそう思う。

 そこにいたのは、白いゆったりとしたローブを身にまとった、華奢な子どもだった。

 けぶるように長い藍色の睫毛が、驚きに見開かれた深い深い海の瞳を縁取っている。

 その眦は柔らかく垂れているものの、やさしげというにはどこか険があった。

 まるで、麗しい花弁の下に棘を隠した薔薇のようだ。

 そういえば、自分は昔から花で言うなら薔薇に例えられることが多かった、と、他人事のようにぼんやり思い出す。

 フリルのぎっしりと詰まった、艶やかな大輪の蒼い花のようだ、とよく言われていた。

 誉め言葉だったのか、あるいは遠回しな嫌味だったのかは、知らないけれど。

 ただ、そう称されるようになった要因のひとつは、間違いなくこの緩く波打つ髪だったのだろう。

 手入れがしっかりと行き届いていることを示すように艶やかな藍色の髪を手ですいて、腰のあたりまで長く伸びたそれを一筋すくい。

 ──そうした自分の指の先をかざる爪の、それこそ花びらのように整ったかたちに肌を粟立てた。

 瞳の色も髪の色もこんなにも以前と変わらない。

 なのにたったひとつが違うだけで、こんなにもなにもかもが違う。

「なんでなんだよ……!」

 足元がぐらぐらと揺れていた。気持ちの問題だけじゃない。体に力がろくに入らなくなって、膝が笑う。そのまま立っていられるかさえ

 怪しくて、鏡に体を預けた。

 生家の、たったひとりの≪嫡男≫であること。それだけが支えだった日々が確かにあったのだ。

 このエディリハリア王国に名高き《百花のリトグラト》。

 建国の礎を築いた大貴族の家に生まれた、たったひとりの嫡子であること。

 ──ルクレティウス・リトグラト・リィという名前の男であることだけが、自分の生に与えられた役割だと思っていた。たとえそれがお飾りの地位にすぎなくとも。

 男であるということが、こんな自分に欠片ほどであっても価値を与えてくれる、ただひとつ揺らぐことのない事実だった。

 そうだったはずだ。

 だって、そうでなければ己には誰かに必要とされる要素なんて何もないのに。

 なのに。

 ごん、と鏡に力いっぱい叩きつけたルクレティウスの、──ルクレの拳は記憶の中のそれよりも小さく、ずっと力ないもので。

 鏡にはひびの一つも入らない。打ち付けた手だけがただ、ジンとしびれて痛かった。

 その鈍い痛みが、ルクレに目の前のこれが現実なのだと、性質の悪い悪夢なんかではないのだと再度突き付けてくる。

 目をそらすな、と。

 これがお前なのだ、と。

 けれど、腰をくすぐるほど長い髪も胸元のやわらかい肉の塊も、どれをとっても自分にはどこまでも現実味が薄い。見下ろしたぶかぶかのローブの中では、か細い肢体が頼りなく震えていた。

「っ、クソ! こんな体で、どうやってあの夜を超えろって言うんだ……!」

 ただでさえ自分には他と比べて決定的に足りないものがあるのに、その欠けを埋めるどころか、さらに大きな不足を背負うことになるなんて。

 神の理不尽には慣れっこだと思っていたが、ここまでのことが起こるなんて想像したこともなかった。

 本当に、神様というものは度し難い。

 ろくに信じたこともない神を心の中で思い切り罵って、それからルクレは、はぁ、と大きなため息をまたひとつ落とす。

 こういうときに頼れるような相手は、悲しいことに心当たりがなかった。いや、別にないこともなかったが、そいつには主に気持ちの問題で頼れない、と思う。

 だって、そう遠くない日に自分を殺す男だし。

 自分のことを級友くらいにも思っていない相手に頼るなんて、そんな無様は何よりもルクレ自身が許せないし。

 ぴとりと鏡に額を押し当ててみる。憎たらしい現実を映す鏡面は、ひんやりとしていてひどく気持ちがよかった。少しの間そうしていれば、ざわめいていた心もようやく落ち着きを取り戻す。

 何はともあれ、信じられないようなことが起きていることだけが確かだった。

 どれだけ冷静に考えてみても、性別を反転させる魔術だなんて前例さえ聞いたことが無い。おとぎ話の中にだって、その手のものはそうそう出てきたりしない。

 それくらい、ありえないものなのだ。対象の身体的負荷も計り知れなければ、術者だってどれほどの技巧と魔力量とを求められることか。

 少なくともルクレの知っている範囲では、ここまで高度な魔術が行使できるような人間はいなかった。正直な話、神の手によるものだと言われた方が頷けるだろう。

 ともかく、この現状が他人に知られたら終わりだ、ということは明白だ。この国では嫡子が男女のどちらであっても家を継ぐことはできるけれど、リトグラトにおいてはその限りではない。まあ、家を継げないどころか、ルクレが禁術に手を出したのだとして何かの刑に処されてもおかしくはないのだが。

 いや、もういっそその方がいくらかマシかもしれなかった。

 

 だって、何をしたって結局そう遠くないあの日に自分は死ぬのだ。

 

 魂に諦念が染みつくほどに繰り返された「終わりの夜」をうっかり思い出してしまって、ルクレはずるずるとその場にしゃがみこむ。

 ──五体を焼く魔を祓う焔。橙色のそれに骨の髄まで焼き尽くされるほど醜く落ちぶれた浅ましい最後が、痛みさえも鮮やかに脳裏に蘇る。

 わざわざ思い出そうとしなくても、それは文字通り脳に焼き付けられていて、こうして何かにつけてはルクレの脳を焙ってくる。

 その度に、死にたくないと心で泣いて、生きてみせると心に誓った。

 今度こそ足掻いて藻掻いて、あの夜を越えてみせる、と。

 何度心が折れて諦めても、それでも、といつも意地汚く生にしがみついた。

 自分でも呆れるくらいの貪欲さで749回の人生を繰り返してきた。ほんの少しでも可能性があれば、と。

 でも、それも今回ばかりは無理そうだ。

 男の自分がどれだけ抗っても、死の運命からは逃げられなかったのだ。

 こんな細い女の体でいったい何ができるというのだろう。

 少し視線を下げれば目に入る腕も手も、かつての己のそれよりあまりにかよわいものに見えた。美化しているのかもしれないが、それでも男の自分の体はもう少ししっかりとして、それなりに頑丈なものだったように思えるのだ。少なくとも人並み程度には。

 今のこの姿はどうだ。華奢な肢体に、その細さに相応の腕力。

 自分の身体能力を強化するような魔術がないことにはなかったが、それはルクレには選ぶことができない道だ。

 白魚のような指に不釣り合いなペンだこだけが、以前と変わらないままだった。

 その不格好な膨らみを見つめながら、ルクレは静かに目を伏せた。

 

 ──もう、いいか。

 

 諦めはいつだってひどく優しくて甘い。それを選ぶまでに傷ついた心を癒してくれる。

 こうなってしまった以上、これまでのように足掻くことは無駄なことでしかない。徒労でしかない。女になった。という事実だけが明らかで、それがどうしてか、なんてわかったところで足りないルクレには結局どうすることもできないのだ。

 

 ──もうどうでもいい。全部、どうだっていい。

 

 結局どのみち死ぬのなら、残り僅かな人生を好きに過ごしてやる。749回も繰り返してきたのだ。今回くらいそうしたっていいだろう。どうせまた、あの夜を越えられないまま751回目の朝を繰り返すことになるのだから、これくらい誤差だ。誤差。

 そうだ、いっそちょっとした休暇だと思って、のんびり過ごしたっていい。

 うん、そうしよう、とルクレはひとり頷いた。

 そうやって強がっていないと、ちょっと耐えきれそうになかったのだ。

 だって、もしも、と思う。思ってしまう。もしも自分が、かつて望んだとおりの自分であったなら、こんな馬鹿みたいな窮地でさえどうにでもなったのに、と。

 はは、と思わず嘲るような笑いが零れる。泣き出しそうな色の滲んだ声が、ひとのいない部屋にこだました。

 もしも、なんて夢想は叶わない。そんなこと、とっくのとうに知っている。骨身に灼けて、痛いくらいに。

 ルクレは立ち上がることもせずに、しばらくの間ただそうして座り込んでいた。聞き飽きた予鈴の音が耳に届くまでの間、ずっと。

 

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