中ボス悪役令息くん、度重なるループの末に悪役『令嬢ちゃん』に至る 作:TS幼馴染は必ず勝つ党第809代党首
「いや~、ずいぶんとあったかくなってきましたよね。と、なるとそろそろ女の子たちが薄着になってくるでしょ? いいですよね~!! 最ッ高! だから私好きなんですよ、この時期。まあ着込んでるのもそれはそれで良さがあるんですけど」
少し前方を歩く女の口は、つらつらとくだらない話を紡いでいる。
ニアースティニア・リトグラト・レゥはその大きな独り言を右から左へ聞き流していた。
が、女は一切それを意に介さず喋り続けている。
当然といえば当然だ。
ルチウスはニアに返事をしてほしいわけではない。
ただ人間を真似た振る舞いの一環として、どうでもいい話をしているだけ。どこが人間らしいかはさておき涙ぐましい努力だとは思う。
これが本邸なら、ノスティークあたりに「無駄口を叩くな」と叱り飛ばされている頃だろう。
裏を返せば、あの家令以外誰もルチウスの相手をしない、ということなのだが。
そんなことを考えながら、ニアは少し急ぎ足に歩みを進めていた。
本来ならすでに授業が始まっている時間だからか、寮に通じる廊下に人の姿はない。
きっと誰にも見咎められない。そう踏んでのニアの足取りは淑女らしさをやや欠いている。
それほどまでに気が急いているのは早朝に部屋を訪れた蝶のせいだった。
真っ白な蝶は義兄が寄越す魔導の使いだ。
”それ”はいつも魔術で生み出されたとは思えないほど自然に、そして優美に羽ばたく。
なのに今朝はというと頼りなくふらついて、ニアの手に届く前に墜落してしまいそうな、そんな危うい挙動さえ見せた。
──風邪をひいたんだと思う、寝ていたらよくなるから放っておけ。
詞蝶が運んだのはそんな素っ気ない言葉だったが、放っておけるわけもない。
……あの兄さまがあんな状態の使いを飛ばすなんて。
ニアは腕に抱えたティーセットの重みを意識する。陶器同士がかすかに触れ合う音が、静かな廊下に響いた。
ポットには喉にいいという香草茶をたっぷりと淹れてきている。
ルクレティウスが屋敷でよく飲んでいたものだ。
義兄は風邪をひくとたいてい咳や喉枯れに苦しむのだが、薬よりもこちらの方が効く。らしい。
あの人は体調がどうであれ長く休むことを好まない。
その一方で見栄っ張りだから、声が掠れているような「みっともない」状態をさらすことは嫌がる。
見舞いの品としてこれ以上のものはないはずだ。
少女はほんのわずかに微笑んだ。
たぶん、ニアが病床をおとなうことでさえルクレティウスにとっては不服のはずだ。その上、香草茶なんて自分を気にかけたお見舞いを持って来られるなんて、さぞ嫌がることだろう。
ニアだって別にいつもいつもやられてばかりではない。日頃の鬱憤を晴らすにはいい機会だ。
お茶をこぼさないよう気を付けつつも駆け足で女子寮の前を抜けて、男子寮へ続く道をも通り過ぎる。
向かうのは主に教職員が暮らしている居住区。
女性になってしまったことで男子寮にいられず、かといって女子寮に入ることは本人がやんわりとしかし頑なに拒否したため、ルクレティウスは最近この区域へと居室を移していた。
「──おや、珍しい。王女殿下が一人でお歩きとは」
心底驚いた、と言うようなルチウスの言葉に思わず足が止まった。
嘘だ。
そう思いたかったのに、魔族の視線の先を追ってみれば、少し遠くからけれど確かにひとり、生徒が歩いてくるのが見える。
すらりと背が高い少女だ。
彼女の豊かな黄金の髪と琥珀色の瞳が、昼前の日差しを浴びてまばゆくきらめいている。
その眩しさにニアはわずかに目を細めた。
ミルファリオ王女殿下だ。
思えばずいぶん久しぶりに彼女の顔を見た気がする。
この人は、変わらない。いつ見てもまっすぐで、きれいで。
「こんにちは、ニアースティニアさん」
「……ご、ご機嫌よう」
「ご機嫌麗しゅう。王女殿下!」
両腕に抱えた荷物を気遣いながら軽く一礼して、そのまま視線を床へと下げる。
王女の視線がつむじにざくざくと刺さった。
肌が粟立つような感覚に、けれどニアは頑なにその首を垂れ続ける。
「……中等部は授業中でなくって?」
「──ああいえ、ちょっとうちのルクレティウス様が体調を崩されちゃったみたいでして。今からそのお見舞いに」
「あら、そう」
問いかけられたのはニアで、けれど答える前にルチウスが遮った。
それを無作法だと咎めることはできない。
だって、助かったと思ってしまった。その気持ちは嘘じゃない。
だからニアは黙り込んだまま、腕の中のお茶道具をじっと見つめた。
そうすることしかできなかった。
──そうだ。
喉元をするりと言葉が登ってくる。
「──お茶が、お茶が冷めてしまうので。私ここで失礼いたします、ね」
咄嗟に口をついた口実は我ながらもっともらしいものに思えた。
言い訳じみた言葉だけを残して、ニアは足早に王女の隣をすり抜ける。
「あ、待ってくださいよお嬢様~!」
背中に浴びる護衛の情けない声も、突き刺さる琥珀色の視線も気づかないふりをした。
彼女にだけは見られたくなかった。
こんな醜い自分なんて。
逃げるように滑り込んだ義兄の部屋は男子寮から移ったばかりのはずなのに既に大量の書物に囲まれていた。
けれどその几帳面な性格を示すように室内はきちんと整えられている。
それに、何か調合で使ったのだろうか? 部屋にはうっすらと薄荷のにおいが満ちていた。
「……兄さま?」
灯りがついていないどころか、カーテンも閉め切られた部屋は日中でも薄暗い。
ルクレティウスの姿が見当たらなくてニアはおずおずと呼びかける。
と、ベッドの上のシーツの塊がもぞもぞうごめいた。
白い布団の間からのっそりと藍色の頭がのぞく。
「ぁ……ニア、か……?」
可哀そうなくらいしわがれた声に続いて、こほこほと咳が漏れた。
ニアは慌てて駆け寄ってその背をさする。
肉が薄くなった背中は思わず手を止めてしまうほど背骨が近く、異様に熱い。
「はい、ニアです。お、お加減は……?」
こちらを見上げるルクレティウスの藍色の目は明らかに熱をもって潤み、頬も真っ赤だ。
掠れた声はただ嗄れた、というには少し違う。
どこか濡れたような、とろけたような。そんな妙な質感を帯びている。
というか、今日のルクレティウスはなんだか変だ。
いつもはもっと人形じみて潔癖な人なのに、纏う空気が変にしっとりとしている。
風邪のせい、だろうか?
その違和感に胸騒ぎを覚えながら、ニアは急いでカップにお茶を注いで手渡した。
ほのかに甘い香草の香りが薄暗い部屋にふわりと広がった。
「こ、これ! これ、飲んでください。兄さまの、いつものやつです」
「……ん、ありが、と」
「──おいていかないでくださいよ、ひどいなぁ」
足音どころか物音も立てずにルチウスが部屋に入ってくる。ゆっくりと、わざとらしいくらい焦りを見せない足取りで。
その存在感は部屋の空気を一変させた。
「な、に、おまえまで、来たの」
「そりゃあ来ますよ、大事な大事なお坊ちゃんのことですから」
「ハ、お前たちって、ほんっとうに冗談が下手だよね」
一口二口含んだ香草茶のおかげで喉がいくらかマシになったらしい。義兄の舌鋒が日ごろの鋭さをのぞかせた。
「えー手厳しい~~! 女の子たちは笑ってくれるんですよ! ……つか、坊ちゃん。あんた……」
口をつぐんだルチウスの黒い目の奥で、黄色の虹彩がきらめく。
それはまるで、獲物を見定める獣のような光だった。
「──あんた、もしかしなくてもお嬢様以外から魔力をもらったな? 前から言ってるだろ、そこらの人間の魔力はリトグラトには熱すぎる。純粋な自然の魔力か、冷えた、それこそお嬢様のじゃなきゃだめなんだってば」
仕方ないなぁと言うようなあきれた口調とは裏腹に、魔族から発せられた威圧でびりびりと空気が揺れる。
骨身に染みつけられた恐怖におびえるニアとは対照的に、ルクレティウスはふん、と顔を背けた。
「それで、どれだけ取り込んだの?」
「……いいたくない」
「……ハー、まいいけどね。個人的にはちょうどよかった。私ちょっと野暮用でしばらく出たり入ったりだからさ~、お嬢様のことお願いしたかったんだ♡」
「は?」
「ちょっと色々忙しくなっちゃってね。坊ちゃんの体調が悪いんならニア様をしばらくここに置いておく口実ができるだろ?」
聞いていません! と口をはさむことはニアにはできなかった。
自分がどういう身の上にあるかなんて、自分自身が一番よくわかっている。
この体が特別だから、だから、結界に守られたこの学院内にあっても護衛をつけることが許されているのだ。
一国の王女様でさえも望めない、まさに特別待遇だった。
そんなものを望んだことなど一度だってなかったが。
「……まあ、僕は別にかまわないけど。その辺りをお前が良いようにしてくれるならね」
「うんうん、もちろん私の方で学院に手をまわしておくよ。当たり前でしょ? 病人に無理なんてさせないさ」
口をつぐんだままのニアのことなどふたりは一切気にかけない。当人を置いたまま話は進んでいく。
「それ、で、よう、こほっ。用事は終わりか? 僕、もうそろそろ寝たいんだけど」
「ハーイ、まあそんな感じだからさ。お嬢様のことくれぐれもよろしくね?」
にっこりと微笑んだルチウスは扉へと向かって踵を返し、
「ああ、そういえば」
思い出したかのようにくるりと振り向いた。
「──イウミュアナのこと、見なかった?」
ニアは首をかしげた。
イウミュアナはリトグラト邸の「穴倉」と呼ばれる保管庫の主だ。
魔族たちの中でも特に出不精で、屋敷を出ることはめったにない。はずだ。
「イウミュアナ? いや、見てないけど……ああ、この前ノスティークとわざわざお見舞いに来てくれた時以来、だね」
義兄ももちろんそのことを知っているから、いぶかしげに眉間にしわを寄せている。
「ん? ああそっか、結界がイカレたとき? 確かに坊ちゃんのとこに寄って帰ったっけ。じゃ、それから特に会ってない感じ?」
「何度も言わせるなよ。だいたい、僕はずっと学院にいるんだぞ。会うわけがないだろ」
「だよねー。……ま、もしあの子に会ったら教えてよ。ノスティークがカンカンなんだ」
じゃあね、と手をひらひら振って、今度こそ魔族は部屋を立ち去った。
おしゃべりな女がいなくなった部屋はひどく静かだ。
ふたりだけになった空間に漂う空気は特別暖かくはないものの、安寧が確約されている。義兄の機嫌を損ねない限りは。
そのルクレティウスはというとベッドの上でぜえぜえと荒い息をついている。
繰り返される苦しげな喘鳴に、ニアはつい口を開いていた。
「あの……魔力のこと、わたし、なんとかしましょうか?」
義兄の体を誰かの魔力が蝕んでいるというのなら、それを追い出すくらい自分の魔力を流し込めばよくならないだろうか?
そんな安易な考えは、けれどさらりと一蹴される。
「い、いよ、それでお前が、調子を崩したら、面倒だ」
話は終わり、とばかりに義兄はぼすんと音を立てて体を寝台に戻した。
せめて、と布団をかけてやると機嫌のよさそうな猫のように目を細めて見せる。
具合はだいぶ悪そうなのに、今日のルクレティウスはずいぶん嬉しそうだ。
不思議に思いつつニアはベッドの端に腰かけた。
理由なんて教えてもらえるわけもないし、それに不機嫌よりはずっといい。
「ねぇ、兄さま」
「なに」
「わたしたち、どうしてこんな体に生まれちゃったんでしょうね」
「……僕が知るか、だいたい意味なんてそんなものあってたまるかよ」
くだらないことを聞いたのに、やけに素直な言葉が返ってくる。
けれど義兄の憎まれ口自体はいつものそれだった。
ニアースティニアはそのことにどれだけだって安堵する。
どうして、なんて問いかけは口先だけで。ニアは別に答えなんてほしくないのだから。
だって、理由がわかったところでどうしようもないことばかりだ。
それならいっそ意味も理由もない方がずっとずっとマシだとそう、思うから。
──ニア。
どこか遠くで誰かに名前を呼ばれたような気がしてニアはそっと瞼を下ろした。
目を閉じればそこにある暗闇が冷たくも穏やかで、存外に居心地がいいことを少女はもう知っている。
呼ばう声とともに思い出のはしに黄金がきらめいた。
”あれ”を直視するわけにはいかない。絶対に。
ニアースティニア・リトグラト・レゥとして生きていかなくてはいけなくなったあの日、ニアはかつての自分のすべてを捨てた。
だって、そうでなければ壊れてしまう。
希望なんて優しくてあたたかくて儚いものを抱いていたら、あの家では生きていけない。
だから捨てたのだ。全部、ぜんぶ。
ニアが再び目を開いたとき、義兄はすっかり寝息を立てていた。
その姿を見つめる少女の藍色の瞳は甘い諦念を湛えている。
ふたりきりの部屋はほの暗く、まばゆいものなどどこにもない。
そこには、ただ静かで冷たい薄闇だけがあった。