中ボス悪役令息くん、度重なるループの末に悪役『令嬢ちゃん』に至る 作:TS幼馴染は必ず勝つ党第809代党首
ちちちちち……。
どこか、それもとても近いどこかから鳥のさえずる声が聞こえたような気がして、ルクレは小さく首を傾げた。
鳥の声、なんてそう珍しいものではない。
それが昼下がりの教室にいるときに聞こえたものでなかったなら、ルクレだって特に気にも留めたりしなかっただろう。
さえずりがどこから聞こえているものか、ルクレは周囲をちらりと見渡した。
けれど教室の中は、授業中だということを加味しても、やけに静かだ。
数人がペンを走らせるかりかりという音と、魔導の歴史を語る静かな女性の声だけが響いている。
その声の主が自信なさげに背を曲げていることに気づいて、ルクレは思わず苦い笑いを浮かべていた。
黒いローブを纏ったその教師の背筋は、確か半年ほど前まではまだ、いくらかしゃんと伸びていたのに。
そうなってしまうのも無理はないか。
この教室の現状が、彼女の背を曲げるほどに自信を失わせてしまったのだろう。
あちらこちらで生徒たちが居眠りに耽る、見慣れた/懐かしい惨状を前にルクレはそう心のうちで呟いていた。
教卓に立つ女、魔導史学の教師であるミネア・セーニャは、決して生徒から人気がないわけではない。
彼女は悪意から授業をボイコットされているのではないのだ。
逆に、やわらかな灰色の髪に慈愛の宿った薄青の瞳を持つ女性、とあって生徒たちからもよく慕われていると言っていいだろう。
魔術の腕だって立つ。特に電撃系の攻撃魔術はかなりの腕前だ。
ただ、ミネアは日頃、あまりにもおっとりとして気弱すぎた。
教員になってこれが一年目とまだ年若く、対応もどちらかというと甘い。
そのせいで彼女は、とりつくろわずに言ってしまえば、生徒からやや舐められている節がある。
しかも、担当科目も悪かった。
これが実践魔術関連の担当教員なら、生徒たちが彼女の実力を垣間見る機会だっていくらだって訪れる。おどおどとした第一印象からは考えられないその苛烈さに、周囲の見る目もだいぶ変わったことだろう。
けれど、ミネアの担当する魔導史学はその名の通り、実技要素もなく座学だけ。
しかも一般教養系とあって、はっきりと言ってしまえば、生徒からの人気があまりない方の授業だ。
教師として人としてのセーニャ先生のことは好きだが、それはそうとして目の前の睡眠欲求には抗いがたい。
というのが大多数の生徒の言い分だった。
今日は特に昼食の後ということもあってか、睡魔と懸命に戦っている者やすでに負けた者の姿がいつもよりも目につく。
訥々とこそはしていないものの、穏やかな彼女の語り口もまた、そこに追い打ちをかけてしまっていた。
そんな惨状の中でもミネアの話を真面目に聞いている生徒がいないわけではないのだが、彼女の授業になるとどうにも睡魔に負ける生徒の数が目に見えて増える。
ミネアもそれを自覚して、自信を失っているのだろう。
まぁ授業態度が悪いのはルクレも同じことだ。
起きているからまだマシに見えるが、わざわざ授業なんて聞かなくてももう十分知っているから、とこうしてよそごとばかり考えている。
ちちち。
また小鳥の楽しげに歌う声がする。
鳥の姿はやはり教室の中には影も形もなかった。
ならば、とルクレは窓の方へ目を向ける。
ちちち。ちちちちち。
──いた。
ガラスのすぐ向こう側。
窓枠に留まった二羽の小鳥が、灰色の雲の間から差し込んだ冬の陽のひかりを浴びて楽しそうに歌っている。
ああ、平和だ……。
とルクレは心の中で思わずそうつぶやいていた。
のどかな、実にのどかな昼下がりだった。
以前の自分だったなら、こんな心和むような風景を前にしても皮肉の十や二十は出ていたことだろう。
今は違う。
平和であるということはいいことだ。
ルクレは愚かしかったから失うまでわからなかったけれど、平穏な日常は何にも代えがたいものなのだ。
750回目の繰り返しが始まって、今日でちょうど2週間。
ありがたいことに大きな変化は今のところはなかった。
もちろん目が覚めたら女になっていた、という異変はあまりにも大きい。2週間という時間がたってもこの体にはまだ慣れることができずにいる。
が、幸いなことに、と言っていいのか、ルクレは繰り返しすぎた死に戻りのおかげで感情を鈍化させることには慣れっこだ。
なんでもないことだと言い聞かせていればいつか本当になんでもないことになる、はずだ。
なってくれないと困る。
色々と直視したくないことが多すぎるせいで、実はルクレはまだお風呂に入ることもできていない。
水浴びも無理だ。布で体を拭うことでさえもダメだった。
服を脱いで生身の体に触れる、ということへの心理的障壁が現状あまりに高すぎるのだ。
胸まで触っておいてなんだが、現状、胸なんかよりもずっと触りたくも見たくもないところがある。
一か所。
どうしても、触ることも見ることもできない場所が。
たぶん、心のどこかにこの現実をいまだ受け入れられない自分がいて、変わり果てた体を直視しないことで目の前の現実を拒絶したいのだ。
あまりにも決定的なそこを見なければ触らなければ、なかったことにできないか、と未練たらしく拒んでいる。
そして、そんな愚かな自分自身と壮絶な戦いを繰り広げた後に、なんとか薄目になって服を脱ぎ、いざこの体を隅々まで洗う、というところでいつもルクレの気力が尽きるのだった。
代わりに、浄化の魔術を使うことで今はまだ事なきを得ている。風と光でもって体を清浄にきよめてくれる、という今のルクレにとってはまるで救世主のような魔術だ。
まったく魔導バンザイ! と言うしかなかった。この魔術が使えなかったらどうなっていたことだろう。想像するだけでぞっとする。
まぁ、それだって現実から目をそらしているのと同義だ。
いつまでもこれを続けているわけにはいかない、とわかっているのだが。
紅いペンを握った手にルクレは目を落とした。
小さく細い手とその大きさに似合いの爪。
何も塗っていないのに艶々とした桃色の爪にも、自分の手の小ささや握力の弱さにもどうにも慣れない。少し気を抜くと物を取り落としそうになることだってあった。
慣れなければ、と頭では思う。
慣れたくない、と心がわめく。
だいたい何事に対してもそんな風に、ルクレはこの一週間を過ごしている。
元の、男の身体に戻る方法はない、と、それを探して足掻いたりしない、と決めたのならいっそもうすっぱり諦めて慣れなければならないのに。
ただ、諦めへの言い訳をするのなら、ルクレは学院が所蔵している書籍に関しては、その立場を悪用していわゆる禁書指定のものも読み尽しているのだ。
なにせこれまで749回も人生を繰り返している。
打開策を求めてなんだってやった。
公爵家の嫡子なんてだいたいの我儘が通るおいしい立場、活用し倒すに決まっている。
学院に収蔵された魔導に関わる書物の内容は、大抵この頭に叩き込んでいる。
その上で、道はない、と判断したのだ。
手がかりさえも、どこにもない、と。
……いっそ本邸に戻れば、何か手がかりが見つかるのかもしれない。世界中を見ても父祖の手元にしかないような、貴重な書物が実家には数多く保管されていることをルクレは知っている。
がそうすると今度は、たかが数カ月の余命の為にそこまでして足掻くことに対して、あまりにも気が向かなかった。
だって死ぬのだ。
シャニに殺されてどうせ今回も短い人生が終わる、とわかっていてなお、リトグラト本邸という自身にとってのトラウマの巣窟に戻るだけの気力は、正直なところ今のルクレにはまったくない。
まったく、これっぽっちも。
こつん、とペン先でノートを小突いた。
じわりと黒のインクが紙面に染みをつくる。
まったく受け入れがたいことばかりだ。受け入れられない自分の弱さも嫌になる。
ただ、それでもいくらかの救いはあった。
幻影の魔法は今日も問題なく機能してくれている。
おかげで今のところ、学生はもちろん、教員にも異変が知られた様子はない。
日常生活でも、あの大穴以外に大きく変わったことは起こっていなかった。
いや、第二校庭に開いた穴だってもしかしたらこれまでも起こっていたことだったのかもしれない。
よくよく考えてみれば、繰り返しの二日目をあんな風にある種落ち着いた精神状態で迎えたことはなかったように思う。
いつだって来たるあの日の死に怯えて、まるで追い立てられるような気分だったから。
だから、ただ自分が気づいていなかっただけなのかもしれない。あんまりに余裕がなかったものだから、周りのことなんて気にかけていられなかっただけだったのかもしれない。
すっかり元通りになった校庭を横目に眺めながらルクレはそんなことを思った。
学院の外の空は降りしきる雪で灰色に濁っている。
外はきっと骨の髄まで凍えるような寒さなのだろう。
けれど、ここは結界の内側。
ここにあるのは絶対の守護と、泥濘のような停滞だけ。
命を奪うほどの吹雪もその苛烈さを奪われる。
学院は、そこに吹く風はやや冷たくとも、今日もエディリハリアにはあり得ないような陽光の中にある。鳥たちがさえずり遊ぶほどに。
ん、とこみ上げてきた大きなあくびを噛み締めた。垂れたまなじりに涙が浮かぶ。
女の体になってからどうにも冷えに弱くなってきてよろしくない。
筋肉が減ったせいだろうか。元から体温が低く寒さにあまり強くない性質のルクレからすると少し厄介な問題だった。ここのところ、布団に潜っても手足がやたらと冷えて、自然と眠りも浅くなる日々が続いていた。
だから、春のぬくもりはひどく恋しい。
けれど、春が来てほしいとは思えない。
これまで繰り返してきたように今回もまた、穏やかで静かな冬の日々が続いていた。
いつだってそうだ、春が来るまでは何も起こらない。
春の半ば、新入生歓迎を兼ねたあの学院祭が開催される頃から運命は加速する。
だからルクレはいつも思ってしまうのだ。
──春なんて来なければいい、冬がずっと続けばいいのに、と。
長く厳しく、凍えるようなこの季節が続く限りは死なずに済むような気がした。気がするだけだとわかっている。
春はゆっくりと、けれど確実に近づきつつあった。
ルクレはもう一度、教室をくると見渡す。
陽だまりの中ですやすや眠っている女生徒がいる。
ミネアの授業に熱心に耳を傾けノートをとる男子生徒もいる。
そうして、声こそか細く自信なさげに聞こえても、彼女なりに真摯に授業を続ける教師の姿がある。
彼らは知らないのだ。誰一人として。
この世界が、静かにけれどこうしている今も刻一刻と、確実な滅びへ向かっていることを。