「──嫌なら早く拒絶してくれ」
引き合う重力のように、顔と顔が近づく。
私の視界に広がる彼のその瞳の中に私がいた。心臓が一秒よりも早く時を打ち、その鼓動は全身に行き渡っているようで、身体中の血液の流れを感じ取る。互いの息が混じりそうな程に近い距離がゼロに近づこうとしている。体の熱はまだ冷めない。
しかしそれに反して私の頭は冷静だった。
「………………」
そうして唇が触れ合いそうになった瞬間、烏間が動きを止めた。顔を遠ざけて私を見下ろす。
「………………なんで、何も言わないんだよ」
彼の少し焦っている表情から出た言葉は、何も抵抗しない私を責め立てる文句だった。
……前提として、烏間は人を傷つけるようなことはしない。だから私は何も抵抗しなかったし、する必要もない。
彼は自分の心が傷ついてでも、式守さんの恋路を応援していた。それは傍で見てきたから知っている。誰かが傷つくより、自分が傷つくのを優先する。それだけは本人が証明しているし、信用もしている。
私を無理矢理……なんてことをしないと分かってるからこそ思考する余裕が出来た。
それでもこの状況になったのは、烏間の中にどうしようもなくなった気持ちがあって、私がそれに触れてしまったからだ。超えてほしくなかった一線を私は超えてしまった。それについては配慮が足りてなかったとは思う。
「ハッタリだと思ってる? それとも、こんな事出来るなら式守と今頃恋仲だっただろうとか思って舐めてる?」
「……」
でもごめんと先に謝るだけでこの場を済ますのはダメな気がした。
らしくない行動を取った一端の私も悪いけれど、そうなる前になんとか出来たかもしれないし、こういう事をすることもなかったかもしれない。
他人に当たるぐらいだったら、自分一人で抱え込ないでほしかった。
だから私が謝ってなぁなぁでこの場を終わらせてしまったら烏間はまた繰り返すかもしれない。
「……なんか言えよ。襲われようとしてるんだぞ。無言だとされるがままだぞ」
「ムジュンしてる。無理矢理押さえつけて襲おうとしてる人が私の心配するか?」
「……なに? 今さら弁護士ごっこ?」
……烏間が誰かを想って傷つくのは、彼の意志と判断で決めたことだから私はそれを汲んで見守ろう。多少は励ましたり、気遣ったりもしよう。
でも、誰かを傷つけてまで自分を傷つけるのは見過ごせない。その自傷行為に何の意味があるんだ。他人に迷惑をかければ、その果ては孤独だ。
そこまで自罰的なのは許容できない。
気づいてないの気づかせてあげるし、自覚があるんだったら止めてやる。
だって私は烏間の友達だから。
「──自分が傷つくために、私を使うなよ」
私の吐いた言葉は烏間を動揺させるには十分だった。
「……傷ついてなんてない」
なら、なんでそんなに泣きそうなんだ。
「誤解されたくないんなら、言葉は尽くすべきだ。言わなきゃ伝わらないと言ったのは烏間だ」
「誤解してるのは狼谷の方だ。……俺、は…………」
「まだ間に合う」
言葉を詰まらせた烏間が息を呑む。至近距離から、まるでテニスボールでも呑んだような喉の動きが目に入った。未だ私の目は彼の瞳を捉え、居たたまれない彼の瞳は右へ左へ律動した。
「…………本当に、そんなのじゃなくて」
絞り出した声は至って平静。平静を装いすぎて表情と声音がちぐはぐだった。口元は取り繕うように、半笑いの形を浮かべ、何か言葉を紡ごうとしても短い呼気が漏れ出るだけ。私の両手を縛る握力が強くなる。痛いくらいの熱は彼の葛藤を感じる。
そんな瘦せ我慢なんてとっとと折れてしまえと思いながら、彼の次の言葉を待った。
「…………ごめん、もう、無理だ……」
そして彼の夕暮れのような瞳から雫が落ちた。じわりと潤んだ瞳は陽炎のように揺らめいて、零れた水滴は頬へと流れる。すでに手の拘束は解け、お腹を圧迫していた手も、止めどなく溢れる涙を拭うのに使っていた。
「……ごめん」
「……」
私は半身を起き上がらせて、烏間をそっと肩に寄せた。
烏間は抵抗しようと私の腕に触れたが、私はそれよりも強く引き寄せた。
「許されるよ。それぐらいは許される」
「……っ」
本当は誰にも涙を見せたくないんだろう。裏で泣いて、それで一人で心の処理をする。カッコつけの烏間のことだから誰かにその姿を見られるのが許せないんだろう。
でも少しぐらい誰かに寄っかかってもいいと思う。慰めてもらうぐらいは許されると思う。
彼は脱力して抵抗を止めた。最後の抵抗なのか声は押し殺していた。それを促すように背中をさすった。
沈黙の中に烏間のすすり泣く声が広がる。その声が聞こえるように外の雨音は次第に弱まっていった。
「消え去りたい……」
「えぇ……」
「恥……死ぬ……もうヤダ……あ゛あ゛あぁああああああ……」
肩で泣いて数分。涙が出尽くした烏間は無言で狼谷の肩をそっと離れ、そのまま体育座りをして部屋の隅っこで丸まっていた。顔を膝に埋め込んで丸まる姿はさながらアルマジロかダンゴムシのようで、ネガティブな言葉をひたすら繰り返していた。
「……まじでゴメン。ホントにどうかしてたと思う」
「えっと……私もちょっと踏み込みすぎたかもしれないから……ごめん」
「いや狼谷は全然悪くないし、絶対に悪いのは俺。俺が……はぁ……」
狼谷が謝罪にすかさず反応し、顔を上げてフォローを入れる烏間だったが、自身の過失を思い浮かべると、思わずため息が漏れて再び顔を伏せた。
「結局のところ俺が弱いし面倒くさいんだよ。もう終わったものをきっぱりと断つ勇気もなくズルズルと引きずって、あげく好きな人から嫌われる勇気もない。ただ貰った痛みを受け入れるのが一番楽なんだと逃げてただけ」
「……」
「可哀想な自分が可愛かったのかもなぁ、俺自分のこと大好きだし。あはは……」
乾いた笑いを浮かべる烏間。本人は自虐ネタを言ったつもりらしいが狼谷はどう返していいか困っている。
いかなる時でも自虐ネタと言うのは相手が気まずくならないように配慮するラインを見極めてからいうものである。
「式守さんとはこれからどうするんだ?」
空気を変えるために狼谷が話題を逸らす。烏間は数秒沈黙した後に答えた。
「もう迷惑かけないように関わらないようにするかな」
「……本当にそう思ってるのか?」
「……まぁ、うん」
「烏間」
「……なんでしょう」
「怒っていいか?」
「もう怒ってる気がしたから目逸らしてました」
自身の名前を呼ばれた時から、狼谷が怒ってる気配を感じ取って烏間は距離を取っていた。
「この際はっきり言うけど、もっと自分の気持ちに素直になった方がいい」
「素直になったら式守との関係壊れるし、壊れたんですけどー」
「別に好きになること自体は悪いことじゃない。けど烏間は好きになった自分を否定してただろ」
「そりゃあ……好きにならなければ何も問題なかったし、素直に間違いを認めてただけだし……」
「だったら私が和泉くんを好きだったのも間違いか?」
「っ……それを持ち出すのは卑怯だろ。……狼谷のその気持ちは否定……したくない」
「ダブスタだな。なんで自分は否定できて、私のことは否定できないんだ?」
「……」
狼谷の言葉に答えを出そうと考え込む。秒針が一周したころに烏間が口を開いた。
「わかんない。でも狼谷の方が合ってると思う」
出た答えはギブアップと、理屈にもならない理由だった。
「言ってみようか? 烏間がそう思う理由」
「……教えて?」
「他人と比べた自分の気持ちを無条件に下に置いてるからだよ。烏間の中での優先順位が他人で、それに自分の気持ちが押しつぶされてるんだ」
「いやー俺は結構自分の意見言ってると思うけどな。割と覚えてるし」
烏間は指折り数えるが、普通は自分の何気ない発言なんて覚えていられないのだ。それが後悔したものや、後ろめたい発言ではない限り。つまるところ、烏間が自分の気持ちを優先したものは悪い事だと無意識に思っているのだ。
「だったら本当の本当に式守さんと関わらないようにしたいのか? それが烏間が一番望んでいることで何も後悔しないのか?」
「本当は……また昔みたいに話したいけど、もう全部壊れたから。元には戻れないなら、せめてこれ以上迷惑かけないようにしたい」
「……確かに壊れた関係は元には戻れない。けど──」
狼谷が烏間の手を握る。痛いぐらいに強く、痕が残る程に。
「やり直すことは出来るはずだ。さっき、私たちの関係は壊れたのに話してるだろ? 烏間がちゃんと自分の気持ちを素直に認めてて向き合ってくれたからだ」
「……」
「式守さんと話すのは勇気がいることだし、痛みがあるのかもしれない。でもきっと前に進める」
それは烏間に与えられたもう一つの選択だった。
全てを時の流れに任せて過去にするか、傷つく勇気をもってこれからに目を向けるか。
「選ぶのは烏間なんだ。自分の気持ちと向き合ってくれ」
「……また迷惑をかけるかもしれない。傷つけるかもしれない。それでもいいなら……俺は──」
烏間が何かを言いかけた瞬間、彼はすっと背筋を伸ばして余所を見た。野生動物がなにか気配を察したような挙動のようだった
「……まずい。親が帰ってきた」
ガチャリ、と誰かの帰宅を知らせる音が玄関から鳴る。
「すごいな、耳良いのか?」
「なんか昔から分かるんだよ。そしてマジで申し訳ないんだけど親にバレないように帰って欲しい」
「えっ」
「親に失恋で休んでますなんて言えないから、体調不良っていう体で通してるんだよ……それなのに部屋に誰かと遊んでるって知ったら、ちょっとまずいっていうか……俺がリビングで親と会話して足止めしてる間にこっそり玄関から出てってほしい」
「そうか……わかった」
狼谷は了承すると、荷物を纏め部屋から出る。先行している烏間に付いていき、足音を立てずに階段を下りて玄関へとたどり着く。
「じゃ、ここで」
二人はリビングにいる親に声が聞こえないように話す。烏間がリビングに向かおうと背を向けると、狼谷が引き留めるように肩を掴んだ。
「……学校で待ってる」
そうして振り向かせて、烏間へと言い忘れそうになった言葉を吐いた。
「ああ、またな」
烏間が小さく手を振って答えると、家の奥へと歩いていく。リビングに入ると烏間と母親らしき落ち着いた声が聞こえる。扉を動かす音を最小限に抑えつつ、玄関から狼谷は出ていった。
ゆっくりと閉める扉の合間から、隙間風のように吹いた会話が狼谷の耳へと吸い込まれた。
「──そういえば、この前言ってた引っ越しのことなんだけど」
(──え)
発言に耳を疑うにはもう遅い。扉はすでに閉じてしまっていた。