最初に連絡が来た時、俺は碧からのLINEかと思って当たり散らしたことを少し謝ろうと思って明かりのついたロック画面に「恵美」の文字が見えて思考が一瞬止まった。もう連絡がつかないと思っていた相手からの不意打ち、しかもこのタイミングは完全に予想外だったからな。帰ってから返信しようとして、一旦消してから慌ててもう一度画面を点けた。不意打ちすぎて危うくスマホを落としかけるくらいには、驚きのことだった。
「恵美!」
「わ──お、おかえりなさい」
しかもその内容が「家にいます」というもの端的なものだった。俺んちかあいつんちか迷ったがスマホを置き去りにしてたことで前者だろうと判断した。出掛けた時に一応鍵は掛けたはずだが、あいつスペアキーちゃんと持ってたのかとか、他にも色んな疑問が渦巻いてたが、ひとまず全部を投げ捨てて戻ってくると、恵美はいつもの
「……はぁ」
「あの……ひとまず、お風呂に入った方が……」
「だな」
「あ、あの私は、ご主人様の匂いなら汗でも……!」
「バカみてーな性癖暴露はやめとけ」
風呂も、俺は沸かしてなかったのに沸かしてあって、流石に恵美が入ってたってわけはないが、考えを纏めるためにも一旦不快なほど出てくる汗を流して、いつもよりもパッパと身体を洗って、ゆっくりと湯船に浸かる。何がって思っていた以上に恵美が普通なことに対して戸惑ってる部分があるんだよな。
──あいつは俺に失望したのかと思っていた。だからこの家から出て、どっか行ったんだと思っていたが。あいつの真意はどこにあるんだろうか。怒ってるような雰囲気はなかった、どちらかというと申し訳ないというか走らせたのは自分のせいだって思っていそうな感覚がある。
「……じゃあなんで出てったんだ」
碧にも連絡してたんだ、俺の傍にいられなくなったってあれは本気だとそう思っていた。だからこそ俺が必死になって探したし、碧も焦ってた。だというのにこんな風にあっさりと家に戻ってきていて、お風呂を入れてるというムーブがわからん。考えてもなんにもわからん。このままじゃ逆上せると判断した俺は上がって直接真意を問いただすことにした。
「アイス、買ってきてくれたんですね」
「ああ……それで、事情を説明してくれるんだろうな」
「はい、それはもちろん……その、あの」
「なんだよ」
「すみません……怒られないかと」
怒られるようなこと言うつもりなのか。俺が身構えつつ否定も肯定しないでいると恵美はゆっくりと、恐る恐るといった雰囲気だったけど、それでも俺の言葉を信じてくれて、語ってくれた。
その言葉は、俺に驚きとそして、怒りを一瞬覚えてしまった。
「──おい、マジかよ」
「う、お、怒らないでくださいよ……だから言ったんです」
「いや……いやまぁ、俺が確認し忘れたからな」
「けど、出ていこうとしたのは本当なんです、信じてください!」
「いや出ていかれてた方が困るんだよ」
なんと恵美は
確かに俺は恵美の部屋を確認してなんかいないし、そもそも出ていったと思ったから家の中をロクに捜しもしてない。まさしく灯台下暗しってやつだな。
──こいつの主な行動はこうらしい。まずいつものように掃除をして予め出ていくつもりだったため料理を作り置きをする。それが思いの外熱中してしまい、作り終わって疲れて寝てしまった、だそうだ。
「それで俺のベッドで寝てれば……見つけられたんだけどな」
「一人枕を濡らしてました、私、これでご主人様ともお別れなんだって悲壮感に暮れてました」
「……けど?」
「料理作った疲れと泣き疲れてしまって……えへへ」
「えへへ、じゃねーんだよバカ猫」
つまり俺は徒労をしていたというわけだ。その後は碧としゃべり終わり、バタバタと俺が出ていくところで目が醒めて、しばらくは寝ぼけ眼で忘れ物でもしたのかとアイスを食べようとして最後の一個だったから食べつつ、アイスついでに買ってきておいてくださいと連絡をしようとしてそこで漸く自分が出ていくつもりだったこと、そのつもりで碧に連絡したこと、置き手紙のことに気づいたらしい。
「ひ、人騒がせな……つか呑気かよ」
「お騒がせしました、碧さんにもちゃんと連絡しました」
「当然だ、あいつもめっちゃ気にしてたからな」
「はい、今度謝りに行きます」
「おう」
「……ご主人様にも、迷惑を」
「いや──でも、出てくつもりではあったんだろう?」
恵美は、僅かに頷いた。こんなギャグみたいな結末だが、そこに至るまでに恵美が出ていこうとしていたって事実が一番大事だ。これで冗談のつもりでしたとか、ドッキリでしたとか抜かしてたらマジでキレてたからな。だが恵美は出ていこうとしていた。だから俺は今回のことに怒りはしねーし、なんなら何があったのか、どうしてそうなったのかちゃんと恵美の口から訊き出したい。
「……私は、やっぱり子どもだから、子どもだったから、どんなにご主人様が頑張っても負担になる、そう気付かされたので」
「負担? なんでお前一人をこの家に置いとくのに──飼うのに負担かかると思ってんだ」
「そうじゃなくて……蒼山さんの言葉が」
「藍の?」
藍は十八歳未満を傍に置いておくことに、それを他人に明かすことへの覚悟を問うてきた。実際、それは覚悟のいることなんだろうと思う。恵美が負担だと感じる部分もその年齢ということだ。赤の他人であり未成年である異性と同棲するというリスク、それに恵美は耐えられないと判断したんだろう。一度それでまずいことになりかけてるし、そう考えてくれて逆にほっとした部分もあるが。
「そっか、だから出ていこうとしてたのか」
「はい……でも、寝ている間に夢を見てしまって」
「夢?」
「大した夢じゃないんです、ご主人様とプールに行く夢でした。これから起きるはずの、でも私が一度捨てようとした時間の夢」
「そうか」
「すごく楽しくて、幸せで……ずっとずっと、傍にいますって夢で言ってしまって」
起きて、それが夢だったことを知って、恵美は出て行きたくない、今の生活を失いたくないと強く思った。俺はその言葉を聴いてほっと息を吐いた。恵美の話しはそこで終わり、出て行きたくないって言葉にほっと息を吐いた。
そうしたら、今度は俺の番だ。俺が恵美に自分の素直な気持ちを伝える番だ。
「ありがとな、恵美」
「私は……ご迷惑じゃないんですか?」
「迷惑なわけねーだろ、むしろ……なんだ」
「ご主人様?」
どうにかして言葉にしようと思うんだが、素直な言葉にならずに言葉に詰まってしまう。どうすりゃいいんだろうか、これまで素直に誰かに何かを伝えることなんてないから、何度か口の中をモゴモゴと歯にものが詰まったかのようなことを繰り返すだけになってしまう。そんな俺の迷いに対して恵美は何かに気づいたように俺の隣に座ってきた。
「どうかしましたか?」
「……今から言うことは、聞き流してくれてもいい。なんなら幻滅してくれても構わない」
「はい、大丈夫です」
「俺さ、怖かったんだよ……恵美がいなくなったって思って」
「怖かった、ですか?」
「恵美がいなくなったって思った時、めちゃくちゃ胸がザワついた」
その言葉と同時に俺は恵美のブロンドを撫でた。少し驚きはあったものの、恵美はくすぐったそうに目を閉じる。そこに前は感じなかった安心感というか、触れることができることが嬉しさがあって──でも本当は前から感じていたはずのものを見ねーようにしていたような、言葉にしにくい感覚だった。だが、恵美を捜してる時に、胸に溜まっていたもんを全部吐き出すように伝えていく。
「心当たりを捜して、いなくて、その度に昨日までの日常が壊れることが、お前が俺の前からいなくなるかもって現実に足が竦みそうだったよ……情けねーことに」
「え、あ……ご主人様?」
「それで、もうなりふりとか、プライドとか──全部どうでもよくなった」
そうだ、俺が捨て猫のように立ち尽くしていて、貞操すらも投げ捨ててでも誰かに助けを求めていた栗原恵美を拾ったのは気まぐれ以外のないものでもない。だから懐かれても、惚れられても、こいつが本当の意味でその感情を求めるのは俺じゃなくて、恵美が自分で選んだ相手だって勝手に決めつけてた。
──なのにこいつは全然俺から離れるつもりがなくて、突き放しても、何してもより甘えてくるしいつだって俺への想いを隠すことなく接してくる。
「そんな日常が、当たり前だったのが、なくなるのが嫌だ」
「それ、なんだか……」
「不安にしねーために、お前が欲しいもんはやる。元々貢がれるのは性に合わねーんだよ」
「ほしいもの……それは、お金で買えるもの限定ですか……?」
「訊くってことは、違うってわかってるってことだよな」
「……あ、あの……ちょっと待ってください、心の準備が……!」
恵美は急に恥ずかしそうに俺から距離を取ったらしい。やっぱお前にそこまでの覚悟はなかったってことか、俺が実行に移さねーから言ってただけなんだな。いつだってこいつは思わせぶりなエセビッチだったってことだ。それが俺には残念じゃなくて、安心感すらあるんだからもう、本当になんで今まで見てこない振りしてたんだろうな。
「……本当なんですか?」
「何が?」
「私のこと……あなたはそんなに、想ってくれるんですか?」
「疑われても仕方ないことしてるな、けど、本当なんだよ」
「いつも煽ってる私が言うことじゃないですけど、その……そういうことばっかりするのは」
「セフレと、お前は違うだろ」
俺は確かに性欲バカだって自覚はあるしセフレとヤリまくってるような男だけど、それは相手がセフレで、俺も相手もセックス目的で会ってるからであって恵美相手にそこまでがっついて嫌がられるようなことはしねーよ。言ってるだろう、お前が欲しいもんはやる。恵美が欲しいと思った時に、貢ぐだけだ。
「いても、いいんですか?」
「これが……本当の意味での覚悟だろ。
じり、じりと警戒交じりに近づいてくるような動作を俺はじっと待つ。久しぶりにこんな恵美を見た気がするな、と向かい合っているとやがて警戒が解けたようでいつものように俺の膝に頭を乗せて寝転んでくる。ソファでのこの時間もすっかり慣れて、俺はブロンドの頭を撫でて、頬を撫でていく。
「蒼山さんは」
「ん?」
「……蒼山さんとちゃんとお別れしないと、覚悟があるとは認めません」
「自分が有利になったと思ったら急に上から来たな」
「セフレさんなんて認めません、私が大事だというなら、不安にさせないというなら……もう女遊びは終わりにしてください」
「わかった」
「……約束ですよ?」
「約束するよ」
──結局は、俺は恵美に篭絡された、ということになるんだろうか。五月の連休の終わりに恵美は俺とセフレの関係をすっぱり終わらせて全部を「元セフレ」にしてやるって宣言を見事に達成したことになる。
すると、関係が変わって初めてのデートはプールってことになるのか? それはそれでいい覚悟だな。
「しばらくは、私はご主人様のペットという立場を変えるつもりはありませんので」
「なんでもいいよ、細かい関係は変わんねーだろ」
「そうですか?」
「だって、今が居心地いいからな。ここにちょっとした恋人っぽいやり取りがあるだけで」
「こい……ふふ、そうですね。私は言われた通りの処女で、男の人とキスもしたことない人なので、丁寧に扱わないと怒りますから」
「わがままなやつだな、そこは変わっててくれてもいいのに」
冷静に考えると相手はJKで、子どもで、身体は確かに大人だけど、まだまだ頭ん中は少女みたいで。でも俺はこいつと過ごす日々が愛おしかった。そういう意味だと恋をしたとか、愛してるとかいうのとはまた別で、所有欲とか愛着とかそういう──言葉通り飼い猫に抱くような感情なのかもしれない。
──それでも、そうだったとしても、俺は栗原恵美に好きって気持ちを伝えるだろう。後悔しないように、もう手から離れた時に気づいた、なんて間抜けな話はたくさんだからな。
クライマックスへと近づいてまいりました。
次回からはもうほぼほぼエピローグと言っても過言ではありません