俺がトレセン学園に勤務するようになってから、二ヶ月が経過した。
担当ウマ娘であるダイヤに対して、俺は少し前までは考えられないほど熱心に指導に当たっていた。
身体作りのための基礎トレと、フォームの矯正に重きを置いたメニューを根気良く続けること一ヶ月半。
その成果が徐々に現れ始めていた。
「矯正したフォームもだいぶ板に付いてきたな。どんな感じだ?」
「はいっ! 以前よりも軽い力で走っている感覚なのに、グンと前に進んでいる気がします!!」
「良い傾向だな。不自然な力みが抜けて、効率的な走りができている証拠だ」
目下の課題であったフォームの矯正点は、意識した状況下であれば、これ以上指摘する必要のない水準に達していると言っていい。
しかし依然、集中が乱れればフォームが崩れてしまう問題を抱えているため、気を抜くことはできない。
今月末にメイクデビューを控える俺達は、無意識下でのフォームの維持と、必要となる技術の習得に力を注いでいた。
「序盤のコーナーを曲がるときは、常に身体の軸を意識しろ。外側の肩を少し開くような感覚で、遠心力を外に逃すイメージを持て」
差しの脚質で戦う以上、序盤はなるべくスタミナを温存したい。
コーナーの走行は、直線の走行に対して苦手意識を抱くウマ娘が多い。なぜなら、身体を外へ外へと追い出す”遠心力”という要素が加わるからだ。
レース序盤のコーナーは、遠心力に逆らわない消費エネルギーの少ない走法で切り抜ける。
「終盤のコーナーの場合、今度は外側の肩を内側へ入れ込んで前傾姿勢を作れ。遠心力を利用して、力強く芝を踏み込むんだ」
遠心力の要素が加わるコーナーは、直線よりもより強い力で地面を蹴る必要がある。
しかし、消費エネルギーが大きくなる反面、直線よりも地面から得られる力が増えるという利点が存在する。
これを利用しない手は無い。
遠心力を活かした力強い走法で、最終コーナーをラストスパートの助走区間として利用する。
コーナーを走行する技術の習得は、メイクデビューで一着を取るために必要な最低条件だ。
基礎トレーニングで体幹を強化し、ブレない軸を作る。全身の筋肉を発達させて、遠心力の負荷に耐える身体を作る。
全ての段取りを最適にこなした上でようやく、必要最低条件を達成するためのスタート地点に立つことが出来た。
「最後の直線はとにかく脚を前に出せ。絶対背後に勢いを逃すな!」
「はいっ!」
ラストスパートをかける最終直線は、風の抵抗を少しでも減らすために大きく前傾姿勢を取る必要がある。
その際も身体の軸を一直線に保ち、上半身が生み出す力、下半身が作り出す力、地面がもたらす力を全て吸収して、前へと進む推進力に変える。
これら全ての工程を的確に処理した上で生み出されるものこそが、最終直線で最強の矛となる”末脚”なのである。
「今の一本は悪くない走りだった。その感覚をメイクデビューまでに身体へ染み込ませろ」
「頑張りますっ!」
「休憩を挟んだら、次は坂路を走る。ポイントを復習しておけ」
コーナーの身体使いに関しては、この調子で行けばレースで使える水準に達するだろう。
反対に、ダイヤは坂路を走ることに苦手意識を抱いている節があった。
メイクデビューの開催地となる阪神レース場の大きな特徴。それはスタート直後とゴール直前にそびえ立つ、高低差約二メートルの坂路。
スタミナを根こそぎ奪われる害悪な地形を攻略することも、必要最低条件の一つに含まれる。
坂路の走行は基本的に歩幅を狭く取り、脚の回転数を限界まで引き上げる"ピッチ走法"が主流だ。
絶壁のような坂路をとんでもない速度で駆け上がるピッチ走法だが、その分スタミナを著しく消費する。
スタミナと根性に秀でるダイヤでも、心臓が食い破られそうになるほどの負担がかかる走法なのだ。
差しの脚質でレースに臨むため、序盤の坂路は余裕を持って登っていくことが出来る。
しかし、レース終盤ではその事情が変わってくる。
先頭集団を後方から差す以上、終盤の坂路においては最終直線で得た速度を可能な限り維持する必要がある。
ピッチ走法をモノに出来ていないダイヤにとって、このままでは分が悪すぎる状態でレースに出走する羽目になってしまう。
「この前教えた通りに坂路を登ってみろ。歩幅を普段よりも小さく狭めて、脚の回転数を上げるんだ」
「はい、行きます!」
一見すると、ダイヤは何の問題もなく坂路を駆け上がっているように見える。俺の指示通り、ダイヤは歩幅と脚の回転数を器用に調整出来ていた。
しかし。
(坂路を登る瞬間だけ、全身が不自然に力んでしまうな。"脚"に意識が奪われる分、他が疎かになっているのか)
俺の指示に意識を集中するあまり、フォーム矯正で培った綺麗な走りを蔑ろにしてしまう癖があった。
「脚の動かし方については、その調子を維持すれば問題無いだろう。次は脚から意識を外して、リラックスした状態で走ってみろ。全身の力みを抜きたい」
「……っ。分かりました!」
俺はダイヤにアドバイスをおくり、次の一走を注意深く観察する。
(……予想以上だ。俺の指示の意図を読み取って、フォームを一発で修正してきた。指摘していないにも関わらず、軸の歪みも一緒に直してきたか)
この様子なら、今日は坂路を走るコツをさらに教えても大丈夫そうだ。
「次の一本だが、今よりも少し大きく腕を振って走ってみろ。感覚的には、前に出す自分の脚を、反対側の腕で引っ張り上げるような感じだ」
矯正で培った基本のフォームを応用し、坂路用にアレンジした型を新しく構築する。
「少し前傾姿勢を取って、アゴを引く。目線を下方向に下げつつ前を見据えろ」
坂路での加速はほぼ不可能。失速を防ぎ、最終直前までで生み出した推進力を噴射して登り切るしかない。
あとはひたすら反復練習。微調整を繰り返しながら、身体にしっくりと馴染むダイヤだけの走り方を模索していく。
「徐々にだが坂路のタイムも縮まりつつある。しっかりとフォームの維持を意識しつつ、地形に合わせた走法のポイントをそれぞれ復習しておくように」
「はい!」
「よし、今日のトレーニングはこれで終了する。クールダウンとストレッチまで気を抜かないように」
俺は普段よりも一時間早くトレーニングを切り上げた。慣れない動作の連続で、ダイヤの身体に想像以上に負担が掛かっていたからだ。
(この調子で行けば、メイクデビュー直前にはフォームをものにできるだろう。問題は、他のウマ娘が干渉するレースで、どこまで自分の走りが出来るかだが……)
レースは他のウマ娘達がいて初めて成立するもの。
ダイヤには選抜レース以外で、自分以外の本気で勝ちにくるウマ娘と走った経験がほとんどないはずだ。
チームメンバーがダイヤ一人だと、併走トレーニングが出来ないことも結果に響いてくる可能性がある。
他のチームに併走トレーニングをお願いするか?
いや……でも俺、トレセン学園で知り合いって呼べるトレーナーが誰もいないんだよな。
くそう。こんな所で躓くくらいなら、他のトレーナーとコミュニケーションを取っておくべきだった……!
「兄さま? どうかしましたか?」
「……何でもない」
仕方ない。
レース本番では極力自分の走りを意識するようにと、声を掛けておくか。
***
メイクデビューまで残り二週間。俺は現在、一人きりの部室で頭を抱えていた。
「うーん……チーム名が全く思いつかん」
机に頬杖をついて、唸り声を上げる。
メイクデビューに……いや、トゥインクル・シリーズ全てのレースにおいて。
出走に必要となるテーム名が、一向に決まらなかった。
チーム名はとても重要だ。自分達を象徴する、唯一無二のブランド名を意味するようなものである。
理想や願望など、チーム個々の強い想いが込められるそれを、適当に名付けて良いわけがない。
良い案が思いつかなかった俺は、数日前にダイヤへこの話題を振ったが。
──チーム名ですか? 私は、兄さまに名付けて欲しいです!
と言われてしまった。
別に案が無いわけでは無いのだが……うーん。
「──失礼します。トレーナーさん、少しお時間よろしいでしょうか?」
「……? あ、ああ。たづなさん」
ああでもない、こうでもないと悩みに悩んでいると、突然部室の扉が開いた。書類を抱えたたづなさんが、扉の外から顔をみせる。
「お取り込み中でしたか?」
「チーム名のことで少し……えっと、それで?」
「突然の訪問で申し訳ないのですが、少しばかり長い話になるかもしれません。よろしければ、中に入っても?」
「ああ、どうぞ」
たづなさんを適当な席に座らせて、俺は私物のコーヒーメーカーで飲み物を淹れる。
「ありがとうございます」
「いえ。それで、話とは?」
「せっかくなので、本題に入る前に雑談でもしませんか?」
「雑談……? まぁ、良いですけど」
やけにもったいぶるな。切り出しにくい話題なのか?
「最近、サトノダイヤモンドさんの調子はどうですか?」
「まぁ、ぼちぼちって感じですね。メイクデビューで一着を取れるかは、今後の調整次第かと」
「今日はトレーニングの予定は無いのですか?」
「最近身体を酷使させていたので、今日はオフにしています」
人生初の公式レースが間近に迫っていることもあり、ダイヤは最近のトレーニングで根を詰めすぎていた。
焦っても良いことはないので、たまには息抜きをしてこいとトレーニングをオフにしたのだ。
「トレーナーさんは、ダイヤさんを大切にされているんですね♪」
「……普通でしょう」
すぐにそっちの路線に話が逸れるから、俺は正直たづなさんが苦手だった。
「……ダイヤさんが少し、羨ましいです」
「え?」
「なんでもありません。そろそろ、本題に入りますね」
本題か。一体何の話を持ち出すのやら。
「これを」
たづなさんは、身構える俺に対して一通の封筒を差し出してきた。
やけに上質な素材で作られたそれを受け取って、俺は中を確認する。
小綺麗に折り畳まれた便箋が数枚封入されていた。
俺は便箋を開き、綴られた文章に視線を落とす。
「…………
差出人の名を見て、俺は疑問を浮かべる。
メジロ。
優秀なウマ娘を世に多く輩出する名家が、一体俺に何のようだ?
「トレーナーさん、率直にうかがいます」
対面して座るたづなさんの様子からして、彼女は一通りの事情を把握していると見た。
たづなさんから発せられる次の言葉を、固唾を呑んで待つ。
「──チームメンバーの勧誘を、検討する気はありませんか?」
俺はその言葉をどう解釈すればいいのか、少し悩んで。
「やはり、規定人数で何か問題が?」
未実績のチームに対する贔屓のような待遇に、外野が不満を抱いたのかもしれないと結論付けた。
「いいえ。そちらの文章に目を通していただければ理解されると思いますが、差出人はメジロ家の当主様です」
「……なるほど」
メジロ家の当主……あの婆さんか。
「どうして俺が復帰した時期に……あぁ、URAか」
メジロほどの名家ともなれば、URAに対しても顔が利くのだろう。いや、トレセン学園の理事長と繋がっている可能性も否めない。
何かしらの手段を用いて、俺がトレーナーに復帰した情報を入手したのだろう。しかしどうして……。
「文面では相互の解釈に齟齬が生じる可能性があるとのことなので、私からも説明させていただきます」
何がともあれ、俺は黙ってたづなさんからの説明を聞くことにした。
「結論から先に言いますと、トレーナーさんには二名のウマ娘を担当して欲しい、とのことです」
「二人?」
「はい。そのうち一人はトゥインクル・シリーズのレースには出走せず、トレーナーさんの
「いや、訳が分からないんだが?」
ウマ娘が、俺のサポーター? ウマ娘は普通、レースに出走して成績を残す目的でチームに加入するんじゃないのか?
「誰だ、そんな風変わりなウマ娘は」
「メジロマックイーンさんです」
「…………」
メジロ家が誇る最高傑作──メジロマックイーン。
"名優"の異名を冠するメジロの令嬢だが、悲願の天皇賞制覇を目前に繋靭帯炎を発症し、現在進行形で長期療養を余儀なくされている。
「当主様からは、マックイーンさんとは顔見知りだとうかがっています」
「……まぁな」
アメリカに留学してトレーナーとしての経験を育んでいた頃、確かに俺は彼女と出会った。
おそらく"あいつのレース"を現地で観戦しに来たのだろう。当時レース場で迷子になっていたマックイーンを案内して、顔見知りとなった。
その際、何かの縁とメジロの婆さんにお願いされて、少しだけ彼女の走りを見たことがある。
以前ウマチューブで視聴したマックイーンの走りに、俺はわずかだがその頃の面影を感じた。
「マックイーンさんは今、メジロ家の療養所で休養されています。この件は本人からの強い希望ということもあり、後日トレーナーさんへ挨拶に伺いたいそうです」
なるほど。たづなさんの話を聞いて、要件は理解出来た。
だが引き受けるかと言われれば、話は別だ。
「トレセン学園は許可するのか? レースに出走しないウマ娘をチームに所属させるっていうのは」
「問題ありません。学園には将来トレーナー職を志望する生徒も多く通っており、彼らが研修のような形でチームに加入する例も数多く存在しています」
トレーナー養成校に在籍するよりも、本格的な指導を間近で見れるというのは確かに利点がある。
トレセン学園はトレーナー養成校と提携を結んでいるし、カリキュラムも充実している。進学のサポートもしてくれるとなれば、確かにそういう選択肢を選ぶ生徒もいるか。
「……悪いが、この件に関しては保留にさせてくれ。現状、業務は俺一人で間に合っている」
「分かりました」
「それで、もう一人のウマ娘に関しては?」
マックイーンに関する事情は大方把握した。
しかし、あの婆さんはもう一人のウマ娘を、
「こちらの方は、ダイヤさんと同時期に本格化を迎えた高等部の生徒になります」
ダイヤと同時期に本格化を迎えた、か。デビューする時期によっては出走レースが被る可能性があるな。
「──メジロドーベルさん。こちらの方は、トレーナーさんと面識は無いとお聞きしています」
メジロドーベル?
その名前には聞き覚えがある。確か……ダイヤが出走した選抜レースで一着を取ったウマ娘の名だ。
「俺の記憶では、選抜レースで一位を取ったウマ娘のはずだ。彼女を欲しがるトレーナーなんて、引く手数多だろう?」
何故こんな時期に、スカウトの話が上がる。
マックイーンの件以上に理解出来ない。
「トレーナーさんのおっしゃる通り、ドーベルさんは一度チームに所属していました。しかし、残念ながら数日前に契約が破棄されています」
「メイクデビュー前に、破棄だと……?」
何か、厄介な事情を抱えているに違いない。
「婆さんには悪いが、現時点では彼女を担当する気はない」
「理由をお伺いしても?」
「理由は三つある。一つ。ダイヤと同時期に身体が本格化を迎えたこと。今後のデビュー時期によっては、出走するレースが被る可能性がある」
ウマ娘は身体の本格化に伴ってデビューする時期を選択する。
出走を希望するレースが重なれば、俺は間違いなくダイヤを優先するだろう。この意思は絶対に曲げられない。
「二つ。メイクデビュー前に契約破棄されるウマ娘だ。破棄に至った背景は知らないが、おそらく原因の一端は彼女にもあるんだろう。問題を抱えたウマ娘に寄り添う指導が、今の俺に出来るとは思えない」
俺がトレーナー復帰に踏み切ったのも、契約相手が昔馴染みのサトノダイヤモンドだったからである。現状、俺はダイヤ以外のウマ娘に寄り添える自信がなかった。
「そして三つ。これが一番大きい理由だ。何故本人が、俺の元に顔を出さない。契約を希望するなら、自分の足で持ちかけるのが常識だろう?」
婆さんが手紙を差し出してくる辺りから察するに、契約希望はおそらくメジロドーベル本人の意思じゃない。
「俺の教育方針は徹底した管理主義だ。本人にその意思が無ければその方針に息苦しさを覚えて、自ら契約を破棄するのがオチだ」
「そのことなのですが……ドーベルさんは男性に対して極度の苦手意識を抱いているそうで」
「だったらなおさらダメだろう……」
理解に苦しむ。
それなら普通女性トレーナーのチームに話を持ちかけるだろう。例えばそうだな、チーム・リギルとかだろうか?
「婆さんの願いには……まぁ、応えたいとは思うが。さすがに今回ばかりは断らせて欲しい」
メジロの婆さんには、むかし色々と世話になった。一応恩義のような感情を持ってはいるが……ウマ娘の競走人生を預かる身としては、二つ返事で承諾することなんて到底出来ない。
「……そうですか。残念です」
「この件は、俺の方から婆さんに連絡を送る。ほとんど個人間の事情に巻き込んでしまって、申し訳ない」
「いえ。これも全て、トレセン学園に在籍する生徒のためですので」
上に立つ者の鑑だな。素直に尊敬する。
「時間を取ってしまって申し訳ありません。それでは、私はこれで失礼します」
洗練された所作でお辞儀をし、たづなさんは部室から去っていった。
「……はぁ」
……さて。
どうしたもんかな。
***
「──お願いっ! 一緒に汗を流そうよダイヤちゃん!」
「え、え〜っと……」
放課後の教室で、私は親友のキタちゃんに迫られて困惑していた。
「ダイヤちゃん今日オフなんだよねっ? お互いメイクデビュー前だし、せっかくだから一緒に走ろうよー!」
キタちゃんの言葉通り、私達は輝かしい栄光への登竜門といえるメイクデビューを間近に控えていた。
キタちゃんが所属するチーム・スピカだが、彼女曰く今日はオフの日だそうだ。
どうやらキタちゃんは、体力を持て余しているらしい。
「ね? ねっ? お願いダイヤちゃん! 一生のお願いっ!!」
要約すると、自主トレーニングのお誘いだった。
「ごめんキタちゃん。誘ってくれるのは嬉しいんだけど、自主トレはちょっと……」
キタちゃんには申し訳ないが、私は彼女の誘いを断らざるを得なかった。
兄さまから、自主トレーニングはするなと釘を刺されているからだ。
「本当に……ごめんね?」
親友の頼みを断るのは心が痛い。胸がぎゅっと締め付けられる。
しかし本当に、これだけはどうしても……。
そしてキタちゃんは、私に断られる可能性を微塵も考えていなかったのか。
「……うぅ」
私の目の前で、涙目を浮かべていた。
「そっか……分かった」
そ、そんな悲しそうに肩を震わせないで欲しい。
私だってキタちゃんと走りたい。昔は毎日のように一緒に走っていたから、余計に心が焦がれてしまう。
それでも、ダメなものはダメ。
ダメなのに。
「……わ」
親友が、今にも泣き出しそうな表情をしているから。
つい、私の心に魔が差して。
「分かったよキタちゃん。今回、だけだからね?」
キタちゃんの誘いに、乗ってしまいました。
***
「グラスワンダー、調子はどうだ?」
「はい。レースへの復帰はもっと調整が必要ですが、コンディションは好調です」
「それは何よりだ」
チーム・リギルに所属する仲間として、私──シンボリルドルフは怪我で療養を強いられていたグラスワンダーの身を案じていた。
故障を引き起こした身体面も心配ではあったが、それよりも私は彼女の精神面に気を配っていた。
怪我の影響で、グラスワンダーはクラシック級のレースを辞退せざるを得なくなった。
ウマ娘にとってクラシック級とは、競走人生において最も思い入れの強くなる時期といっても過言ではない。
皐月賞、日本ダービー、菊花賞を制覇したウマ娘のみがその誉を冠する──クラシック三冠。
桜花賞、オークス、秋華賞を制覇したウマ娘のみがその名で称えられる──トリプルティアラ。
多くのウマ娘が目標とするレースの大半がクラシック級に凝縮されており、グラスワンダーもクラシック三冠を志す一人だった。
栄光を掴む一度きりのチャンスを故障によって逃してしまった彼女に対して、トレセン学園の生徒会長として寄り添わなければならないと判断したのだ。
「気に掛けてくださって、ありがとうございます」
「なに、チームメンバーの心配をするのは当然のことさ」
グラスワンダーは襲いかかる困難に挫けず、早くも次の目標を見据えている。
現在は十月に開催される毎日王冠への出走を目標に、トレーニングに励んでいた。
「私、もう少し走りますね」
「ああ。引き留めてしまって申し訳ない」
怪我の影響で、グラスワンダーは以前の感覚を取り戻すのに四苦八苦しているようだ。
しかし、それ以前に走ることに対して純粋な楽しさを見出しているようにも見えた。
「今年の彼女の走りが楽しみだ」
いつか私も、グラスワンダーと肩を並べて競い合う機会があるかも知れない。その時に備え、私もトレーニングに励まなくてはな。
「──ルドルフ。あなたから見てグラスの調子はどう?」
「トレーナー。ええ、すこぶる良好かと」
グラスワンダーと入れ替わるように、チーム・リギルを統率する東条トレーナーが私の隣に立った。
「……そうか」
「グラスワンダーと何か?」
「……まぁ、少しな」
東条トレーナーは少しバツが悪そうに、視線を逸らした。私は何となく、二人の間に生じた出来事を察する。
あまり触れて欲しい話題では無いのだろう。私は彼女に異なる話題を振った。
「それにしても、今年の新入生は本当に優秀ですね」
「ああ。もしかしたら、ルドルフをも超える存在が生まれるかもしれないな」
「それはとても、素晴らしいことです」
今年チーム・リギルに加入したウマ娘達は、東条トレーナーの指導の元でメキメキと実力を伸ばしている。この調子で行けば、彼女達は新バ戦で華々しいデビューを飾ることだろう。
チーム・リギルに所属するウマ娘以外にも、先の選抜レースで才能の片鱗を垣間見せる者が多くいた。
例えば、先程からターフを利用して自主トレに励んでいる新入生がそうだ。
「あの二人が気になるのか?」
私が新入生達へ視線を向けていることに気付いたのだろう。今度は東条トレーナーが話題を振りかえした。
「ええ。のびのびとした様子で走る黒髪の生徒は特に。新入生とは思えない走りをしている」
「彼女の名はキタサンブラック。チーム・スピカに所属するウマ娘だ」
「なんと! どうりで……」
今や、トレセン学園で最強と名高いチーム・スピカ。あの走りを見れば、実力のあるチームからスカウトされるのも納得だ。
「私も声をかけたが、残念ながら断られてしまった」
「トレーナーも声をかけられたのですね」
「ああ。選抜レースでも、印象に残る走りをしていたからな」
東条トレーナーの目に留まるほどの実力を備えた新入生。これはチーム・リギルにとって、最強の地位を揺るがす脅威となるだろう。
「トレーナー。もう一人の生徒については?」
生徒会長として長く活動する私だが、トレセン学園に在籍する生徒の名を全て覚えているわけでは無い。
「ああ。彼女はサトノダイヤモンドだな。この業界では有名な資産家、サトノグループの令嬢だ」
サトノという名には心当たりがある。URAへの運営協力や、慈善事業といったレース文化の発展に貢献する新興の家系だ。
名門メジロ家と同様、競走ウマ娘業界の発展に尽力している良家。しかし、残念なことにサトノ一族からは未だにGⅠレースを制覇した者はいなかったと記憶している。
「先日の選抜レースにおいて、彼女はキタサンブラック以上にトレーナー達の間で話題になっていたな。しかし、実際の選抜レースでは八着と惨敗。残念だが、以前ほどの注目を浴びることは無くなったように感じる」
「……非情な話ですね」
「ウマ娘をスカウトするトレーナーも、結果を残さなければならない。お互い実力社会に身を投じた者同士だ。本人も納得せざるを得ないだろう」
全てのウマ娘が幸福になれる世界を創る。
これは、私の理想主義を全面に押し出した
私は第一線で活躍していた時代に、妄言と吐き捨てられるような理想を豪語するに相応しい戦績を残した。
しかし残念なことに、その理想へと進む第一歩目から私は躓いている。
東条トレーナーの言葉通り、私達の社会は実力主義。実力がなければチームに所属することが出来ない。そして規定上、チームに所属しなければレースに出走することすら叶わない。
トレセン学園の門を叩いた者の大半は、中央のレースで活躍する自身の姿を思い描いていただろう。
その人口約二千人。
対して中央のライセンスを取得したトレーナーの人数といえば……。
物理的に不可能なのだ。
メイクデビューで勝利したその瞬間、そのウマ娘は上澄みの中の上澄み。九人に八人が未勝利戦で現役生活を終える過酷な舞台に、そもそも立つことが出来ない者達が大勢いる。
「あまり気負うな。これは仕方のないことだ」
そんな私の苦悩は、東条トレーナーに筒抜けだったようだ。
「ルドルフ。お前は近々ドリーム・シリーズが控えている。トレーニングに不要な思考は故障を招く、気を引き締めろ」
「申し訳ありません」
東条トレーナーの叱咤を受けて、私は緩んだ意識を強く引き締める。"皇帝"の異名を冠するウマ娘として、無様な姿は晒せない。次回出走するレースへ向けて、私はトレーニングに打ち込むのだった。