「──どうして、どうして私は勝てないの?」
その日、温厚なミライが初めてサブトレーナーの俺に対して怒りをぶつけてきた。
チーム・アルデバランの模擬レースで、連続最下位という不名誉な記録を更新し続けることに不満を抱いたのか。
あるいはチーム・アルデバランの"落ちこぼれ"として周囲から揶揄われることに、心が耐えられなくなったのか。
普段と百八十度異なるミライの様子に、俺はかける言葉を失った。
「私もトレーナーも、こんなに頑張っているのに! 何で、何でわたしはこんなに遅いのっ!?」
ミライは爆発する感情に身を委ね、声を荒げる。
俺は何も答えられなかった。
「ねぇ、トレーナー。何か言ってよ。どうして私は勝てないの? どうせ分かっているんでしょ!?」
悪意や不条理に晒され続け、削ぎ落とされる形で剥き出しとなった負の感情の矛先が、俺に向けられる。
ミライに胸ぐらを強く掴まれた。
ウマ娘の力に対して、人間である俺は抵抗することが出来ない。
「みんな……みんな私のことを、グズで鈍間なウマ娘ってバカにする。言いたい放題言って、速く走る方法を誰も教えてくれない」
俺の知るミライは、誰に悪口を言われても、理不尽な悪意を向けられても笑顔を絶やさないウマ娘だった。
我慢の、限界だったのだろう。
「……」
俺は、ミライの心の強さに甘えていた。
そのせいで、彼女が年頃の女の子であるという認識にノイズがかかっていた。
「どうせトレーナーも、心の底で私のことを笑ってたんでしょ? 負け続けても必死に笑う私を見て、嘲笑っていたんでしょっ!?」
身体が強く揺さぶられる。
「……」
この期に及んで俺はまだ、彼女にかける言葉を必死に探していた。
「ねぇ……何か言ってよ」
思い切り身体を手前に手繰り寄せられた。
昏く濁ったミライの瞳が、俺の眼前に迫る。
「お願い、だからぁ……っ」
そして、今にも泣き出しそうに双眸を滲ませるミライを見て。
俺は。
「…………俺は」
固く閉ざしていた口を開く。
「この選択が、最善だと思っている」
「………………え?」
「俺は、
「言ってる意味が分からないよ、トレーナー」
意味が分からない、か。
そうかもな。
臆病な俺にしか、この言葉の意味は分からないだろうな。
「ミライは……どうしてレースで勝ちたいんだ?」
だから、少しでもミライが理解してくれそうな言葉に変えて、俺の意思を伝える。
「レースに勝つことが、お前にとって
「大切だよ」
俺の問いに、ミライは戸惑う間もなく即答した。
「私には夢があるの。世界で一番強いウマ娘になるっていう、大きな夢が」
それを叶えるために、チーム・アルデバランに入ったのだと。
「だから私はレースで勝ちたい。レースに勝って、夢を叶えるの」
「…………そう、か」
ミライの意志は確固たるものだ。揺さぶりをかけても微動だにしない強い理想を、心に灯していた。
「すまなかった」
俺はミライに謝罪する。
「本当に、すまなかった」
ウマ娘の夢を支えるトレーナーを騙っておいて、その実、一番近くで彼女の夢をぶち壊そうとしていた屑な俺を。
許してほしい、なんて思わない。
実際、彼女を喪った今でも、俺は当時の選択を強く後悔していた。
あの時。
どうして俺はもっと。
彼女の夢を、心を。
完膚なきまでにへし折らなかったのか、と……。
***
連日の勤務で身体を酷使していたのか、俺は勤務時間にも関わらず部室のデスクで居眠りをしてしまった。
相変わらず、俺は悪夢のような記憶を目覚まし代わりにして起床する。
時刻はすでに放課後を迎えていた。たづなさんが部室にやってきたのは正午頃だったと記憶しているので、四時間近く眠っていたことになる。
悪夢にうなされていたせいか、いまいち思考がハッキリとしない。頭にモヤがかかっているような感覚だった。
体調もすこぶる悪い。
一度、気分転換が必要だ。
俺は部室を出て、外の空気を吸いに行く。
数回深呼吸を繰り返したことで、脳内に新鮮な酸素が取り込まれる。そこで俺はようやく、平常心を取り戻した。
さて、そういえばまだチーム名を決めていなかった。
せっかくだから、トレセン学園の敷地を散策しながら考えるとしよう。何か良い案が思い浮かぶかもしれない。
ああでもない、こうでもないと頭を捻る内に、俺の足は進んでいく。
気の赴くままに敷地をうろついて、トラック外縁の土手を歩いていたとき。
「………………え?」
俺は見た。
見てしまった。
自分の中で、何かが音を立てて崩れ落ちていく。
それが、人間を人間たらしめる──理性であると気付いたときには、全てが手遅れだった。
***
「──はぁ、はぁ、前よりずっと速くなってるね、ダイヤちゃん」
「キタちゃんもね……」
最初は乗り気でなかったキタちゃんとの自主トレだが、走っているとつい夢中になってしまった。
キタちゃんと共に、私はターフの上に倒れ伏す。
「あたしも……負けていられないなぁ」
「私は、テイオーさん達と一緒に走れるキタちゃんがとっても羨ましいよ!」
走ることに夢中になるあまり、私の頭からあの約束のことなどすっかり抜け落ちていた。
「ねぇねぇ、ダイヤちゃん。ダイヤちゃんって普段、どんなトレーニングしてるの?」
「うーん。そうだなぁ」
私はここ数日間で取り組んでいたトレーニングの内容を思い返す。
「身体作りのための基礎トレと、フォームの矯正かな。最近は、走る技術を色々教えてもらってるよ」
兄さまの指導のおかげで、以前の自分よりも大きく成長することが出来た。そんな自覚がある。
昔は常にキタちゃんの後ろを走っていた私だったが、今では隣で肩を並べられるほどに速くなったのだ!
「私も、キタちゃんがチーム・スピカでどんなトレーニングをしてるのか知りたいな」
しかし、キタちゃんもチーム・スピカに加入したことで着実に実力を伸ばしている。私や兄さまとは異なる視点から、何か成長のヒントが得られるかもしれない。
「たまに変なトレーニングをすることもあるけど、あたしは基本的に走ってばっかりだよ。トレーナーはあたし達の自主性を尊重してくれている感じかな」
チーム・スピカのトレーナーさんは、兄さまと真逆の教育方針だった。そのことに私は少し驚く。
誤解を招く言い回しかもしれないが、兄さまは徹底した管理主義。
対してキタちゃんのトレーナーさんは、自主性を重んじる放任主義。
互いに芯の通った教育論で、特にキタちゃんのトレーナーさんはトゥインクル・シリーズで数多くの実績を挙げている。
キタちゃんの性格からすると、チーム・スピカとの相性は抜群なのかもしれない。
「のびのびと走れて、あたし結構気に入ってるんだ。それに何と言っても、あのテイオーさんがいるし!」
加えて、チーム・スピカには最強と名高いウマ娘達が集結している。彼女達から与えられる刺激も、キタちゃんの成長を助長する要因となっているのだろう。
「……良いなぁ」
憧れの人と一緒に風を切ることが出来たら、どれほど幸せなことだろうか。
……なんて、理想を並べたところで虚しさが募るだけだ。
「さてと、そろそろ体力も戻ってきたことだし。走ろっか、ダイヤちゃん」
「うん!」
スタミナも回復したことだし、もう少しくらいならキタちゃんと走っても良いだろう。
キタちゃんの誘いに食い気味に同意して、私はターフから立ち上がるために腰を上げようとした。
その瞬間。
「──お前は一体、何をしている」
私の背筋が、凍りついた。
文字通り心臓が止まって。
おそるおそる、私は背後を振り返る。
この時ようやく、私は兄さまとの大切な約束を反故にしてしまったのだと。
取り返しのつかないタイミングで自覚した。
***
「お前は一体、何をしている」
腹の中で煮えたぎった感情を、俺は制御することが出来なかった。
友人と仲睦まじく談笑する彼女へ一歩近づく度に、俺が俺で無くなっていくのを感じた。
彼女の背後に立つ。振り向いた彼女──サトノダイヤモンドは今、どんな表情をしているのだろう。
それすらも、理性が崩壊した俺の目には映らなかった。
「ち、違うんです兄さまっ、これは……っ」
「何をしていると、聞いているんだ」
「っ」
この二ヶ月で築き上げてきた関係性に、ヒビが入る音がした。
「……自主トレーニング、です」
聡明な君のことだ。その行動が何を意味するか、ちゃんと理解した上での行動なのだろう。
理由は色々とあるのかもしれない。
しかし、今の俺にダイヤの背景を推し量る余裕は微塵も無かった。
頭に血が上りすぎて、冷静な判断なんて出来なかったのだ。
「俺との約束、覚えているよな?」
「それ、は……」
「忘れたとは言わせない」
視野が極端に狭まり、周囲が見えなくなる。
「……お前には失望したよ」
もはや、目の前のダイヤの姿すら見えていなかった。
「今日付けで、俺はお前のトレーナーを辞める」
自分の意思で選択した行動には、責任が伴う。それはダイヤも俺も例外ではない。
俺はダイヤとの契約時、条件を設けた。
ダイヤは俺が設けた条件を承諾し、自分の意思でそれを破った。
放った言葉に対して、取った行動に対して、お互い責任を取る必要がある。
契約とはそういうものだ。
「ま、待って下さいッ!」
興味が失せたと言わんばかりに立ち去る俺の腕を、ダイヤが強く掴んだ。
「約束を破ってしまって、本当にごめんなさい……」
「俺はもうお前を信用できない。信用に足らないウマ娘を、育てることは出来ない」
俺はダイヤの謝罪に耳を傾けず、彼女を突き放すような態度を取った。
トレセン学園に入学したばかりの子供に対して、些細なことで俺は気が狂いそうなほど激昂してしまうなんて。
正真正銘、もはや手の施しようがないほどの
「──ちょっと待って下さい!」
そんな屑とダイヤとの会話の間に、第三者からの横槍が入った。
ダイヤの友人であるキタサンブラックが、立ちはだかるように俺の前へ躍り出る。
「トレーナーを辞めるって、一体ダイヤちゃんが何をしたって言うんですか!?」
「口を挟むな。お前には関係ない」
「いいえあります。今の話、自主トレが原因で契約を破棄するみたいな感じに聞こえるんですけど?」
「そうだ」
「それってあんまりじゃないですかッ!?」
声を荒げるキタサンブラック。
「……」
俺は無視した。
俺の態度に対して、あからさまに嫌悪感を示すキタサンブラック。
「っ。少しは人の話に耳を──」
そんなキタサンブラックのことなどお構いなしに、俺は彼女の横を素通りしようとした。
しかし、キタサンブラックが俺をその場に引き留めようと、鬱陶しく腕を掴んで来たものだから。
俺はつい、カッとなって。
「部外者は黙っていろッ!!」
煩わしい蝿をつぶすように、俺は握られた腕を強く薙いでしまった。
「…………え?」
赤の他人から突然浴びせられた怒号と、暴力紛いの行動に驚いたのだろう。キタサンブラックがバランスを崩し、背後に尻もちをついてしまった。
唖然とした様子で、俺を見上げるキタサンブラック。
「何も知らないガキが、ふざけやがって……ッ」
そんな彼女に対して、追い討ちをかけるように。
俺は……。
「──そこまでだ」
突如背後から浴びせられた、威圧感をむき出しにした制止の声。
凛としていて威厳があり、強かな怒気を孕んだ声音には、心当たりがある。
「……おや、君は選抜レースの時の」
そして、それは相手も同じようだった。
「……お前は」
シンボリルドルフ。トレセン学園の生徒会長を務める、現役最強のウマ娘。
ルドルフは俺の容姿を一瞥すると、呆れたような声音で言い放った。
「中央に勤務するトレーナーとあろう者が、まさかウマ娘に対して暴行を働くとはな」
彼女の指摘を受けて、俺はその瞬間ようやく我を取り戻すことが出来た。
改めて、周囲を見渡してみる。
俺は想像以上に、多くの者達から注目を集めていた。
浴びせられるほぼ全ての視線に、困惑や嫌悪、敵意といった感情が込められているように感じる。
「生徒会長として、この問題を看過することは出来ない。トレーナーとしてあるまじき行動を犯した君には、相応の処罰が加えられることだろう」
……内心、俺はルドルフに感謝していた。
キタサンブラックを振り払った時、彼女から声が掛からなければ、俺はもう屑ですら無くなっていたのかもしれない。
「……好きにしろ」
どのみち、俺は今日をもってダイヤのトレーナーを辞める。
ライセンスが剥奪されるというのなら、喜んで差し出そう。
トレーナー職を罷免するのなら、甘んじて受け入れよう。
俺がウマ娘を育成するトレーナーとして相応しくないのは、ライセンスを破棄した二年前からとっくに分かっていたことだ。
きっと何かの手違いで、俺はまたこの世界に戻って来てしまっただけなのだから。
俺はルドルフに背を向けて歩き出す。
今度は誰からの邪魔も入らない。
全身に突き刺さる視線を浴びながら、俺はターフを後にする。
最後まで、俺はあの子の顔を見ることができなかった。