「──突然の連絡すみません。理事長、少しだけお時間よろしいでしょうか?」
トレーナーさんに身勝手なわがままを言ったその日の始業前、私は秋川理事長に電話をかけた。
数回のコールを挟んだ後、理事長と連絡が繋がった。
『無論。サトノ君、わたしに何か用事か?』
「はい。実は理事長に、お願いしたいことがありまして……」
始業の鐘が鳴るまで、あと三十分程度時間がある。
私はトレーナーさんの事情を知る理事長に、今朝に交わした彼との会話内容を話した。
『──ッ!?』
スマホ越しに、理事長が息を呑むほどの衝撃を受けているのが伝わってきた。
──私は、チーム・アルデバランの名前を借りてレースに出走します。
『さ、サトノ君っ! それがどういうことを意味するのか、理解しているのかッ!?』
「はい」
私を責め立てるような、切羽詰まった理事長の困惑した声。
「私の浅はかな行動が原因で、トレーナーさんは学園中から目の敵にされています。なので、私がトレーナーさんに着せてしまった汚名を払拭します」
トレーナーさんには、過去に未練と共に沈んでしまった栄誉と功績が残っている。
「彼に浴びせてしまった不名誉を、彼自身の名誉で塗り替えます」
彼がチーム・アルデバランの、ひいては”星”のミライを育成したトレーナーだと周知すれば、彼は一転して羨望と称賛の光を浴びることになるはずだ。
『確かに、そんなことをすれば彼の評価は簡単にひっくり返るだろう。有り余るくらいにな。だがッ──』
スマホ越しに、珍しく感情を荒々しく表に出した理事長の声が返ってくる。
『それは早計だッ! チーム・アルデバランが競走の世界に凱旋すれば、文字通り世界中の人々が注目することになるッ! そんなことになったら、世界中の人間がミライについて言及するはずだッ!』
理事長の意見は的を射ている。トレーナーさんの未練の象徴であるチーム・アルデバランは、同時に”星”のミライの象徴でもある。
トレーナーさんに降りかかるミライについての言及は、十中八九避けられないだろう。
『そんなことをしたら、彼は今度こそ自ら死を選んでしまうッ!』
「はい」
『それを理解しているなら、なんでそんな真似をッ──』
「
『……は?』
理事長から間の抜けた呟きがこぼれた。
「多分、同じなんです」
『……何が言いたい?』
「トレーナーさんがミライさんの跡を追うという結末は、もう何をしても変わらないということです」
『──ッ』
理事長も私も、トレーナー寮で彼の豹変した姿を目撃した瞬間から何となく察していたことだと思う。
「私の予想ですが……彼が命を絶つのは時間の問題だと思います。もってあと一週間か……二週間か。もっと短いかもしれません」
『……』
変わらないのだ。彼にどんなアプローチをしても、自らこの世を去る結末は変わらないのだ。
何故なら私達が、その選択肢を選ばざるを得ない状況まで彼を追い詰めてしまったからである。
『…………彼の誉を背負って、君は何をするつもりだ』
「
『………………は?』
手の施しようがない、絶望という言葉で表現するのが生ぬるい状況で。
私は──博打を打つ。
「トレーナーさんが私の走りを見て、未来に希望を抱いてくれる可能性に賭けます」
私がチーム・アルデバランという肩書きを背負って走る理由は、主に二つ。
一つは、私が原因で着せてしまった不名誉を払拭すること。
そしてもう一つ。
──彼の心に巣食う未練と、真正面から向き合ってもらうこと。
「理事長。私達はミライさんに夢をもらった大ファンです」
仮に彼が前を向いたとしても、心の奥底ではチーム・アルデバランという未練が根を張り巡らせている。
「私達は、トレーナーさんに手を伸ばした共犯者です」
だから私は、彼の心に癒着した未練を根こそぎ取り除く。
そのためには、彼の内面に潜む未練を表に引きずり出す必要があった。
「だから……どうかお願いします」
これは、彼自身の心に全てを委ねたタチの悪すぎる大博打。
「──どうか私に、全てを賭けて下さい」
それでも、私は彼に前を向いて生きてほしいから。
身勝手にも、そう願ってしまうから。
『………………正気の沙汰じゃない』
「そうかもしれません……あはは」
彼の心をズタズタに引き裂いてしまった私だけれど、その反動は私自身の心にも及んでいたようだ。
『……仮に。その賭けに敗れて、彼の精神が完全に崩壊したら……どうするつもりだ』
「私が傍で看病します」
『学園はどうするつもりだ』
「賭けがどっちに転んでも、私はトレセン学園を退学するつもりです」
『…………彼がもし、ミライの跡を追ったら』
「一緒にいきます」
『……………………』
彼の
『……どうして、そこまで』
どうして? どうして、か……。
なんて、考えるまでもないよね。
「私、兄さまが好きなんです」
私が彼を、心の底から愛しているから。
幼い頃から好意を抱き続けて、それがいつの間にか、手が付けられないほど膨れ上がって。
その結果、心に傷を負った彼に追い討ちをかける羽目になってしまったけれど。
「どう転んでも、結果は同じです。だから私は、
どう考えても冷静な判断じゃない。明らかに血迷った愚者の選択だ。
でも、冷静な判断ができるほどの時間も残っていない。
だから、私は賭けに出る。
どうか私の走りが、彼の生きる希望になりますように。
だから、私は奇跡に縋る。
『……………わたしは、何をすればいい』
「ありがとうございます、理事長」
あなたなら、そう言ってくれると信じていました。
***
喧騒が溢れる地下バ道をおもむろに歩きながら、私は強かな覚悟を改めて胸に灯す。
蹄鉄を装着したお気に入りのシューズの足音がかつん、かつんと、波紋が広がるように反響する。
まだ見ぬ景色が広がる世界。本バ場と地下バ道を隔てる陽光の前で立ち止まり、私は静かに目を瞑った。
いつか私もと、憧憬する”星”に想いを馳せていたことが、今では遠い昔のように感じる。
そしてあろうことか、私は憧れの”星”と同じ肩書きを背負って晴れ舞台に上がろうとしている。
私は一度、深く深く息を吸った。
全身に緊張感が駆け巡る。
巨大な枷を彷彿とさせる肩書きの重圧が、私の浅ましい考えを嘲笑う。
「……ぁ、あはは」
正直に打ち明けると、今の私の思考は恐怖で支配されていた。
今こうして立ち止まっているのだって、私の意思ではない。
あまりの恐怖で、両足が竦んで動かないのだ。
震えが止まらない。武者震いなんかじゃない。ただ怖くて、前に進むことを拒絶しているだけ。
「…………」
兄さまと控室で別れたとき、パドックで人前に立ったとき。私は歯を食いしばって、強かなサトノダイヤモンドを演じた。内心を悟られぬよう、努めて気丈に振るまった。
けれどその裏で、私はひたすら込み上げてくる恐怖とたたかっていた。
仮に私がこのレースで勝ったとしても、負けたとしても。
私はきっと、彼の心を完全に壊してしまう。
目の前で発狂する彼の姿が容易に想像できてしまって、私の思考が真っ白に染まる。
苦しい。あまりの後悔と罪悪感で胸が張り裂けそうだ。
こんな他力本願で、万に一度も起こらない奇跡に縋るような真似をして。
怖い。
怖い。
怖いよ。
でも私はもう、後に引くことなんて出来ない。
どれもこれも全部、私が招いた事態なんだ。
怖くても、足が竦んでも、重圧に押し潰されそうになっても。
私は前に進むしかない。
自分で狂気を演じて退路を立ったくせに……臆病なウマ娘だよ、私は。
「……こんなかっこわるい姿、兄さまには見せられないなぁ」
兄さまの瞳に映るサトノダイヤモンドは、何事にも強情で、頑固で、わがままで、強かなウマ娘。
担当ウマ娘の印象は、担当トレーナーの印象に直結する。
担当ウマ娘の戦績は、担当トレーナーの評価に直結する。
そして、
大丈夫、大丈夫だ。自分自身をひたすら鼓舞し、余計な思考を振り払う。
私は彼に、奇跡を届けてみせる。
過去と向き合う、勇気を届けてみせる。
今を歩む、希望を届けてみせる。
未来を見上げる、夢を届けてみせる。
私は世界の”星”を育てた人の教え子だ。私を支えると言ってくれた彼を信じ、彼が育ててくれた私を信じる。
大丈夫、大丈夫だ。だからせめて、この瞬間だけは胸を張って。
行ってきます、兄さま。
***
『──続きまして本日の第四レース、メイクデビューに出走するウマ娘達の入場です』
騒然としたパドックでの出来事からしばらくし、ターフに繋がる地下バ道からメイクデビューに出走するウマ娘達が現れた。
午後に予定されている宝塚記念に比べて、どうしても特別感が薄れてしまうメイクデビュー。しかし、今日のそれは一味も二味も違う。
二年前に表舞台から忽然と姿を消した、チーム・アルデバランの凱旋。
ウマ娘達の入場と共に、会場内のメインスタンドやホームストレッチにいる観客達が揃って大きな歓声を上げた。大勢の人達が、喧騒のターフに立つウマ娘達へ視線を向けている。
『注目は四番人気のサトノダイヤモンド。チーム・アルデバラン凱旋の舞台がまさかここ、阪神レース場になると誰が予想出来たでしょうか』
おそらく……いや、この場にいる観客の大半が、チーム・アルデバランの肩書きを背負う彼女に期待と注目を注いでいる。
サトノダイヤモンド。
”星”を喪った俺が、未練を着せる形で晴れ舞台へと送り出してしまった担当ウマ娘。
ゲート入場を控え、静かに精神統一を図るダイヤを見守りながら、俺は無意識に握り拳を作っていた。
観客から寄せられる過度な期待、過剰な注目。
既に手遅れな状況に至ってこんなことを言うのはアレだが。
どうかそれらが、彼女の重荷になりませんように。
俺は今や、彼女に身勝手な感情を押し付ける有象無象の観客に過ぎない。
「……頑張れ、ダイヤ」
俺にできるのは、彼女の
ただ、それだけだった。
***
『各ウマ娘のゲートインが始まります』
盛大なファンファーレの後、規則に従って各ウマ娘達が指定のゲートに収まっていく。大外枠を引いた私は努めて冷静に、自身がゲートインする順番を待つ。
『四番人気のサトノダイヤモンドが注目を集めるメイクデビューですが、他のウマ娘達を忘れてはいけません。堂々とした逃げ足が光る二番人気ロードヴァンドール、粘り強い走りを武器とする一番人気ロイカバード。強豪達が並み居る中、果たしてどのウマ娘がデビューを飾るのか』
私の周囲でゲート入りを待つウマ娘達から、強い警戒の視線が飛んでくる。事前にトレーナーさんが予想していた通り、おそらくこのレースで私は、彼女達から徹底的にマークされることだろう。
『逃げや先行を得意とするウマ娘達が多いですね。一般的にはハイペースなレース展開が予想されますが、スタート直後に高低差二メートルの坂路がそびえています。序盤から繰り広げられるであろう彼女達の駆け引きには注目です』
この二ヶ月間で学んだことを、走馬灯のように振り返る。このレースで一着を取るために二人で練った戦略、二人三脚で習得した技術。そして、彼の心を支えると誓ったあの日の覚悟。
私は横目でチラリと、競走相手となるウマ娘達の様子を確認した。
初の公式レースということもあり、わずかに緊張が表情へと現れている二番人気のロードヴァンドール。
彼女と真逆で、まるで緊張などしていないかのように平然と佇み、出走の時を飄々と待つ一番人気のロイカバード。
事前情報に基づくトレーナーさんの予想では、彼女達がこのレースのペースメーカーになると言っていた。しかも一番人気のロイカバードは、私が苦渋を舐めた選抜レースにおいて一着という成績を収めている。
私は一度、脳内で理想的な展開をシミュレートする。
ロードヴァンドールやロイカバードを筆頭とする先行集団がレース前半で競り合い、ハイペースな流れになることで後半へ残す脚を少しでも削ってもらう。
そして末脚が鈍った集団に対し、第三コーナー辺りから続く下り坂を利用して私がスパートを仕掛ける。
仮に理想的な展開でレースが運ばなかったとしても、レース終盤のために脚を残しておくことは絶対条件だ。
序盤で掛かれば敗北は必至。一度心を乱せば立て直しは不可能。
間もなくして、最後に大外枠である私のゲートインが完了する。
ゲートの中で窮屈な閉塞感を覚えながらも、私は震える身体に鞭を打って強引に集中力を高める。
出走の瞬間、爆発的だった観客席からの喧騒が嘘のように凪ぐ。
不気味なほどの沈黙。極限まで暴走する心臓の手綱を握りしめ、息を大きく、ゆっくりと吸い込んだ。
その瞬間、私の意識が深い水の底に沈んでいくような、経験したことのない不思議な感覚に包まれた。
『新バ達によるトゥインクル・シリーズの登竜門メイクデビュー、ゲートイン完了』
誰もが固唾を呑んで注目する中。
『──今、スタートが切られました!』
沈黙を食い破るように大きな音を上げて、私達の大一番へと挑む
***
『各ウマ娘が好調なスタートを切って、バ群を形成していきます』
統計上、阪神レース場は逃げや先行を得意とするウマ娘の勝率が高い。その要因は、スタート直後にそびえる高低差二メートルの坂路である。
その脚質の特性上、ゲートが開門した瞬間からバ群を先導し、激しい位置取り争いを繰り広げることとなる。
走りやすい位置につくためには当然脚を使って速度を上げる必要があるが、上述した坂路のせいで余計なスタミナを消費するという大きなデメリットが生じてくる。
ゴール直前にも再度坂路を駆け上がるという心臓破りな地形的特徴から、序盤でハナを奪い合わないスローペースなレースが展開される傾向にあるのだ。
だが俺は以前、ダイヤと作戦を立てる過程でその一般論を否定した。
地形的特徴による予測には、実際にターフの上で競り合うウマ娘達の心理的側面が考慮されていないからだ。
過去の選抜レースで、ダイヤが他者の走りでペースを乱したように。
今、俺の目の前で熾烈な競走を繰り広げているのは、人生で初めて晴れ舞台に上がったウマ娘達だ。
前に行きたい。
足がうずうずするから、もっと速く走りたい。
一種の"渇き"のようなウマ娘の本能を抑え込んで、戦術に徹せられるほど、競走者としての器は完成していないはず。
そう踏んでいた。
『ハナに立ったのは六番ロードヴァンドール。その背後に二番、五番と続き、バ群を先導します』
しかし……。
『バ群の中団を悠々と進む一番ロイカバード。四番人気、九番サトノダイヤモンドは後方から二番手に落ち着きました』
『序盤からかなりゆったりとしたペースで進んでいきますね。
俺の浅はかな予測はレース序盤から、呆気なく破られることとなった。
(二年間指導から離れていたせいで勘が鈍りすぎたか……いや、今はそんなことを考えても仕方ない)
公式レース未経験のウマ娘達とはいえ、相手は中央。
レースに出走出来るだけでもある程度の素質と才能が保証されたエリート達だ。地形的特徴を完全に把握した上で、レースに臨んでいる。
少し考えれば、分かることだった。
「……っ、まずいな」
この瞬間、俺は指導者としての慢心を痛感した。二年の空白を開けても、トレーニングに関しては俺の"体質"で何とでもなってきた。
実際そうだ。選抜レース時と比較しても、俺はダイヤの身体能力を無駄なく底上げすることが出来た。
しかし、レース本番における心理戦に関しては、俺の"体質"なんてまるで意味をなさない。
相手の実力を考慮せず、彼女達の一着への執念を甘く見ていた。侮っていた。
過去の功績から無意識に、驕りのような感情を抱いていたのだ。
俺は世界最強のウマ娘──ミライを育てたトレーナーなのだから、と。
いや、違う。
俺が本当に驕ってしまったのは、
ミライの脚質は逃げ。
それも相手に自身の影すら踏ませない圧倒的な大逃げ。
戦略、戦術、心理的駆け引きがまるで意味を成さない筋金入りの脳筋戦を得意とするぶっ飛んだヤツだった。
過去を振り返っても、俺は公式戦においてミライに戦術的指導をした覚えがまるで無かった。
「くそ……」
今更無力感に打ちひしがれて、俺はホームストレッチの柵を叩く。
『──第二コーナーをカーブし、ウマ娘達が向正面へ進んでいきます』
しかし現在進行形で進むレースは、俺に後悔させる余裕なんて与えてはくれなかった。
コースの向正面をやや長な団子になって進むウマ娘達の様子が、ターフビジョンに映し出される。
四方八方から届く大歓声をよそに、俺は必死になって画面上からダイヤの様子を確認した。
(まだ、掛かってはいない……落ち着いてる。スローペースな展開を考慮しても、だいぶ足を溜められているはずだ)
未だレース展開に大きな動きは無い。
『相変わらず先頭を進む六番ロードヴァンドール。その後方で順位が入れ替わり五番、二番。一番ロイカバードは順位を一つ落として五番手の位置に着きます』
『サトノダイヤモンドは内ラチに沿って自分の走りを徹底してます。冷静に仕掛けどころを窺っている様子です』
『間もなく千メートルを通過し、レースは後半戦に突入します。そのタイムは──』
ダイヤはコースの内ラチに着くことで走行距離のロスを極力減らし、スタミナの温存を図っていた。
「……気のせいか、少し走り辛そうな表情を浮かべているような」
俺がダイヤの様子に一抹の違和感を感じていると。
──ざわざわ……っ。
周囲の観客が……いや、会場全体から大きなどよめきがわき起こった。
俺はその原因が分からず一瞬首を傾げたが、答えはすぐに分かった。
『な、何と……
「…………は?」
あり得ない。どう考えてもそのタイムはおかしい。
阪神レース場におけるメイクデビューの基準タイムは、二分四秒五。
基準タイムを半分で割った時間を千メートル通過時の時計とし、一秒早ければハイペース、一秒遅ければスローペースと呼ばれる世界において。
差しや追い込みを得意とするウマ娘達が多ければまだしも、逃げや先行を得意とするウマ娘達が大半を占める中で、五秒近い遅れが生じるのは異常としか言いようがない。
こんな展開、見たことも聞いたこともない。
俺は思考をフル回転させて、この想定外な展開が巻き起こった原因を探る。
「……まさか」
大袈裟かもしれない、考えすぎかもしれない。
しかしどんな方向から原因にアプローチしても、最後は全く同じ結論に行き着いてしまう。
それは。
「──ダイヤの末脚を、全員が完全に潰しに来ているっていうのか……?」
レースに出走する者全てが。
最強の肩書きを背負うダイヤを警戒しすぎたが故に起こってしまった、過剰なまでの対策なのではないのか、というものだった。