──二年前、世界最強と名高いチーム・アルデバランが表舞台から姿を消した。
世間では、チーム・アルデバランの象徴であったミライの故障事故──"星の消失"が原因であるという推測が一般的だった。
その内情を知る者は、当時チームを率いていたチーフトレーナーとサブトレーナー、そして所属していたウマ娘達のみ。
"星の消失"がチーム崩壊の一要因ではあるが、根本的な原因は一人のサブトレーナーにあった。
つまり……俺だった。
チーム・アルデバラン所属のウマ娘、ミライの故障事故が発生する二ヶ月前。チーフトレーナーがサブトレーナー全員を招集し、とある会議が開かれた。
その内容というのも、今年で定年退職を迎えるチーフトレーナーに変わり、新たなチームの後継者を発表するものだった。
結論から言ってしまえば、後継者に選ばれたのはミライの面倒を見ていた俺だった。
チームの象徴たるミライを育成した功績と、ウマ娘個々人に対する的確な指導が評価されての選出であり、チーフの決断に異論を唱える者はいなかった。
当時の俺は、若くして出世し成功を掴んだことを大いに喜んだ。
順調に仕事の引き継ぎを進め、今後の飛躍に胸を膨らませていた矢先のことだった……。
後に”星の消失”と称される、レース史上最悪の故障事故。
俺は最愛の教え子であったミライの死を乗り越えられず、トレーナーライセンスを放棄し日本に帰国した。
本来であればチームの引き継ぎを行うべきだったが、俺はそれを怠った。失踪後、チーフが俺以外の後継を任命しなかった理由は定かではないが、おそらくは彼女の慈悲か、あるいは同情か……。
結果、所属していたサブトレーナー達はそれぞれ独立し、チーム・アルデバランは空中分解。後継されることなく表舞台から姿を消すこととなった。
これが事の顛末である。
正直に打ち明けると、俺は決して引き継ぎを怠ったわけでは無かった。
手放したくなかったのだ。身勝手にも彼女との思い出が詰まったこのチームを、誰にも渡したくなかった。
ミライがいない世界で、俺はどうやって明日を歩めば良いのか分からなくなった。
チームを率いる力が無いと悟られれば、俺は思い出が詰まった居場所を追われてしまうかもしれない。
たとえ過去の功績を、他者の栄誉をドブに捨ててでも、ミライが遺してくれた思い出を守らなければならない。
だから俺は、チーム・アルデバランという
突き詰めると、俺はミライと一緒にいたかった。
ミライと二人でトレーニングメニューを考えたかった。
ミライが走るレースを見守りたかった。
ミライがセンターに立つライブを、特等席から眺めたかった。
やりたかったことが。
叶えたかったことが。
俺の心の底で、消化不良の
ミライと一緒にいたい。
それが、俺の未練だった。
***
『──波乱の展開となったメイクデビュー、前半千メートルを六十七秒四で通過していきます』
『後続のウマ娘達には、少々厳しい戦いになりそうですね……』
俺の未練を背負って、彼女が走っている。
ひたすら前へ進む彼女の勇姿に、後ろめたさで胸がざわつくのは一体何故だろう。
ゴールへ駆ける彼女の晴れ舞台を、心を閉じ込めた殻の隙間からのぞいているのは一体どうしてだろう。
「……」
ねぇ、ミライ。
彼女が──ダイヤがあんなに頑張って走っているのにさ。
俺は、心の底から彼女を応援することが出来ないんだ。
心を覆う何かに遮られて、声が出せないんだ。
やっぱり俺は、後悔しているのかな。
夢へ駆ける君の背中を、悲惨な結末を迎えると知った上で押してしまったことを。
***
(……遅い)
バ群の後方からレースを俯瞰し、第二コーナーを過ぎた辺りから私は大きな違和感を肌で感じていた。
先頭を進むウマ娘達のペースが、あまりにも遅すぎる。
もちろん、阪神レース場の地形的特徴からスローペースな展開でレースが進むことは予測してきたし、対策もしてきた。
でもこれは、あまりにも異常な遅さなのではないか?
(一秒弱……ううん、もっと。二秒、三秒? あるいはそれ以上かも)
実際にどれほどレースがスローペースになっているかは判断がつかない。私はまだレースにおける直感……勝負勘というのだろうか、それが備わっていなかった。
だから私は、兄さまと二人三脚で組み立てた戦略に徹することを決める。
(この調子だと兄さまの言葉通り、先頭集団はかなり足を残した状態で最終直線に突入するはず。今は自分の走りやすいペースを維持して、スタミナを温存する)
いくら遅いからといって、今速度を上げたら相手の思う壺だ。
今は我慢のとき。
レース終盤での真っ向勝負に備え、少しでも足を溜める必要がある。走行距離はなるべく最短で行きたい。私はコースの内ラチに沿って、スタミナの浪費を抑える。
(んん……確かにスタミナは抑えられているはずなんだけど。少し、走りにくい……ちょっと苦手かも)
自分が楽だと感じる速度で向正面を走る。バ群の先頭から私の位置まではおよそ六、七バ身程度といったところか。
まもなく前半戦の千メートルを通過するが、バ群に大きな変動はない。動きがあるとしたら、緩やかな斜面が続く第三コーナーを過ぎた辺りから。
停滞した展開が動き出すその瞬間まで、私は愚直に、私の
***
「──
メイクデビュー前日。トレーナーさんがミーティングの最後に提案してきた対策を聞いて、私は困惑したのを覚えている。
ただ走る。
それが一体何の対策になるというのか。
「チーム・アルデバランとしてレースに出走する以上、不要な緊張やプレッシャーを背負って走ることになると思う。十中八九、他のウマ娘達からのマークも厳しくなるだろう」
「つまり、普段通りを心がけろっていうことですか?」
「いや、違う。
「…………えっと?」
トレーナーさんの意図が理解出来ない。私が今言ったことと、一体何が違うのだろう。
「"チーム・アルデバラン"のネームバリューを逆手に取る。ダイヤにのし掛かる重圧、ウマ娘達からの徹底的なマークを、こっちが利用するんだ」
「???」
重圧を、マークを……利用する?
「三年前のジャパンカップ。確かダイヤは、ミライのレースを現地で観戦していたんだよな?」
「は、はいっ! 最前列で応援していました!!」
「だったら思い出して欲しい。ミライと競走するウマ娘達からは、どんな印象を受けた?」
「……ごめんなさい。あの時の私はミライさんに集中するあまり、盲目的だったと言いますか」
「そうか。じゃあこれを見て欲しい」
そう言ってトレーナーさんは、以前新調したスマホの画面を私に見せてくれた。
画面に映し出されていたのは、忘れもしない三年前のジャパンカップ。出走するウマ娘達が、ゲートインを控える場面だ。
「どう思う?」
何回も、何十回も、何百回も再生したジャパンカップ。
以前の私はミライさんにしか目がいかなかった。
しかし今、別の視点を得て動画を見てみると。
「…………表情が、とても重い」
画面越しにヒシヒシと伝わってくる、世界最強と戦うことに対する圧倒的なプレッシャー。猛獣を彷彿とさせる剥き出しの警戒心。そして、泥沼に引きずり込まれてしまうかのような恐怖心。
見ているこっちが息苦しさを錯覚してしまうような。
レースが始まる前から、既に盤上が世界最強の"星"に支配されているような。
そんな印象を受けた。
「今のダイヤが覚えた感覚。それが明日、ダイヤと走るウマ娘達が感じるプレッシャーだ」
私はミライではない。
しかし過去にミライが残した功績が、プレッシャーという悍ましい怪物に姿を変えて、チーム・アルデバランという肩書きに宿っている。
「加えてレース中、常に誰かを意識するっていうのは容易に出来ることじゃない。トレーニングにおいてもそうだが、何か一つのことに集中すると、別の何かが疎かになるだろう?」
「確かに、何度もそういう経験をしました」
この二ヶ月間の苦しいトレーニングで、幾度となく経験してきた葛藤。並行して課題を処理できないもどかしさ。
「俺の経験上、誰かをマークする際はスタミナを消費する。予測通りスローペースな展開になったとしても、他のウマ娘達は徐々に、徐々にスタミナがすり減っていくはずだ。だから──」
何となく、トレーナーさんの本当に言いたいことが理解出来るようになってきた。
「ただ走るんだ。ダイヤならきっと走り抜けられるって、俺は信じてる」
***
「前半千メートル通過の時計が六十七秒四。逃げや先行を得意とするウマ娘達が大半を占める中でのこのタイムは確かに異質だが、展開としては一般的な"スローペースの前残り"に分類される」
「どうした急に」
あまりに過剰な対策にやりどころのない焦燥を感じていると、俺の隣でレースを観戦する男達が唐突につぶやいた。
鼓膜が破れるほどのどよめきと歓声が湧き上がる中、彼らの言葉が不思議と耳に届いた。
「差しや追い込みを得意とするウマ娘は、レース終盤のスパートに文字通り全身全霊を注ぐ。だが、スローペースな展開では前を行くウマ娘達に余力が残っているため、追い上げが届かないケースが多い」
前残りとは、レース展開の基本を形容する言葉の一つである。
一般的に、逃げ・先行の脚質のウマ娘が、序盤のリードを活かしてそのままゴールする展開のこと指す。
「確かに。レースで前へ行くっていうのは、ゴールまでリードを死守するという強い意思表示だ。それを捻じ曲げてまで展開を遅らせる理由は、やはり後続に控える彼女を封じる目的が……?」
「間違いないだろう。例え九番のサトノダイヤモンドが鋭い末脚を持っていたとしても……七バ身近い差を、しかも余力を残した先頭集団を差し切れるかどうか」
差し切れるかどうか。
ああ、その通りだ。
『間もなくバ群の先頭が第三コーナーに差し掛かります! 直線に近い傾斜を下るもまだ行かない! まだ動かない!!』
実況者の声が。
観客席からのどよめきと歓声が。
まるでノイズを切ったかのように遠ざかる。
(何を悔しがっているんだ。これは全部……俺が仕向けたことじゃないか)
後悔を糧にした元来の目論見通り。
この晴れ舞台は、彼女が負けるために用意されたもの。
疑いを知らない彼女の純粋な好意を利用して、臆病な俺が用意してしまったもの。
──私ね、みんなが憧れるようなウマ娘になりたいんだ!
未練の中で、誰かが夢を語って最高の笑顔を浮かべている。
「……………」
二年間、俺は散々後悔してきたじゃないか。
彼女の才能を開花させてしまったあの過ちを二度と繰り返さないと、心に強く誓ったじゃないか。
俺は間違っていない。
これでいい。
これでいいんだよ。
これでいい……はずなのに。
***
『──間もなくバ群の先頭が第三コーナーに差し掛かります』
私のいる位置から七バ身ほど先行する六番のロードヴァンドールが、第三コーナーの緩やかな下り坂に突入した。
『直線に近い傾斜を下るもまだ行かない! まだ動かない!!』
本来。私はこの下り坂を利用して加速し、溜めた末脚を徐々に解放してスパートをかける算段だった。
(……だめ。今仕掛けたらきっと、最後まで走り抜けられない)
これは勝負勘というよりも、感覚的には悪寒に近いだろうか。
仮に今仕掛けたところで、先頭を躱せるビジョンがまるで浮かんでこなかった。
(まだ……まだ溜める。大丈夫、落ち着いて。私の脚ならきっと届く、
コンマ単位の判断が要求される重要な局面。
歩幅一歩分が着順に直結する、極限の駆け引き。
心臓がこれ以上ないほど暴れている。必死に手綱を握りしめて、鋼の意志で掛かりを凌ぐ。
「──っ」
こう着状態が続く展開だったが、たった今、バ群後方で動きがあった。
おそらくスタミナ切れを起こしたのだろう。私の前方を走っていたウマ娘の一人が後方へと垂れてきた。
焦燥感と恐怖心を抑え込むので必死だった私は、彼女を認識した瞬間に慌てて進路を左へ取り、衝突を回避する。
この動きで少し、走行距離とスタミナにロスが生まれてしまった。
終盤に備え、少しでも体力を温存したかった私はすぐさま内ラチへ身体を寄せる──。
(……? さっきよりも、地面を掴む感覚が気持ちよく感じる)
その間際、私は内ラチが外よりもわずかに荒れていることに気が付いた。
最短距離、スタミナ温存を意識するあまり、私は文字通り足元がおろそかになっていた。
先頭から少し遅れて、私は第三コーナーをわずかに外目から突入する。
そしてついに。
永遠に続くと思われた均衡が、地鳴りのような歓声とともに崩壊する。
『──行った! ついに一番ロイカバードが行った! 残り五百メートルで、戦いの火蓋を切りに行きます!!』
最初に仕掛けたのは、バ群中団で息をひそめていたロイカバード。
『ロイカバードが三バ身の差を一気に縮めて、六番ロードヴァンドールに並んだ!』
そして、誰かが動く瞬間を虎視眈々と狙っていたかのように、他のウマ娘達も進撃を開始する。
『間もなく先頭が第四コーナーをカーブ! 残り四百、サトノダイヤモンドはまだ行かない!』
こらえろ、こらえろ、今じゃない。
(まだ……まだ、まだ、まだまだまだまだっ)
仕掛けどころを見極めろ。
走る道筋を思い描け。
極限まで精神をすり減らして、自分が息をしていることすら忘れて、強靭な覚悟を胸に灯す。
先頭との差は約八バ身。
「──ッ!!」
一世一代の大勝負。
この一歩先に広がる景色が──私達の人生を賭した正念場。
『動く! ついに動いた! 九番サトノダイヤモンドが、大外から末脚を爆発させて豪快に突っ込んできた!』
最終直線。ここから先は、駆け引きを投げ捨てた純粋な力の殴り合い。
「はぁあああああああああああッ!!!!」
私は一歩一歩に全身全霊を捧げて、先頭目掛けて一心不乱に猛追する。
目の前に立ちはだかる絶壁を超えた先に待つ、ゴールをただ一直線に見据えて。
『一人、二人、躱したっ、また躱したッ!! 余力を残したウマ娘達をものともしない速度で、あっという間に先頭を捉えるか!?』
残り五バ身。
死力を尽くして前へ、ただ前へ。
『先頭はロイカバードとロードヴァンドールの二人態勢! サトノダイヤモンドはこの二人すらも躱してしまうのかッ!!』
残り四バ身。
脚の回転数をがむしゃらに引き上げて、一歩でも早く最高速度に到達させる。
『残り二百五十メートルを切る! 全員がとんでもない速度で坂路に突っ込んでいくッ!!』
残り三バ身。
坂路に差し掛かればこれ以上の加速は望めない。
踏み込め、絞り出せ、駆け抜けろ。
そしてついに、先頭まで残り二バ身という距離まで肉薄して。
…………ぁ。
***
その距離にして、約五メートル。
その時間にして、約コンマ四秒。
しかしその差は、あまりにも絶望的。
ダイヤはこれ以上ない完璧なタイミングで勝負を仕掛けた。異常な展開を察知し、既存の戦略を即座に修正した。終始自分の走りに徹して、勝利することを第一に見据えていた。
でも、今回ばかりは仕方なかった。前を走るウマ娘達に、余力が残りすぎていた。
先頭を進む二人のウマ娘は、坂路に突入する直前まで加速を続けている。まるで、ダイヤの強烈な追い上げを嘲笑うかのように。
彼女達はおそらく、このままの速度を維持して坂路を登っていくことだろう。
「………………」
戦況はもはや絶望的。
現状を打破する手段は無い。
俺は盤上をひっくり返す奇跡のような作戦をダイヤに施していない。そんなものは無いからだ。
いつ彼女の心が折れてもおかしくないような状態。
それに加えて、彼女が背負った俺の未練が、大観衆の無責任な視線に形を変えて更なる追い討ちをかけている。
「……………………」
手の施しようがない、絶望という言葉で表現するのが生ぬるい状況で。
俺は──いつの間にか彼女の走る姿に、
『サトノダイヤモンドは届かないか。快進撃はついに終止符か、残り百八十──』
よく頑張った。
本来不要なはずだった重圧を背負って、よくここまで戦った。
二ヶ月前の選抜レースで苦渋を味わった君が、こんなにも眩しく成長してくれた。
よく頑張った。
"もう十分じゃないか"。
「…………………………」
彼女に送っているはずの労いの言葉。
それなのにどうして、自分自身を慰めるような言葉に聞こえるのだろう。
無情な現実に打ちひしがれるように、俺は瞼を閉じて光を拒絶した。
もう十分頑張った。だからもう楽になっても──。
『──いや、まだだッ! サトノダイヤモンドの目は死んでいないッ!! 二バ身の差に必死に食らいつくッ!!』
…………どうして?
地獄の底に突き落とされたような局面で、どうして君は諦めないんだよ。
「………………………………」
俺は恐怖で下を向いて、過去の未練で心を支えることしか出来なかったのに。
君は勇敢に上を向いて、未来を切り拓こうと前へ進んでいるというのか。
……あぁ、すごいな、ダイヤは。
「…………っ」
それに比べて、俺は、
(二年前のあの日から、ずっと未練に縋りついている)
過去を乗り越えられず、今日も惨めな自己保身に走り、未来を恐れて蹲っている。
大切な教え子を喪失した痛みは、今でも俺の心に深い傷跡として残っている。
この傷がある限り、俺はもう間違えない。
もう二度と同じ過ちを繰り返さないと、今は亡き君に誓った。
それが君を殺した俺にできる、唯一の罪滅ぼしだったから。
でも。
でもさ。
「…………れ」
なぁ、ミライ。
やっぱり俺には、
「…………しれ」
懸命に前を向いて、夢へ駆ける君達の邪魔をすることなんて。
「──走れぇええええええええッ!!!!! ダイヤぁああああああああああ!!!!!!」
俺には、出来ないんだよ。
***
届かない。
残り二バ身の差が、どうしても縮まらない。
もう私の脚にはもう、これ以上加速できる余力がこれっぽっちも残っていなかった。
坂路に突入する前に先頭を捉えられないと、私は彼女達を追い抜くことが出来ない。
──負ける。
直感的に悟ってしまう。
敗北する未来が明確に浮かび上がって、私の視界を真っ黒に塗りつぶす。
(……いや。いやだっ、いやだよ……ッ!)
止めどなくわき出てくる最悪の光景を振り払うように、私は走る。ひたすら走る。
何故なら私は勝たなければならない。
勝って希望を届けなければならない。
奇跡を起こさなければならない。
それなのに……。
(…………ぁあ)
万に一つの確率に縋り、彼の未練をわがままに背負ったことが完全に裏目に出てしまった。
(やっぱり私には、無理だったのかな)
縮まらない。魂を込めて一歩を踏みしめようとも、どれだけ歯を食いしばっても、先を行く背中には届かない。
ゴールまではもう、百八十メートルを切った。
そしてついに、私は
「ぃ、いや……そん、なの…………絶対だめ……ッ」
諦めることなんて私には許されない。
俯いちゃだめ。
前を向かなきゃだめ。
私は走らなければならない。
だって。
だってそうしないと──。
「…………っ」
異色の登竜門となったメイクデビューに決着が着くまで、残り十秒。
私に罪の意識を深々と刻み付けるかの如く、体感時間だけが無限に引き伸ばされる。
突きつけられる絶望に、心が折れそうだった。
四肢の感覚が曖昧になって、涙で滲む視界が光を拒絶して、耳朶を打つ会場の熱狂が嘘のように凪ぐ。
あまりに無情な現実に、心が壊れそうだった。
前に進んでいるはずなのに、私の意識はまるで、必死に何かを探しているかのように立ち止まっている。
その姿は何故か、二年前の私によく似ていた。
(兄さま……)
コマ送りになった世界で、私は彼の姿を強く求める。
失踪の知らせを受けた日から抱き続けた彼への渇望が、再び私の心にわき上がる。
私は心になだれ込んでくる暴力的な熱に身を委ね、赴くままに視線を動かした。
まるで、彼の心に導かれるように。
まるで、彼の心に支えられるように。
(……っ、あぁ……)
そしてついに、私は彼の姿を瞳に捉えることが出来た。
……意外だったのは。
普段から少し無愛想で、どこか冷めたように人生を諦観していた彼が。
(あぁ、兄さま……っ)
彼の声援が、塞ぎ込んでしまった私の耳に届く。
彼の熱意が、私の渇き切った身体を満たす。
彼の心が、私の心に前へと進む勇気をくれる。
──走れ。
うん。
私、走るよ。
「……まだまだ」
──彼女にもらった夢を。
残り百八十メートル。
──彼女にもらった希望を。
残り十秒。
──彼にもらった勇気を。
残り二バ身。
──今度は私が、あなたに送ります。
「──ここからぁあああああああッ!!!!!!!」
どれだけ辛くても、どれだけ限界だと感じても、決して下を向いて良い理由にはならない。
彼が背中を押してくれた。だから私はさらに力強く一歩を踏み出して、未来へと続く
懸命に、前だけを見据えて。
『な、なんとッ!? サトノダイヤモンドの速度が再び上がる!! 翼を広げて羽ばたくように、
強い想いが脚の回転数を爆発的に引き上げる。自身の限界を超えて生み出された速度で、先頭を走るウマ娘に肉薄する。
『先頭との差は残り一バ身! 逃げ切るか、差し切るかッ!? 残り五十ッ!!』
一歩一歩に全身全霊を尽くして、私は先に広がる景色を切り開く。
心に秘めたありったけの感情を込めて、私は叫んだ。
「──勝つのは……わたしなんだからぁあああああああああッ!!!!!!!!」
ねぇ、兄さま。
あなたが育てた
あなたが前を向いて歩む、希望になれましたか?
***
その場にいる誰もが固唾を呑んで、ターフビジョン側面に設置された電光掲示板を食い入るように見つめる。
息が詰まるような長い沈黙の末。
『一着は……』
ついに、一番上の空白に栄光を示す数字が輝いた。
『──九番、サトノダイヤモンドです!!!!!!』