世間を騒然とさせたメイクデビューから約二ヶ月。秋川理事長曰く、少しずつではあるがチーム・アルデバランに対する爆発的な注目は落ち着きを取り戻してきているそうだ。
ヒートアップする事態の鎮火に貢献したのはおそらく、大手出版社──月刊トゥインクルが発行した月刊誌だろう。
様々な憶測が飛び交う中で発行された、信頼性の高い出版社からの独占取材記事。
雑誌には凱旋したチーム・アルデバランについての特集が掲載され、一面にはゴール前を駆け抜ける私の姿が写っていた。
その大見出しは『最強の凱旋! ”星”を受け継ぐ至高の原石!』などと大仰な表現で飾られており、次のページには先日の取材内容が対談形式で綴られている。
その中には当然、私のトレーナーである兄さまについて触れられた内容もあった。
現在のチーム・アルデバランを率いているのは、当時のサブトレーナーの一人であった兄さまであるということ。
チームの象徴であった”星”のミライを育てたトレーナーが、兄さまであるということ。
非常に信頼性の高い出版社が公開した内容ということもあって、ごく一部からは過去の故障事故を非難する声も上がったが、それを容易くかき消すほどの称賛を世間から集めることとなった。
さらには当時チーム・アルデバランを統率していた元チーフトレーナーが声明を発表したことで、記事の信頼性に拍車をかけた。
結果から述べると、私のとち狂った魂胆は功を奏したといえる。
世界中から称賛の声を浴びて、築き上げた誉が評価されて、彼の今後の活躍に注目が集まった。
付随的に業界に対する世間の関心が上昇し、日本のトゥインクル・シリーズは今後、三年前のジャパンカップに匹敵する注目を浴びることとなるだろう。
私のトレーナーは、世界中から称賛されるに値する素晴らしい方だ。これは、彼の偉業に対する正当な評価なのだ。
私達の特集が掲載された月刊トゥインクルが発行されたのは、先月のあたま頃。
世間を騒然とさせていた根本的な原因は、公となった情報の信頼性が欠落していたことにあるだろう。正式な情報が公表されれば必然的に、事態は落ち着きを取り戻していく。
これでもう、学園内で彼を非難する者が現れることはないだろう。これならきっと、彼は安心して学園へ戻ってくることが出来る。
私はほっと胸を撫で下ろす。
私達を取り巻く問題は、順調に解決の方向へと進んでいる。
何も気に病むことはない。あとは前途洋々とした素敵な未来が待っているだけ。
ただ唯一、私に気がかりなことがあるとすれば。
──私はあくまで、
***
「──サトノさん。あなたの今後に関する予定なのですが」
チーム・アルデバランのミーティング中、進行役を務めるマックイーンさんが私に問うてきた。
「来年のクラシック級に臨むにあたって、この時期から出走するレースの目標を立てる必要がありますわ。具体的には中・長距離を主戦とする三冠路線、マイル・中距離のティアラ路線。サトノさんの実力であれば、どちらの路線を選択したとしても問題無いと判断しますが」
約二ヶ月に及んだ夏休みの最終週。私は早くも、将来の選択が迫られる時期を迎えつつあった。
ウマ娘にとって一生に一度しか出走できない、クラシック級のレース。
クラシックレースに出走するためには、合計三回に分けて出走登録料をURAに納金する必要がある。そして、その第一回目の登録申込締切日時まで二ヶ月を切った。まだ二ヶ月もあると感じるかも知れないが、選択が後手に回るとトレーニングの調整が間に合わない可能性が生じてくる。故に大体のウマ娘は、夏休みが明ける頃までに今後の目標レースを定めていることが多い。
クラシック級のレースには、距離適性に応じた二種類の路線が存在する。
皐月賞、日本ダービー、菊花賞の三冠路線。あるいは桜花賞、オークス、秋華賞のティアラ路線。
トゥインクル・シリーズが導入するグレード制において、最上格に位置するGⅠ重賞の、さらに特別なGⅠレース。
生涯一度の誉を巡って争う熾烈な戦いに注がれる注目度は、他のレースとは比べものにならない。
出走するだけで超一流。レースを制せば世代の頂点。三冠を戴けば最強の証。
”皇帝”シンボリルドルフが成し遂げた──クラシック三冠。
”魔性の青鹿毛”メジロラモーヌが掴み取った──トリプルティアラ。
生家の悲願であるGⅠ制覇を夢に掲げる私に与えられた、贅沢過ぎる選択肢。
……だと言うのに。
「……ごめんなさい。私はまだ、次に出走するレースを決めることすら出来ていないんです」
私は傲慢にも、栄光の選択を先延ばしにし続けていた。
なぜなら。
「トレーナーさんが不在だから、ですか?」
「……はい」
弱くてちっぽけだった私に、”走る”という選択肢を与えてくれた彼が……隣にいないから。
私の足は、私の未来を切り拓く足であると同時に、彼の未来を背負った足でもある。
だから、教え子である私の一存で、彼の未来を決めることなんて出来なくて。
「ごめんなさい。本当は甘えだって、自覚しているんですけど……」
それっぽい理由を並べているけれど、私はきっと自分で選択することが怖いんだと思う。
兄さまが強かなウマ娘だと評してくれた私だが、その根底の性格はどうしようもないほど臆病なのだ。
メイクデビュー直前に地下バ道でただ一人、恐怖に怯えて前へ進むことを躊躇した臆病なウマ娘。
それが、サトノダイヤモンドという女の子。
「サトノさんの気持ちは理解できます。あなたが抱いた不安を解消するのは本来、ウマ娘の指導者であるトレーナーの務め」
今だって、未来の選択を兄さまに委ねようとしている。
「しかし私は思うのです。この選択は誰でもない、サトノさん自身が下すべきなのだと」
マックイーンさんは不安に怯える私を諭すように、厳しい言葉を放った。
「確かにトレーナーさんの意見を参考にすることは重要です。客観的な視点に立ち、的確な助言をして下さることでしょう。ですが、現在のサトノさんが置かれている状況は、その甘えを許してはくれません」
「……おっしゃる通りです」
「仮にトレーナーさんがサトノさんの隣にいたとしても、おそらく私は同じことを問うでしょう」
良いのだろうか。
本当に私の一存で決めても、良いのだろうか。
「これは私の主観ですが」
叱咤を受けてもなお優柔不断な仕草を見せる私に、マックイーンさんは呆れてしまったのかもしれない。
マックイーンさんが一度、話題を転換した。
「トレーナーさんはサトノさんに対して、相当な信頼を置いているとお見受けします」
「ど、どうして、そう断言できるのでしょうか?」
「この状況が雄弁に物語っていますわ」
マックイーンさんは確信があるような笑みを浮かべながら、「分かりませんか?」と私に問う。
「トレーナーさんの境遇を知る身として、サトノさんなら理解出来るはずです。徹底的な管理主義を掲げていた彼が、どうしてこのような状況を許可したのか」
現在の私たちは、兄さまの目の届かないところでトレーニングを行なっている。
自主トレーニングの一切を禁止していた彼の教育方針からすると、本来ではありえない光景なのだ。
それならどうして、こんな状況が生まれているのか。
「答えは一つしかありません。彼が、サトノさんを信頼しているからです」
マックイーンさんは語る。
──彼は聡明なサトノさんを信じているのです。自身の身体を無碍にするような真似はもう絶対にしない、と。
「信頼……」
マックイーンさんから貰った言葉を繰り返して、自分の中でゆっくりと消化する。
「信頼…………そっか」
私は、彼の判断に対する解釈を履き違えていたのかもしれない。
兄さまは私に、過去の失敗を挽回するチャンスを与えてくれたのだと思っていた。無意識に、彼に試されているのだと意気込んでいた。
けれど、兄さまが私達に判断を委ねた本当の理由は、
「トレーナーさんはサトノさんのことを信頼しているのですから。彼はきっとあなたの選択を誰よりも尊重し、応援し、一番近くで支えて下さるはずですわ」
私のことを、信じてくれているから……?
「改めて問います。サトノさんは、どのような目標を掲げますか?」
私の夢は、生家の悲願であるGⅠレースに勝利すること。そのために、私はトレセン学園の門を叩いた。
しかし、私が学園生活を送る中で、いつの間にか新しい夢が増えていた。
──私、ミライさんのようなウマ娘になりたいんです。
かつては誰にも打ち明けることの出来なかった、密かな”星”への憧れ。
けれど、いつしか私の中でその憧れが膨れ上がって、大きな夢へと変化していた。
憧れが夢へと変化したその理由を、私は今一度自分の心に問うてみる。
すると、答えはすぐに返ってきた。
「私は……兄さまに相応しいウマ娘になりたい」
強かな覚悟で私を支えてくれた兄さまに、心の底から恩返しがしたい。
彼に相応しいウマ娘とは、一体何だろう。
GⅠウマ娘だろうか、三冠ウマ娘だろうか、日本一のウマ娘だろうか。
多分これらの称号だけでは、胸を張って兄さまの教え子を名乗ることは出来ないだろう。
──何故なら彼は、世界一のウマ娘を育てたトレーナーなのだから。
「ありがとうございます。マックイーンさんのおかげで、自分の夢を見つめ直すことが出来たような気がします」
自分の本心と向き合って、理想の姿を再び頭に思い描く。
生家の悲願を叶えたい。
ミライさんのようなウマ娘になりたい。
胸を張って、彼の教え子を名乗りたい。
私に与えられた贅沢な選択肢の中で全てを満たす道は、もはや一つしかないだろう。
「私は──クラシック三冠に挑戦します」
夢の実現に向けて、まずは日本一のウマ娘を目指す。故に私は、王道の三冠路線へ舵を切る。
口にするのは簡単だが、日本一の王座はひとつだけ。私の選択が茨の道であることは承知の上だ。
でも、おそらくこれが、今の私にとってベストな選択。日本一すら通過点だと豪語する程の意気込みでなければ、きっと私の夢は叶わない。
「素晴らしい選択ですわ。夢を実現する気概も申し分無し。そして、そんなサトノさんを支えるのが、トレーナーさんの代わりである私の務め」
マックイーンさんは私が三冠路線を選択することを既に予測していたのか、今後のスケジュールが綴られた資料を私に差し出してくれた。
「クラシック戦線の開幕戦となる皐月賞を第一目標に、出走レースのローテーションをいくつか考案してみましたわ」
マックイーンさんが作成した資料には、皐月賞への出走を意識したレースのローテーションが複数記載されていた。
条件クラスの突破を起点とし、マックイーンさんが提案したのは以下の三つ。
出走に必要となる最低限の賞金を稼いで、トレーニングに集中するローテーションA。
ステップレースやトライアルレースを利用し、場数を踏んで本番に物怖じしない経験を身につけるローテーションB。
GⅠレースに勝利したいという当初の夢を加味し、ジュニア級のGⅠ重賞を取り入れたローテーションC。
「どのようなローテーションを選択するかは、これから共に考えていきましょう。トレーニングに関しても、しっかりと検討を重ねなければなりませんわね」
「ありがとうございます、マックイーンさん」
「当然のことをしたまでですわ。しかし、油断は禁物です。次走となる条件クラスに勝利しなければ、全ての計画が頓挫してしまいますので」
マックイーンさんの努力を無駄にしないために、兄さまの信頼に応えるために、私自身の夢を叶えるために。
「はい。私、頑張ります」
一生懸命、走り抜いて見せる。
***
夏休みが明けた二学期は、ウマ娘にとって重要なシーズンだ。
クラシック級の激闘を締め括る菊花賞、秋華賞。
世界の傑物が集結するジャパンカップ。
ジュニア級の新星が鎬を削る阪神JF、朝日杯FS、ホープフルステークス。
そして、年末総決算と称される秋のグランプリレース有馬記念
それ以外にも天皇賞(秋)やエリザベス女王杯、東京大賞典といった注目度の高いGⅠレースが二学期に集中しているのである。
夏合宿を経て、心身ともに目覚ましい成長を遂げたウマ娘達の夢が激しくぶつかりあう至高の祭典。
夏休みの最終週で、私は”皇帝”シンボリルドルフが歩んだ三冠路線へ舵を切る決断を下した。
そして目標が明確になると、一つ一つの行動に目的意識が生まれる。掲げた夢を叶えるために、一秒たりとも無駄には出来ない。
前途洋々とした未来を想像し、期待に胸を膨らませながら迎えた二学期の始業式当日。
普段よりも少し早く栗東寮を出て、私は教室を目指す。
約二ヶ月間の夏休みを挟んだこともあってか、以前のように生徒達から鬼の質問責めをくらうことは無くなった。
時々視線を感じることはあっても、今後、四方八方を取り囲まれるような事態には至らないだろう。
ようやく普段の学園生活が戻ってきたことを実感しながら、私は教室の中へと入る。
「おはよう、キタちゃん」
「──ッ!?」
二ヶ月ぶりに再会した親友のキタちゃんに声をかけると、彼女は脊髄反射のような勢いで手にしていた雑誌を閉じた。
「お、おはようダイヤちゃんっ」
キタちゃんは、あはは……と苦笑しながら、私に挨拶を返してくれる。
キタちゃんが何を読んでいたのか気になった私だが、雑誌の表紙を目にしてすぐに分かった。
「それ、月刊トゥインクルだよね?」
キタちゃんが手にしていたのは、大手出版社が発行する月刊誌であった。それも最新刊ではなく、私の特集が掲載された一ヶ月前の
「う、うん……親友のダイヤちゃんが特集された記事だから、絶対に手に入れなきゃと思って」
「そっか。ありがとう、キタちゃん!」
キタちゃんが手に持つ雑誌には開き癖がついており、かなり読み込まれたような跡が見てとれた。
「ダイヤちゃん、あっという間に有名人になっちゃったね」
「あ、あはは……」
彼女の言葉通り、私は世間からかなり注目されるウマ娘となってしまった。その実、私は夏休みの期間中学園の敷地外に出ていないため、あまり実感が湧いていなかったりもする。
「……ねぇ、ダイヤちゃん」
「うん?」
キタちゃんが雑誌の表紙を見つめながら、私に声をかける。
「ダイヤちゃんのトレーナーさんって、すごい人だったんだね」
「……うん」
「ごめんねダイヤちゃん。あたし、何も知らなくて……二人に迷惑かけちゃった」
静かに席に着くキタちゃんが、申し訳なさそうに俯いた。
「迷惑だなんて、全然思ってないよ。それに兄さまも、キタちゃんに謝りたいってずっと言ってたから」
過去の一件でキタちゃんが何か負い目を感じているのなら、それは違うと伝えたい。
騒動の原因は、彼の担当ウマ娘であった私の不注意にある。本来であれば、キタちゃんを巻き込んでしまった私が頭を下げるべきなのだ。
「…………そっか」
雑誌を持つキタちゃんの手に、僅かに力がこもった。
そして、しばらく手元に落とされていたキタちゃんの視線が、今度は私に向けられる。
「ねぇ、ダイヤちゃん。良かったら、トレーナーさんのことについて聞かせてくれないかな」
「兄さまのこと?」
「どんな些細なことでも良いんだ。少しだけ、どんな人なのかなって気になっちゃって……あはは」
頬をかきながら再び視線を逸らすキタちゃん。少し艶を無くした濃い鹿毛の髪を指で梳かしながら、私に問うてきた。
そうだよね。兄さまはミライさんを育てたトレーナーなんだから、気にならないわけないよね。
「好きな食べ物とか、休日にしていること、とか……本当に、何でも良いんだけど…………」
「え? んーっと、そうだなぁ」
キタちゃんの質問は少し予想の斜めを行くもので、私はしばらく考える。
「うーん、好きな食べ物じゃなくて飲み物になっちゃうけど……コーヒーとか、かな。兄さま、お仕事中によく飲んでたから。あ、コーヒーといえば……少し前のことなんだけど、兄さまが高級なコーヒーメーカーを買ったんだーって自慢してきたことがあってね。私、反応に困っちゃって──」
兄さまは苦党だーって常々言い張ってるけど、コーヒーは砂糖をたくさん入れないと飲めないの。それを知った時は、おかしくて笑っちゃったなぁ。
そして、休日にしていることについてだが……実のところ、私もプライベートの兄さまをよく知らない。
それでも何かキタちゃんに話をするなら、そうだな……。
「トレーニングがオフの日に、一度だけ兄さまとゲームセンターに行ったことがあるんだけど。兄さま、お出かけにスーツで来たの。私、兄さまの姿を見た瞬間目が点になっちゃって──」
普通お出かけって私服で来るよね? それなのにスーツって……兄さまったら、まるで仕事の延長線って感じなの。気合いを入れておしゃれしてきたんだけど、盛大に空回っちゃったよ。
兄さまの話題となると途端に饒舌になる自分に気がついてしまい、言っていて私は少し恥ずかしくなった。
それと同時に、私はキタちゃんの質問にしっかりと答えられているのかと疑問に思ってしまった。
兄さまはトレーナーなんだから、本当はトレーニングに関することを聞きたいはずだよね。
もしかしたら、少し切り出しにくくて当たり障りのない話題から入ったのかもしれない。
「ごっ、ごめんねキタちゃん。こんな話、聞いてて何も面白くないよね……」
ついつい口が回ってしまって、私はキタちゃんを置いてけぼりにしてしまった。
「そんなことないよ……面白い人なんだね、ダイヤちゃんのトレーナーさんって」
こうして並べてみると確かに、兄さまは少し変わった人なのかもしれない。でも、そんなところを含めて、彼はとっても素敵な人だと思う。
「ありがとう、ダイヤちゃん。あたしのわがままを聞いてくれて」
キタちゃんが私にお礼を言った。こんなことで良ければ、いくらでも聞いてほしいな。
「……そっか」
そう伝えると、キタちゃんは嬉しそうに頬を緩めた。
「あ、もうすぐホームルームが始まっちゃう。良かったらまた今度……色々と聞かせてほしいな」
「うん! 何でも聞いて良いからね、キタちゃん」
キタちゃんと雑談に興じていると、あっという間に時間が過ぎてしまった。
私はすぐに自分の席へ戻って、始業の鐘が鳴るのを待つ。
ジュニア級の二学期はまさしく、ウマ娘にとって人生の分岐点。
夢への二歩目を踏み出す瞬間は、もはや間近に迫っている。