「──退院からすでに二週間が経過しましたが、体調はいかがですか?」
半年前。俺は自分自身が抱える心の問題と向き合うために、秋川理事長が紹介してくれた病院へと入院した。
長期にわたる闘病生活を経て二週間前に退院の目処が立ち、明日から俺はトレーナー業務に復帰する。
「はい、特に問題はありません」
今日こうして病院を訪れたのは経過観察の一環であり、主治医とコミュニケーションの場を設けることが目的であった。
「あなたの回復力には驚かされるばかりですよ。入院からわずか半年間で、人はここまで立ち直れるのかと」
「教え子を迎えにいくと、約束していましたから。いち早く健康を取り戻さなければ、彼女の現役時代が終わってしまいます」
「そうですか。理由は何であれ、あなたが再び前を向いてくれたことを主治医として喜ばしく思います」
経過観察といっても特にこれといった検査を受けるようなことはなく、前述した通り主治医との会話がメインである。
「……正直。私の立場からすると、業務への復帰は推奨できない側面もあります。くれぐれも、無理だけはなさらないで下さい」
「はい、承知しています」
「栄養バランスの取れた食事と、適切な睡眠時間は必ず確保してください。余裕があれば、ジョギングといった適度な運動を。それと、処方薬に関しては毎日必ず服用するようにして下さい。軽度ではありますが、副作用が生じる可能性にも留意しておいて下さい」
「分かりました」
しばらく会話を続けて、最後の方はもはや雑談に近かったように感じる。
「……あなたの教え子のご活躍は、日頃から耳に入ってきます。私もレースを拝見しましたが、素晴らしい走りでしたね」
「自分も、彼女の成長には驚かされるばかりです」
教え子との契約期間において……俺が彼女の指導にあたったのは、ほんの三ヶ月足らず。
そのせいか、俺はトゥインクル・シリーズで活躍するサトノダイヤモンドの担当トレーナーであるという認識が薄れてしまっているような気がした。
「そろそろ時間ですね。元気な姿を見れて良かったです」
「ありがとうございます」
これまで大変世話になった主治医に感謝を伝えて、俺は席を立ち上がる。
「改めて──退院、おめでとうございます」
***
病院を後にしたその足で、俺は半年ぶりにトレセン学園へ赴く。
今後の生活に必要となる荷物を、俺は明日までにトレーナー寮へ運ばなければならなかった。
部屋の中は相変わらず何もなく、物寂しさを覚えるほどに質素な雰囲気だった。
しかし半年間放置していたこともあり、申し訳程度に備えられた家具の上にはだいぶ埃が積もっている。
心機一転、と言うわけではないが。
トレセン学園は明日から三学期を迎え、それにあわせる形で俺は業務に復帰する。今後お世話になる空間は、きちんと綺麗にしておきたい。
時間をかけて部屋中の埃を隈なく拭き取る。掃除が一段落ついた時点で、俺は勢いのまま荷解き──入院の際に寮から持参したちょっとした私物──へと手を伸ばす。
荷解きと言っても病院へ持ち込んだものは本当に少なくて、すぐに終わってしまった。
最後にシワを伸ばしたスーツとネクタイをハンガーに掛けて、やることは全て片付いた。
以前と何も変わらない光景に安心感を覚えつつも……半年前とは一つだけ、俺は
がら空きの本棚に立てかけられた薄いアルバムを手にして、俺はひっそりと過去の記憶に想いを馳せる。
「……懐かしい」
色褪せた写真という形で切り取られた、何の変哲もない日常の一コマ。
枚数で言ったら、十枚にも満たない。かといって大層な内容が刻まれているのかと言われたらそうではなく、ごくごくありふれた一瞬を形に収めただけの紙切れにすぎない。
それでも俺にとっては、大切な教え子と紡いだかけがえのない宝物と呼べる代物だった。
「ミライ」
記憶の中のミライはいつも笑顔だ。それにつられて、周りの仲間達も笑顔になる。
それは俺も、例外ではない。
「君は相変わらず元気だね」
”星の消失”から実に三年近い時間が経過したが……やっぱり俺は、ミライがいない世界を受け入れることなんて出来なかった。
ミライの笑顔を見るたびに、俺はもれなく後悔に苛まれる。
ミライが模擬レースで結果を残せず癇癪を起こしたあの日、俺は君に
変えられない過去を掘り返して、情けないヤツだと思われるかもしれない。
前を向くと決めたはずなのに時々後ろを振り返ってしまうような、女々しい男だと笑われてしまうかもしれない。
「ごめん」
俺は過去の記憶を慈しむように、少し埃の被った写真を指のはらで撫でる。
そこに温もりを感じることは無かったけれど、不思議と心にじんわり染みるものがあった。
「……俺さ。また、頑張るよ」
今後、俺の心に刻まれた傷口が癒えることは無いだろう。
なぜならこの傷は今や、”俺”という人間を形作る──
君のいない世界を受け入れることは出来ない。
でも、俺はそんな世界と真剣に向き合ってみせる。
どんなに苦しくても、今度こそ乗り越えてみせる。
「だから、見ていてくれ」
俺はもう一度前へ進むよ、ミライ。
***
翌朝、俺は午前五時に起床して身支度に取り掛かった。
寝ぼけまなこを擦りながら洗面台の前へと移動し、冷たい水を顔に掛けて眠気を吹き飛ばす。
寝癖を直して身だしなみを整え、俺はクリーニングに出していたスーツに袖を通す。ネクタイを結んで首元までしっかりと締め、教え子から貰ったガーベラのタイピンでシャツに留める。
最後に普段から愛用している薄手の革手袋を装着すれば、準備は完了だ。
気が引き締まるのを感じながら、俺は数年ぶりに自炊をすることにした。あらかじめ前日に購入しておいた食材を用いて、俺はサンドイッチを作る。調理の合間にお湯を沸かして、一杯分のコーヒーを用意した。
ゆっくりと落ち着いた時間を過ごすと、不思議と心に余裕が生まれる。片手間に今日の予定を確認しながら、スマホの画面をスクロールした。
半年程度世間の情報から隔離されていたわけだが、退院からの二週間で自身の置かれている状況は大方把握することが出来ている。
チーム・アルデバランの凱旋はやはり、世界中から大きな反響を呼んでいるようだ。
あまり実感が湧いていないことだけが、少々気掛かりだったが……。
今一度、チーム・アルデバランを率いるトレーナーとしての矜持はしっかりと持っておくべきだろう。
先代のチーフトレーナーが築き上げた栄光に、泥を塗るわけにはいかない。
さて、そろそろ寮を出る時間が迫っている。復帰早々遅刻していては、トレーナーとしての示しがつかない。
最後に忘れ物が無いかを確認し、俺は心機一転とした想いを抱きながらトレーナー寮を後にした。
***
俺の勤務先となるトレセン学園は、トレーナー寮から徒歩数分という距離に立地している。東京ドーム十七個分の敷地はあまりに広大で、俺は未だに施設の位置を全て把握しきれていなかった。
トレセン学園の校門へ近づくにつれて、制服に身を包んだウマ娘や、トレーナー達の姿が増えてくる。戻ってきたんだなという実感が胸に込み上げてくるのと共に、歩道を歩く俺に周囲の視線が寄せられていることに気がついた。
少しばかり注目を浴びてしまっているようだが……俺は過去に色々と問題を起こしているため、仕方のないことではある。
俺はあまり気に留めずに学園の校門を通過し、チーム・アルデバランの部室であるトレーナールームへ足を運ぶ……。
その矢先の出来事だった。
「──あ、あのっ!」
突然背後から、学園の制服を身にまとったウマ娘に声をかけられる。声の主をたどって生徒の容姿を一瞥するが、残念ながら心当たりはない。
「チーム・アルデバランの……トレーナーさん、ですよね……?」
「え、ああ、うん。そうだけど」
「やっぱりっ、そうなんですねっ!!」
俺の返事を受けて、目の前の生徒が一際大きな声を上げた。一体何事かと、周囲から更なる注目を集めてしまう。
「──ね、ねぇ。あの人ってさ」
「うん、テレビに映ってた人だよね……っ」
「じゃ、じゃああの方が……!」
次第に生徒の数も増え始める時間帯であり、気が付いたら俺の周りに人だかりが生じ始めていた。
「あの、お願いがあるんですけどっ!」
周囲の人が人を呼び、俺はいつの間にか大勢の生徒達に詰め寄られるような状況に巻き込まれていた。
「わっ、私をトレーナーさんのチームにスカウ──」
「抜けがけなんてずるいよっ、あたしだって──!」
「お願いしますっ! どうかアタシをスカウトして──」
「いやいや、この中では私が一番速いですからっ!」
「「「──っ……!!!!」
人数が増えすぎた影響で、俺は彼女達の言葉を何一つ聞き取ることが出来ない。申し訳ないのだが、せめて一人ずつ話してくれないだろうか……っ。
そんな俺の切実な要望も虚しく、周囲の熱はさらにヒートアップしていく。大勢のウマ娘達に揉まれるこの状況は、正直言って非常に危険だ。
ど、どうにかしてこの状況を脱しなくてはならない。認識が浅はかだったこと早速後悔する俺だったが、今はそれどころでは無い。
多少の抵抗も虚しく、俺はウマ娘達が生み出す荒波の中にのみ込まれてしまって……。
「──君達、少し落ち着きたまえ。彼が困惑してしまっている」
完全に溺れてしまう寸前、その渦の外側から凛とした声音と共に救いの手が差し伸べられた。
「君達の気持ちは十二分に理解出来るが、この状態では通学路を塞いでしまう。この場は私に免じて、引いてもらえないだろうか?」
俺はまだその姿を捉えることは出来ていないが、彼女の声音には心当たりがある。
周囲の生徒達は彼女の言葉を聞き入れたようで、惜しみながらも俺の周りから離れていった。
次第に視界が晴れていき、俺に助け舟を差し出してくれた彼女の容姿が明らかになる。
俺の目が最初に捉えたのは、ツンと伸びた彼女の
「…………」
ありがとう、と反射的にお礼を述べようとした俺だったが……喉の先まで上がってきた途端に、その言葉は引っ込んでしまった。
──こうして彼女と対面するのが、トレーナーとして最悪な印象を植え付けたきりだったことを思い出したからだ。
「……あ、えっと…………」
身から出た錆といえど、込み上げてくる気まずさがすごい。
先程の生徒達に取り囲まれていた方が、よほどマシだと感じるほどに。
「──私は正直」
数秒の沈黙の後、俺に背を向けたまま彼女が口を開いた。
「今の君に対して、どのような顔をして向き合えば良いのか分からないでいる」
そして、それはどうやら彼女も──シンボリルドルフも同じだったようだ。
「指導者としてあるまじき行為に及んだ君に対して苦手意識を抱く反面、世界の”星”を輝かせた指導者としての君に感服している私がいるんだ」
ルドルフが抱えている葛藤は……それはもうひどいものだった。
おもむろに言葉を並べる彼女の声に、俺は大人しく耳を傾ける。
「私は君の教え子に対して、憧憬の念を抱いていた。過去に一度、私は彼女と対面したことがあるのだが……その時確信したんだ。理想の実現に必要な要素が、如何なるものであるのか」
「……」
「ウマ娘を蔑ろにした君に込み上げてくる感情と、理想の実現に必要不可欠な存在を見つけたことに対する喜びと……そんな君に嫌悪されている現状への後悔が胸の中で渦巻いているんだ」
こうしてルドルフが俺に背中を向け続けているのも、彼女が滅茶苦茶な矛盾を心に抱えているからなのだろう。
「……今の私が傲慢であることは、当然理解しているよ」
ルドルフの言葉通り、彼女の言動は確かに……傲慢な要素を含んでいるのかもしれない。
「だが、これは私の本心なんだ」
ルドルフは俺に怒りをぶつけるわけでもなく、謝罪をするわけでもなく──偽りのない本心を打ち明けてきた。
そして、そんな彼女に対して未だに一言も言葉を返せていないのは、俺が指導者としての未熟であることの裏返しなのだと思う。
「……ごめん」
なんて言葉を返せば良いのか分からないが……とりあえず俺は、ことが穏便に済むよう謝罪という形から入ることにした。
「あの時の俺は、正直どうかしていたと……思う。君達ウマ娘を指導出来るような状態じゃなかった」
「君の事情は理事長から伺っている。決して口外はしていないから、安心してほしい」
「暴力を振るってしまった子には、誠心誠意謝罪したつもりだ。でも、彼女に対して恐怖心を植え付けてしまった自覚もある。行動の責任を取って……俺は金輪際、彼女に近づかないことを誓う」
闘病生活の果てにようやく自分自身を客観視出来るようなったわけだが……振り返ってみると、良くあんな精神状態で指導者を名乗れたなと過去の自分に呆れてしまう。
「私から声をかけておいて申し訳ないが……この状態では正直、話の落としどころがつけられそうにないな」
俺に背を向けて話すルドルフが苦笑した。
「……俺も、そう思うよ」
お互いに、過去の件に関して色々と整理する時間を設ける必要があるのかもしれない。
「……そうだ。トレーナー君」
「うん?」
「もし君さえ良ければなんだが。一度、君と腰を落ち着けて話が──」
そして、ルドルフが背を向けたままの状態で俺に何かを提案しようとした矢先……。
「──あっ、カイチョー! おはよ〜っ!!!」
背後から駆け寄ってきた小柄なウマ娘が、俺の横を颯爽と駆け抜けてルドルフに抱きついた。
「こんなところで会うなんて奇遇だねカイチョー! もしかして〜、ボクのことを待っていてくれたとかっ!?」
鹿毛の長髪を後頭部でまとめ、明朗快活な言動でルドルフに絡んでいる生徒には、心当たりがある。
「て、テイオー…………あぁ、えっと、その……」
彼女の名前は確か……無敗の二冠ウマ娘として名を馳せる、チーム・スピカ所属──トウカイテイオー。
トウカイテイオーの唐突な登場に困惑を隠せないルドルフは……ばつが悪そうにぎこちなく顔を動かして、俺の方へと視線を向けてくる。
「…………」
……それが俺とルドルフの、また別の意味で気まずい対面の瞬間となった。
「……? ねぇねぇ。カイチョーは今、誰と話してたの?」
「え……ん”ん”っ”。ああ。チーム・アルデバランを統率する、トレセン学園所属のトレーナー君だよ」
ルドルフの説明を受けたトウカイテイオーが、彼女からわずかに視線を動かす。
「……アルデバラン」
トウカイテイオーの鮮やかな甘色の瞳に、困惑の表情を浮かべた俺の姿が映り込む。
やがてトウカイテイオーはルドルフに絡みついていた身体を離し、こちらの方へと歩み寄ってくる。
「……えっと」
小柄な体躯のトウカイテイオーが、品定めをするような眼差しを向けながら俺の目前で静かに佇む。
「…………」
俺は彼女を前にして無性に緊張してしまい、ごくりと唾を飲み込んだ。
端正な顔立ちのトウカイテイオーが、何やら神妙な面持ちで距離を縮めてきたと思ったら……。
「ボク、トウカイテイオーっていうんだ! これからよろしくねっ、アルデバランのトレーナー!」
俺の目の前で一気に破顔し、元気な声で自己紹介をした。
「ああっ、いけない! もうこんな時間じゃん! それじゃあボクは、カイチョーと一緒に学園へ行くから! またねっ、トレーナー!!」
そして、トウカイテイオーは俺の返答を待たずして踵を返し、彼女は自身の背後にいたルドルフの腕を取る。
「えっ、て、テイオー……っ」
「ほらほら! こんなところで突っ立ってたら遅刻しちゃうよ!」
トウカイテイオーは困惑するルドルフをよそに、快活な足取りで校舎の方へと走っていく。
まるで嵐のような生徒の登場について行けず、俺は口をぽかんと開けながらその場でしばらく硬直した。
ぼんやりと眺めた視界の先に、トレセン学園の校舎へと駆け込んでいくルドルフとトウカイテイオーの姿が映る。
こうして肩からスクールバッグを提げて走る姿を見る限り、世間から無敗の三冠ウマ娘と評される彼女も学園の生徒なんだなと、ちょっとだけ親近感を覚えた。
「……しまった、時間」
のん気に通学路のど真ん中で突っ立っていた俺だったが……トウカイテイオーの言葉通り、本当に時間が押していた。
今日はこの後、トレセン学園の始業式に参列する予定が控えている。
始業式には生徒や教師だけでなく、俺達のようなトレーナーも出席するよう義務付けられている。
俺は頬を叩いて気を取り直す。
新たな門出となる一歩目を再び踏み、走り出すのだった。
***
「──歓・喜ッ!!!!!」
始業式に出席した後、俺はその足で業務復帰の意向を改めて示すために理事長室へ訪れた。
俺が入室した瞬間、相変わらず大仰に扇子を広げて秋川理事長が叫ぶ。興奮した様子で、年相応にはしゃぎながらこちらへと駆け寄ってきた。
「わたしは待っていたぞッ! 君が戻ってきてくれるこの瞬間をッ!!」
秋川理事長は俺の右手を強く取って、感情の赴くままに激しく振った。見た目と年齢に反してその握力は非常に強く、俺は苦笑を浮かべて痛みをごまかす。
「お帰りなさい、トレーナーさん♪」
そんな俺を見かねたのか、緑の事務服に身を包む理事長秘書のたづなさんが笑みを浮かべながら近づいてくる。
「えっと、その……ご迷惑をおかけしました」
俺が長期入院で学園を不在にしている間、業務の全てをたづなさんに肩代わりしてもらうどころか、チームの代理監督まで引き受けてもらっていた。
第一印象は正直アレだったけれど、今では一つ年上の彼女に頭が上がらない。
「いえいえ、お気になさらず。これも理事長秘書の務めですので」
仕事量が何倍に膨れ上がったにも関わらず、たづなさんはケロッとしている。効率が良いのだろうか。それとも、スタミナがあるのだろうか。
「まさか、わずか半年間で業務に復帰出来るほど回復するとは思ってもみませんでした。正直、信じられません」
「主治医からも同じことを言われました。自分でも不思議な気分です」
厄介な精神疾患を併発していた俺が半年足らずで健康に近い心と取り戻せたのは、主治医曰く”奇跡”とのこと。
自分でも未だに信じられないが、いち早く業務に復帰出来るのはきっと良いことだろう。
俺は話が脇道に逸れる前に、本題を切り出した。
「たづなさん、今後の業務の引き継ぎなのですが」
俺はたづなさんから業務の内容とその進行状況を聞き、早急に仕事に取り掛かる必要があった。
トレセン学園に在籍するトレーナーは本業であるウマ娘の指導とは別に、学園の事務作業を担っている。
始業式当日は授業が午前中までしかなく、午後からはチーム・アルデバランのメンバーを集めてミーティングを実施する予定となっていた。
さらにはミーティング後はトラックを用いたトレーニングがスケジュールに組み込まれているため、事務作業に充てられる時間は今しかないのだ。
俺はたづなさんから改めて業務に関する説明を受け、なるべく短時間で引き継ぎ作業の内容を把握する。
二人は俺が病み上がりであることを考慮してくれたのか、当面の間は事務作業の量を調整してくれるとのこと。退院早々激務で体調を崩したとなっては主治医に合わせる顔がないので、俺は大人しく秋川理事長達の厚意に甘えることに。
これで目的は全て果たしたので、俺は彼女達に今一度お礼を述べて理事長室を後にした。
「──トレーナーさん」
理事長室を出た直後、俺の背中を追ってきた様子のたづなさんがこちらへと歩み寄ってくる。
「何かありましたか?」
「今後のチームの運営に関して、少しだけお話ししておきたいことがありまして」
理事長秘書のたづなさんは、俺の休職期間中にチーム・アルデバランの代理監督を務めてくれていた。
実のところ、チームに在籍した日数で言えば俺よりもたづなさんの方が圧倒的に長かったりもする。
「トレーナーさんはまだ病み上がりで、体調面での不安も大きいかと感じます。なので当面の間は、チーム・アルデバランの代理監督を継続させて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「本当ですか……っ。ぜひ、お願いします」
たづなさんの申し出はむしろ、俺にとって願ったり叶ったりな内容であった。
「指導面に限らず、業務に関する悩みなどは遠慮無く私に打ち明けて下さいね」
「ありがとうございます、たづなさん」
たづなさんの厚意を受け取らない理由が無いため、俺は彼女に対して素直にお礼の言葉を述べた。
「引き止めてしまってごめんなさい。改めて……退院おめでとうございます、トレーナーさん」
最後に俺はたづなさんへ深々と一礼し、静まり返った廊下を歩いて部室を目指す。
今日は何だかとても、晴れやかな気分だ。