担当ウマ娘のメジロドーベルから飛んできた予想外の発言に、俺は驚愕のあまり言葉を失った。
「天皇賞……春?」
俺の記憶が正しければ、天皇賞(春)は京都レース場で開催される、芝三千二百メートルの長距離レースだ。
シニア級に成長したウマ娘のみが出走できるGⅠ重賞で、トゥインクル・シリーズの最高峰に位置付けられる”八大競走”の一つに数えられている。
京都レース場の地獄に等しい地形的特徴から、無尽蔵なスタミナと長丁場でも途切れない集中力が求められる。そして何より──
それが、天皇賞(春)。
俺は視線を無意識に手元のノートへ落として、先程ドーベルが記録した時計を確認する。
三千メートル──走破タイム、三分四十秒六。
「……なに?」
「そ、それはさすがに……厳しいんじゃない、かな?」
歯切れの悪い返答を受けて機嫌を損ねたドーベルに対し、俺はタイム測定の結果を示した。
「記録を確認すれば分かる。君は長距離よりも、マイルや中距離といった方向に適性が──」
「まだ二年以上時間があるでしょ」
彼女の言葉通り、天皇賞(春)に出走できるようになるのは、デビューから二年後のシニア級を迎えた後である。
だが、この記録はメジロドーベルというウマ娘の距離適性を如実に示したものだ。
仮に最初の二年間全てをトレーニングに捧げたとしても、彼女の得られる成果は善戦程度が限界だろう。
距離適性とはウマ娘の先天的な素質に左右される側面が強く、こうして結果が出ている以上、彼女のそれは賢明な選択とは言い難かった。
「それに、さっきの計測は万全の状態じゃなかった。
「……え?」
ドーベルの弁解に対して、俺は再び言葉を失った。
仮に彼女の言葉を鵜呑みにするのなら、長距離以前の測定結果をさらに更新することとなる。
俺は”体質”に頼るまでもなく、直感で理解した。疑う余地なんて微塵もない。
「……なんてことだ」
メジロドーベルというウマ娘に秘められた才能の片鱗を目の当たりにし、俺は全身が打ち震えるような感覚に襲われる。
「そ、それなら……なおさら推奨は出来ない。マイルから中距離のレースに狙いを定めた方が賢明だ。君の素質ならそれこそ、トリプルティアラだって──」
「勝手にアタシを決めつけないでッ!」
頑なに天皇賞(春)に執着するドーベルに対して説得を試みるも、俺の言葉は強い口調で彼女に遮られてしまう。
「アンタ達大人が声を揃えて言う”素質”って何? ”才能”って何なの? それが無いと努力しても無駄って言いたいわけ? ふざけないでよ」
声を荒げて不満を露わにするドーベルに、俺は気の利いた言葉を返してあげることが出来なかった。
彼女の歯に衣着せぬ直球な言葉が、何より”才能”という概念に執着していた俺の心に、容赦なく突き刺さる。
「”星”を育てたトレーナーだって聞いてたけど、周りの大人と何も変わらないじゃん……期待するだけ無駄だった」
ドーベルの失望する声音に含まれる微かな悲しみを感じ取って、俺は今更ながらに後悔した。
俺はもっと、ドーベルの目標に寄り添うことが出来たはずだ。”体質”を補うことばかりに気を取られ、肝心な担当ウマ娘とのコミュニケーションをおろそかにしてしまっていた。
俺はまず最優先で、天皇賞(春)に込める彼女の想いを共有するべきだった。
メジロドーベルの名が示す通り、彼女は名門メジロ家のウマ娘。その生い立ちを想像すれば、彼女が天皇賞(春)にこだわる理由なんて簡単に掴めるはずだった。
それに、ドーベルが天皇賞(春)に固執する理由は、メジロ家の悲願を果たすことだけでは無いはずだ。
「──ドーベル。その言葉は移籍を認めてくださった彼に対して、失礼が過ぎるのではないですか?」
一番近くにいたじゃないか。
かつて、悲願達成という志を共に
「…………マックイーン」
俺の記憶が正しければ、彼女達の世代から天皇賞(春)を制覇したメジロ家のウマ娘はいなかったはずだ。
悲願達成の最有力候補と期待されていたマックイーンが繁靭帯炎によって長期療養を余儀なくされたとなれば、必然的にデビュー前のドーベルに対して一族の期待が注がれるはず。
ドーベルの背景を推し量ることが出来れていれば、簡単に分かることだった。彼女の背負う使命の重みを、理解してあげられるはずだったのだ。
「少し頭を冷やすべきです。冷静な思考を取り戻した後で、腰を落ち着けて意見を交わし合うべきですわ」
マックイーンの鋭い指摘に対して、ドーベルは居心地が悪そうに視線を逸らした。
「…………ごめん」
重苦しい沈黙がしばらく続いて、ドーベルが小さく謝罪の言葉を呟く。そして彼女は俺の返事を待たぬまま、トラックから走り去っていった。
「……申し訳ありません、トレーナーさん」
頭を抱える俺の様子を見て、マックイーンが姉の代わりと言わんばかりに謝罪を述べる。その背後からは、担当ウマ娘のダイヤがおずおずとした様子で事の成り行き見守っていた。
「……ごめん。君達を担当する指導者として、見苦しいところを見せてしまった」
トレーナーの俺がドーベルを諭すどころか、チームのサポーターを務めてもらっている担当ウマ娘に仲裁される情けない結末となってしまった。
「ドーベルは少々、男性に対して口調が鋭くなってしまう傾向がありまして……彼女としてもあのような失言は本意では無いはずです。なので今回の件はどうか、寛大なお心で……」
「大丈夫。ドーベルの気分を逆撫でした俺が悪いんだ。すぐにでも後を追って、頭を下げてくる」
「いえ、ここは私が向かいますわ。きっと今のトレーナーさんが何かをしたとしても正直、焼け石に水かと感じます」
「……よろしく頼む、マックイーン」
穴があったら入りたいとは、まさにこのような心境のことを言うのだろう。
「に、兄さま……」
「ごめん。ダイヤにも、その……恥ずかしい姿を見せてしまった」
「い、いえ……」
俺はこの半年間で、自分自身の心に巣食う問題と真剣に向き合ってきた。
病を克服したことで自信を取り戻し、前途洋々とした気持ちで業務に復帰して。
俺は一つ、分かったことがある。
「誰かと真剣に向き合うって……自分自身と向き合うことよりも、よっぽど大変なんだな」
***
「…………やってしまった」
逃げるようにターフから走り去った後、時間をかけて冷静な思考を取り戻したアタシは激しい自己嫌悪に陥っていた。
半年間に及ぶ過酷なトレーニングがなかなか結果に繋がらず、成長を実感出来ない現状に不満を抱いて八つ当たり。おまけに男性に対する苦手意識が鋭い口調に拍車をかけて、余計なことまでぶちまけてしまった。
アタシは手に持っていたタオルで顔を覆って、そのまま天を仰いだ。
そのままの状態でしばらくぼーっとしていると、一方的な言い争いと化した時のアイツの表情が脳裏に浮かんできた。
──君は長距離よりも、マイルや中距離といった方向に適性が……。
「……そんなこと、自分が一番分かってるっての」
アタシの身体が長距離適性に乏しいことなんて、誰かに指摘されるまでもなく幼少期の頃から理解しているつもりだ。
長年多くの名ウマ娘を輩出してきた名門メジロ家は、その家風としてトゥインクル・シリーズの中でも特に、長距離レースを重視する傾向にあった。中でも天皇賞(春)に対するこだわりは非常に強く、その制覇はメジロ家の”使命”や”悲願”と称されるほどに重要な目標である。
次世代を担うメジロのウマ娘として生を享けたアタシも、その例に漏れず天皇賞(春)の制覇を目標に掲げていた。
……ただ他の姉妹達と少し異なっていたのは、アタシに長距離を走る才能と見込みが絶望的であったということだろうか。
純粋なステイヤーの血筋を引きながら、名門メジロの名を冠しておきながら……などとそんな感じで、昔から周囲の人達からは何かと冷遇されることも多く、アタシは期待や賞賛から程遠い眼差しを向けられる環境で育ってきた。
その過程で”他人”という存在に苦手意識を抱くようになり、感情を盛大に拗らせ、ひねくれた自身の性格に思い悩む今に至る。
「はぁ…………」
人気の少ない校舎の裏側で膝を抱え、アタシは重すぎるため息をゆっくりとこぼす。
そんなアタシのコンプレックスに拍車をかけたのが、”本格化の遅延”と呼ばれる現象だった。
一般的に、ウマ娘の本格化が始まるのは十三歳前後であるとされている。
同年代の姉妹が順当に本格化の時期を迎え、トレセン学園入学と同時に華々しいデビューを飾る中、アタシだけが本格化の恩恵から取り残されていった。
そして、ようやく本格化の兆しが見えた頃には……アタシはすでに高等部へと進級しており、姉妹達に至ってはシニア級で活躍するGⅠウマ娘。
本格化を迎えぬまま現役時代を終えるのではないかという焦燥感と、メジロの名に恥じない功績を残す姉妹達への劣等感が、擦り切れたアタシの心を容赦なく傷つけてくる。
色々と拗らせ過ぎた気性難のウマ娘に寄り添ってくれる人なんて当然現れるはずもなく、選抜レースを見てアタシの目標に共感してくれた男性トレーナーからも、体裁の良い言葉を並べて捨てられてしまった。
きっとあの男性トレーナーが見ていたのはアタシではなく、”メジロ”ドーベルという別の何かだったのだろう。
「……いや、今考えるのは昔のことじゃないでしょ」
気分が沈むと、心に刻まれた苦しい記憶が息を吸うように蘇ってくる。
アタシがいま真っ先に考えるべきなのは、この後どんな顔をしてアイツに会えば良いのかということ。
アイツと対面してからまだ数時間も経っていないというのに、関係が既に崩壊しかけている。第一印象が最悪、なんていう次元の話ではない。
身から出た錆ではあることは重々承知だけれど……正直、アタシ一人では荷が重すぎる。
何もかもがうまくいかない。
子供の頃から、やることなすこと全てが空回り。
本当に、どうしてこんなことになっちゃったんだろう……。
「──昔から、隠れんぼの実力であなたの右に出る者はいませんでしたわね、ドーベル」
自身の言動が招いた問題の対処に頭を悩ませていると、背後から突然凛とした声がかけられた。
安心したような、それでいてどこか呆れたような声音の持ち主には心当たりがある。
「……何それ嫌味? 言いたいことがあるならはっきり言ってよ、マックイーン」
「他意はありません。ただ、姉の様子を確認してくるとトレーナーさんに約束した手前、引くに引けなかっただけです」
アタシが自暴自棄になってトレーニングを投げ出してから、既にかなりの時間が経過している。
マックイーンはずっと、こんなアタシのことを探していたのだろうか。
「別に、頼んでないし」
「
妹のマックイーンに指摘されて、アタシは慌てて顔を逸らした。すかさずタオルで表情を覆って、頬を伝う汗を拭う。
「隣、失礼しますわ」
「……どっか行ってよ」
「相変わらず素直じゃありませんわね、あなたも」
アタシの言葉を右から左へと流して、マックイーンが隣に腰掛ける。
「あの後、本日のトレーニングはそのまま終了しました。トレーナーさんから、ゆっくり休んで欲しいと伝言を預かっています」
「……あっそ」
「ちなみに明日はオフなので、気分転換にスイーツでも食べに行きましょう。美味しいアップルパイのお店を知っています」
「おせち料理を爆食いした正月からそんなに経ってないけど?」
「あなたも道連れです。拒否権はありません」
最近、マックイーンが以前よりも丸くなったと感じるのは気のせいではないだろう。彼女なりの気遣いであると気付いていながら、毒を吐いてしまう自分が情けない。
「食欲が増す要因としては睡眠不足や栄養失調、生理などが代表的ですが……一番の原因はやはり、ストレスでしょう」
「……ごめん、甘味の誘惑に敗北した心境を正当化してるようにしか聞こえないんだけど」
「食べることで不安や不満を解消出来るなら、それに越したことはありませんわ」
アタシの場合、ストレスを発散するという意味で絵を描くことは少なくない。
嫌なことを全部忘れて何かに打ち込む感覚というのは、存外とても心地良い。その影響でみるみる絵が上達してしまったのは、少し複雑な気持ちだが。
「……お互い、面倒なものを抱え込んでしまいましたわね」
アタシの隣で膝を抱え、天を仰いで深いため息をこぼすマックイーンの横顔を盗み見る。
どんな場所でも毅然とした態度を崩さないマックイーンが、ぽつりと弱音をこぼす。
そんな彼女の姿を見るのは、随分と久しぶりだ。
「ドーベル、焦る必要はありませんよ。誰かと比較する必要もありません。あなたの活躍はこれからなのですから」
アタシはマックイーンから激励の言葉を貰う。
「そして、その活躍のためには私達ウマ娘を支えて下さるトレーナーの存在が不可欠です。先程の言動は、あなたと真摯に向き合おうと努力されている彼に対する侮辱に他なりません」
アタシはマックイーンから叱りの言葉を受け取る。
「明日、トレーナーさんに謝罪しに行きましょう。安心して下さいな、この私が同伴して差し上げます」
「……一人で行く」
「そうですか」
言質は取りましたよと、アタシの隣でマックイーンがいたずらに微笑んだ。
「日も暮れかけているので、私はこれで失礼します」
「そういえばマックイーンってさ……トレーニングの後、いつも一人でどこかに行ってるよね?」
「ええ、メジロ家の療養施設に。知っていますか? おばあ様のご厚意によって療養施設に増設されたターフが、一ヶ月ほど前に完成したそうです」
私にはあまり関係ありませんが……と、苦笑を浮かべながらマックイーンが言う。
療養施設一帯はメジロの私有地で、ターフを増設する程度の敷地はあるのかもしれないが……そんなアクセスの悪い場所にターフなんか作って、おばあ様達は一体何を考えているのか。
少なくとも、アタシには関係のない話だ。
「ふぅーん……でも、わざわざ施設に行ってどうするの?」
「メジロのウマ娘たるもの、プロポーションは常に完璧であるべきです」
「何それ、ただのダイエットじゃん。でもそれなら別に、学園のトレーニング施設を使えば良くない?」
「そんなことをすれば、噂になってしまいますので。メジロの淑女たるもの、常に陰の努力を怠ってはなりません」
ジャージについた土埃を軽快に払うと、マックイーンは相変わらずイタズラな笑みを浮かべてアタシの元から去っていった。
あれだけうるさかった状態からマックイーンがいなくなるだけで、すぐに静寂な空間へと元通りになる。
──お互い、面倒なものを抱え込んでしまいましたわね。
今度は、つい先程マックイーンのつぶやいた言葉がアタシの脳裏に浮かんできた。
マックイーンは現在、ウマ娘にとって不治の病と呼ばれる繁靭帯炎を患っている。その症状は一旦回復したとのことだが、今も変わらず再発という恐怖に苛まれているはずだ。
アタシの悩みが容易く霞んでしまうほど重い問題を抱えて、どうして彼女には他人を気遣う余裕があるのだろう。
アタシとマックイーンの、一体何が違うのだろう。
同じ血を引いて生まれ、同じ環境で育ち、同じ道を歩んできたはずなのに。
「誰か、教えてよ……」
空に問いかけても答えは返ってこない。
しかし現状でただ一つ、こんなアタシにも分かることがある。
こうして膝を抱えていては、その答えを探しに行くことなんて出来ない、ということだ。
もうすぐ西に日が沈む。
冬の夜風に晒されて平気と言い切れるほどの情熱が、今のアタシの心には残っていなかった。
***
業務復帰初日からチームを崩壊に追い込んでしまうような失態を犯した俺は、今朝から一転して憂鬱な思いを抱えながら荷物をまとめていた。
仕事道具を鞄にしまいながらも、頭の中ではずっと反省会が続けられている。
配慮が足りなかっただの、思春期の女性をもっと理解しろだの、言葉遣いには気をつけろだの。
「……はぁ」
俺はかつて、世界的なアイドルウマ娘として一斉を風靡した”星”のミライを育てたトレーナーだった。
昔の教え子に対する晴らしようのない後悔はこの際置いておくとして、やっぱりウマ娘を育成する手腕にはそれなりの自信があった。
だがしかし、こうして育成が成立しない状況を生み出してしまっている辺り……その自覚は驕りであったと言わざるを得ないだろう。
ミライ、ダイヤと育成ウマ娘を担当し、チームのサポーターとしてマックイーンを迎え入れ、ドーベルの移籍を承諾した。
そういえば……俺が今まで担当してきたウマ娘はみな聡明で、指示に対して素直に従ってくれる温順な者ばかりであった。
彼女達とは対照的に、ドーベルの性格は言ってしまえば反抗的で警戒心が強い気性難。男性に対する極度の苦手意識も相まって、その傾向には拍車が掛かっている。
それらの前提を踏まえれば。
ダイヤやマックイーンに接するときのような態度で育成にあたれば、ドーベルから不満が飛んでくるのは当然のことだ。
今更後悔しても遅いが……もう少し、もう少しだけ俺は彼女に寄り添うことが出来たのではないだろうか。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ……と、誰か偉い人が常々口にしていたような気がする。これに倣うと、俺は考えるまでもなく愚者一択であろう。
まぁ、後悔して学べたものがあるのなら、それはそれで良いのかもしれないが……。
俺は部室の戸締まりを確認し、最後に電気を消して部屋を出ていく。
仕事場から離れた後も、俺の頭は彼女達のことでいっぱいだ。
ドーベルに対する謝罪を考えるのはもちろん、ダイヤの新しいトレーニングメニューを考案する必要だってある。加えて、マックイーンにもトレーナーとして必要な知識や技術を余すことなく授けなければならない。
さらに学園から回される事務作業と、それとはまた別個でレースへの出走登録やトレーニング施設の使用申告書の提出、備品の整備に加えて病院での経過観察も……うぅ。
いや、無駄にタスクを並べるのはやめよう。
やることが多すぎて、億劫になってしまいかねない。
俺は自分の意志でこの世界に戻ってきたんだ。
今を歩むと覚悟を決めたのだから、弱音なんて吐いている場合ではない。
冬の季節は日が沈むのも早く、まだ十九時前だというのに辺りは随分と暗い。トレセン学園の敷地には至る所に照明灯が設置されているとはいえ、太陽の光が無いといくら着込んでも肌寒さを感じてしまう。
早く寮に戻って明日に備えようと、俺は足早に校門を通り抜けた。
「──お。ようやく来たな、新人」
その時である。
この肌を刺すような寒さの中にも関わらず、校門の隅で佇んでいる男性の姿が俺の視界に映り込んだ。
その男性の容姿には、心当たりがあった。
「あぁ、さっむ……」
癖毛を背後で束ね、左側頭部を刈り上げた特徴的な髪型の渋めな中年男性が、きょとんとする俺の元へと近づいてくる。
黄色の派手目なワイシャツと黒のジャケットを着こなし、棒付きの飴を口で転がしながら、チーム・スピカを監督する沖野トレーナーが目の前に立った。
「ご無沙汰しています、沖野トレーナー」
「半年ぶりだな、新人。諸事情で突然休職って聞いていたけど、元気そうで安心したぜ」
結構インパクトのある見た目だが、沖野トレーナーは意外と気さくな人である。
「しっかし驚いたよ。半年前に阪神レース場で出会った新人がまさか、”星”のミライを育てたトレーナーだったなんてな」
沖野トレーナーと初めて対面したのは半年前。
メイクデビューに臨むダイヤを引率するために訪れた阪神レース場でばったりと出会い、軽く会話を交わした程度の関係である。
「とんでもねぇヤツがやって来たって、当時は俺達トレーナーの間でも話題になってたんだぜ?」
俺に注目の眼差しを向けている対象はどうやら、トレセン学園に在籍する生徒達だけでは無いようだ。
「そう、ですか……」
確かに、学園関係者が一堂に会する始業式では、立場に限らず大勢の人達から注目を集めてしまっていたような気がする。
「えっと、それで……沖野トレーナーは何故、このような場所に?」
「そんなに畏まるなって。歳はともかく、指導者としての手腕は新人の方が上なんだからな……ん? となると、新人って呼ぶのはまずいか?」
「いえ、新人であることに変わりはないので……では、沖野トレーナーのことは今後、沖野先輩と」
俺は沖野トレーナー──沖野先輩に対して、どうしてこんな場所にいたのかと尋ねる。
彼の返答曰く、どうやら俺が仕事を切り上げる瞬間をずっと待っていたのだそうだ。
その理由を、沖野先輩はこう語る。
「半年前、俺の教え子が迷惑をかけちまっただろ? 以前は軽く頭を下げることしか出来なかったから、しっかりと謝罪するべきだと思ってな」
そう言って、沖野先輩が深く頭を下げた。
「あの出来事が新人の辛い過去を呼び覚ますきっかけになっちまったのだとしたら、俺はその責任を取る必要がある」
彼はおそらく、チーム・アルデバランに所属していた俺の経歴を調べる過程で、過去の出来事を知ったのだろう。
過剰な管理主義を掲げていた俺の背景に触れてしまったせいで、彼は不要な責任を感じてしまっているようだ。
「いえ、あの騒動の原因は俺自身にありますから。むしろ俺が改めて、危害を加えてしまったあの子に……」
「それじゃあ俺の気が済まない」
「…………えっと」
今朝にもトレセン学園の生徒と似たようなやり取りをした覚えがある。
その際は時間の関係やら何やらでうやむやになってしまったが、今回ばかりはそうもいかない。
「あ、あの、顔を上げてくれませんか……?」
こうなってしまえば、お互いの罪悪感がぶつかり合って会話は平行線だ。
「それは出来ない」
自身の過ちを沖野先輩の責任として水に流すつもりは毛頭ないけれど、それは彼とてきっと同じ。
「……じゃ、じゃあその……先輩の言う、責任の代わりと言ってはアレなんですけど」
沖野先輩にこれ以上責任を感じさせないために、俺は頭を下げ続ける彼に対して提案を持ちかけた。
「悩みごとを、聞いてくれませんか……? 教え子と、その……対面初日に揉めてしまって」
このまま一人で悩みを抱えていても、その解決の糸口を見出せる気がしない。
「悩み、か……」
先輩はトレセン学園でもトップクラスの実力者を統率するチーム・スピカのトレーナーだ。
そんな彼に悩みを打ち明ければ、何か良いアドバイスをしてくれるかもしれない。
「分かった。聞くよ、新人の悩み」
「本当ですか……っ」
おもむろに姿勢を元に戻した沖野先輩は、俺の提案を快く受け入れてくれた。
「新人。この後、時間あるか?」
「え、ええ……沖野先輩は、大丈夫なんですか?」
「善は急げって言うだろ? それに元々、新人と話がしたくて待ってたわけだし……あ、そうだ」
沖野先輩は俺に一言断りを入れると、ポケットにしまっていたスマホを手に取り、画面を操作する。
しばらくして、スマホに向けられていた沖野先輩の視線が俺の方へと戻ってきた。
「新人。もし良かったら、俺の同僚を誘っても良いか? 悩みの相談なら、俺よりも彼女の方が向いていると思ってな」
「自分としてはありがたいですけど……相手の都合は大丈夫なのでしょうか?」
「ああ。実はその同僚も、新人と接点を持ちたがっていたんだよ。指導者としての実力は確かだから、きっと新人の力になってくれると思うぜ」
「ありがとうございます、沖野先輩」
途方に暮れていた俺は素直に沖野先輩の厚意に甘え、彼の申し出にお礼を述べる。
「んじゃ、そろそろ場所を変えよう。こんなところで突っ立ってたら、風邪を引いちまうからな」
俺は沖野先輩の後に続いて、街頭で照らされた舗装路を歩いていく。
そういえば、トレセン学園に勤務してから他のチームのトレーナーと接点を持つのは今日が初めてだ。
それを自覚した途端、何故だか激しい緊張を覚えて手汗が止まらなくなってしまった。