これであなたはサトノ家行きです   作:転生した穀潰し

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33:指導者の苦労

 沖野先輩に連れられてやって来たのは、トレセン学園からしばらく移動したところにある彼行きつけのバーであった。

 

 店内はモダンな雰囲気に包まれた静謐な空間で、少数の先客が各々の時間を満喫している。まさに、大人の隠れ家といった印象だ。

 

「何にも聞かずに連れて来ちまったが……新人、酒は飲めるか?」

「大丈夫です。嗜む程度ですけど」

 

 俺と沖野先輩は店内のカウンターテーブルに腰掛け、それぞれメニュー表の目に留まったドリンクを注文する。

 

 そういえば、最後にお酒を飲んだのはいつ頃だっただろう。少なくとも、ダイヤと再会を果たした日以降は一度も口をつけていない。

 

 久しぶりであることを自覚した途端、何故だか無性に緊張してしまう。

 

「さっき誘った俺の同僚なんだが……仕事が長引いたらしくて、到着まで少し時間が掛かるらしい。俺だけでよければ、早速悩みを聞くが?」

「ありがとうございます、沖野先輩」

 

 沖野先輩の同僚の方が到着するまでの間に、俺は自身の抱えている悩みをぽつり、ぽつりと彼に対して打ち明け始める。

 

 俺が悩みごとの全てを吐露し終えるまで、沖野先輩は何も言わずに耳を傾けてくれていた。

 

「……なるほど。担当ウマ娘が掲げる目標と、距離適性のギャップか。新人はそれを指摘して、仲違いに発展しちまった……と」

「彼女とは今日が初の対面だったので、仲違い……というのは少し、語弊があるかもしれませんが」

「まぁ、よくある話だよな。大きな夢を掲げる担当ウマ娘に対して、距離適性っつう現実を突き付ける場面は絶対に訪れる。その瞬間に教え子との関係が悪化しちまうのは、珍しいことじゃない」

 

 俺が抱えている悩みは決して特別なものではない。

 

 トレーナーであれば誰もが一度はその壁に突き当たる、ありふれた悩みごとである。

 

「たまに忘れがちになるが、俺達が名乗ってる『トレーナー』っつうのは仕事なんだよ。仕事である以上担当ウマ娘を勝利へ導く義務があるし、彼女達に結果を残してもらう必要だってある」

 

──要はバランスなんだよ──と、沖野先輩は語った。

 

「担当ウマ娘の夢は最優先で叶えてやりたい。それは、俺達トレーナーの性ってもんだ。だが、距離適性を無視してでも夢を追わせてやるのは現実的じゃないし、無責任だ」

 

 担当ウマ娘の夢に寄り添う姿勢と、担当トレーナーとしての責任を全うする姿勢の()()()()

 

「こういう風には言いたくないが……汚い話トレーナーの仕事ってさ、担当ウマ娘の適性に合った夢を見繕って、当初の夢とすり替えるような側面があるんだよ」

 

 担当ウマ娘の適性に応じて目標を指し示し、言葉巧みに彼女達を誘導して、現実味のある新しい夢を提供する。

 

 そうすればウマ娘は適性という壁で夢を失わず、トレーナーは彼女達の夢に寄り添い、職業としての責任も果たすことができる。利害が一致するのだ。

 

「結果を残す優秀なトレーナーは、総じてそれが上手なんだ。担当ウマ娘が当初抱いていた夢を、適性に見合った夢に塗り替える。彼女達のモチベーション管理を完璧にこなしながらだ」

「……なるほど」

「新人の指摘は間違っちゃいねぇ。無責任に夢を追わせず、適切な形で現実と向き合わせるのは指導者として当然の義務だ。今回の状況だと、それを指摘する時期がちっとばかし早かっただっただけさ」

 

 理想的な夢から、現実的な夢にすり替える。

 

 本来であれば両者の間に信頼関係が構築されてから行うはずのそれを、俺は相手のことを何も知らない初対面の状態から行ってしまった。

 

 ウマ娘の才能を、言い換えれば彼女達の適性を瞬時に見出す“体質"を補うことに意識を取られ過ぎて、俺は必要な過程をすっ飛ばしてしまったのだ。

 

「ただまぁ、夢をすり替えるってのは気持ちの良いことじゃねぇ。俺達に担当ウマ娘の理想をそのまま追わせてやれる手腕があれば、それに越したことはない」

 

 沖野先輩の口からこぼれた理想は、ウマ娘の夢に寄り添うトレーナーなら誰もが抱く葛藤だ。

 

 理想的な夢を心の底から追わせてあげたい気持ちと、現実的な夢を提示しなければならない責任がせめぎ合い、妥協点を見出すことに囚われる。

 

 ウマ娘達が理想と現実のギャップに苦しむように。

 

 俺達トレーナーも、本心と責任のギャップを抱えながら日々の指導に当たっている。

 

「……ウマ娘達の夢が潰える瞬間ってさ、何も適性が判明した時だけに生じるわけじゃねぇんだよな」

 

 一拍置いて現実を語る沖野先輩の横顔からは普段の気さくさが抜け落ち、どこか憂を帯びた表情に変化していた。

 

「担当トレーナーにありつけず、そもそも選手としての実力が足りないとき。夢の舞台であるレースで敗北したとき。一番えげつないのが、夢の実現に手が届く瞬間に……怪我をしたときだ」

 

 頬杖をついてため息をこぼす沖野先輩が、どこか遠くを眺めながら言葉をこぼす。

 

「怪我で夢を諦めるウマ娘を、俺は数えきれないほど見てきた。教え子が怪我を乗り越えてもう一度夢を抱くことが出来るなら、俺は全力で彼女達を支える。だがその怪我が、競走能力の喪失に等しいものだった場合は…………」

 

 沖野先輩の言葉に重みを感じてしまうのはきっと、彼自身の経験に基づくものなのだと理解してしまったから。

 

「…………いや、これ以上はもうやめよう」

 

 沖野先輩は、少し話が脱線してしまったと謝りながら頭を掻いた。

 

 次の瞬間、彼の身体にまとわりついていた重たい雰囲気が嘘のように吹き飛んだ。

 

「まぁなんだ。やっぱアレじゃね? 複雑な乙女心を理解することから始めるとか?」

「ええ……」

 

 沖野先輩の口から出てくる言葉が、急に俗っぽくなった。

 

「良いか新人。ウマ娘って種族はな、先天的に自己顕示欲が強い傾向にあるんだ」

 

 まるで他言無用の裏技を紹介するように、沖野先輩の声量が小さくなる。

 

「まずは担当ウマ娘と親交を深めるキッカケを作れ」

「親交を深めるキッカケどころか、第一印象からマイナスに振り切っているんですが……」

「なら、振り出しに戻るところからだな。安心しろ、大体俺もこのパターンから始まる」

「沖野先輩、どうやってウマ娘をスカウトしてるんですか……?」

 

 何も安心できないどころか、沖野先輩のドヤ顔は不安を煽る要素でしかない。

 

「トモを触る。じっくりと、慈しむように、隈なくだ」

 

 俺はもしかしたら、相談する相手を間違えたのかもしれない。

 

……いや待て。最初にウマ娘の身体に触れると言う意味では、俺も沖野先輩と大して変わらないのではないだろうか?

 

「最悪な出会いを経て好感度がマイナスに振り切ったら、最初に敵意がないことを示す。次は、彼女達の自己顕示欲を軽く刺激してやるんだ。その後はな……」

 

 話し方は胡散臭いのに、それでも俺は何故か沖野先輩の言葉に耳を傾けてしまう。案外理にかなったプロセスと、経験に基づいたその根拠を丁寧に説明してくれるものだから、不思議と納得してしまった。

 

 それが無性に悔しいと感じてしまったのは、きっと気のせいだ。

 

「……とまぁこんな感じで進めていけば、好感度は振り出しに戻るはずだ。好感度が振り出し以上になるかは今度の努力次第だが、少なくともマイナスに振れることはないだろう」

 

 一度どん底を経験しておけば、確かにそれ以上好感度が下がることはないとは思う。

 

「なるほど」

「総括すると、担当ウマ娘の好感度を元に戻す過程を経ることによって、晴れて彼女達の悩みに寄り添う資格を手に入れるっつうわけだ」

 

 話の締めくくり方は少々強引だったが、参考にできる部分は多々あった。

 

「ありがとうございます、沖野先輩」

 

 これまで一人で抱え込んでいた苦悩を他人に打ち明けたおかげか、以前よりも随分と気が楽になったように感じる。

 

 マイナスに振り切れてしまったドーベルの好感度をどうやって戻していくのかについては、さらに検討を重ねる必要があるだろう。

 

 俺は一旦マスターから提供されたお酒に口をつけて、アルコールが身体にまわる感覚を懐かしむ。

 

「しかしまぁ、驚いたよ。かつて世界を獲ったチーム・アルデバランを率いるトレーナー様も、こんな普通な悩みを抱えてるんだなってさ」

「自分は別に、超人でも何でもないですよ。最初に面倒を見ていた教え子の才能に、寄生していただけです」

 

 トレセン学園に勤務するようになってから、抱えた悩みが完全に晴れたことはない。それどころか、発散する間も無くひたすら蓄積していくばかりだ。

 

「運も実力の内ってことじゃねぇか? ダービーみたいに」

「日本ダービーを制覇するウマ娘には必ず、相応の実力が伴っていますよ。一緒くたにするのは、彼女達に失礼です」

「たとえ運だったとしても、少しは自分に自信を持っても良いと思うぜ? 腰が低いと教え子に舐められる。ワガママなんて言われたい放題だ」

 

 沖野先輩が率いるチーム・スピカに集うウマ娘達は確か、非常に癖が強いことで有名だ。

 

「沖野先輩のチームメンバーって結構、個性的な生徒達が多いですよね」

「ああ、とんでもねぇヤツらばっかりだ。せっかくだから教えてやるよ。ついでに今の悩みも聞いてくれ」

 

 不満をこぼす沖野先輩の声音は不思議と明るく、表情からこぼれる笑みを隠しきれていない。

 

「そもそもゴールドシップは論外だ、あいつの奇行は俺の手に負えん。スズカは目を離すとすぐに走り出すし、スペはずっと何か食ってやがる。この前の新年会なんて俺の自腹だぜ? あいつら無尽蔵の食欲を隠すことすらしねぇ。少しは慎みっつうもんを覚えてほしいよマジで。おかげで財布が今日も空だ」

「会計どうするんですか?」

「……新人」

 

 平然と後輩をたかる沖野先輩に呆れながらも、俺は相談のお礼ということで仕方なく了承した。

 

 俺が軽々しい沖野先輩の態度を憎めないのは、きっとこのフランクなやりとりが彼なりの気遣いであると、心のどこかで勘づいているからなのだろう。

 

「でも……わがままなウマ娘と言ったらやっぱ、テイオーが真っ先に頭に浮かぶよ」

「トウカイテイオー、ですか?」

 

 彼女は今朝、生徒会長のルドルフと会話する俺に向かって明朗快活な笑顔で自己紹介をしてくれたウマ娘だ。

 

「テイオーの場合、“皇帝“シンボリルドルフに対する憧れが強くてな。無敗の三冠ウマ娘っつう夢へのこだわりは凄まじかったよ」

 

 沖野先輩の担当ウマ娘であるトウカイテイオーは確か……日本ダービー出走後に骨折が判明し、菊花賞の出走を断念せざるを得なかったと聞いている。

 

「菊花賞以降、テイオーとはちっとばかしギクシャクした関係が続いていてな。結構、気まずいんだよ…………はぁ。()()()俺は、一体どうするべきだったんだろうな……」

 

 俺の悩みに親身になってくれた沖野先輩自身も、担当ウマ娘との向き合い方に葛藤を抱えているようだ。

 

「無敗の三冠ウマ娘になる夢は叶わなかったが、レースに対するこだわりは相変わらずでさ。一度出走するレースを決めたら、テイオーは聞く耳を持たずに一直線。そして……蓋を開けてみれば復帰戦でまさかの一着。とんでもねぇヤツだよ」

 

 トウカイテイオーが復帰戦の舞台に選択したのは、シニア級最長距離のGⅠ重賞──天皇賞(春)。

 

 復帰明け、加えて経験のない長距離レースということも相まって、正直厳しいのではないかという意見が一般的だった。

 

 しかし、実際に天皇賞(春)に出走したトウカイテイオーは鬼気迫る勢いで他者を圧倒し、見事春の王座に君臨した。

 

 トウカイテイオーの無敗記録は止まることを知らず、今度は秋に開催された天皇賞の盾をレコードタイムで奪取。

 

 無敗で天皇賞春秋制覇という前代未聞の偉業を成し遂げたトウカイテイオーの快進撃は凄まじく、シニア級二年目に突入して以降も破竹の勢いは健在だ。

 

「俺はテイオーが天皇賞(春)に出走することに対して、正直反対だった。テイオーの本質は中距離だ。それなのに長距離GⅠレースを復帰戦に選ぶなんて、いくらなんでも分が悪すぎるってな」

 

 勝算の乏しいレースに二つ返事で出走を許可することは出来ない。仮に俺が沖野先輩の立場だったとしても、同様の選択をするだろう。

 

「だがアイツは俺の反対を押し切って出走し、一着を掴み取った。……それ以降、俺はテイオーに対して何も言えなくなっちまった」

 

 トウカイテイオーが天皇賞(春)を制覇してからというもの、沖野先輩は彼女のわがままを黙認し続けている状態なのだそうだ。

 

「……俺も、新人の抱える悩みがよく分かるよ」

 

 深いため息をつく沖野先輩に対して、俺はかける言葉が見つからない。

 

 自身の適性に悩みながらも夢を諦めない担当ウマ娘の表情が、俺の脳裏をよぎる。

 

「はぁ……俺の癒しはもう、新入生のキタサンだけだ」

 

 沖野先輩の口から不意に溢れた名前を聞いて、俺の鼓動がわずかに跳ねる。

 

 あの出来事から半年経った今でも、あの子に対する負い目は消えていなかったようだ。

 

「ただ最近のキタサンは何故か、調子を落とし気味なんだよなぁ。トレーニングにもあまり顔を出さなくなっちまったし」

「あの、それってもしかしなくても、自分が原因なのでは…………?」

「いんにゃ? それは絶対違うって頑なに否定してたし、考えすぎだろう」

「そう、ですか……」

 

 あの快活な子が調子を著しく落とす理由が俺以外にあるのだとしたら……何か、考えられる要因はあるのだろうか。

 

「そういえば、先月のホープフルステークスに出走していましたよね」

「ん、ああ。惜しくも二着だったけどな」

 

 長期入院の影響で鈍った指導の勘を取り戻すために視聴していたウマチューブの動画に偶然、勝負服を身にまとった彼女が映っていたことを思い出す。

 

 ジュニア級からGⅠレースに出走し、結果を残すウマ娘なんてほんの一握りだ。

 

 あの子の走りを直接見たのは選抜レースだけであるが、半年経った今でも、素晴らしい足を持っていると感じさせる走りは健在であった。

 

「調子が良ければ一着も十分狙えたんだが……あいつは、不調の原因を誰にも打ち明けてくれないんだ。一人で抱え込んで、それでも笑顔を絶やさないから……そのせいで、踏み込むに踏み込めないんだよな」

 

 俺は、キタサンブラックの育成を担当しているわけではない。

 

 だから、残念だけれど……。

 

「……」

 

 俺が彼女にしてあげられることは現状、何も無かった。

 

 実際に彼女の走りを確認すれば不調の原因を探ることが出来るかもしれないが……はっきり言って、それは悪手だ。

 

 沖野先輩は指摘を濁していたが、彼女が抱える不調の原因は十中八九、過去に問題を起こした俺にあると考えるのが妥当だろう。

 

 そんな俺が彼女に近づけば、事態を複雑にして更なる不調を招いてしまうことなど目に見えている。

 

「……不調を脱するきっかけとしては、あれですけど」

 

 でも、彼女に対する負い目があるのも事実で。

 

 不調に苦しむ彼女の力になってあげたいという気持ちも当然あった。

 

「脚質を変えてみるのはどうでしょう。あの子の足なら、逃げや先行辺りも器用にこなせそうですが」

 

 キタサンブラックの走りを直接指導することはもう出来ないけれど、沖野先輩を介して間接的に彼女の役に立ってくれたら良いなという想いで、俺は色々と意見を出してみた。

 

「俺もそう思ってキタサンに提案したんだが……あんまり、しっくり来なかったそうでな」

「そう、ですか……。でしたら、目的意識を明確にしてみるというのは?」

「俺もモチベーションを向上になると思って、新年会で今年の具体的な目標を書き初めさせたんだよ」

「なるほど……」

 

 不調脱却のきっかけとなる意見をいくつか出してみたが……俺の意見はどこまで行っても一般的で、そのほとんどが実施済みの内容であった。

 

「…………すみません。自分の手腕では、あの子の力になれないみたいです」

 

 罪滅ぼしすらろくに出来ない自分自身が情けなくて、俺はため息を我慢することが出来なかった。

 

「いんにゃ、色々とありがとな。もう一度、新人の意見を参考にしてやってみるよ」

 

 その後は沖野先輩とウマ娘の育成論やトレーニングに関する意見を交換しながら、時間を過ごしていった。

 

 沖野先輩は自身の教育理念として、ウマ娘の自主性を尊重した放任主義に近いものを掲げている。

 

 俺には無い視点に立った彼の指導方針は非常に興味深く、参考に出来る箇所も数多くあった。

 

「……なぁ、新人。つかぬことを聞くが」

「何でしょうか?」

 

 そして大体、二十分が過ぎた辺りだろうか。

 

「その、あいつが何か──」

「──ごめんなさい、待たせたわね」

 

 カウンターに腰掛ける俺達の背後から、凛々しい雰囲気を身にまとった女性の声が掛けられた。

 

「ああ、おハナさん。遅かったじゃねぇか」

「担当のリハビリに付き合っていたのよ。私が見ていないと、あの子はすぐに無茶をするんだから」

 

 沖野先輩と気さくに会話する女性トレーナーの容姿には、心当たりがある。

 

 グレーのパンツスーツを完璧に着こなし、切長な双眸から知的な印象を感じさせるクールビューティーな辣腕トレーナー──東条ハナ。

 

「新人、紹介するよ。彼女がさっき言ってた俺の同僚、おハナさんだ」

「初めまして、新人君。あなたの活躍は常々耳に入っているわ」

 

 トレセン学園最強と謳われるチーム・リギルを監督し、超一流の育成手腕をもって多くの名ウマ娘を輩出してきた東条トレーナーだが、そういえば今日まで彼女と接点を持ったことが無かった。

 

「よろしくお願いします、東条トレーナー」

「彼が新人と呼んでいたから私も同じように呼んだけれど、さすがに失礼が過ぎるわよね。気を悪くしたらごめんなさい」

「いえ、新人という立場にあるということは事実ですので」

 

 東条トレーナーは俺の左隣の席に腰掛け、こちらに視線を向けてくる。

 

「あなたとは以前から一度、話をしてみたいと思っていたの。この場に招いてくれたことを感謝するわ」

「いえ、こちらこそ嬉しいです」

「新人君から悩みの相談があると彼から聞いていたのだけれど……その様子だと、既に解決してしまった感じかしら?」

 

 解決に至ったわけではないが、俺に蓄積されていたわだかまりはだいぶ発散されたと思う。

 

「はい。沖野先輩のおかげで気持ちが軽くなりました」

「なら良かった。私達は仕事柄ストレスを溜め込みやすいから、愚痴の一つぐらいこぼさないとやっていられないわよね」

「東条トレーナーも、担当ウマ娘と揉めることが?」

「私の指導スタンスだとどうしても、教え子達から反感を買ってしまうことが多くて……。それに、メンタルケアの分野に関しては苦手なのよ」

 

 この業界の大ベテランである東条トレーナーも、こんな俺と全く同じような悩みを抱えているのか。

 

「大きな怪我を抱えて、夢を諦めざるを得なくなったウマ娘にどう寄り添うべきか。この難題に対して、私は明確な答えが出せそうもないわ」

「……」

「諦められないから夢なのに、現実を突き付けるのはその夢に寄り添っていた私達だなんて。本当に、損な役回りよね」

「分かる、分かるぜ〜おハナさん。俺もそのやるせない気持ちがじゅ〜ぶんに分かる!」

「私は軽薄なあなたの言動が理解出来ないわ」

 

 聞くところによると、沖野先輩と東条トレーナーはそれぞれ正反対の教育理念を掲げているという。性格も真逆で、その会話からは犬猿の仲を彷彿とさせるほどに、そりが合わないような人達であった。

 

 しかし、そんな二人が同じ空間で酒を交わし、互いのわだかまりを吐き出す程度に親密な関係を築いている。それはきっと、各々の教育理念にある根底や原点が一致しているからなのだろう。

 

「ただ、鬱憤を晴らすだけというには惜しいほど豪華な面子が揃っているわけだし。せっかくなら、生産性のある有意義な会話をしましょう?」

「珍しく気が合うじゃねぇか、おハナさん!」

「世界を獲ったトレーナーの教育論、とても興味深いわ」

 

 沖野先輩曰く、東条トレーナーは普段こそ冷静沈着な態度でいるものの、こうしたプライベートの場ではいくらか砕けた口調に変わるとのこと。

 

 先程から続けていた沖野先輩との会話に東条トレーナーが加わったことで、より濃厚で身になる情報を得ることが出来た。

 

 そして話が進んでいく内にどうやら、全員身体にお酒が回ってきたらしい。各々の担当自慢が始まる。

 

「──今年のクラシック三冠は俺のダイヤのものです。俺はダイヤの夢を叶えて、あの子に恩返しをするんです」

「いんにゃ、クラシックの主役はキタサン一択だ。チーム・スピカ様の日本ダービー三連覇を見せてやるぜ!」

「残念だけど、最後に差すのはチーム・リギルよ。ふふっ、強いわよ? 私のドゥラメンテは」

 

 期待に満ちていたはずの業務復帰初日は、早くも頭を抱えてしまうほどの問題を生み出しての幕開けとなった。

 

 半年前と比べて心に余裕があることは確かだが、それは指導者としての手腕が成長したわけでもなければ、教え子の心境に寄り添える甲斐性が生まれたわけでもない。

 

 俺は果たして、しっかり彼女達と向き合うことが出来るのだろうか。

 

 

 

***

 

 

 

 翌日、俺は普段よりも早い時間帯から学園に出勤し、部室で仕事を進めていた。仕事といっても学園から回される事務ではなく、担当トレーナーとしてのものである。

 

 トレーニングがオフの場合、俺はその時間を利用して今後のスケジュール調整や指導内容の確認をすることが多い。

 

 担当ウマ娘が増えたことで、必然的に個々の教え子に対して注げる時間が短くなってしまう。しかし逆に、担当トレーナーにのしかかる負担は倍増する。

 

 そのため、指導の効率化などといった工夫を凝らさなければ、トレーニングの質の低下に繋がってしまう。

 

 担当ウマ娘各々の目的に最適な指導内容を吟味し、最新の論文や研究、傾向などを参考にした上でトレーニングメニューを考案する。

 

 試行錯誤を繰り返す内にあっという間に時間は過ぎ去り、既に日没の時刻を迎えていた。

 

 そろそろ仕事を切り上げて寮に戻ろうかと考えていると、不意に部室の扉をノックする音が俺の耳に届く。

 

 一体誰だろう。

 

 不思議に思った俺は部室に訪れた人物を確認しようと腰を上げるが、完全に立ち上がる前に扉が開いた。

 

 扉の向こうから現れた予想外の人物を目の当たりにして、俺は言葉を詰まらせてしまった。

 

「……え、ドーベル?」

「………………どうも」

 

 後ろ手に扉を閉めながら、担当ウマ娘のメジロドーベルが俺の様子をおそるおそる窺う。

 

 対面初日から険悪な雰囲気を作ってしまい、俺はどうやって関係を修正していこうかと仕事の傍らでずっと考えていた。

 

 しかし、今日のトレーニングをオフにしたせいで、ドーベルと向き合う心の準備は不完全な状態であった。

 

 担当ウマ娘を前にして狼狽する姿を晒すわけにはいかず、せめて体裁だけは必死に取り繕いながら彼女にかける言葉を探していると……。

 

「………………これ」

 

 いつの間にか、ドーベルは不自然な姿勢のまま硬直する俺の前までやってきていた。

 

 ぼそっと短い言葉を呟いて、ドーベルがデスクの上に何かを置く。

 

「……これは、一体?」

 

 俺の視線が下に落ち、丁寧な包装が施された手のひらより少し大きめな箱に意識が向いた。

 

「……アロマディフューザー。余ってたから、アンタにあげる」

「俺に?」

「……仕事柄、ストレスを溜めやすいと思うから。ラベンダーとか、おすすめ」

 

 ドーベルは続けて包装されたアロマオイルの小瓶をデスクに置いて、用件は済んだとばかりにそそくさと踵を返す。

 

「……それじゃ」

「ま、待ってくれ……っ」

 

 俺は部室から立ち去ろうとするドーベルを慌てて引き止める。

 

「昨日は、その……ごめん。ドーベルの夢を、頭ごなしに否定するような真似をしてしまって……」

 

 可能な限り言葉を選んで、背中を向ける彼女に声をかけた。

 

「……別に」

 

 扉に手をかけるドーベルがこちらを振り向くことは無かったが、耳の動きから察するに、俺の言葉は彼女に届いていることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「………………………昨日は……ごめん」

 

 

 

 

 

 

 

 退室間際、ドーベルは消え入りそうな声音の呟きを残して、俺が反応を示す前に部室から去ってしまった。

 

 昨日の出来事に対して、ドーベルも思い悩んでしまうところがあったようだ。

 

 相変わらず山積みの問題を抱えているわけだけれど……それは何も、担当トレーナーの俺だけでは無い。

 

 今後俺には、担当ウマ娘一人ひとりにしっかりと向き合う必要がある。

 

 それと同時に、トレーナーという職業に対して理解を深めることも重要であると痛感した俺は、改めて緩んでいた気持ちをぎゅっと引き締めるのであった。

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