俺の意識が夢の中にあると悟ったのは、既にこの世を去った女の子が隣で屈託のない笑顔を浮かべていたからだ。
「──あははっ、また私の勝ちぃ!」
泥まみれのジャージに身を包んだミライが、指でブイサインを作って笑っている。
「……ミライ。さすがに大人気ないんじゃないか?」
そんなミライに対して、俺は肩をすくめながらため息混じりの声をかけた。
「えぇ〜、でもさ。本気でやらないとマックちゃんに失礼じゃない? 何より本人からの希望なんだし」
「それはまぁ、そうだけどさ……」
俺は隣に立つミライから視線を移し、彼女とは対照的に荒々しい呼吸を繰り返すウマ娘の少女に意識を向けた。
ターフに両膝を突いて必死に息を整えている様子からも分かると思うが、少女はつい先程まで俺の担当ウマ娘であるミライと
もっとも、少女の身体は本格化を迎えていないため、結果など一目瞭然であったが。
「大丈夫かい? マックイーン」
俺は必死になって呼吸を整える芦毛のウマ娘──メジロマックイーンに声をかけた。
「……っ、はぁ、はい…………お気に、なさらず」
日本のトゥインクル・シリーズで活躍するウマ娘を輩出する名門──メジロ家と繋がりを持ったのは、ミライがアメリカクラシック三冠を制覇した直後である。
アメリカニューヨーク州に所在するベルモンドパークレース場で開催されるGⅠ競走──ベルモントステークス。彼女達は『メジロ家定例旅行』という名目で、アメリカクラシック三冠の最終戦に臨むミライのレースを観戦しに現地まで訪れていた。
その際レース場内で迷子になっていたマックイーンと偶然出会い……とても大雑把に説明すると、紆余曲折を経て今に至る、というわけである。
彼女達は定例旅行で二週間ほどアメリカに滞在するらしく、マックイーンと出会ってから既に一週間が経過していた。彼女以外にも四名のウマ娘が訪れていたが、うち三名は本格化を迎えているため各サブトレーナーの元でトレーニングに参加し、残りの一名はミライの幼馴染達と戯れている。
そして、同じくチーム・アルデバランのサブトレーナーである俺の元で走りの特訓をしているのが、メジロマックイーンというウマ娘であった。
当時のマックイーンは十一歳と幼く、身体が本格化の恩恵を受けていないため高負荷なトレーニングを行うことが出来なかった。
なので俺は、比較的負荷のかからない特訓を彼女に施すことにした。具体的には、”走る”ことに対する土台を作ってあげることだ。
「マックイーン、君は飲み込みがとっても早いね。一週間前とはまるで別人だよ」
「……ですが。タイムは全く変化していないどころか、遅くなっています」
「大丈夫、焦る必要はないよ。新しいフォームの方が、君の身体に合ってる」
記録が伸びないマックイーン本人は不満そうに顔を顰めているが、俺は自信を持って彼女に言い切る。
マックイーンに新しく授けたフォームの恩恵は、今後彼女に訪れる本格化の身体的変化を想定してのもの。
「トレーナーの言う通りだよ! マックちゃん、とっても綺麗に走れるようになってる!」
「ほ、本当ですか……っ」
「うんっ! さっすが、私を担当するトレーナーだけなことはあるね!」
隣で得意になるミライは無視して、俺は汗を流すマックイーンに用意していたタオルを差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
少し遠慮がちにタオルを受け取って、額から滴る汗を拭き取るマックイーン。
俺は手ぶらになった勢いで、そのまま腕時計に視線を落とす。
現在時刻は十五時と、午後の特訓開始から二時間程度が経過していた。
「キリの良い時間だから、一度休憩を挟もうか」
トレーニングほど激しい運動でないとはいえ、長時間の特訓ともなれば身体に疲労が蓄積する。
集中力も途切れがちになるため、怪我を防止するという意味でもメリハリをつけることは重要だろう。
それに、ずっと身体を動かしていたからお腹も空いているはずだ。
「ねぇねぇトレーナー。私が昨日お願いした”あれ”、作ってくれた?」
「……作るの、結構大変なんだからな」
「”あれ”?」
俺とミライの会話についていけず、頭上にはてなを浮かべるマックイーン。
「ミライに頼まれて、間食用のスイーツを作ったんだ」
「す、スイーツ……っ」
瞳の奥を密かに光らせるマックイーンと、待ってましたと言わんばかりに頷くミライを連れて、俺達は食堂へ足を運んだ。
施設内へは入らず、トレーニング用のターフを一望できるテラス席に腰掛ける。
「マックイーンの口に合うかは分からないけれど……」
俺はバッグからスイーツが入った容器を取り出して、取り皿を人数分用意した。
「アップルパイを焼いたんだ。良かったら、食べてみて欲しい」
ミライにお願いされて作ったスイーツは、彼女の大好物であるアップルパイ。砂糖で煮たゴロゴロの林檎をカスタードとパイ生地で包んだ、オーソドックスなものである。
俺は取り皿にアップルパイを切り分けて、席につく二人に差し出した。
「待ってましたぁ!」
「い、頂きます……」
食欲の赴くままに食らいつくミライとは対照的に、マックイーンは上品な所作でアップルパイを口に運ぶ。
間食用のおやつに選択したアップルパイだが、ミライの好物であるという以外にもちゃんとした意図が含まれている。
「良いかい? アップルパイにはとても多くの栄養が含まれているんだ。激しい運動で消費したカロリーを補うだけでなく、疲労回復や免疫力の向上、身体の健康維持やストレスの緩和。身体が何よりの資本である君達ウマ娘にとって、文句の付け所がない食べ物なんだ!」
「むぐ、んむぐ……んんっ。さっふがトレーナー、今日もすっごく美味ひいよ!」
「……」
俺のありがたい知識の共有をまるで無視するようにスイーツを貪るミライを見て、自然とため息がこぼれた。
少しは話を聞いてくれよと内心で小言を吐き出すが、美味しそうにアップルパイを頬張るミライを前にすると、何故だか不思議と微笑みに変わってしまう。
自分が作ったものを美味しいと言って食べてくれるのは、やっぱり嬉しいものだ。
さて、このアップルパイはミライの好みに寄せて焼いたものだが、果たして令嬢たるマックイーンの舌に合うだろうか。
俺はミライから視線を移し、彼女の隣に腰掛けるマックイーンに意識を向けた。
「……」
するとマックイーンは何故か、恥ずかしそうに俺から視線を逸らしてしまう。
彼女の目の前には、ミライよりも先に綺麗になっている取り皿がぽつん。
その口元には、アップルパイの食べかすが少しだけ付いていて。
「………………あの」
ぷるぷると羞恥心に悶えるような様子で時折こちらに眼差しを向けながら、マックイーンは遠慮がちに口を開いた。
「お、おかわりって……ありますか?」
どうやら、マックイーンも俺の作ったスイーツを気に入ってくれたようだ。
「ああ、もちろん」
「私も私もっ!」
「はいはい」
三人で仲良くスイーツを食べながら、俺達は普段と変わらない賑やかな一日を過ごす。
この穏やかな夢が少しでも長く続くことを願いながら、俺は過去の記憶に思いを馳せた。
***
今まで一体、どんな夢を見ていたのだろうか。ふと目が覚めると、そんな疑問が頭に浮かび上がってくる。
意識がとても曖昧で、ぼんやりとした感覚の中。俺は直前まで見ていた景色を思い出そうとした。
「……ん、んんぅ…………」
波乱の業務復帰となった初日から約一週間が経過し、少しずつ身体が仕事の感覚を取り戻しつつある頃。
担当ウマ娘との距離感に四苦八苦しながらも、俺は極限まで気を遣うことで何とかトレーニングを成立させ、今日は一週間ぶりのオフである。
担当ウマ娘を増やしたことで身に染みたが、身体にかかる負担は当初の想像をはるかに超えるものであった。
感覚的には、乗算というよりも累乗に近いだろうか。
指数関数的に膨れ上がる疲労を誤魔化して業務に打ち込むも、今のように身体が限界を感じてしまい、業務中に居眠りをしてしまうこともしばしば。
長期入院中にお世話になった主治医から体調管理を徹底しろ、と釘を刺されていたが……気が付いたら業務に没頭してしまい、自分のことを後回しにしてしまっている。
夢を追いかける担当ウマ娘の支えになりたくて、理想と現実のギャップに苦しむ担当ウマ娘の力になりたくて。
教え子達のためになるのなら、ついつい自分のことなど二の次に。
過去に壮絶な挫折を経験して、一度は嫌気が差したにも関わらず真剣に取り組んでしまうあたり、どうしようもないなと苦笑を浮かべてしまう俺であった。
デスクに突っ伏した身体を上げて、業務の続きに取り掛かろうとした時。
「……?」
俺の肩の辺りから、温もりのある何かがするりと滑り落ちた。
地面に広がったものを手にとって、俺はそれが何かを確認する。
「……ブランケット? 一体、誰が……」
俺の肩にかけられていたのは、部室に備え付けてあったブランケットであった。
今日のトレーニングはオフにしており、ミーティングも予定していない。部室には俺一人のはずだが、一体誰が俺にブランケットをかけてくれたのだろう。
「──お目覚めですか?」
寝ぼけ眼を擦りながら室内を見渡すと、その正体はすぐに分かった。
彼女はいくつかある椅子の一つに背筋を伸ばして腰掛け、上品な所作で読書に耽っていた。
俺が目を覚ましたことを確認すると、彼女は手にしていた本をパタリと閉じてこちらに微笑みを向ける。
「……マックイーン?」
既に朧げになっている先程の夢に出てきた少女と、椅子に座る担当ウマ娘の面影が重なる。
メジロマックイーン。
将来トレーナーになることを志し、サポーターとしてチームを支えてくれている立派なウマ娘。
「暖房が付いているとはいえ、何かを羽織らなければ風邪を引いてしまいますよ」
どうやらこのブランケットは、マックイーンがかけてくれたものであったようだ。
「ありがとう、マックイーン」
「少々、根を詰めすぎではありませんか? 頑張ることは素晴らしいですが、身体を壊してしまっては元も子もありません」
「返す言葉がないよ」
ブランケットを畳みながら、俺を咎めるマックイーンに言葉を返す。
チラリと横目で時計を確認すると、時刻は既に二十時を回っていた。俺は一体、何時間居眠りを続けていたのだろうか。
「マックイーン。わざわざオフの日に部室に来るってことは、何か用事があったんじゃないか? もしかして……けっこう待ってた?」
「いえ、昨日部室に忘れ物をしてしまったので。それを取りに来ただけです」
「じゃあどうして、こんな時間まで?」
「トレーナーさんがあまりにも無防備でしたので、私が見守っていて差し上げようかと」
くすりと微笑むマックイーンを前にして、俺は無性に恥ずかしくなって視線を逸らした。
「トレーナーの業務が多忙であることは重々承知ですが、しっかりと休息を挟んでいますか? 食事や睡眠は十分に摂れていますか?」
「……う」
「その様子を見る限りでは、聞くまでもありませんわね」
「じ、自炊もしてるし、ちゃんとベッドの上で寝てる。何も問題はない」
「言い訳は結構です」
ちょっと圧が強いマックイーンに気圧され、俺は肩身の狭い思いを感じてしまう。
「休職されていた期間の埋め合わせをしようと、必死に努力されているのは理解できます。サトノさんが出走するきさらぎ賞まで三週間を切り、気性難のドーベルを担当してくださっているわけですから、大変であることも重々承知です」
ため息をこぼしながら、マックイーンは俺が居眠りをしていたデスクの前までやってくる。
「……ですが、それとこれとは話が別です」
「……おっしゃる通りで」
これ以上仕事を続ければ、俺はマックイーンにキツく叱られてしまうかもしれない。
端正な容姿から繰り出される鬼の形相を前に業務を継続出来るほど、俺の肝は据わっていなかった。
「どうしても休息が取れないというのでしたら……トレーナーさんを特別に、メジロ家の別荘へご招待しましょう」
「べ、別荘……?」
「本土から離れた無人島を開拓した、豊かな自然が溢れる素敵な別荘です。疲弊した心身を休ませるには、うってつけのスポットです。いかがですか?」
その提案はつまり、島流しということだろうか?
「い、いや……遠慮しておこうかな」
「……そうですか」
マックイーンの提案を断ったことで、少ししょんぼりしたように彼女の耳が前に垂れた。
「こ、コーヒーでも淹れて一息つくことにするよ」
「ではその間、私がトレーナーさんの話し相手になって差し上げます」
「そこまで気を遣ってくれなくても良いんだけど……」
「これは監視です。チームのサポーターを務めるウマ娘として、当然の義務です」
この様子だと、何を言ってもマックイーンは引いてくれなさそうだ。
「……それじゃあ、お願いしようかな」
「ええ♪」
俺が渋々了承したら、マックイーンは鬼の形相を崩して普段の柔和な笑みを戻した。
半年前に購入したコーヒーメーカーを操作しながら、マックイーンに声をかける。
「マックイーンも飲むかい?」
「せっかくなので、お願いしますわ」
二人分のコーヒーを沸かす間、俺はマックイーンの対面に腰掛けてしばらく待つ。
「こうしてトレーナーさんと二人きりでお話をする機会は、ずいぶんと久しぶりですわね」
「言われてみれば、確かに」
過去にアメリカでマックイーンの面倒を見た時も、彼女達の移籍を承諾して一週間前に対面を果たした時も周りには必ず他の誰かがいて、二人きりという空間になったことはほとんど無かったと記憶している。
「私、トレーナーさんにずっとお聞きしたいことがあったんです」
「ん?」
「何故、私達の移籍を認めて下さったのでしょうか?」
マックイーンは多分、俺が一度彼女達の移籍を断ったにも関わらず手のひらを返したことに対して疑問に思っているのだろう。
「これはダイヤにも話していないことなんだけど……」
チームメンバーと良好な関係を築くためには、時に胸の内を打ち明けることも必要かもしれない。
「実は俺、彼女のメイクデビューを見届けてトレーナーを辞めようと考えていたんだ」
「……」
当時、心に重大な欠陥を抱えた状態で指導に当たっていた俺は、些細なことが引き金となって激しく取り乱してしまったことがあった。
自分を制御することが出来なければ、担当ウマ娘に多大な迷惑をかけてしまうことは火を見るよりも明らかだ。
理事長の厚意で療養に最適な病院を紹介してくれたが……実を言うと、それだけでは業務復帰に踏み切る判断には至らなかった。
「マックイーンがトレセン学園に復学する以前にさ、絶対にやってはいけない問題を起こしたんだ。なんて言うか……人として欠陥まみれなんだよ、俺って」
現状、半年間に及ぶ闘病生活の末に健康に近い
「俺一人で教え子と向き合うのが、正直怖かった。また、周りを傷つけてしまうんじゃないかって」
担当ウマ娘のダイヤだけじゃない。彼女の親友であるあの子にも、深い傷を負わせてしまった。
「だから、チームのサポーターとして移籍を希望してくれたマックイーンの手を借りようと思ったんだ」
「……私の?」
「俺が問題を起こさないように……万が一の事態に発展した場合、俺のことを律してもらおうと思って」
マックイーンは非常に責任感が強く、秩序に準する性格の持ち主だ。
名門メジロ家を代表する令嬢として優れた教養があり、若齢にして淑女的な物腰と気品が備わっている非の打ち所がない人格者。
俺が業務復帰に踏み切ることが出来たのは、マックイーンによるところが非常に大きかった。
「…………そう、ですか」
「たっ、ただこれは俺が勝手に思ってるだけだから、マックイーンは何も気負わなくて良い」
俺の内心を明かしたことで、だんだんと言葉尻が萎んでしまうマックイーン。
いくら良好な関係を築くためとはいえ、もう少し話題は選ぶべきだったかもしれない。
「マックイーンはトレーナーを目指すためにチームへ移籍してくれたんだから、俺は当然、君の夢にも真剣に向き合う。分からないことや困ったことがあったら、何でも相談してほしい」
「……ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、何かあれば相談させていただきますわ」
「ああ!」
少し会話を続けている間に、コーヒーメーカーの動作が停止していることに気がついた。
俺は席を立って二人分のコーヒーをマグに注ぎ、マックイーンに差し出す。
「ありがとうございます」
「砂糖やミルクはいるかい?」
「頂きます」
それぞれ好みの味付けになるまで調整を続け、俺達は揃って一息付いた。
「……結構苦いですわね」
「それが良いんじゃないか」
「そうおっしゃる割には、砂糖を多く入れていたように感じますが?」
「こういうのは雰囲気が大事なんだ」
言って、俺に怪訝な眼差しを向けてくるマックイーン。俺は特に気にせずコーヒーを啜った。
先程の話題は既に一区切りついたため、今度は別の内容を考えてマックイーンに話を振る。
「俺が業務に復帰するまでの半年間、チームを任せる形になってしまったけれど。マックイーン、君は本当に優秀なウマ娘だよ」
「とっ、唐突に私を褒めるのはやめて下さいまし。びっくりしますでしょうが」
脈絡もなく突然俺に褒められたことで、マックイーンは分かりやすく動揺した。
耳が忙しなく動いて、マグを持つ手がぷるぷると震えている。
「誰かに物事を教えるのも上手だし、人に指示を出して器用に動くことも出来る。おまけに勤勉で、レース経験も豊富。非の打ち所がまるでない。君は必ず、立派なトレーナーになれるよ」
「あ、ありがとうございます……」
「実際にダイヤを指導する場面を見たけれど、指摘する部分が無いほど完璧だった。わざわざ俺の元へ移籍する理由が見当たらない位だよ」
先日。半年ぶりにダイヤの走りを指導したが、彼女は俺が休職していた期間で目覚しい成長を遂げていた。
最初の二ヶ月間で身体に叩き込んだフォームを崩すことなく基礎を上達させ、スタート技術や戦略面における成長も著しい。
「あ……そういえばダイヤ、知らないうちに受け身の技術も上達していたな。もしかして、これもマックイーンが?」
「受け身の取得に関しては、学園のカリキュラムに組み込まれています。ですが一応、サトノさんにはメジロ家直伝の受け身を授けました」
時速六十キロ以上でターフを駆けるスポーツである以上、転倒のリスクはどうしても切り離すことはできない。転倒は選手生命に直結するため発生しないに越したことは無いが、残念ながらその可能性を捨て切ることは不可能だ。
なので、万が一転倒が発生しても身を守れるように、受け身などの教育は徹底されている。レース史上最悪の故障事故である”星の消失”も、ウマ娘の転倒が原因であった。
「最高速度で転倒した場合、受け身を取ることは非常に困難を極めます。ですが……ウマ娘の卓越した身体能力を最大限に発揮すれば、決して不可能ではありません。サトノさんには、故障することなく現役生活を過ごして欲しい。そう思うと、自然とこちらの指導にも身が入りました」
「……君はすごいな、マックイーン」
というのもつい最近、トレーニングで疲れ果てたダイヤが、道具を片付けている最中にぬかるんだ芝に足を取られて転倒してしまうということがあった。
転倒……というよりはただ単に”こけた”と表現する方が適切なのかもしれないが、ダイヤは洗練された身のこなしを駆使して怪我を免れた。
ウマ娘には走行時のバランスを維持する尻尾や、平衡感覚をつかさどる非常に優れた耳が備わっている。
普段のトレーニングによって身体が鍛えられているウマ娘であれば。
転倒の原因が骨折といった
「やっぱり、君にチームを託して正解だった」
「トレーナーさんの期待に応えることが出来たようでしたら、何よりですわ」
「ああ、十分すぎる位だよ。ありがとう、マックイーン」
「そんなに褒められると……少し、恥ずかしいです」
マックイーンは俺の予想をはるかに上回るほど立派なウマ娘だった。大人の俺よりも間違いなくしっかりしていて、彼女には頭が上がらなくなってしまう。
「こ、コホンッ……この話題は、ここまでにしましょう。ある程度時間も過ぎていることですし……実は最後に一つだけ、トレーナーさんにどうしても聞きたいこともあります」
「俺が答えられることだったら、なんでも」
「私の姉である、ドーベルのことで少々……」
マックイーンは実姉の名を口にしながら、申し訳なさそうな視線をこちらへ向けてくる。
「正直に答えて欲しいのですが……彼女の反抗的な態度は正直、手に負えない状態なのでは無いでしょうか?」
「…………」
彼女の言葉に、俺は返答を詰まらせてしまった。
もはやそれが、分かりやすい答えのようなものである。
「お二人の様子を側から確認した限りでは、あまり……上手くいっていないように感じます」
「…………まぁ、な」
実を言うと……マックイーンの指摘通り、対面から一週間が経過した今でも俺はドーベルとの適切な距離感をはかりかねていた。
担当ウマ娘一人ひとりと向き合う決意を固め、一旦はお互いに歩み寄れた気になっていた俺であったが、一朝一夕で心の距離を縮めることなんて到底出来ず。
そればかりかドーベルに寄り添うこと姿勢を意識するあまり……現状、余計にギクシャクとした関係が生まれつつあった。
ドーベルとは意見が割れることも多く、一方的な言い争いと化してしまうことが日常になってしまっていて。
「こんな俺でも、夢と現実のギャップに苦しむドーベルの力になりたいって本気で思っているんだ。けど……」
担当ウマ娘を想う気持ちとは裏腹に、トレーニングの度に食い違いが続いてしまい、関係性は依然として平行線のまま。
彼女が目標に掲げる天皇賞(春)の制覇を後押ししてやれば、きっと関係性は改善されるかもしれない。
しかし、彼女の競走生活を預かる担当トレーナーとしては、適性が絶望的な状態で背中を押すことなんて絶対に出来なくて。それは、無責任にも程がある。
「……あれ程までに反抗的な態度が続いていても、トレーナーさんは何故、匙を投げないのですか?」
「なぜか……そうだな、特に理由はないけれど。俺はもしかしたら、ドーベルに昔の教え子を重ねているのかもしれない」
「教え子……それは、ミライさんのことを指しているのでしょうか」
「これは当時のチームメンバー以外には知られていないんだけど……デビュー前のミライは、落ちこぼれだったんだ」
正確には違う。俺が担当ウマ娘のミライを落ちこぼれに育てていただけである。
「……意外です。あのミライさんが、落ちこぼれだったなんて」
けれど、それが原因でミライは自身の掲げる夢と現実のギャップに苦しみ、癇癪を起こす事態へと発展してしまった。
「だから、どうしても放っておけなくてさ……どれだけキツい言葉をかけられたとしても、俺は絶対に匙を投げたりはしないよ」
ドーベルが俺を見限った場合は別だが、俺自身が彼女達の移籍を承諾した以上、最後まで担当トレーナーであり続ける所存だ。
こうして耳触りの良い言葉を並べているが……汚い話、俺は多分ドーベルにミライの面影を重ねて罪滅ぼしをしようとしているだけなのかもしれない。
実のところ、本心は自分でも分かりかねていた。
俺は本当にドーベルのことを想っているのか。
ドーベルにミライの面影を重ねることで、俺の心に残った未練を晴らそうとしているのか。
分からない。
答えの出ない葛藤がドーベルと対面する度に俺の思考に渦巻いて、彼女に歯切れの悪い言葉ばかりを掛けてしまう。
それ故に、俺はいつまで経っても彼女との距離感を縮められないのかもしれない。
「……すみません。話の最後だと言うのに、雰囲気を暗くしてしまいました」
「そんなこと気にしなくて良い。時間もかなり経ったことだし、今日はここまでにしよう」
時計を確認するとその長針が二十一時を指し示しており、実に一時間近く雑談に耽っていたことになる。
寮の門限まではまだ時間はあるが、季節が冬ということもあって夜道は非常に暗い。
「あ、あの、トレーナーさん」
デスクに置いていた荷物をまとめて部室の戸締りを確認していると、少しそわそわとした様子でマックイーンが俺に声をかけてきた。
「えっと、その…………」
彼女にしては珍しく歯切れが悪い。
俺は疑問を抱いて首を傾げも、大人しく彼女の口から出てくる次の言葉を待った。
「……今日は、ありがとうございました。私のわがままに、付き合わせてしまって」
「わがまま……?」
「いくら強引に休息を取るよう言いましたが、私と二人きりで話していては気が休まらなかったのではないですか?」
……なんだ、マックイーンはそんなことを気にしていたのか。
「そんなことないよ。マックイーンとじっくり話すことって今まであまり無かったから、とても楽しかった」
「そう、ですか…………それなら、良かったです」
俺の返事を受けて、微笑むマックイーン。
「辺りも暗いし、寮まで送っていくよ」
「ありがとうございます。お気持ちだけ、受け取っておきますわ」
「……そうか、分かった」
少し勇気を出して提案したが……彼女はウマ娘なんだから、そういう類の心配は確かに不要か。
「じゃあ、マックイーン。また明日」
「ええ、また」
最後に短く別れの挨拶をして、俺は部室の電気を静かに消した。
***
完全に日が沈み切った夜道を一人で歩く。
普段はスーツの上から厚手のコートを羽織る俺だが、今日に限ってはそれを畳んで右腕にかけている。
真冬の夜は身体の芯まで冷え切ってしまいそうな寒さが特徴的だが、今夜は普段よりも幾許か暖かいと感じていた。
トレセン学園からトレーナー寮までは、徒歩数分といった程度の距離だ。特に肌寒いとは感じないため、コートを羽織る必要は無いだろう。
学園の校門を出てからしばらくして、俺は突然ふと、自身に襲いかかる違和感に気が付いた。
「……何だろう」
真冬の夜にしては少し……
俺はネクタイを緩めて、少しだけ身体を夜風に晒す。冷たくて、涼しくて、とても気持ち良い。
その感覚が、俺に襲いかかった違和感に拍車をかける。
違和感の正体は分からないけれど、ひとまず寮へ戻ろう。連日の勤務で、少し疲労が蓄積しているのかもしれない。
そう結論づけて、俺は足速に帰路へ着くが……。
「あ、れ……変だな」
一歩を踏み出す足が当然、覚束なくなってしまった。何だが視界もぐわんぐわんと揺れるし、頭もズキズキと痛い。
俺は今、猛烈なめまいに襲われている。
そう自覚した瞬間、俺は以前入院していた病院で、退院の際に主治医から説明されたことを思い出した。
──ああ、そういえば。処方された薬に、副作用があるって言ってたっけ。
そんなに重くはないと言っていたからあまり気に留めていなかったけれど、ここ数日生活リズムを崩し気味だったし、今日も業務中に居眠りをしてしまっていた。
後悔が込み上げてくる最中にもめまいは次第に大きくなっていって、俺はついに立っていることすら覚束なくなってしまった。
──ぁ、これ、ヤバい……。
遠ざかる意識を必死に手繰り寄せようとするも、その意思とは裏腹にどんどん身体の自由が効かなくなっていく。
早く、寮に戻らなければ。
この季節、この時間帯に道端で倒れてしまうのは、非常に危険だ。
一歩、二歩と踏み出すが、果たして俺は前に進めているのか。
それすらも、分からなくなってしまう。
全身に駆け巡る脱力感への抵抗も虚しく、俺の視界はとうとう暗転し、かろうじて繋ぎ止めていた意識の糸が段々とほつれていく。
それはもしかしたら、次の瞬間にやってくるであろう衝撃から身を守るためだったのかもしれない。
制御出来なくなった身体が重力に従って、ゆっくりと倒れていく。
「──、……っ! …………さ……んっ!」
俺の意識が完全に途絶える寸前。
ぼんやりと霞んだ視界に血相を変えて飛び込んできた君は……一体、誰だったのだろうか。