窓から差し込む青白い光を受けて、俺は意識を失ってからさほど時間が経過していないことを知った。
妙に重たい瞼を開けるのが億劫に感じながらも、俺は周囲の暗さに目が慣れるまでぼんやりと天井を眺める。
辺りに充満する消毒液の独特な匂いで、ここがトレセン学園の保健室であることが分かった。
あの後、帰路の途中で激しいめまいに襲われた俺のことを誰かが助けてくれたのだろう。親切にもベッドで横たわる俺の身体に、毛布と布団を重ねがけしてくれていた。
だがしかし周囲に人の気配は無く、空間を隔離する黄緑色のカーテンに映る人影は一つだけ。当然、俺のものだ。
目覚めてからしばらくしたことで、だいぶ夜目がきくようになってきた。
俺は横たわっていた状態から背中を起こし、あたらめて周りの様子を確認する。
これといって視界に留まるものは無かったが、俺から見てベッドの左縁に、背もたれのない丸椅子が一脚置かれていた。
おそらく、意識を失った俺を保健室まで運んで来てくれた人が先程まで座っていたのだろう。その座板に触れると、微かな温もりを感じ取ることが出来た。
ポケットにしまっていたスマホで時間を確認すると、現在時刻は二十二時。部室を出たのが二十一時頃だったと記憶しているので、意識を失っていたのは一時間程度か。
これ以上学園に長居しては、明日の業務に支障をきたしてしまう。だけど俺は身体が妙に重いと感じてしまって、ベッドから起き上がることが憂鬱になってしまった。
気だるげな感覚に身を委ねるように、俺はその場でしばらくぼーっとしていた。
そこからさらに、数分ほどが経過した頃だろうか。
ベッドの四方を囲うように閉めていたカーテンが、唐突にしゅるしゅると音を立てて開かれる。
「…………あっ」
静寂に満ちた空間に響く、微かな驚きの声。
俺の耳がその呟きを確かに捉え、吸い寄せられるように視線が動く。
「…………え?」
カーテンの奥から現れた意外な人物に、俺は困惑を隠すことが出来ない。
窓から差し込む月光に照らされ、シルエットだった彼女の姿がはっきりと浮かび上がる。
「目を、覚まされたんですね……あぁ、よかった……」
心の底から安堵したかのような表情を浮かべる少女の容姿には、心当たりがある。
月光で艶を取り戻した濃い鹿毛のミディアムボブ。左右で結った二房の髪を揺らしながら、少女は思いやりに満ちたルビーの瞳を一身に向けてきた。
その姿を目にした俺の口から、無意識に彼女の名前が溢れる。
「…………キタサン、ブラック?」
担当ウマ娘の親友──キタサンブラックが、きょとんとする俺を瞳に映して柔和に微笑む。
「あ、あたしのこと……覚えていて、くれたんですね」
忘れるはずが無かった。
俺が君にしてしまったことを、一日たりとも忘れたことは無い。
「どうして、君が……?」
「
キタサンブラックの言葉を聞いて、俺は彼女に危ないところを助けてもらったのだと悟った。
「そう、か……ありがとう。俺のことを助けてくれて」
彼女がいなければ今頃、俺はどうなっていたか分からない。道端で倒れて力尽きる自分の姿なんて、考えたくもない。
この子に感じる負い目が、さらに大きくなってしまった。
「意識が戻って何よりです。本当に、ほんとうに良かった……っ」
彼女が涙ぐんでまで俺を心配してくれる理由は定かではないが、その柔らかい眼差しを向けられ続けると……何故だか彼女のことを直視できなくなってしまう。
キタサンブラックが、ベッドの縁に置かれた丸椅子に腰掛ける。
すると彼女は静寂を嫌ってか、俺に向かって積極的に話しかけてくれた。
「あ、あのっ、喉は渇いていませんか? 飲み物をその、少し……かっ、買い過ぎてしまって」
キタサンブラックの言葉を受けてから気付いたのだが……彼女は現在、
それは、自販機が壊れたんじゃないかと疑ってしまうほどの量だった。
「コーヒーがお好きだと、ダイヤちゃんから聞きました」
「……うん。でも、その量は……?」
「どれが良いかなって悩んじゃって、気付いたらその…………あ、あはは」
彼女が抱える飲み物は大半がコーヒーで、中にはお茶やスポーツドリンクなどといった物も含まれていた。
恥ずかしそうに視線を逸らすキタサンブラック。
キタサンブラックの厚意は非常にありがたいのだが、一回り歳の離れた学園の生徒から施しを受けるのは如何なものか。
だがしかし、彼女の健気な気遣いを無碍にするのも何だか気が引けてしまう。
「……ぁ、ご、ごめんなさい。あたしがこんなことしても、迷惑なだけでしたよね……」
そんな俺の心の葛藤は、返答を待つキタサンブラックに伝わってしまったようだった。
「迷惑だなんて、全然思ってない。ありがとう、俺のことを気遣ってくれて」
少し引け目を感じるが、キタサンブラックの指摘通り喉が渇いているのは確かだ。
しばらく脳裏で葛藤した結果、俺は彼女からの厚意をありがたく受け取ることに。
俺は彼女からホットコーヒーとスポーツドリンクを貰って、少し身体が熱かったので後者から先に頂くことにした。
「俺が言うのもアレかもしれないけど……寮の門限は、大丈夫なのか?」
「あ、あぁ〜…………はい、大丈夫です」
「……ごめん」
「大丈夫です、本当に気にしないで下さい。こう見えて、反省文は書き慣れているんです」
全然大丈夫じゃないだろう……。後日、寮長には俺の口から事情を説明しておこう。
俺と同様に、キタサンブラックも余ったコーヒー缶のタブを開けて一口含んだ。
「──ッ!?!?」
彼女は腕に抱えた飲み物の中から無作為に一つを手に取っていたので、それが微糖なのか無糖なのか判断がつかなかったのだろう。
俺の目の前で、キタサンブラックがコーヒー(無糖)の苦味に悶えている。
ウマ娘はヒトよりも五感が優れているため、彼女には少々刺激が強過ぎたのかも知れない。
「くぅっ、──ッ! ……ぅぅ〜っ!! に、苦いぃっ」
「…………大丈夫?」
今度はまた別の意味で、彼女のことが心配になってしまった。
「俺が貰ったのは微糖なんだけど……交換する?」
「……ぉ、おねがいします」
俺は目をしぱしぱさせるキタサンブラックに未開封だった微糖のコーヒー缶を渡して、反対に無糖のそれを受け取る。
口の中に蔓延る苦味を払拭するように微糖コーヒーを流し込む彼女を見て、無意識に俺の口元が綻んだ。
何故だか放っておけないような感情を抱きながらも、俺は手にした無糖コーヒーを一口啜る。
「…………」
しかし、俺は忘れていた。
「──ッ!?!?」
コーヒーには、砂糖をふんだんに入れなければ飲めないということを……。
「ぉっ、ぉおお──っ、……ッ!? ぐぅ”……ぅ”ぅ”う”」
頭の中が弾けるようなあまりの苦さに、俺はみっともなく悶えた。
その様子を、何だかよく分からない表情を浮かべたキタサンブラックにまじまじと見られてしまう。
「ゲホッ、げほ……っ! に、にが……っ」
それでも生徒の前でこれ以上情けない姿を晒すわけにはいかず、缶に残った量を頑張って冷まして胃袋に無理やり流し込んだ。
「はぁ、はぁ……ふぅ…………」
俺は身体に残った気力を全て振り絞って、コーヒーを飲み干すことに成功する。
その後……何だか全身がすごく重いと感じた俺は、脱力感に逆らわずベッドに横たわった。
「と、トレーナーさん……大丈夫ですか?」
「……大丈夫。変な心配かけさせて、ごめん」
俺がキタサンブラックにかけた謝罪の言葉を最後に、しばらく続いた会話が途切れる。
「……」
「……」
無言の静寂に身を預けると、動揺した思考が段々と冷静になっていくのが分かった。
普段よりもぼんやりとした意識の中で考えるのは当然、複雑な表情で俺を見つめるキタサンブラックのこと。
先日、金輪際彼女には近づかないとルドルフに誓った手前、別の意味でも気まずさが押し寄せてくる。
部屋の電気は付いていないが、窓から差し込む月光は存外明るく、お互いの浮かべる表情を暗闇で隠すことは出来ない。
「……半年ぶり、ですよね」
沈黙を破ってくれたのは、またしてもキタサンブラックからだった。
キタサンブラックの放った言葉通り。
彼女と最後に会ったのは、ダイヤがメイクデビューに出走した去年の六月末。
「少し、印象が昔にもど……かっ、変わりましたね」
「そうかな……そうかも」
半年間の闘病生活を挟んだので、確かに相手へ与える印象や雰囲気は変化したかもしれない。以前のように、他人に対して高圧的な態度を取っていなければ良いのだけれど。
「……」
「……」
そしてまたしても、気まずい沈黙。
会話の仲介役がいなくて、負い目を感じている一回り歳の離れた生徒とこんな時間に二人きり。
もしかしなくても、俺はヘタレだ。
俺にポンポンと気の利いた話題を振れる甲斐性があれば、きっと過去に問題なんて起こしていなかったと思う。
「…………トレーナーさん。つ、つかぬことをお聞きしたいんですけどっ」
「うん?」
今度は妙にそわそわとした様子で、キタサンブラックが俺に問うてきた。
「あの……あたし達、昔どこかでお会いしたことって…………ありませんか?」
「え?」
「………………ぁ、ああえっとっ……あれですっ! トレーナーさんの印象が、昔出会った人に似ていたので。つ、つい…………」
俺とキタサンブラックが、昔に……?
「それって、何年くらい前?」
俺は再びベッドから背中を起こして、キタサンブラックに言及する。
「えっと……三年から、五年くらい前だった…………はずです」
今から三年前というと……”星の消失”によって、世界的アイドルウマ娘が逝去した年だ。
そして五年前は……チーム・アルデバランに所属していたウマ娘が、アメリカクラシックで三冠を獲得した年。
キタサンブラックは担当ウマ娘のダイヤと同年代だから、逆算すると十歳前後か。
現在のキタサンブラックの面影と重なる少女の姿を想像して記憶に検索をかけるが……やはり先程から思考が熱っぽさに浮かされているせいか、明確に浮かび上がってくることは無かった。
過去の担当ウマ娘には幅広い年齢層のファンがいたため、もしかしたらその中の一人が彼女であった可能性がある。
「……ごめん」
「あたしこそすみません、突然こんなことを聞いてしまって」
どうか気にしないで下さいと柔和に微笑むキタサンブラックだったが……一体どうしてこんなことを聞いてきたのだろうかと、後ろ髪を引かれるような思いが俺の胸に残る。
俺はかつて、情に絆される優柔不断な自分を嫌うあまり、いつしか極端な程に割り切れた性格へと豹変していたことがある。その当時も結局、自身の
そこに至るまでの過程で、俺は何か大切なものを削ぎ落としてしまったのだろうか。
「…………」
「…………」
心なしか、再び訪れた沈黙は先程よりも格段に重いと感じてしまった。
二人きりの空間を淡く照らしてくれていた夜空の月が、天邪鬼な雲に覆われてしまったのだろう。
そこにいるはずの彼女の表情が、昏い陰に染まって見えなくなってしまった。
そして、再び夜空の月が光を取り戻したと同時に……。
「──あ、あのっ!」
キタサンブラックは腰掛けた椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がって。
「あ、あたし! 実は、あなたに……っ」
胸元でぎゅっと両手を握りしめ、強かな決意と覚悟を灯した瞳を揺らしながら、俺の双眸を一身に射抜く。
「ずっと……っ、お渡ししたかったものが──」
そして彼女が何か、決定的な言葉を口にしようとした瞬間。
「──兄さまッ!」
血相を変えて保健室に飛び込んできた少女の登場に、キタサンブラックの声は遮られてしまった。
空間を隔てていたカーテンが凄まじい速さで開かれ、息を切らした制服姿の担当ウマ娘──サトノダイヤモンドが姿を見せる。
「ダイヤ、どうして……?」
「キタちゃんから連絡を貰ったんです。兄さまが、倒れてしまったって」
「そうだったのか」
「あ、あたしと二人きりだとトレーナーさん、気まずいかなって思っちゃって…………ぁ、あはは」
頬を掻きながらはにかむキタサンブラック。
また余計な気遣いをさせてしまったかなと、少し申し訳ない思いを感じた。
「すみません、寮を抜け出すのに時間がかかっちゃいました」
「え、抜け出してきたのか?」
「はい。同室の子に協力してもらって、何とか」
「それ、問題になるんじゃ……?」
「反省文で済めば、御の字です」
……ああ、まったく。君達は一体どうして、自身を顧みずに他人の心配をすることが出来るのか。
ある種呆れのような感覚を抱いているはずなのに、俺の心はどうしようもなく温かい気持ちで満たされていた。
「さてと……ダイヤちゃんが来たので、あたしはもう行きますね」
キタサンブラックは役目を終えたと言わんばかりに椅子から立ち上がって、ベッドの下に置いていたスクールバッグを肩に掛ける。
その中に急いで
最後にお礼の一言くらい……と思ったが、彼女は寮の門限を破ってまで俺のことを見守っていてくれた。
戻れるなら、なるべく早いに越したことはないだろう。
キタサンブラックには返しきれない恩が出来てしまった。
しかしそれを返すためと言って、今後彼女へ近づくことが許されるのだろうか。
「兄さま」
恩義と負い目の間で葛藤を続ける俺だったが……あまりに考え込みすぎたせいで、入れ替わりでやって来てくれたダイヤに意識を向けられていなかった。
少しむくれた様子のダイヤが、俺を真っ直ぐ見つめてくる。
「…………怒ってる?」
「怒ってはいません。私達のために一生懸命頑張って下さっているのですから」
「そうか」
「ですが、倒れるほど無理をするのはやめて下さい。本当に、やめて下さい」
そう言われて、俺は自分自身に対する情けなさを再三痛感した。
担当ウマ娘のために、空白の時間を埋めようと業務復帰早々根を詰めすぎた結果……。
「……本当に、ごめん」
俺はかえって、彼女達を心配させることになってしまった。
最近、何もかもが上手くいっていないように感じる。
やることなすこと全てが空回りで、一層自分の姿が惨めに見えた。
「少々、失礼しますね」
ダイヤは一度断りを入れると、彼女は自身の前髪をかき上げながら、俺の額に顔をぐっと寄せてきた。
俺とダイヤから距離という概念が消え去り、額同士がこつんと触れ合う。
「ん……兄さま、少し熱がありますか? 正確には、測ってみなければ分かりませんが」
「そういえば……さっきから身体は熱いし、頭もぼーっとする」
「ちょっと待ってて下さいね」
ダイヤは一度俺から離れ、近くに常備されていた体温計を手にして戻ってきた。
「これを使って下さい」
彼女から受け取った体温計を脇にさし、待つこと数分。
「……三十八度九分、か」
「結構ありますね」
残念なことに俺は、完全に発熱してしまっていることが発覚した。
「夕食は食べましたか?」
「……まだ」
「その様子ですと、シャワーも浴びていないですよね」
「……少し、ベタベタする」
全身から噴き出る脂汗のせいか、先程からシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。
「でしたら一度寮へ戻って、身体を綺麗にしましょう……失礼しますね」
「え──」
ダイヤからの質問に淡々と答える俺だったが、彼女は突然何を思ったのか。
「ん……しょっと」
ベッドに預けた俺の身体を軽々と持ち上げ、そのまま横抱きにしてしまった。
「兄さま、荷物は自分で持てますか?」
「い、いやっ、ちょっと……待って…………っ」
いわゆる”逆”お姫様抱っこの体勢に、俺は込み上げてくる羞恥心が抑えられなくなってしまう。
確かに、ウマ娘の
「ですが兄さま……寮まで歩けないですよね? 安心して下さい。こう見えても私、力持ちですから」
「そういう意味じゃ、なくって……っ」
必死になって訴えかける俺だが、ダイヤに対する抵抗は無力だった。
「暴れないでください。ふふっ、大丈夫ですよ。絶対に離したりしません」
「…………せめて、おんぶで」
ダイヤに運ばれることに関しては既に観念しているので、せめてこの恥辱を掻き立てるような姿勢だけは変えてくれないかと懇願する。
仕方ないですね……と、ダイヤは少し残念そうなため息をこぼして、俺の要求をのみ込んでくれた。
「私のこと、決して離してはダメですよ? しっかりと前に腕を回して抱き締めて……そう、そうです」
自分で歩くことが出来ないのだから、俺は結局ダイヤに頼るしかない。
大人しく彼女の囁きに従って、俺達は保健室を後にするのだった。