担当ウマ娘に背負われてトレーナー寮を目指す間、俺はひたすら誰にも見られないことを祈っていた。
深夜帯ということもあり、人の気配は全く無いと言っていい。
だがしかし、この羞恥心を掻き立てられるような姿勢のせいで、俺はしきりに周囲の視線を気にしてしまう。
俺の容体に気を遣ってか、ダイヤは普段よりも格段とゆっくり歩く。それがまた、俺の精神をげっそりとすり減らすのだ。
「こうしていると、昔を思い出しませんか?」
「……逆だ、逆。俺がダイヤをおんぶしていたんだ」
過去の記憶に想いを馳せて微笑むダイヤだったが、こちらとしては本当に気が気でなくて。
「もう少し……速く歩いてくれないか?」
「お気持ちは分かりますが、兄さまに怪我を負わせるわけにはいきません」
「……ちょっと、熱が上がってきたかも」
「……分かりました。しっかり掴まっていて下さいね」
俺は自身の体調を引き合いに出して、ダイヤに歩く速度を上げてもらう。思い出話で盛り上がるのは、また今度で良い。
照明設備が完備された歩道を進むこと数分。俺の視界の先に、待ち望んだトレーナー寮の建造物が映り込む。
俺の部屋は、五階建ての寮の中で最上階の突き当たりに位置している。
エレベーターを利用して通路を歩き、カバンの中から部屋の鍵を取り出して、ダイヤに扉を開けてもらう。
「……ありがとう、助かったよ」
ここまで辿り着ければ大丈夫だとダイヤに伝えたが、彼女はこのまま俺を看病すると言って聞かなかった。
「良い、のか……?」
「良いも何も、最初からそのつもりで来ていますので」
ダイヤの厚意を無碍にする理由は特になかったので、俺は素直に、彼女の厚意に甘えることにした。
「このままベッドまで連れて行きますね。まずは身体を拭いて綺麗にしましょう」
ベッドがある部屋まで身体を運んでもらい、縁の辺りで下ろしてもらう。
「脱いだスーツは預かりますね。着替えはどちらに置いてありますか?」
「そこの……奥のタンスの引き出し。上から三段目と、四段目」
ダイヤが忙しなく動いてくれている間に、俺は空調を付けて部屋の温度を上げる。
「兄さま、身体を拭く用のタオルを持ってきました」
ダイヤは俺の着替え一式を持ってきてくれるのと同時に、蒸したタオルを数枚準備してくれていた。
俺は汗で張り付いていたシャツを脱ぎ捨てて半裸になる。熱で頭が茹で上がっているせいで、既に羞恥心の類は麻痺していた。
「…………お背中、拭きますね」
キキィ……とベッドを微かに軋ませて、蒸しタオルを手にしたダイヤが俺の背後につく。そしてそのまま、優しい力加減で身体の汚れを拭き取ってくれた。
俺も前側を拭こうとタオルを取るが、もはや手を動かすのも億劫に感じてしまっている。
「ダイヤ……あとで、前も拭いてくれないか」
「……ぇっ、は、はいっ」
「ありがと……」
一通り背中を拭き終えたダイヤが、今度は俺の前に回る。
「し、失礼します」
複数枚用意していたタオルに取り替えて、ダイヤは先程よりもさらに丁寧な手つきで身体を拭いてくれた。
「……………………」
その間は完全に無言の状態が続いたが、今の俺に気恥ずかしさを感じる余裕なんてない。
目の前でもぞもぞと動く担当ウマ娘の姿をぼーっとした眼差しで見つめながら、俺は彼女に身を委ねた。
「お、終わりました」
「……ありがとう。下半身は、さすがに自分でやるよ」
これ以降の部分に関しては、ダイヤに任せるわけにはいかないだろう。ここからは体力と根気の勝負だ。
「わ、私、簡単に何か作りますね。台所をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「ああ。確か……食材は買い置きしていたものが、冷蔵庫に色々とあったはず」
「分かりました。……あ、脱いだ服を洗濯するので、また後で来ますね」
そう言い残して、ダイヤは寝室からそそくさと去っていった。
彼女が戻る前に、早く残った部位を拭いてしまおう。
着ていた服を全て脱ぎ、俺は体力を振り絞って懸命にタオルを動かす。なかなか思うように身体を動かせないもどかしさを感じながらも、何とかして全身を拭き終えることが出来た。
ダイヤが持ってきてくれた寝巻きを着て、俺はそのままベッドに身体を預ける。
ちょうどそのタイミングで、寝室の扉が三回ノックされた。
「失礼します……洗濯物、お預かりしますね」
俺が脱いだ衣服をダイヤに回収してもらって、彼女は再び扉の奥に消えていく。
それから、十五分程度が経過しただろうか。
「兄さま、お待たせしました。食べやすいかと思いまして、お粥を作ってみました」
お盆に手作りのお粥を乗せたダイヤが寝室に戻ってきた。
「お口に合うかどうかは、分からないですけど……」
恥ずかしそうに視線を逸らすダイヤが作ってくれたお粥は、梅とささみをメインにしてトッピングに小ネギを散らした美味しそうな一品であった。
「私、横に座りますね……んしょ」
どうやら、彼女がお粥を食べさせてくれるらしい。
手にしたスプーンで一口分をすくって、俺の舌がやけどしないように適度な温度まで冷ましてくれる。
「どうぞ、食べてみて下さい」
そのままダイヤに口元まで運んでもらって、パクリと含む。
ペースト状になった梅のさっぱり感と、柔らかいささみの食感が優しい味わいを生み出して、口の中に広がる。
本当にあっさりとしていて、身体が熱に浮かされた状態でも非常に食べやすかった。
「とっても美味しいよ」
「ほ、本当ですかっ」
「料理、上達したんだな」
「レパートリーは、まだあまり無いんですけど……」
「十分だよ」
少しずつダイヤにお粥を食べさせてもらいながら、量も適度で無理なく完食することが出来た。
最後に簡単に歯磨きを済ませて、寝るまでに必要だった工程は大方終了する。
「兄さま、今日はもうベッドに入ってお休みになって下さい。喉が渇いても良いように、飲み物をお持ちしますね」
ダイヤにベッドへ横たわる手伝いをしてもらい、そのまま身体に布団をかけてもらう。
「お茶とスポーツドリンクの二種類を用意しました。飲みたい時に声をかけて下さい」
「ありがとう……」
部屋の電気を常夜灯に切り替え、本当に後は眠るだけとなった。
俺がベッドに身体を寝かせている間、ダイヤはその隣に椅子を置いて待機していた。
「……さすがに、寝ても良いんだぞ?」
「兄さまが寝付かれるまでは傍にいます」
「……そうか」
明日も学園の授業があるのだから、ダイヤには俺に構わず早く寝て欲しい。しかし、彼女はとっても頑固なウマ娘だから、俺が寝るまで本当に起きているつもりだろう。
俺が早く寝付けば良いだけの話だが、残念ながら目を閉じていても眠気は全然やってこなくて……。
「眠れませんか?」
「……身体が重い」
「では、兄さまが安心して眠れるように私が手を握っていてあげましょう」
ダイヤは布団から飛び出している革手袋越しの左手を取って、優しく右手を重ねてきた。
「覚えていますか? 昔私が風邪をひいた時、仕事の都合で両親が不在で……兄さまが看病して下さったこと」
「そんなことも……あったっけ」
「ありましたよ。さっきのお粥も、兄さまが私に作ってくれたものなんですから」
本当に断片的な記憶だけれど、それらしい光景が頭に蘇ってくる。懐かしい思い出だ。
ダイヤの実家は超が付く程の豪邸だ。看病なんて使用人の方に任せれば良いものを、彼女の両親は何故か、近所に住まう俺に押し付けてきて……。
俺の両親と仲が良かったとはいえ、どうしてこんなことをする必要があるのかと疑問に思っていたこともあった。
でも、こうしてダイヤが甲斐甲斐しく看病してくれているのはきっと、昔の記憶が残っているおかげなのかなと思う。
「熱が下がらないようであれば明日、病院へ行きましょう」
「病院は……行きたくない」
「もぅ、子供みたいなわがままを言ってはダメです」
ダイヤが俺を心配してくれる気持ちは十分伝わっているけれど……実を言うと、これは俺のプライドの問題であった。
「業務復帰早々に風邪で寝込んじまったとか……これじゃあ、主治医に合わせる顔が無いよ」
「え?」
「…………本当はさ、反対されていたんだ。トレーナーに復帰するの」
俺が眠れるまでダイヤは起きているそうなので……せっかくならその間、雑談に付き合ってもらおうかな。
「トラウマを、自分から掘り返すようなものだ……なんて言われてさ」
主治医の発言は最もで、俺の
絶対に戻ってはいけない。また君は、心を壊してしまうかもしれない。
そうなったら、今度こそ手遅れになってしまう……と。
「お互いの意志がぶつかって、激しい口論に発展したこともあった。それでも結局は、業務復帰に対する執着心が"生きる"ことへの意欲を高めると判断されて……向こうが折れてくれた」
俺が奇跡的な速度で病を克服することが出来たのも、この生に対する執着心が良い方向に働いていたと主治医は口にしていた。
「無理を押し通して、わがままを言って散々迷惑かけて、いざ戻ってきたら仕事が忙しくて発熱しましたとか…………さすがに、恥ずかしすぎる」
半年間の空白を埋めようと休憩時間を削り、担当ウマ娘達のためにと食事時間を削り、体調を顧みず睡眠時間を割き続けた。
こうして発熱してしまったのはきっと、薬の副作用なんかが原因じゃない。
慣れないことの連続に、無茶を強要し続けた俺の身体が限界を迎えただけなのだ。
「……風邪なんて、明日になれば治ってるはずだ」
「その根拠のない自信は、一体どこから来るのですか?」
「……辛辣だな。『病は気から』を、身を持って体現した人間の言葉なのに」
「でしたら、私を心配させないで下さい。早く元気になって、私を心の底から安心させて下さい。でなければ、レースにも影響が出てしまうかもしれません」
「なに……それは、いけないな」
三週間後に控えるきさらぎ賞は、ダイヤにとって初となる重賞レースだ。余計な不安が原因で敗北を喫することなど、絶対にあってはならない。
「……もう寝るよ。話に付き合ってくれありがとう」
「はい。お休みなさい、兄さま」
「一緒に頑張って、ダイヤの夢……叶えような…………絶対に」
早く寝付かなければ、俺もダイヤも揃って明日の活動に支障をきたしてしまう。
目を瞑ってしばらくじっとしていると、気付けば俺の意識は穏やかな微睡の中へと落ちていった。
…………。
……。
***
規則正しい寝息の音が、静謐な空間に微かに響く。
差し出した手を握り返す力が弱まったことで、私は彼が眠りについたことを悟った。
「……兄さま」
彼のあどけない寝顔を見るのは、これで三度目。高熱を出してしまったことから、以前と比較しても表情はいくらか険しい。
「ありがとうございます。私のことを、迎えに来て下さって」
体調を崩して熱に浮かされていながらも、兄さまは私達担当ウマ娘のことを一番に考えてくれている。
そこに彼の本質のようなものを感じ取る私だったが、同時に隠しきれない苛立ちが込み上げて来る。
自身の身体をぞんざいに扱ってまで業務に打ち込む彼の姿勢に対して。
体調不良をひた隠しにして、私達担当ウマ娘と接していたことに対して。
そして何より……彼の異変に気付いてあげられなかった自分自身の不甲斐なさに対して。
私達のことを思ってくれているのは涙が出るほど嬉しい。でも、兄さまにはもっと自分を大切にしてほしい……なんて、私が軽々と口にしていい言葉じゃないけれど。
しばらく兄さまの寝顔を眺めたあと、私は握りしめていた手を離して彼を起こさないように立ち上がる。
スカートのポケットに入れたスマホを確認する。ちょうど、日付が変わった頃合いだ。
そういえばまだ、私は彼から預かった洗濯物を干していないことにふと気付く。洗濯機を回してから時間が経っているため、すでに動作が停止しているはずだ。
私は寝室を離れ、洗濯機が置いてある脱衣所へ移動する。
そして、近くにあった洗濯カゴに脱水を済ませた衣服を移し替えていく。
「…………」
その際、私は努めて無心を貫いていた。今、私が手にしている布地は何なのか。
それを認識してしまったら、何だか良くないことが起こってしまいそう。
全ての洗濯物を移し終えた私は、カゴを持ってベランダへ出る。
服が型崩れしないよう丁寧にハンガーにかけて、手際よく物干し竿に吊るしていった。
この季節に吹く夜風は非常に冷たく、少しベランダに出ただけで全身がかじかんでしまった。
暖房の効いた部屋に戻ってすかさず身体を温め、せっかくだからと、この勢いで洗い物まで済ませてしまう。
「部屋の掃除は……また、明日で良いよね」
やることを全て終えた私は、兄さまの部屋で手持ち無沙汰になってしまった。
寮に戻ることも考えたけれど、彼の体調が急変してしまう可能性もあるため選択肢から除外する。
明日に備えて私も寝ようかな。
でも、兄さまの部屋に上がった時から感じている彼の匂いが強すぎて、正直寝られそうにない。
……少しだけ、兄さまの部屋を物色してみようかな。
「……っ、だ、ダメだよ。そんなことしちゃ……」
先程から私の尻尾が忙しなく動いている。大きな耳は私の意思とは無関係に、彼の寝息を捉え続けていた。
私の胸に、悶々とした感情が込み上げてくる。それを誤魔化すためには、何か別のことをするしかない。
「……見るだけ、そうっ、見るだけなら…………っ」
そうだ。これは、偵察だ。
兄さまのプライベートな趣味嗜好を把握し、彼に対する理解を深めるのだ!
彼の睡眠を邪魔しないように、抜き足差し足忍び足の精神で歩き回った。
……それから大体、十分くらいが経過した頃だろうか。
「…………え、え?」
私は困惑が隠せないでいた。
彼の趣味に通じるようなものが、何一つ。
かろうじて発見できたのは、彼が普段から愛用している同機種のコーヒーメーカーだけ。
トレーナー業が過酷であることは十二分に理解しているつもりだったけれど……まさか、ここまでとは。
「…………あっ」
もはや祈るような思いで部屋を見渡していたが……ついに私は、空の本棚に立てかけられた一冊の本を見つけることが出来た。
その本を手にとって、表紙に目線を落とす。
「……アルバム、かな」
私の言葉尻が小さくなってしまったのは、これがアルバムであると確信が持てなかったから。
思い出を綴るにしてはあまりに質素で、ページ数もごくわずか。
私物をほとんど持たない兄さまが唯一寮へ持ち込んだ、たった数ページにも満たないアルバム。
「少しだけなら……見ても、良いよね」
もしかしたら。
私の知らない兄さまを、少しだけでも知ることが出来るかもしれない。
そう思ってしまったら最後、私は込み上げてくる好奇心を抑えきれなくなって。
ゆっくりと、それを開く。
「………………」
思い出を綴るにしてはあまりにも質素な作りで、一度ページを捲れば背表紙が見えてしまうほどに薄い一冊のアルバム。
だけどそこには間違いなく──彼の
***
発熱から一夜明け、俺は依然として気だるい身体を動かして、真っ先に自身の体温を測った。
残念ながら翌日になっても熱が下がることはなく、俺はしぶしぶ仕事を休むことに。
午前中に近所の内科を受診した結果、疲労の蓄積による免疫力の低下が原因であると診断された。
医師に処方箋を出してもらい、用意された薬を飲むと驚くほど身体が楽になったように感じる。
午後は栄養価の高い食事を摂り、仕事のことは考えずひたすら寝て過ごした。
さらに翌朝を迎えること頃には完全に熱も下がって、ついに俺は活力を取り戻すことが出来た。
規則正しい生活の重要性を再三痛感した俺は、退院の際に主治医から言われた言葉を思い出す。
栄養バランスの取れた食事と、適切な睡眠時間。そして、適度な運動。
そういえば最近は運動をしていないなと思い、俺は早速、適度な運動としてジョギングを日課に取り入れることにした。
午前五時に起床し、運動しやすいジャージに着替えてトレーナー寮を出る。
コースは寮からさほど遠くない河川敷周辺を選択した。
早朝ということもあってか人気は少なく、適度に温まった身体で冬の冷気を切り裂く気分は悪くなかった。
病み上がりということもあり、俺はかなりゆったりとしたペースを維持して走る。
そして、ジョギングを始めてから二十分程度が経った頃である。
少し身体が疲れてきたと感じたので、俺は近くにあった自販機で飲料水を購入し、併設されていたベンチで休憩を挟むことにした。
「……あ」
「え?」
しかし、そのベンチには
トレセン学園指定のジャージに身を包み、ペットボトルを手に一息つくウマ娘の少女が、俺の呟きを捉えてこちらを見上げる。
「き、奇遇ですね……っ」
俺の姿をはっきりと認識したのか、少女──キタサンブラックは慌てて取り繕ったかのような笑みを浮かべた。
「あっ、ここ座りますか? すみません気が利かなくて」
俺がここにきた意図を察した様子のキタサンブラックは、肩幅を限界まで小さくしてベンチの端にそそくさと寄った。
このタイミングで彼女に出会えたのは、今の俺にとって
俺はキタサンブラック同様ベンチの端に遠慮がちに腰掛けて、購入した飲料水に口をつける。
乾いた喉を潤してから、俺は黙り込んでしまった彼女に声をかけた。
「……キタサンブラックは、朝練?」
「え、は、はいっ。最近、早く目が覚めてしまうことが多くて……トレーナーさんは?」
「最近、運動不足だったから……ジョギングをやろうと思って」
「そ、そうなんですね……」
未だにキタサンブラックとの距離感をはかりかねている俺は、他愛ない話題から入ってひとまず場を和ませようと試みる。
「……」
しかし、これでは以前までと何も変わらないと感じた俺は、勇気を出して本題を切り出すことにした。
「キタサンブラック」
「は、はい」
「ありがとう」
「…………ふぇ?」
唐突にお礼の言葉をかけられて困惑した様子のキタサンブラックだったが、俺は構わず続ける。
「二日前のお礼が……まだ言えてなかったから。それを、伝えたくて」
担当ウマ娘のダイヤと違い、キタサンブラックに面と向かってお礼を言うのは少し気恥ずかしかった。
「い、いえいえそんな……っ。当然のことをしたまでですからっ!」
彼女にとっては当然なのかもしれないけれど、俺にとっては全然違う。
「体調の方は……もう大丈夫ですか?」
「おかげさまで。あの時は本当に助かったよ。キタサンブラックがいなかったら、俺は今頃どうなっていたか分からない」
「そう、ですか……。こんなあたしがトレーナーさんのお役に立てたのでしたら……とても、嬉しいです」
俺の言葉を受け取って、キタサンブラックは頬をかきながら恥ずかしそうに微笑む。
「朝練の邪魔になったら悪いから、俺はもう行くよ」
キタサンブラックに感謝を伝えた俺だが、決して彼女に対する負い目を忘れたわけではなかった。
キタサンブラックは心優しいウマ娘だから、彼女にこれ以上余計な負担や気遣いをかけさせたくない。
俺はベンチから腰を上げ、それじゃあと最後に一声かけてジョギングを再開する。
そして、俺がその一歩目を踏み出した時だった。
「──あ、あのっ!」
慌ててベンチから立ち上がったキタサンブラックに、背後から呼び止められた。
「うん?」
「トレーナーさんさえよろしければ、その…………
「……え?」
彼女から飛んできた提案があまりにも予想外すぎて、俺は頭上に疑問を浮かべてしまう。
反射的に聞き返してしまったが、果たして彼女にどういう意図があって、そんな言葉をかけてきたのだろうか。
「せっ、先日のように誰もいないところでトレーナーさんが倒れてしまったら……ダイヤちゃんが、心配しちゃうかもしれません」
「気持ちは嬉しいけど……俺とキタサンブラックじゃ、走る速度がまるで違う。トレーニングの時間を割いてまで、君に迷惑をかけるわけにはいかないよ」
人間におけるジョギングの平均速度は、分速百メートル前後である。それに対してウマ娘の場合は、人間と同様のジョギングでもその二倍近い速度が出る。
速度を極限まで抑えて走るという行為は、ウマ娘達にとって苦痛そのもの。
「…………………………そう、ですか」
俺はキタサンブラックにこれ以上迷惑をかけたくなくて、彼女の申し出を断った。
「…………」
でも俺はその時、再びベンチに腰掛けた彼女が俯いて、今にも泣き出してしまいそうなほど思い詰めた表情を浮かべていることに気付いてしまった。
……どうしてキタサンブラックは、こんなにも俺のことを気にかけてくれるのだろう。
胸元でペットボトルを握りしめるキタサンブラックを前に、俺は彼女のことが分からなくなってしまった。
「…………」
……いや、違う。
分からないんじゃない。
俺は、
俺はキタサンブラックのことを何も知らない。
だから今、彼女の手の甲にこぼれ落ちた
「……実は俺、病み上がりで運動したせいなのか、さっきから身体が妙にフラフラしてて」
俺はキタサンブラックに対して、償いきれないほどの負い目がある。そこに返しきれない恩が加わって、俺は一体、どんな気持ちで彼女と向き合えば良いのか分からなかった。
そもそも、彼女と向き合う権利があるのかすら判断できない状況だ。
「もしかしたら、俺……寮へ戻る前に、倒れてしまうかもしれなくて」
だからこんな……あまりにも分かりにくくて、トレーナーである以前に大人の男として情けなさの極みともいえるような言い回しになってしまったけれど。
「迷惑をかけちゃうかもしれないけど……もし君さえ良ければ、俺のことを──
俺は、呆けた表情でこちらを見上げるキタサンブラックのことを知りたいと思った。
「……………………ぇ、ぁ」
彼女の頬を静かに伝う涙の意味が、知りたくなった。
「は、はいっ、はい……! どうかあたしに、任せてくださいっ!!」
その日、俺は初めてウマ娘の少女と一緒に走った。
誰かと一緒に風を切る感覚はとても新鮮で、一人で走っていたときには感じることのない”楽しさ”を覚えた。
きっと、今の俺になら。
彼女が親友を自主トレーニングに誘った気持ちに、共感できるような気がした。