『メジロ家定例旅行』という名目でアメリカへ訪れていた彼女達が日本へ帰国する、二日前のこと。
「──私の夢、ですか?」
走りの特訓を終えてヘトヘトになったマックイーンに対し、俺はクールダウンの傍らで何気なくそう問うてみた。
「ああ。二週間近くマックイーン達の面倒を見てきて、少しだけ気になったんだ。君達の底なしの向上心は、一体どこから来てるのかなって」
チーム・アルデバランの元で特訓に打ち込んできたメジロ家の少女達はもれなく、素晴らしい向上心の塊であった。
辛い特訓の連続にも根を上げることなく食らいつき、全てを取り込もうとする貪欲な姿勢。若齢特有の柔軟な適応力と、素直で真面目な態度。
中でも本格化を今後に控えるメジロマックイーンは特にその傾向が強く、二週間という短い期間で彼女は目覚ましい成長を遂げていた。
「ふふふっ。そういうことでしたら、トレーナーさんには特別に教えて差し上げます」
俺の質問に対して幼いマックイーンは堂々と胸を張り、自信に満ちた様子で言い放つ。
「──天皇賞の制覇。それが私にとっての至高の夢であり、メジロ家に生まれた者が背負う使命なのです」
純粋な瞳で夢を語る彼女の表情は、生家に対する並々ならない誇りに満ちていた。
使命を背負う責任感もさることながら、その重圧ですら光栄だと言わんばかりの姿勢はあまりに眩しく、何より強かであった。
「天皇賞の制覇は、私が尊敬するおばあ様の悲願。その実現のためならば、私はいかなる努力も惜しみません」
天皇賞制覇に対する気概は十分で、何より彼女には野心を現実のものとする才能がある。
「そうか。それは、とっても良い夢だ」
日本で開催されるトゥインクル・シリーズは世界的にも有名で、大志を抱いた傑物達が鎬を削る至高の舞台だ。
デビュー前から”メジロ家の最高傑作”と期待されているマックイーンであれば、必ずや頭角を現し、いずれ世代の中心を担う存在へと成長することだろう。
「生家の悲願達成は、一筋縄ではいかないことでしょう。しかし私は、どのような困難に遭遇しても決して諦めません。不屈の心構えで障害を乗り越え、いつかこの手で春の盾を掴み取って見せますわ!」
キラキラと輝く瞳で夢を語るとき、少女達はもれなく最高の笑顔を浮かべている。
かつて、壮大な夢を語ったミライもそうであった。
ミライは普段から笑顔の絶えないウマ娘だが、夢を語る瞬間に見せるそれは本当に格別で、思わず見惚れてしまうほど。
「素晴らしい心意気だね。じゃあまずは、お菓子を我慢するところから始めてみようか」
「な……っ!?」
「育ち盛りだからたくさん食べるのは良いことだ。でもここ最近のマックイーンは少し、甘いものを食べ過ぎて体重が──」
「ふん”──ッ!」
そんな彼女の気概に応えようと早速助言をおくった俺だったが、顔を真っ赤に染めて憤慨したマックイーンに脛を蹴られてしまった。
「──ぉ”ッ”!?!?!?」
「その発言は少々ッ、うら若き乙女に対するデリカシーが欠落しているのではありませんことッ!?」
「だ、だってマックイーンが、どんな努力も惜しまないって……いてて」
「それとこれとは話が別ですわっ! っていうか私、自身の体重をお教えした記憶がないのですがッ!?」
あまりの痛みに芝の上をのたうち回りながら、俺は脛を押さえて情けなく悶える。
「……トレーナー。少しは乙女心の勉強もするべきじゃない?」
そのみっともない有り様を、道具の片付けで先程まで席を外していたミライに運悪く目撃されてしまった。
「そんなデリカシーの無さでさぁ、よくトレーナーが務まるよねぇ……」
「…………ぐうの音も出ないよ」
芝に倒れ伏す俺の前でしゃがんだミライが、俺の頬を弄ぶように人差し指でつつく。
「私、そういうの良くないと思うなぁ。ずけずけと心に入り込んでくるの。少しは私達の気持ちにもなってよね。まったく」
「……善処するよ」
ミライからありがたい説教を受け、今日の特訓は終わりを迎えた。
それからしばらくマックイーンが口を聞いてくれなくなって、俺は寂しい思いをしたことを覚えている。
彼女達が日本へ帰国するまでに仲直りは出来たけれど、デリカシーの部分に関しては要改善と口を酸っぱくして言われてしまった。
……。
…………。
もうじき夢から目が覚める。
夢は得てして有限だ。愛しい夢にずっと浸っていたいけれど、その続きを見ることは残念ながら非常に難しい。
夢が終わる瞬間は、いつだって
もう一度夢を見るためには、融通の利かない現実と向き合わなければならない。
そして辛い現実を乗り越え、再び愛しい夢に浸ることが出来たのだとしても……。
また同じ夢が見られるとは、限らない。
***
連日蓄積した疲労が原因で発熱してしまった日から約一週間。今日は俺が格段と億劫に感じていた、経過観察当日である。
一日の予定としては午前中に病院へ赴いて経過観察を行い、午後からは学園で明日以降のトレーニングメニューを調整することとなっていた。
重い足取りで半年ほど世話になった病院へ向かい、主治医と対面する。
主治医の笑顔を前にバツの悪さを感じてしまうのは、俺が彼の警告を無視して体調を崩したことに原因があるのだろう。
案の定、俺は主治医から厳重注意を受け、生活習慣の改善を要求されてしまった。
食事は栄養バランスを意識し毎日必ず三食、最低六時間以上の睡眠時間の確保、一日三十分程度の運動。
予想以上に主治医の圧の強さに驚いた俺は、椅子に座ってただ頷いていることしかできなかった。
最後に継続して服用している薬を処方してもらい、憂鬱だった経過観察は終了する。
病院を出た後、俺はタクシーを利用して府中市のトレセン学園まで戻ることにした。
病院からトレセン学園までは大体、車で一時間程度。今の時間だと、学園へ到着するのはお昼休みくらいか。
俺はタクシーに乗車して移動する間も無駄にはしない。
健康的な生活リズムを維持しつつ、綿密で効率的なトレーニングメニューを考案するためには時間の使い方をこれまで以上に工夫する必要がある。
現在考案しているのは、人生初の重賞レースまで二週間を切ったダイヤのトレーニングメニューである。
ダイヤに取り組ませているトレーニングの内容としては、基礎の応用と皐月賞に焦点を置いた戦略幅の向上。
長期間に及ぶ基礎的な技術の徹底によって、ダイヤはクセのない綺麗な走行フォームを習得した。
加えて継続した基礎トレーニングの成果も如実に現れ始めており、本格的にダイヤの身体に適した”彼女だけの走り”を追求する段階へ突入している。
それに伴い、現在俺はダイヤが得意としている既存の戦略を修正し、クラシック級GⅠ重賞の制覇を目標に新しい戦略を考案している最中だ。
新しい戦略とは言っても、取り組んでいることは脚質適性の向上である。
メイクデビュー、条件クラスとダイヤが出走してきたレースを振り返ると、彼女は過剰なまでのマークを終始強要されてきた。
メイクデビューでは前代未聞のスローペースが生み出した前残りの展開によって、絶望的な状況からの大逆転劇を強いられてしまった。
条件クラスでは彼女の末脚を完封する目的で練られた相手の戦略によって、危うく全力を出しきれずに敗北してしまう可能性があった。
以上のことを踏まえると、今後ダイヤに対するマークが一層激しくなることは明白。その状態でGⅠ重賞を制覇するのは、正直言って現実的じゃない。
そこで俺がダイヤに提案したのが、脚質の変更。
具体的には、バ群後方からレース終盤の末脚を活かす『差し』の脚質から、バ群の先頭集団に食らい付いて前方からレースを展開する『先行』の脚質への変更である。
レースは基本的に、逃げや先行の戦略を用いた方が優位に立ち回れる傾向にある。
前めにつければ相手ウマ娘からの不利を受けることが少なく、バ群に揉まれる心配もないため精神的にも余計な負担がかからない。
非常に安全で勝率の高い戦略であるが、同時に、随所で繊細な判断が要求される非常に難易度の高いものである。
ダイヤの一番の武器であったレース終盤の末脚を意図的に殺す戦略にはなるが……それ以上に、先行することによるリターンが大きくなると俺は感じていた。
現在のトレーニングの様子を見る限りでは、新戦略を習得するまでもうしばらく時間がかかるだろう。
二週間後のきさらぎ賞にはおそらく間に合わないため、世間へのお披露目は三ヶ月後の皐月賞になる。
相手の意表を突くという観点からも、脚質の変更は良い隠し玉になるかもしれない。
そして、もう一人の担当ウマ娘であるメジロドーベルに関してだが……俺が現在模索しているのは彼女に適したトレーニングメニューではなく、円滑なコミュニケーションを取る方法である。
天皇賞(春)の制覇を目標に掲げるドーベルを否定するわけではないが……やはり彼女を担当するトレーナーとしては、素直に背中を押してあげることが出来なかった。
目に見える才能を捨ててでも、俺は適性が絶望的に乏しい彼女の夢を応援してあげるべきなのか。仮にドーベルに夢を追わせたとして、俺はその責任を取れるのか。
何がともあれ。真っ先に取り組むべき課題は、俺とドーベルの間に漂うギクシャクとした雰囲気をかき消すことだろう。
初手のアプローチに失敗したことが原因で、現状彼女との心の距離は平行線だ。
そして残念なことに、俺はその距離を埋める手段がまるで思い浮かばなくて手詰まりな状況に陥っている。
何でもいい。何でもいいから、ドーベルが閉ざしてしまった心に踏み込むきっかけさえ掴めれば……。
そんなこんなで頭を捻らせているうちに、タクシーはいつの間にか目的地であるトレセン学園に到着していた。
運賃を払ってタクシーから降車し、学園の敷地内を歩く。現在は昼休みの時間帯であるため、生徒達が談笑する様子がちらほらと見て取れる。
昼食は購買に立ち寄って済ませようと考えた俺だったが、午前中に主治医から釘を刺されていたことを思い出す。
あと十分ほどで昼休みが終了するため、その後で食堂を利用するとしよう。
時間を潰す目的で、俺は色々と思索に耽りながら敷地内をぶらついた。
そして、三女神像の噴水が鎮座する中庭を通りかかった時のこと──。
「──あなたには何も関係ないでしょうッ!?」
ちょうど俺から見て死角にあたる方向から突然、怒気を孕んだ激しい叫び声が飛んできた。
一体何事かと意識を向けたが、噴水のシルエットで視線が遮られてしまってその様子を確認することは出来なかった。
誰かが喧嘩でもしているのだろうか。しかし中庭に響き渡った怒号の声音には、
あまりに突然の出来事に、周囲にいた生徒達も驚いた様子で視線を向けている。
怒号の発生源を辿って中庭を横断すると、俺は視界の先に見知った男性トレーナーの姿を捉えた。
「……沖野先輩?」
バツが悪そうに側頭部をかきながら、男性トレーナー──沖野先輩は重苦しいため息をこぼす。
俺の呟きが届いたのか、肩をすくめた沖野先輩がこちらを振り向いた。
「……ん、ああ。新人か」
「沖野先輩、一人ですか?」
「……まぁ、そうだな」
二週間ぶりに顔を合わせた沖野先輩からは、以前よりも少しだけ
「女性の怒鳴り声が聞こえたので来てみたんですけど……先輩、何か心当たりはありますか?」
「…………」
俺が質問したことによって、沖野先輩は完全に黙り込んでしまう。
俺としては先ほどの様子を聞く程度の、本当に軽い気持ちで投げかけたつもりの質問だったが……沖野先輩のまとう雰囲気から察するに、もしかしたら彼が当事者なのかもしれない。
「……新人」
「はい?」
どこか神妙な面持ちで、俺の真正面に立った沖野先輩から視線を向けられる。
「先に謝っとく…………
「え?」
脈絡のない突然の謝罪に、俺は困惑が隠せない。
その発言の意図を聞こうにも、その前に沖野先輩はこの場から逃げるようにして立ち去ってしまう。
だだっ広い中庭で、俺だけがぽつんと一人取り残されるような感覚に陥った。
一体、どういうことだろう。
どうして沖野先輩は、何の脈絡もなく俺に謝罪なんてしてきたのだろう。
それも、普段の気さくで飄々とした雰囲気とは似ても似つかないほど、思いつめたような表情を浮かべて……。
「……そういえば」
一度情報を整理する目的で、考えを巡らせていた途中。
俺はふと、先程飛んできた怒声に対して聞き覚えがあるような感覚を抱いたことを思い出す。
普段の淑女的な物腰と気品に満ちた様子からは想像も出来ないが……その声音を聞いた限り、脳裏にはどうしても
「……」
それが俺の、ただの勘違いであれば良いのだけれど。
***
不穏な現場に居合わせた際、当時は状況を飲み込めずに困惑していた俺だったが。
沖野先輩からの唐突な謝罪の意味を含め、全てを理解したのはその翌日。
俺がその異変に気付いたのは、業務の合間に一度昼休憩を挟もうと、部室から食堂へ移動しているときだった。
「……?」
今後のトレーニングメニューについて色々と思索に耽りながら廊下を歩いていると、チラチラとこちらの様子を窺うような視線を向けられている感覚に陥った。
気のせいだろうか……俺は少し不思議に思って周囲を一瞥するも、談笑に興じる生徒達ばかりで俺に注目しているものはいない。
チーム・アルデバランを率いるトレーナーとして、業務復帰初日のように、以前からそれなりに注目されているという自覚はあった。
考えすぎかもしれない……そう割り切った俺は、メニューの考案に再び意識を割きながら廊下を更に進む。
もうすぐ昼休みが終了する時間帯とはいえ、食堂に近づくにつれて生徒達の密度は自然と増していく。
「…………ん?」
またしても感じる、不可解な視線。
全身を舐め回すようなそれを受けて、俺はさすがに何かがおかしいと気付いた。
視線の出どころを追って周囲を見渡すが、やはり誰一人として俺を見ている人はおらず。
だがしかし、二回目も同様の反応が見られたともなれば、生徒達が意図的に俺から視線を逸らしていることぐらいは察しがついた。
半年前のような、大問題を引き起こした場合であればともかく。
これほどまでに注目を集めていることに対して、俺は全くと言っていいほど心当たりがなかった。
異変を肌で感じてはいるものの、見ず知らずの生徒に話しかけてまでそれを払拭するべきか。
しばらく葛藤を続けた俺は、どうせ時間が解決してくれるだろうという楽観的な結論を出して、それらを意識の外側へと追いやった。
食堂へ到着した俺は目に留まった定食メニューを注文し、料理を受け取って適当な席に腰掛ける。
「……食べづらいな」
意識するだけ無駄だと理解しているつもりだったが、こうも背中に視線が突き刺さっていると料理の味も分からなくなってしまう。
早く食べて部室へ戻ろう。あまりの居心地の悪さから自然と箸を進める動作が忙しなくなっていき、わずか数分足らずで料理の半分近くが皿の上から消えていた。
「──え、なにそれ初耳なんだけど」
そして、残り一口というところまで食べ進めた時。
ふと、背後のテーブルを囲む生徒達の雑談が俺の耳に流れてくる。
「あんたあの
……噂?
「いや、全然」
「えぇ、まじ? うちのクラスとかその話題で持ちきりだったよ? まぁ、当人がいたからってのはあるかもしれないけど」
「で、なんなのその噂って」
「チーム・スピカの移籍話」
生徒の一人から予想外なチーム名が出てきて、俺は少し困惑した。
これだけ周囲から注目を集めていることもあって、その噂の内容は少なからず俺に関すること──チーム・アルデバランなど──だと思い込んでいた。
チーム・スピカといえば昨日、顧問の沖野先輩が中庭で誰かと揉めていたような気がする。一部始終を確認していたわけでは無いため、断言は出来ないが。
なにがともあれ、これで全身に感じていた視線の正体が、俺の自意識過剰によるものであると判明したわけだ。
俺は安心して、ホッと胸を撫で下ろす。
胸のモヤモヤも晴れたことだし、最後の一口に手をつけて部室へ戻ろうとした俺だったが……。
件の噂は、それだけでは終わらなかった。
「え、でもそれって半年前の話じゃん。なんで今更蒸し返してんの?」
「さぁ……ただ昨日、スピカのトレーナーが元担当とバトったっぽい」
「元担当って確か、名家のお嬢様でしょ? 足の怪我が原因でレースを引退して、今はトレーナーを目指してるって聞いたけど」
彼女達の話題に上がった生徒の特徴から、それが俺の担当ウマ娘であるメジロマックイーンだとすぐに分かった。
「移籍のせいでみんなあの子のこと
「あぁ、噂の内容がまさにそれ」
「え、どゆこと?」
「あの子がトレーナーになるために別チームへ移籍したって話。あれさ……」
噂に心当たりがないと言っていた生徒の発言も気がかりだったが……。
「──なんか、
その次に飛び出した衝撃的な言葉によって、俺の頭は真っ白になってしまった。