はかり知れない動揺と困惑が脳裏に渦巻いて、冷静だった俺の思考がぐちゃぐちゃにかき乱される。
全身を死角からぶん殴られたかのような衝撃に襲われて、俺は手にしていた箸を皿の上に落としてしまった。
「……え」
「やばっ──」
その妙に響く甲高い音をウマ娘特有の優れた聴覚が捉えたのか。
雑談に夢中になっていた生徒達が、背後で聞き耳を立てていた俺の存在に気付いたようだ。
慌ててその場から立ち去っていく生徒達。
だがしかし、今の俺には彼女達に意識を割く余裕なんて残っていなかった。
「…………どういう、ことだ?」
件の噂を知る生徒が放った──”嘘”という言葉。
混乱した思考を一旦まっさらな状態に戻して、俺は件の噂について知っている限りの情報を今一度整理する。
噂の発端に心当たりがあるとすれば、昨日の中庭での出来事だろう。
チーム・スピカのトレーナーである沖野先輩と、彼の元担当ウマ娘による口論が引き金となり、学園中に噂が蔓延した。
先輩の元担当ウマ娘とは、先程生徒達が話題に挙げていたメジロマックイーンである。現在はチーム・アルデバランに所属し、チームのサポーターを務めている。
マックイーンがチーム・アルデバランへ移籍を希望した理由は、指導者になりたいという彼女自身の目標を達成するため。
サポーターとしてチームを支えるマックイーンは非の打ち所が無いほど優秀で、何より目標に対して常に真摯であった。
入院中に外部との連絡が許可されて以来、マックイーンは実施したトレーニングの内容を俺にかかさず報告してくれていた。
実際に彼女がサポートにあたる様子を見た限りでも、知識と経験に基づいた指導を完璧にこなしていたことを確認している。
マックイーンがどれだけ真剣に、自身の目標と向き合っているのか。
俺は彼女の担当トレーナーとして、一番の理解者であると自負している。
そんな優秀なマックイーンが果たして……嘘をつくことなんてあるのだろうか。
……そもそもだ。
「……マックイーンには、嘘をつく理由なんて無いはず」
生徒が発した”嘘”という言葉に、俺はずっと引っかかりを感じていた。
大前提として、マックイーンは俺に対して
仮に、万が一……生徒の発言通り、指導者を志すマックイーンの目標が嘘だったとして。
指導者を志す以外に何か目的があったとしたら、わざわざ欠陥を抱えた訳ありトレーナーの元へ移籍を希望するはずがない。
手紙という回りくどい手段を用いて俺に連絡を寄越す必要もないだろう。そんな面倒なことをせず、彼女が以前まで所属していたチーム・スピカへ戻れば良いだけの話だ。
「……さすがに、この可能性は無いだろう」
そんな合理性に欠けた選択を、聡明な彼女が取るとは到底思えない。
マックイーンがチーム・アルデバランへ移籍を希望した理由はおそらく……彼女の理想とする教育理念や指導スタンスが、沖野先輩よりも俺の方に近かったから。それ以外、考えられない。
それじゃあ結局、
色々と考えを巡らせてみたけれど、処理しきれない情報と彼女に対する主観的な認識が
「……本人に、確認してみよう。それが一番正確で、手っ取り早い」
結局のところ、信憑性にかける噂は鵜呑みにせず、本人に直接確認を取った方が良いだろう。
今日は放課後に、担当ウマ娘達のトレーニングが控えている。
その際に少しだけ時間を割いて、彼女に噂のことを聞いてみよう。
***
不可解な噂を耳にしてから数時間後、午後の授業終了を示す鐘が学園中に鳴り響く。
忙しない心臓の鼓動を感じながら、しばらくの時間が経過して──。
「……マックイーン」
「…………」
俺は今、件の噂の当事者となってしまった担当ウマ娘と向き合っている。
デスクを隔てて向かい合うマックイーンの様子は……当然というべきか、普段よりも格段に固い印象であった。
図らずも噂の中心に立ってしまっているが故、彼女の耳にもそれは届いているはず。
だけどマックイーン。
どうか、安心してほしい。
俺はそんな噂のことなど、これっぽっちも信じていないのだから。
「なんて言うか、その……災難だったな」
「…………」
「出どころが不明の噂なんて、これっぽっちも気にする必要はないよ。俺は、マックイーンが真剣に目標と向き合う姿をちゃんと見てきた」
「…………」
表情に昏い影を落とすマックイーンに対して、俺はすかさずフォローを入れる。
不特定多数から向けられる無責任な悪意は、誰であっても非常に心に刺さるものがある。
強かなウマ娘であるマックイーンもきっと、不本意な噂のせいで苦しんでいるんだ。
「何があっても、俺はマックイーンの味方だ。目標に向けて努力する君を、俺はちゃんと見てる。外野の発言に耳を傾ける必要はないよ」
俺は今回の件に関して思っていることを、努めて素直に口に出した。
心の内を打ち明けるのは少し恥ずかしいけれど……自分の気持ちに正直にならないと、きっと相手には伝わらない。
それは俺が、半年前に身をもって学んだことだ。
「…………」
しかし残念なことに、言葉をかけた後もマックイーンの表情は依然として昏いまま。
「……」
マックイーンが部室に入ってきてからというもの、俺と彼女の視線が交錯することは一度たりともなかった。
……その事実を頭で理解した瞬間。
胸騒ぎのような感覚がぶわりと湧き上がってきて、一抹の不安が脳裏を過ぎった。
「……一応、確認しておきたい」
これは決して、マックイーンのことを疑っているわけではない。
これはあくまでも確認、確認だ。
噂に対して不安を感じてしまっているということは……認めたくはないが、俺がマックイーンを信頼しきれていない証拠。
担当ウマ娘を信じることは、トレーナーという職業において最も重要なことと言っていい。
担当ウマ娘と無条件の信頼関係を築くことは、過去に在籍していたトレーナー養成校でも一番最初に叩き込まれた指導者としての姿勢だ。
件の噂が原因で、ほんの少しでも疑いの方向に傾いてしまった自分の心が情けない。これじゃあ彼女を担当する指導者としての顔が立たない。
本人に事実を確認した後、俺は誠心誠意マックイーンに謝ろう。
目標に向けて真剣に取り組んできた姿を見てもなお不安を消化しきれなかった俺のことを、どうか許してほしい。
「あの噂は……本当なのか?」
マックイーンが不安にならないように、俺は努めて冷静な態度を徹底していたつもりだった。
担当トレーナーとして見本となる姿勢を、彼女の前では貫きたいと思っていた。
「──申し訳ありません、トレーナーさん」
……鏡を見るまでもなく、ありありと分かる。
マックイーンからこぼれた言葉を受けて……俺が今、どのような表情を浮かべてしまっているのか。
「…………っ、………なん──」
反射的に、俺はそう聞き返してしまった。聞き返して、俺は咄嗟に口を噤んだ。
俺は慌てて、疑問を肯定で返したマックイーンの表情を確認する。
「トレーナーさん、大変身勝手で申し訳ないのですが……急用を思い出してしまったので、本日のトレーニングは欠席させて頂きます」
今の俺の反応は多分、彼女にとって明確な拒絶の意に映ってしまったのだと思う。
マックイーンは表情に昏い影を落としたまま、踵を返して部室を出て行ってしまった。
「…………待ってくれよ」
数秒遅れで慌てて腕を伸ばすも、当然ながら俺の手は空を切る。
真っ白になった頭を使って、俺は精いっぱい状況の理解に努めた。
昼休みに小耳に挟んだマックイーンの噂は……残念ながら、真実であった。
当人に直接確認を取ってしまったので、もはや戯言だと切って捨てることは出来なくなってしまっている。
……じゃあ、
噂が本当なら、マックイーンはどうして俺に手紙を差し出したのだろうか。
どうして俺に嘘をつく必要があったのだろうか。
嘘をついてまでチーム・アルデバランに移籍した本当の目的は、一体何だったのだろうか。
「……俺はまだ、何も聞いていない」
俺は知りたい。
どうしてマックイーンが、俺に嘘をついたのか。
きっと彼女には理由がある。
嘘をつかざるを得なかった、大きな理由が……。
「……っ」
そう考えだした途端。
俺は居ても立っても居られなくなり、マックイーンからずいぶん遅れて部室を飛び出した。
今のマックイーンを一人にしてはいけない。
トレーナーとしての直感が、俺にそう訴えかけてくる。
直感に突き動かされて彼女の後を追いかける俺だったが、数十秒間に迫る出遅れは致命的だった。
広大な敷地を誇るトレセン学園内を手当たり次第に駆け回る俺だったが、残念ながら彼女の姿を視界に捉えることは出来なかった。
そして、マックイーンが部室でこぼした謝罪の言葉を最後に……金輪際、彼女がチームに顔を出すことはなかった。
……後から聞いた話によると。
マックイーンは今日以降、学園の授業にすら出席しなくなってしまったのだそうだ。
***
私がその噂を耳にしたのは、いつものようにトレセン学園へ登校し、教室で始業の準備を進めていた時だった。
スクールバッグから教材を机に移し替えている最中、何故だか私が座る方角に周囲の視線が集まっていることに気がついた。
半年前から注目を浴びることは多々あったため、いつものことかと、特に気には留めていなかったのだが……。
「あ、おはようキタちゃん」
「ダイヤちゃん……うん、おはよう」
私から少し遅れて登校してきたキタちゃんのどこか落ち着きのない様子を見て、違和感を覚えた。
「キタちゃん、何かあった?」
「えっ、あぁ……っ。う、うん。ちょっと…………登校中に、噂を聞いちゃって」
「噂?」
キタちゃんは昔から、考えていることが存外表情や態度に現れやすい。私の顔色をちらちらと窺っている様子から察するに、何か、私や兄さまに関係する噂を聞いたのだろう。
「それって、どんな噂?」
私がそう問いかける間も、キタちゃんは仕切りに周囲の視線を気にしていた。もしかしたらその噂とやらは、彼女自身にも関係があるのかもしれない。
「え、えと…………んっと──」
キタちゃんは言い出し辛そうに口をもごもごさせながらも……意を決したように唇の端を結んだ後、彼女が耳にしたという噂を語ってくれた。
「………………え?」
キタちゃんの口から語られたそれを受けて、私は驚きを隠すことが出来なかった。
***
放課後、部室を目指す私の足取りが普段よりも忙しない。
その原因は考えるまでもなく明白だ。私が今朝教室で聞いた、件の噂である。
キタちゃんが教えてくれた噂についてなのだが、広がる速度がとにかく尋常ではなかった。
私が学園のどこへ移動しても感じる、不特定多数の視線。昨日までは特に何ともなかったため、噂が蔓延し始めたのは今日以降で間違いない。
一体どうして、こんな噂が流れてしまったのだろう。
無駄に長い廊下を早歩きで進みながら、私はずっと件の噂について考えていた。
噂の内容は、私が所属するチーム・アルデバランと、キタちゃんが所属するチーム・スピカの移籍に関係するものであった。
「……マックイーンさん」
キタちゃんが私に語ってくれた噂ははっきり言って、聞くに耐えない内容だった。
というのも、私が尊敬するウマ娘のマックイーンさんを意図的に貶めるようなものだったからである。
そもそもマックイーンさんが私達のチームに移籍したのは半年前の出来事であり……なぜ今更になって噂に上がっているのか、私には理解出来なかった。
マックイーンさんの努力を否定し、嘲笑うかのような噂に、私は明確な怒りを覚えた。彼女が夢と真剣に向き合う姿勢を無責任にバカにして、一体何が楽しいのか。
マックイーンが夢の実現に向けて取り組む様子を、私は一番近くで見てきた。その姿に、私は何度も助けられた。彼女の努力を真っ赤な嘘だと決めつける者達は、はっきり言って異常だとすら思う。
何がともあれ、このような悪意に曝されているマックイーンさんのことが心配で仕方ない。
一刻も早くマックイーンさんを見つけて、彼女を安心させてあげなければ……。
「──っとと。すみません」
不穏な胸騒ぎに急かされた状態で廊下を進み、丁度その突き当たりに差し掛かった時。
私は視界の端から突然現れた学園の生徒と、危うく衝突しかけてしまいそうになった。
「あ、こちらこ…………サトノ?」
そのときばったりと出会った人物と、私の視線が交錯する。
「え、ドーベルさん?」
私がぶつかりかけたのは、同じチームに所属する先輩ウマ娘のメジロドーベルさんだった。
偶然顔を合わせたドーベルさんからは、どこか激しい焦燥に駆られているような印象をうける。
その原因には心当たりがあった。いや、原因なんて一つしかないだろう。
「その様子だと……サトノも聞いたんだ、マックイーンの噂」
「は、はい。親友から聞きました」
ドーベルさんは、マックイーンさんの実姉にあたるウマ娘だ。妹を貶めるような噂を耳にすれば、内心穏やかではないだろう。
「とりあえず、部室に行こう。今日はトレーニングの日だから、マックイーンも顔を出すはず」
都合が悪くてトレーニングを欠席する際は、基本的にスマホのグループチャットを用いて連絡する方針となっていた。
真面目なマックイーンさんはチームの方針を蔑ろにするウマ娘ではない。
彼女から欠席の連絡がない以上、下手にトレセン学園の敷地を駆け回るよりも、放課後を待った方が賢明で確実だった。
ドーベルさんと廊下を進む途中、ひっきりなしに周囲から視線の雨を浴びた。
私は注目されることにすっかり慣れてしまったが、ドーベルさんにとっては苦痛以外の何者でもないだろう。
しかし、彼女はしきりに耳を絞りながらも、努めて気丈に振る舞っていた。
並んで廊下を歩く私達の間に会話は無く、重苦しい雰囲気に支配されているような感覚だった。
もっとも、各々の思考は既にいっぱいいっぱいで、雰囲気に意識を割くような余裕なんて微塵もなかったのだけれど。
校舎別棟の階段を登って、私達の部室があるフロアを移動する。
そして、私達が遠目に部室の扉を捉えた時のことであった。
「……あ」
隣を歩くドーベルさんが唐突に足を止め、呟きをこぼす。
ドーベルさんの視線を追うように目線を動かしたのと同時に、私達が目指す部室の扉がおもむろに開いた。
その扉の先に繋がるのは、チーム・アルデバランが使用している私達の部室。
「……」
そこから姿をのぞかせた人物を前にして。
私達はつい先程まで胸に灯していたはずの目的を忘れ、その場で立ち尽くしてしまった。
「……マックイーンさん」
私は無意識に、視線の先に立つマックイーンさんの名前を呟く。
私達が今いる場所からすぐに動けなかったのは多分、扉をゆっくりと閉めるマックイーンさんの表情を見て……
表情に昏い影を落とし、誰が見ても分かるほど憔悴しきった様子の彼女を目の当たりにするのは、この瞬間が初めてだった。
普段の気品に満ちた笑みと優雅な品格からは想像もつかない、まるで
そして、それがいけなかった。
「……、…………っ」
床へと向いていたマックイーンさんの瞳が一瞬、周囲を確認するかのように揺れ動く。
……多分、その途中で私達の姿が彼女の視界に映ったのだろう。
マックイーンさんは私達に背を向けるのと同時に、その場所から存在をかき消すかのような勢いで走り出してしまった。
「マックイーンさん……っ」
マックイーンさんの動きにつられるように、私は慌てて床を蹴る。
今の彼女を、一人にしてはいけない。
理屈ではなく、直感が私にそう訴えかけてきている。
私の駆け出しから少し遅れてドーベルさんも動き出し、二人でマックイーンさんの行方を追うのだった。
***
マックイーンさんの後を追ってたどり着いたのは、トレセン学園本校舎の屋上であった。
マックイーンさんが屋上と校舎を隔てる分厚い扉の奥へと消えてからしばらくし、私達は彼女に続いてそれを勢い任せに開け放つ。
「マックイーンさんっ!」
屋上に吹き付ける北風は居竦まるほどに冷たく、地上よりも格段に強く荒ぶいていた。
私は屋上へ到着するや否や、分け目もふらずに後を追ってきたマックイーンさんの姿を探す。
縦横無尽に視線を駆け巡らせた果てに、私は彼女の背中姿を視界に捉えることが出来た。
マックイーンさんは屋上の外縁に手を添えて、そこからの景色をぼんやりと眺めていた。
天気はあいにく黒雲混じりの曇り空で、お世辞にも綺麗な景色とは言えないけれど。
悩みを抱えているひとはよく、学園の屋上へ足を運ぶ。
誰にも邪魔されない静かな空間で、こみ上げてくる気持ちを整理するために……。
「──あら、サトノさん」
穏やかではない私の呼びかけに応じて、マックイーンさんがおもむろにこちらを振り返る。
「奇遇ですね。それに、ドーベルも。お二人は一体、どうしてこちらへ?」
「…………え、えっと」
マックイーンさんの返事を受けて、私は彼女へ届けるはずだった言葉を喉元で詰まらせてしまう。
私達の前に立っているマックイーンさんは、
それは、彼女にまとわりついていた憔悴の雰囲気を、微塵も感じさせないほどの変貌ぶりであった。
先程廊下で垣間見たマックイーンさんの表情は果たして、噂を耳にした私達が生み出した幻覚だったのだろうか。
少なくとも今の私には、マックイーンさんの素顔を看破することが出来なかった。
その"普段通り"は気丈に振る舞うために取り繕ったものなのか。
はたまた、噂のことなど本当に気にも留めていないのか。
「…………」
柔和に微笑むマックイーンさんを前にして。
──私は、彼女のことが分からなくなってしまう。
「マックイーン。正直に答えて」
しかしそれは、必然のことであった。
「学園で流れてるマックイーンの噂……あれ、本当なの?」
私がこれまで見てきたのは、"憧れ"というフィルター越しに映したマックイーンさんの姿だけ。
“憧れ"のマックイーンさん。
"尊敬する”マックイーンさん。
これらの感情は時に、私達を著しく盲目にする。
憧れる先輩のことは何でも知っている。
尊敬するウマ娘のことを誰よりも深く理解している。
美味しいスイーツに目がないことも、野球観戦を密かな趣味にしていることも、最近はB級映画巡りに熱意を注いでいたことも……。レースに関する情報なんて、言わずもがな。
……じゃあ、それ以外のことは?
目の前で微笑む彼女のことを……私は今、理解出来ているのだろうか。
ドーベルさんの問いかけに対して、マックイーンさんは静かに唇を噤む。
しばしの沈黙の末、マックイーンさんは閉じていた口をゆっくりと開けて……。
「どのような解釈をするかは個人の自由ですが……大方は、噂の通りで間違いありません」
普段とさして変わらない様子で、ドーベルさんの言葉を肯定した。
「…………」
マックイーンさんの回答に私は言葉を失う。
平然と告げられた事実が頭の中で渦巻いて、思考が真っ白になっていることにすら気付かなかった。
「なんで?」
対するドーベルさんは、間髪入れずに鋭い口調で彼女に言及した。
「トレーナーになりたいって……あんなに頑張ってたじゃん。サトノのためにって、こんな面倒なアタシのために、マックイーンはずっと頑張ってたじゃん! それなのに、何でそんな噂が流れるわけッ!?」
声を震わせながら荒らげるドーベルさん。
ドーベルさんの怒りの矛先はマックイーンさんではなく、彼女を貶めるような噂を流したひと達へ向けられていた。
「悔しくないの!? 何で否定しないのッ!? そんなの、そんなの……っ、アタシが知ってる、マックイーンじゃない……」
「……」
ドーベルさんの叫びに対して、マックイーンさんは無言を貫く。
「何か言ってよ、何で黙ってるの?」
「…………」
「……否定、しないんだ」
「…………」
マックイーンさんの沈黙はおそらく……ドーベルさんの言葉に対する肯定だった。
「……なんで?」
激情に委ねて放たれていたドーベルさんの問いかけが一転して、弱々しく、縋るような声音に変わる。
「トレーナーに捨てられて泣いてたアタシを励ましてくれたのは、マックイーンじゃん。一緒に頑張ろうって言ってくれたマックイーンを見て、アタシはアンタのことを尊敬してた」
「…………」
「アタシよりも年下なのに、一族の期待を一身に背負っても堂々としてるマックイーンのこと……すごいなって、ずっと思ってたッ!」
「…………」
「…………ねぇ、否定してよ……お願いだから」
絞り出したような声音でこぼれ落ちたドーベルさんの言葉に対しても、
「…………」
マックイーンさんが返事をすることはなかった。
「…………そうなんだ」
今回の彼女の沈黙は、ドーベルさんの願いに対する否定であった。
「……どうしてアイツだったの?」
「どうして、と言いますと?」
「マックイーンが嘘をついた理由をアタシなりに考えたけど……答えなんて、きっと考えるまでもなかった」
「そうですか」
「アンタには帰る居場所があったはず。それなのに……嘘をついてまでアイツのチームに移籍した理由が分からない」
「その選択が、私に残された
「だから……ッ。アタシが聞きたいのは、そういうことじゃなくて……ッ!」
苛立ちを露わにするドーベルさんを前に、マックイーンさんは「ああ」と何かを理解したかのような素振りを見せる。
「そういえば……ドーベルはまだ、あの人の背景を知るほど親密な関係に至っていませんでしたね」
「え?」
「本当はちゃんとした段階を踏むことが理想的でしたが……あなたの問いに答えるためにはまず、彼のことを少しでも知って頂かなければなりません」
その言葉を皮切りに、マックイーンさんは私達のトレーナーである兄さまのことについて語り始めた。
兄さまとのアメリカでの出会いを筆頭に、かつてのチーム・アルデバランにおける活躍や、彼にとって最愛の教え子であったウマ娘との関係性。兄さまの特異な指導方法から、当時の彼を取り巻く人間関係に至るまで。
マックイーンさんが語った内容をまとめると……彼女が私達に対して説明したのは、豹変してしまった半年前の兄さまが形成されるに至った
「…………」
マックイーンさんの口から語られる兄さまの情報は、彼の昔馴染みであった私ですら全く知らないものばかり。
兄さまのことは何でも知っていると自負していたつもりだったけれど……その実、私は彼のことを上辺でしか見ていなかったということなのだろうか。
私もマックイーンさんも、兄さまと相識の間柄にあるということは共通していたはずなのに。
過去に彼と過ごした時間で言えば、マックイーンさんよりも私の方が圧倒的に長いはずだったのに……。
一体どうして、”兄さま”という存在に対する理解度や解像度が、こんなにも違っているのだろうか。
その事実に打ちひしがれるのは今じゃないと頭では理解しているのだけれど……私の心は計り知れないショックを受けてしまって、目の前が真っ暗になってしまった。
「………………は? なに……それ…………」
そして、それは私の隣に立つドーベルさんも同様だった。
「そんなボロボロの状態で、アイツは学園に戻ってきたって言うの? 何でトレーナーの仕事、続けていられるの……? 知らない……ぁ、アタシ、そんなこと何も知らない…………」
焦点がずれた瞳を虚げに揺らしながら、ドーベルさんは呟く。
「ぇ、じゃあアタシは、そんなアイツに……不満も、ストレスも、気に食わないことも全部、押しつけてたって、こと…………?」
ドーベルさんの呟きには、横に並ぶ私の心にも深々と突き刺さるものがあった。
「アタシ達は今の今まで、ボロボロのアイツを……利用しようとしてたってこと…………?」
過去を振り返るように言葉をこぼし、ドーベルさんは胸元に手を押し当てながら苦しそうに呼吸を繰り返す。
「意味、分かんない……意味わかんない、分かんない分かんないわかんないわかんない──ッ!?!?」
やがてドーベルさんは同じ言葉を狂った機械のように繰り返し、次の瞬間、彼女は唐突に踵を返して屋上から走り去っていってしまった。
「……ぁ、ドーベルさん…………っ」
屋上から飛び出したドーベルさんの後を追おうと反射的に身体を翻す私だったが……途中、急激に後ろ髪を引かれるような感覚に襲われて駆け出した足にブレーキをかけた。
屋上にはまだ、マックイーンさんが残っている。
彼女を一人にしないために、私達はこうして屋上へとやってきたはずだった。
マックイーンさんとドーベルさん。
彼女達は両者とも尊敬できる優しい先輩で、私には二人を天秤にかけることなんて到底出来なかった。
それでも現状は刻一刻と、私に困難な判断を下せと要求してくる。
様々な要素を天秤の上皿に乗せて客観的な判断を心掛けようとした私だったけれど、残念ながら調整に失敗し、秤を大きく崩してしまう。
故に私は強く目を瞑って、私は自身の中に眠る直感に全てを委ねることに。
「……っ」
思考を放棄してから間もなく、私は地面のコンクリートを強く蹴り上げて……屋上を飛び出した。
それから後のことは、正直よく覚えていない。
***
マックイーンが最後に部室を訪れてから、今日で三日目になる。
マックイーンと最後に会話──と言っても、ほとんど一方的なものであったが──を交わして以降、彼女は一度もトレーニングに顔を出していなかった。
マックイーンに毎日連絡を送ってはいるが未だに返事は無く、聞いたところによると……彼女はどうやら、学園の授業にも出席しなくなってしまったのだそうだ。
トレーニングといえば……マックイーン以外にもう一人、三日前から欠席を続けている担当ウマ娘がいた。
マックイーンと共にチームへ移籍してきた──メジロドーベルである。
ドーベルからは事前にトレーニングを欠席する旨の連絡をもらっているのだが、そのタイミングがマックイーンの失踪と重なるため、心配なことに変わりはなかった。
ドーベルが欠席を申し出た日数はニ日間であったため、おそらく今日のトレーニングには顔を出すことだろう。
間もなく放課後を迎え、授業を終えた担当ウマ娘達が部室へやってくる頃。俺はトレーニングの用意に不備がないことを確認しながら、彼女達の到着を待つ。
それからしばらくして、部室と廊下を隔てる扉が遠慮がちに開かれる。
「……」
わずかに生まれた扉の隙間から入室してきたのは、俺の担当ウマ娘であるメジロドーベル。
三日ぶりに顔を合わせたが、彼女の表情は普段よりも浮かない様子だった。
「授業、お疲れ様。体調不良って聞いていたけど、身体はもう大丈夫なのか?」
「……うん」
「そっか。それは良かった」
ドーベルとの関係はまだまだぎこちないものだけれど、心の距離はそんなに簡単に縮められるものではない。
噂の件もあり、ドーベルの心はおそらく普段以上に不安定だ。
経験上、俺は意識を注ぎ過ぎるとたいてい空回る。
そのため最近では、必要以上に担当ウマ娘との距離を縮めるアプローチをすることは無くなった。
この対応に少し違和感を覚えることもあるけれど……現時点の彼女に対してはおそらく、一定の距離を空けたスタンスが最適解だろう。
現状の関係に囚われず、ゆっくりと時間をかけて歩み寄っていく。
それが、数週間ドーベルと接してきた上で見出した俺の答えであった。
「…………あの、さ。唐突で悪いんだけど」
「うん?」
「……これ」
ドーベルは業務用デスクの前に立つ俺の元まで歩みを進めると、肩に掛けたスクールバッグをあさって中から一枚の用紙を取り出した。
ドーベルがその用紙を、俺へと差し出す。
俺は彼女から受け取ったそれに、何気ない気持ちで視線を落とした。
「…………」
「……身勝手で、ごめん」
用紙を手にした俺の様子を窺うように、ドーベルは消え入りそうな声で謝罪の言葉を呟く。
俺は彼女から貰ったそれ──チームからの
「マックイーンから……アンタのことを、聞いたの」
「俺の、こと……?」
「アンタの…………病気のこと」
「……」
ドーベルの発言から分かる通り、俺は彼女に対して以前まで患っていた病気のことを打ち明けていなかった。
特に隠していたわけではなかったのだが、話題にあげても反応に困るような内容だ。
そのため半年間に及ぶ闘病生活を、俺はただの諸事情として通していた。
「身勝手だって、アタシが一番自覚してる。アタシ達から移籍を希望した立場で、こんなこと言い出すのは良くないって本当は分かってる。でも、でもアタシ……これ以上アンタに、迷惑かけたくないの」
「……迷惑だなんて──」
「そんな嘘、つかないでよ」
俺はドーベルが打ち明けた内心を否定しようと言葉をかけるが、途中で彼女に声を被せられてしまう。
「アンタが体調を崩して風邪を引いた原因……それって、アタシのせいだよね」
「違う。あれは俺の杜撰な自己管理が招いた失態で──」
「誤魔化さないでよ」
ドーベルは確信のこもった口調で俺の言葉を否定する。
「分かってるの。アンタがアタシと接してるとき、いつも辛そうな顔してた。サトノやマックイーンに向ける視線には無いものが混じってる……今だってそう」
「……」
俺はもしかしたら、無意識の内に苦悩を表へ出してしまっていたのかもしれない。
「マックイーンの件もあるし……これ以上わがまま言って、アンタに迷惑をかけたくないの」
チームからの脱退を希望するドーベルの意志は固い。
残念ながらこの状況では、彼女を説得することは困難だろう。
「それにアタシ…………やっぱり、諦められないの」
「……春の天皇賞のことを、か?」
「適性が絶望的だってことは自覚してる。目標を変えるべきだっていうアンタの指摘は、考えるまでもなく正しいって分かってる。それでもアタシは…………なりたい自分に、なりたいの」
「……チームを脱退した後に、あてはあるのか?」
「分からない……でも、アタシをステイヤーとして育ててくれるトレーナーを探そうかなって思ってる」
「……そうか」
ドーベルの距離適性の関係上、俺は最後まで彼女の目標を快く聞き入れてあげることが出来なかった。
お互いの主張が根本から食い違っているのであれば、苦悩や不満から目を背けてまで担当契約を継続する必要なんて無いのかもしれない。
「…………分かった。脱退の手続きに関しては、あとは俺が済ませておくよ」
しばらく考えた末……俺は結局、ドーベルの意志を尊重するという結論を下した。
脱退届の署名欄に俺の名前を記入し事務へ提出すれば、彼女はチーム・アルデバランから正式に脱退が完了する。
「君の力になれなくて、本当に申し訳なかった」
「……謝らないでよ。アタシのわがままのせいなんだから」
俺は部室を後にしようとするドーベルの背中に続いて、せめて自身の夢へ挑む彼女を見送ろうと考えた。
その途中、俺は彼女の背中に問いかける。
最後にいくつか、ドーベルに聞いておきたいことがあった。
「そういえばさっき、ドーベルはマックイーンから俺の病気のこと聞いたって言っていたけど」
「……そうだけど」
「ここ数日、マックイーンと連絡が取れないんだ。どうやら学園の授業も欠席していて、寮にも戻っていないらしくて……ドーベル、何か知らないか? 例えば、彼女の居場所とか」
「特には、聞いてないかな。でも、あまり
「そうか」
マックイーンのその後については、彼女の姉であるドーベルでさえも把握していないようだ。
「最後にもう一つだけ、良いかな」
「なに?」
「どうしてドーベルは、春の天皇賞にこだわるんだ?」
「前にも言わなかったっけ? 天皇賞の制覇は、アタシ達の使命だって」
「ドーベルが天皇賞へ込める想いは、使命だけじゃ説明出来ないような気がしていたんだ。本当はある程度関係が進展した後に、聞きたいと思っていたんだけど」
ドーベルの天皇賞(春)に対する執着心は、使命という言葉だけで芽生えるものでは無い。そこには使命とは別の、彼女自身の個人的な想いが込められているはずだと俺は踏んでいた。
使命の奥にある想いを理解すれは、メジロドーベルというウマ娘の核心に迫ることが出来ると考えていたのだが……。
「…………あんまり、覚えてないや」
「そうか」
残念ながら、彼女が俺に対して赤裸々な本心を語ってくれることは無かった。
「短い時間だったけど、君の担当になれて良かった」
「……そう」
別れ際に贈る言葉にしては、少々薄っぺらいような気もするが。
悲しいけれど、今の俺にはこれくらいしか言ってあげることが出来なかった。
「迷惑ばかりかけて、本当にごめん…………それじゃ」
最後にドーベルは深々と頭を下げて、俺の元から去っていった。
彼女の背中を引き留める甲斐性が俺に備わっていたら、そもそもこんな情けない結末で終わることは無かったのだろう。
「…………」
俺は部室の扉を静かに閉める。
だだっ広い空間で一人になった途端、全身がどっと重くなって、俺は近くの椅子に身体を預けた。
マックイーンが失踪して、ドーベルがチームを脱退して……全てが振り出しに戻ってしまったかのような感覚が、俺の心に重くのしかかってくる。
「……兄さま」
「……? あぁ、ダイヤ。来てたのか」
いつの間にか、ドーベルと入れ替わるような形で部室にやってきたダイヤが、俺の目の前に立っていた。
「何か、ありましたか……?」
「何でもないよ。それじゃあ今日も、トレーニングを始めようか」
重たい腰を何とかあげて、俺は準備していたトレーニング用具の確認作業へ戻る。
これ以上、担当ウマ娘に余計な心配をかけさせるわけにはいかない。
……こんな挫折を味わうのは、何年ぶりだろうか。
せめてダイヤが見ている前でだけは、彼女の担当トレーナーとしてしっかりと振る舞っていなければ。