沖野トレーナーからテイオーが左脚を骨折したという連絡を受けた私は、居ても立っても居られなくなって寮を飛び出し、彼女が入院することとなった病院へと駆け込んだ。
「──テイオー!」
血相を変えてテイオーの病室に飛び込むと、ベッドの上で退屈そうに横になっている彼女と、その縁に置かれた丸椅子に絶望的な表情を浮かべながら腰掛ける沖野トレーナーの姿を捉えた。
普段から気さくで、どんな時もフランクな姿勢を貫いていた沖野トレーナーの変化を目の当たりにし、私は事の深刻さをひしひしと感じ取る。
「あれ、マックイーンじゃん。どうしたの?」
「どうしたもこうしたもありませんわ! あなたが左脚を骨折したとの知らせを受けて、駆けつけたんです!」
事態を深刻なものとして受け止める私とは裏腹に、骨折をした張本人は思わず気が抜けてしまいそうな程に平常運転であった。
「昔はあんなに塩対応だったマックイーンが、まさかボクのことを心配してくれるなんてっ。随分と性格が変わっちゃったよねー! ま、毒舌なマックイーンを変えたのはボク自身なんだけど、にししっ!」
こんな状況にも関わらず、生意気な憎まれ口が減らないテイオー。
だがしかし、この場に限ってはその生意気な言動が彼女のなりの気遣いであると、私は瞬時に理解した。
テイオーの身体に掛けられた布団の隙間から覗く、しなやかな彼女の右脚。
その綺麗な右脚とは対照的に、無骨なギプスと包帯でぐるぐる巻きにされた痛々しい左脚。
空元気に振る舞うテイオーを見て、私は彼女に対して同情のような感覚を抱いてしまう。
「……ふん、相変わらず生意気な態度ですわね。心配して損しましたわ」
けれど私は、込み上げてきた感情をテイオーに打ち明けたりはしなかった。
今は、無理をしてでも普段通りでいようとするテイオーの意志を尊重したい。
故に私は、彼女の挑発にまんまと乗せられてあげることに。
「トレーナーさん。テイオーの怪我に対して、お医者様は何と?」
「……全治六ヶ月だそうだ。骨折の完治からリハビリを含めて、復帰は来年の春になる」
「来年の、春……」
病院へ訪れる前に覚悟は決めてきたが……意気消沈する沖野トレーナーからテイオーの容体を聞いて、私は全身の力が抜け落ちるような感覚に陥った。
来年の春を迎える頃には、テイオーにとって最後の一冠である菊花賞などとうに過ぎ去ってしまっている。
菊花賞に出走出来ないということは、無敗の三冠ウマ娘を目指していたテイオーの夢は、もう……。
「…………すまない、テイオー」
先程からテイオーのそばで肩身の狭い思いを抱えていた沖野トレーナーが、彼女に対して平謝りを繰り返す。
「もぉ、一体どうしたのさトレーナー! そんな様子じゃボク達の調子が狂っちゃうじゃんっ!」
「…………」
「……はぁ。こういう時こそ、気さくに振る舞ってよね」
「……すまない」
骨折したテイオーに対して何もしてあげられない現状を前に、沖野トレーナーは無力感に打ちひしがれている様子だった。
そして無力感を苛まれているのは、テイオーの担当トレーナーである彼だけではない。
「……実はボクさ、トレーナーに黙ってたことがあるんだよね」
「ん……?」
「みんなに内緒で……自主トレしてたんだ。結構負荷の高いやつ」
「知ってたよ」
「止めなかったの?」
「教え子の自主性は、ちゃんと尊重したかったからな。ダービー目前だったし、不完全燃焼はお前も嫌だろ?」
「にししっ、ちゃんとボクのこと分かってるじゃん」
しばしば配慮に欠ける言動が目立つ沖野トレーナーの性格は、良く言えば懐が広く、悪く言えば軽々しい。
放任主義を掲げる沖野トレーナーではあるが、それは彼の信条に基づく一つの答えであり、軽薄そうに見えてその実誰よりも担当ウマ娘のことを想っている人だった。
故に今回起きてしまったテイオーの骨折は、彼女だけでなく沖野トレーナーにとっても大きな挫折に感じているのだろう。
「……はぁ〜。ボク、これからどうしよっかな〜」
「気分転換を兼ねて、休養を挟んでみてはいかがでしょうか? 例えばそうですわね……美味しいものを食べると、沈んでしまった気持ちも回復しますわ。よろしければ、ご一緒しますが?」
不安や不満を紛らわせる方法の一つとして。
お世辞にも得策と呼べるような内容では無いが、何かを食べて空腹をたらふく満たすという手段がある。
食べることで不安や不満を紛らわせることが出来るなら、それに越したことはないんじゃないかって……状況が状況だし、そんな風に思ったりもしていた。
「えーそれマックイーンが行きたいだけじゃん! これ以上体重計をいじめるのはやめてあげて!」
「んなっ!? 私はあなたのためを思って提案したのであって、決して自己の欲求を満たそうとしたわけではありませんわ! っていうかあなた今、さりげなく私のことをバカにしましたわね!?」
「ああっ、ダメダメ! マックイーンがベッドに乗ったら重さに耐えきれなくなっちゃうよ!!」
沖野トレーナーと同様に、私まで悲愴感を漂わせてしまったら。
テイオーはきっと、がむしゃらに夢を追いかけ続けていた昨日までとの違いを感じて、心を痛めてしまうかもしれない。
テイオーは私に対して、普段通りを望んでいる。
それをわざわざ、彼女の口から確かめる必要なんてない。
何故なら、テイオーはあんなに大事にしていた夢が無慈悲に潰えた
「……でもま、気分転換も悪くないかなー。残念だけど、ボクの夢はもう叶いそうにないしね。にししっ、こうなったらスイーツ食べ放題でマックイーンを道連れに──」
「──いや、諦めるのはまだ早い」
「……………………ぇ?」
私とテイオーがいつものように憎まれ口の応酬を続けていると、突然……。
──それをぶった切るような言葉が、沖野トレーナーの口から放たれた。
「全治六ヶ月? 復帰は来年の春? だから何だっていうんだ……んなことを言われてもな、俺は……俺は絶対に、お前の夢を諦めたりしねぇぞ!」
どこか傷を舐め合うような、普段通りであること自体に虚しさを覚えるような私達の会話を、沈黙に暮れていた沖野トレーナーが一蹴した。
「……っ。も、もぉ……トレーナー、いきなりどうしたのさ」
突然息を吹き返した沖野トレーナーの決意の宣誓に、テイオーは言葉を失っていた。
それでも彼女は目を見開き、声を絞り出して普段通りに努める。
「良いかテイオー。俺はこれからお前の復帰プランを練り上げる。そしてお前を万全な状態に戻して、必ず菊花賞へ送り出してみせる」
「…………」
どう考えても実現不可能なはずの未来を、沖野トレーナーは本気の眼差しで呆然とするテイオーに語る。
普段の飄々とした態度からは、想像もつかないほど強かな熱意を灯した沖野トレーナー。
担当ウマ娘の心を鷲掴みにするような彼の覚悟は、とても素晴らしいことだ。
だけど……。
「……トレーナーさん。テイオーを想うその気概は立派ですが、お医者様の判断を無視するというのは……」
それはきっと、彼が絶望の間際に垣間見せた"強がり"に過ぎなかった。
「そんなことは……っ、十分、分かってるつもりだ。ギリギリまで粘って、限界まで挑戦して、それでも医者に止められたら…………その時は、諦めるしかない」
無理難題に真正面から向き合おうとする沖野トレーナーだが……その反面、彼はしっかりと過酷な現実も見通していた。
「でも、でもさ! トレーナーの俺が真っ先に諦めちまったら、テイオーは夢に挑むことすら叶わずに終わっちまうんだよ……っ!!」
それでもなお、教え子への情熱を宿した沖野トレーナーは止まらなかった。
「俺はもう二度と、諦めたくないんだよ……」
こんなに感情を剥き出しにして教え子を鼓舞する沖野トレーナーの姿は、初めて見た。
「良いか、テイオー……っ。俺が絶対に──お前を無敗の三冠ウマ娘にしてみせるッ!」
心の底から担当ウマ娘に寄り添う彼の本当の姿を、私は知らなかった。
彼はまるで、別人のようであった。
「…………い、良いの? ボクは、まだ……夢を諦めなくても…………っ、良いの?」
理想を熱く語る沖野トレーナーだが、その表情は普段と比較にならないほど険しい。
自身の発言がどれほど滅茶苦茶で、どれほど実現性に欠けるものであるのかを、おそらく彼自身が一番理解しているからだろう。
だが、しかし……。
「当たり前だ」
この場合において本当に重要なのは、きっと……。
「──もう一度、俺と一緒に走ろう。テイオー」
──
「…………っ。うん…………っ、うんッ!」
担当ウマ娘に対する沖野トレーナーの真剣な態度が、取り繕ったテイオーの仮面を優しく剥がす。
テイオーは目尻に浮かべた大粒の涙を両腕で拭い取ると……既にそこには、純粋に夢を追いかけていた頃の彼女が蘇っていた。
「うっし。それじゃあテイオーには早速、明日から菊花賞へ向けた復帰プランに取り組んでもらう」
「ええっ!? 明日って、それはちょっと早すぎないっ!?」
「俺はお前の夢を諦めないって決めたんだ。一日……いや、一秒たりとも無駄にはできんっ!」
テイオーにそうやって言い残した沖野トレーナーは、復帰プランを練るといって病室を飛び出していった。
静謐な空間が戻ってきた病室で、私はテイオーと二人きりになる。
「…………あんなトレーナー、初めて見た」
呆然とした様子で、開け放たれた扉の先を見つめるテイオー。
「……私も」
そして、それは私も同様であった。
良い意味で沖野トレーナーらしくない言動……いや、もしかしたら諦めの悪いこの姿こそが、彼の指導者としての本質なのかもしれない。
「…………変なの」
彼の熱意を一身に注がれたテイオーは、しばらく不思議な表情を浮かべていたが……。
「──トレーナー、カッコいいじゃん!」
瞬く間に破顔して、普段の快活で生意気なテイオーにすっかりと戻っていた。
「ボク、トレーナーのこと見直しちゃったよ! 普段はウマ娘の太ももが大好きなヘンタイなのにっ!!」
「いいえ、普段の態度で帳消しですわ。それどころか、まだまだ余裕でマイナスです。彼にはせめて、私達の好感度を振り出しに戻して頂かなければ」
「あははっ! 間違いないやっ!!」
私はテイオーと二人揃って笑みを浮かべた。
「残念だったね、マックイーン。クラシック最後の一冠も、どうやらボクのものになっちゃうみたい!」
「あら? テイオーは次のレースが長距離であることをお忘れでして?」
相変わらず勝気で生意気なライバルだけれど。
テイオーにはきっと、そんな無邪気な笑顔が一番似合う。
***
沖野トレーナーの言葉通り、テイオーの復帰に向けた取り組みは翌日から行われることとなった。
「菊花賞の制覇に向けて、とりあえず過去二十年分の統計データとレース映像を用意した」
病室のベッドで背中を起こすテイオーの前にこれでもかと積み上げられた、山盛りの教材と書類。
「…………え、なに、何これ?」
「過去二十年間で菊花賞に勝利したウマ娘の特徴や傾向、京都レース場の地形的特徴や押さえるべき重要なポイントを網羅した資料だ」
予想を遥かに上回る彼の熱意に、テイオーとそこに同席する私の顔があからさまに引き攣った。
「身体を安静にする必要がある当面の間は、俺達と一緒に勉強だ」
「えぇ……」
「観念しろテイオー。俺は絶対に諦めないからな」
「仕方ないなぁ。勉強はキライだけど、マックイーンの泣きっ面を見るために頑張っちゃおっかなー」
「そこは夢のためと言いなさい」
ベッドに備えられた机に資料を広げて、テイオー、沖野トレーナー、私の三人でひたすらに菊花賞への理解を深める勉強に勤しむ。
「……うわぁ、何これ。文字ばっかり」
テイオーが資料を複数枚手に取って、不満を露わにする。
「んっと……。えぇ、ここ数年雨のせいでバ場状態が崩れ気味じゃん。ボク、良バ場が良いんだけど」
「天候やバ場状態は、私達の力ではどうすることも出来ませんわ。ですが、しっかりと対策は考えておいた方が宜しいかと」
「何で?」
「私、道悪得意ですもの」
「けっ!」
テイオーの文句をさらっと無視して、私は余った資料の一つに視線を落とす。
私と沖野トレーナーが真面目な雰囲気を作ったことで、次第にテイオーも観念したようだ。
彼女は複数枚の資料を行ったり来たりしながら、傾向や要点をノートにまとめていった。
「ねぇ、トレーナー。去年の菊花賞のデータなんだけど」
「ん……? あぁ、そいつのデータは正直参考にならないから読み飛ばしていいぞ」
「外回りの第三コーナー向正面って確か、淀の坂がある場所だよね。そこからスパートを仕掛けてなんで勝てるんだろう」
「私のようにスタミナに絶対的な自信があって、なおかつ道中に極限まで脚を溜めることが出来れば不可能では無いかと」
菊花賞へ向けた勉強会のおかげで、私達三人は勝負所のポイントやレース場の地形で押さえるべき重要な箇所を誦じることが出来るまでに至るのであった。
***
医師から退院の許可が下りたタイミングで、沖野トレーナーが考案した"トウカイテイオー菊花賞復帰バッチリプラン"は次のステップへ移る。
「菊花賞の要点を網羅したら、次は復帰へ向けたイメージトレーニングだ」
無事に退院を果たしたテイオーとはいえ、彼女の左脚を覆う無骨なギプスを外せるようになるまでは、まだまだ時間を要する。
沖野トレーナーは、松葉杖をつきながらトラックへとやって来たテイオーをターフが一望出来る場所に座らせて、復帰プランの詳細を口にした。
「今のテイオーなら、このトラックに京都レース場の地形を重ね合わせることが出来るはずだ」
「うん」
「これからマックイーンが、菊花賞を想定して三千メートルを走る。テイオーは極限までイメージを膨らませて、マックイーンと競り合うんだ」
「私の背中を追い越せると良いですわね。まあ、イメージでも不可能なことだとは思いますが」
「むっきぃーっ! マックイーンの方こそ、ボクにボコボコにされて泣きべそかかないでよね!」
私はテイオーの闘争心を刺激する言葉を発して、ライバルを煽った。普段は言われっぱなしの私なので、せっかくだからこの機会に細やかな意趣返しをさせてもらおう。
「──お、何だかおもしれぇことしてんじゃねぇか! うっし、アタシも混ぜろ!」
私とテイオーが言い争いを続けていると、チームメイトの破天荒ウマ娘──ゴールドシップが絡んできた。
「菊花賞を想定してんだろ? んじゃあ、このクラシック二冠ウマ娘様に任せな!」
「ああ、そういえば去年の菊花賞を制覇したのはあなたでしたわね」
「アタシが特別に、ひと肌脱いでやるよ。胸を借りるつもりでかかってきな、テイオー」
珍しく大真面目なゴールドシップが現れて、私達は真っ先に彼女が偽物じゃないかと疑った。
だけどまあ、これを機に彼女が少しでも真剣にトレーニングと向き合ってくれるようになるのなら、偽物でも良いんじゃないかって思ったりもした。
最も、テイオー自身は全く参考にならないからといって駄々をこねていたのだけれど……。
***
「よし、テイオー。今日からお前を新入生教育係に任命する」
テイオーの脚を覆っていた無骨なギプスが外れたのは、故障から約三ヶ月後のことだった。
復帰までの道のりを順調に歩んでいるテイオーに対して、唐突に沖野トレーナーがそう提案してきた。
「新入生教育係……?」
「先日のメイクデビューに勝利した新入生のスペシャルウィークを、日本一のウマ娘に育ててもらう!」
「ええっ!? それはさすがに無茶ぶりが過ぎるんじゃないかなっ!?」
「よろしくお願いしますっ、テイオーさんっ!」
今年北海道から上京してきたチーム・スピカの新入生──スペシャルウィークが、期待の眼差しを一身にテイオーへと向ける。
「スペの夢は、日本一のウマ娘になることだ。少し漠然としているが……分かりやすい形で日本一を証明するなら、日本ダービーを制覇することだろう」
「つまり……今年のダービーを獲ったボクが、スペちゃんにアドバイスすれば良いってこと?」
「そうだ。つっても、そんなに難しいことをするわけじゃねぇ」
沖野トレーナーがその提案を投げかけてきたのは、トレーニングが始まる直前。
「テイオーには、普段からトレーニング前に取り組んでいるストレッチと基礎トレの見本になって貰いたい」
「え、それだけで良いの?」
「ああ。でも、ただ見本になるだけじゃねぇぞ。身体の使い方をみんなに分かるように説明しながらだ」
沖野トレーナー曰く、ストレッチや基礎トレーニングに限らず自身が実施している行動の意図を理解することで、その恩恵が何倍にも膨れ上がるとのこと。
「『教うるは学ぶの半ば』、なんて言うだろ? 特に新入りのスペには、先輩として色々と教えてあげてほしいんだ」
「そんなことで良いなら、お茶の子さいさいだもんねっ!」
意気揚々と私達の前に躍り出たテイオーが、先輩風を吹かしながらストレッチの体勢に入る。
「テイオー」
「なに?」
「早速だが、ストレッチの目的と効果をみんなに説明してやってくれ」
「目的、目的かぁ…………あれ、なんだろ」
「どうした?」
「頭ではなんとなく分かってるんだけど……いざ説明するとなると、ちょっと難しいかも」
沖野トレーナーから飛んできた早速の要求を受けて、テイオーが頭を捻らせながらうんうんと唸った。
「ああ、難しいだろう? 自分の物事への理解度を確かめたいとき、一番手っ取り早いのは誰かにそれを説明することだ」
「確かに……物事を感覚的に理解しているだけでは、論理的な説明が要求された場合に苦労しますわね」
「そうだ。特にテイオーの場合、感覚であらゆる物事を捉えていることが多い。天才肌ってやつだな」
テイオーの天才的な素質は、レースに関する場面において現れることが多い。
「テイオーには今後、感覚的に処理してきた走りの技術一つ一つへの理解を深めてもらう。今日の説明は、その練習みたいなもんだ」
「何か、思ってたより大変そう」
「しっかりと説明できる知識を身につけることで、テイオーはさらに強く成長できる。それに、怪我の防止にも直結してくるんだ……頑張れるな?」
「……仕方ないなぁ。そこまで言うんだったらボク、頑張っちゃおっかなー!」
やる気に満ち満ちた声音とは裏腹に、説明を用いながらのストレッチや基礎トレはテイオーにとって非常に困難を極めるものであった。
一つの動作をするたびに動きが停止して、テイオーはその都度沖野トレーナーに助けを求めていた。
テイオーにとって説明という行為がどれほど難しいことであったのかは、彼女自身のくしゃくしゃな泣きっ面が分かりやすく示していた。
***
テイオーが新入生教育係に任命されたのと同時に、復帰へ向けた本格的なリハビリが開始された。
「菊花賞を制覇するためには、三千メートルを走破するためのスタミナが必要だ」
沖野トレーナーが次なる復帰プランとして提唱したのは、屋内施設のプールを用いた水泳トレーニングであった。
トレーニング用の水着に着替えた私達は、肩まで水に浸かった状態で沖野トレーナーの言葉に耳を傾ける。
「菊花賞の開催まで三ヶ月を切った。今日からはリハビリと並行してトレーニングにも取り組んでもらうつもりだ」
テイオーの怪我は順調に快復へ向かっているとはいえ、それだけでは彼女が目標とする菊花賞の出走には到底間に合わない。
ここから彼女に要求されるのは、安全性を前提とした上で、トレーニングの効率を両立させること。
その点に着目すると、沖野トレーナーが提案した水泳トレーニングは非常に理にかなっていた。
「水泳はスタミナを強化するトレーニングとして一般的に認識されているが、脚部不安を抱えるウマ娘のリハビリとしても非常に有効なんだ」
「確かに……水による浮力を活用すれば、脚部不安を気にせず鈍った身体を動かすことが出来ますわね」
「その通りだ。さらに全方向から加わる水圧が全身を刺激して、肺活量と筋力の向上を同時に期待することができる」
「すごーい! 一石二鳥以上じゃん!」
骨折の影響でろくに身体を動かせなかったテイオーにとって、患部を気にせずリハビリとトレーニングに打ち込めるこの環境は、最適以外の何物でもない。
「まずはゆっくりと水中を歩いて、水に身体を慣らしていこう。マックイーンはテイオーの付き添いを頼む」
「分かりました。ほら、行きますわよテイオー」
「はーい」
私は水中に浸かるテイオーの右手を取って、彼女を先導するようにプールの縁を歩く。
「ねぇマックイーン。水中でわざわざ手を繋ぐ必要あるの?」
「私はあなたを監視する目的でリハビリに付き合っているのです。あなたにとっては久々の運動なのですから、どうせ破茶滅茶するのは目に見えていますわ」
「ぶーぶー!」
「ライバルのことなどお見通しですわ。もたもたしていると、復帰に間に合わなくなりますわよ」
「素直にボクのことが心配だって言えば良いのに」
「んなっ!? そんなことあるわけないでしょうっ!? 自惚れるのも大概にしてくださいましっ!」
「にししっ、ボクはライバルのことなんてお見通しだからねっ!」
相変わらずすぐに調子に乗るテイオーを無理やり引っ張って、私は水中を進む速度をわずかに上げる。
生意気なテイオーめ、私の親切心を笑いものにするだなんて許せない。
「…………ありがと」
「……ふん」
……だけどまぁ、どんな時でも笑顔が絶えないのは良いことだ。
今回ばかりは、目を瞑ってあげるとしよう。
***
沖野トレーナーによる献身的なリハビリによって、菊花賞の開催が予定されている十月を迎える頃には、テイオーは自身の足でターフを走れるまでに回復していた。
数ヶ月ぶりにターフを走った時のテイオーときたら、まるで新しいおもちゃを買い与えられた子供のようなはしゃぎ具合だった。
過酷な復帰プランの最中ではあるが、骨折に伴うリハビリに関しては一段落したと言っても良いだろう。
あとは菊花賞本番へ向けて少しずつトレーニングの強度を上げていって、最終的にはレースの勘を取り戻し、感覚をひたすら研ぎ澄ませていくだけだ。
一度は諦めかけてしまった夢の舞台。
血の滲むような努力を経て、テイオーは自らの手でそれを手繰り寄せて見せた。
テイオーの夢は本当に、手の届くところまでに迫っている。絶望的だった状況に屈することなく、彼女は這い上がってきた。
テイオーは強い。レースにおける天才的な実力だけでなく、故障を乗り越えたことによって精神面もたくましい成長を遂げた。
そんなテイオーはまさしく、私のライバルとして不足なし。
テイオーの夢にこの私が立ちはだかり、私の夢に最強の彼女が立ちはだかる。
ライバルと死闘を繰り広げる未来に想いを馳せると、胸が躍ってしまって仕方がない。
──テイオー。今度こそ私が、最強のあなたに黒星をつけて差し上げます。
夢にまで見たライバルとの、全身全霊を捧げた本気の勝負。
絶対に負けない。
絶対に勝ちたい。
強かな決意を胸に灯し、大観衆の声援を
結果は当然、私の優勝だった。