菊花賞の開催まで残り二週間を切った。
順風満帆な日々が一変した日本ダービー以降、私はチームメイトとしてテイオーのリハビリに付き合うかたわらで、幼少の頃から抱き続けていた夢に挑む準備を進めていた。
生家の悲願である天皇賞(春)の制覇を目指すステイヤーとして、菊花賞は確実に獲っておきたい重賞レースである。
九月下旬に開催された菊花賞トライアル──神戸新聞杯を危なげなく制覇した私は現在、悲願達成を目指して以下のようなプランを考えている。
三冠路線の激戦を締めくくる菊花賞で最強のライバルを下し、天皇賞(春)の前哨戦に指定される阪神大賞典を物にし自信を付け、万全を期して偉大なるメジロ一族の夢に挑む。
私は菊花賞本番に向けて少し長めの調整期間を設け、現在は不安の残る箇所を重点的に追い込む段階に突入している。
私が菊花賞を制覇するために不足している要素は、正確無比なラップタイムの継続と、最終直線で発揮するラストスパートの切れ味。
皐月賞、日本ダービーにおいて明確に勝敗を分けたのは、緻密な戦略でも高度な駆け引きでもなく、純粋なまでのスピードであった。
瞬発力の向上とトップスピードの維持に重きを置いて、私はひたすら調整に打ち込む。ここからは積極的に自主トレーニングを取り入れて、心と身体を徹底的に追い込み最高のコンディションを作りあげていく。
少し肌寒さを感じる秋風に当たりながら、私は一人でターフを駆ける。
自主トレを開始してから既に二時間以上が経過しており、ふと上を見上げると、私の頭上には澄み渡る夜空が広がっていた。
寮の門限まではまだ余裕があるが、明日にもトレーニングが控えているため無茶は出来ない。
過剰な追い込みは、かえって不要な焦りや不安を生む。今日のところはこの程度で切り上げて、ゆっくりと身体を休めるとしよう。
私は額に残った汗を拭き取りながらターフを後にし、着替えとスクールバッグが置いてあるチーム・スピカの部室へと戻る。
静まり返った校舎別棟の廊下は既に照明が消されており、私は窓から差し込む月明かりを頼りに部室を目指した。
「……あら?」
別棟の廊下を進んでいる途中、私はふと、等間隔に並んだ扉の一つから照明の光が漏れていることに気付く。
その場所はちょうど、私が所属するチーム・スピカが利用している部室であった。
扉の前まで近づくと、私はその奥から人の気配を感じ取る。
ふむ……沖野トレーナーは、今日も懲りずに残業を続けているのだろうか。
沖野トレーナーはテイオーの件も相まって、ここ最近では元より疎かだった彼の杜撰な自己管理に、拍車が掛かっているように感じる。
自身のことを二の次に考えている沖野トレーナーに何か一声掛けてあげようと、僅かに開いた扉に手を掛けた時。
「……っ、──」
ウマ娘の優れた聴覚が、沖野トレーナーのものではない誰かの声を聞き取った。
この時間帯に彼以外のひとが部室にいるのは珍しい。
私は一旦その場で様子を見ようと、扉の隙間から室内の様子をこっそりと覗った。
「──ありがとね、トレーナー」
私はデスクに向かって残業に勤しむ沖野トレーナーと向かい合い、彼に対して感謝の気持ちを述べるウマ娘の姿を視界にとらえる。
そのひどく穏やかな声音と、後ろ手を組んだ彼女の背中姿には心当たりがあった。
(……テイオー?)
日本ダービー出走後に故障が判明し、血の滲むようなリハビリを乗り越えて夢への挑戦を続ける私のライバル──トウカイテイオー。
私は部室の外から耳をそば立てて、二人の会話に意識を傾けた。
「どうしたんだよ、お前が急にお礼を言うなんて珍しいじゃねぇか」
「そうだったけ…………そうだったかも」
「……テイオー?」
「…………」
沖野トレーナーと会話を続けるテイオーは、何故だか妙にしおらしい。
そんな彼女の様子を垣間見て、私の全身に悪寒が駆け巡る。
言葉の間に生まれた不思議な沈黙はきっと、彼女の中に芽生えた複雑な気持ちを整理するための時間だったのだろう。
「…………っ。まさか──」
身体の背後で組まれたテイオーの両手に、力が込められたのと同時に。
テイオーは沖野トレーナーの制止を待たずして、決定的な言葉を口にする。
「──ボク、やっぱりさ…………菊花賞の出走は諦めることにしたんだ」
テイオーが自身の意思を告白した瞬間、質量のある何かが激しく蹴り倒されたような音が室内に響き渡る。
「今日、お医者さんに足を診てもらったんだ。それで──」
「まだだ……ッ。まだ諦めちゃダメだ、テイオー……ッ!」
「…………」
「菊花賞まではまだ時間がある……っ! 不安なことがあるなら何でも打ち明けてくれ! 俺が絶対に解決策を見出してみせる! だから……ッ」
「…………」
棄権の意を示したテイオーに対して、沖野トレーナーは必死の形相で説得を試みる。
しかし、沖野トレーナーの言葉は一方的で、残念ながら両者の間にコミュニケーションは成立していなかった。
「…………っ」
無言を貫くテイオーを前に、沖野トレーナーは先程から語りかけ続けていた言葉を失い、打ちひしがれるように息を呑んだ。
私が現在立つ位置からでは、彼と向かい合うテイオーの表情を窺うことは出来ない。
ただ、沖野トレーナーのらしくない様子を見れば、彼女のそれを察することなど容易であった。
「……まだ、全力で走れないんだ」
テイオーが故障を乗り越えた左脚のつま先で、静かに床をつつく。
「今までみたいにスパートをかけようとすると、ブレーキがかかったみたいに全身がモヤモヤするの」
「……防衛本能の一種だ。過去に経験した苦痛を繰り返さないために、無意識のうちに身体を負荷から守ろうとしてしまう」
「……うん、多分そんな感じ」
どうやら沖野トレーナーには、テイオーの抱える悩みに心当たりがあったようだ。
「今のボクはまだ、全力で走れない。そんな状態で菊花賞に出走して、全力のマックイーンと戦うなんて……ボクには出来ないよ」
「……」
テイオーの口から不意に私の名前が飛び出して、心臓の鼓動が大きく跳ね上がる。
「トレーナー。今までありがとね、色々と」
「……」
私は込み上げてくる感情を抑え込み、その場で必死に息を殺しながら二人の会話に耳を傾け続けた。
「…………だめ、だ」
「……」
既に自身の夢に折り合いをつけたテイオーに対して、沖野トレーナーは力無く説得を試みる。
両腕をデスクにつき、脱力気味に体重を支える彼の声音は微かに震えていた。
「まだ……駄目なんだ……っ。頼むから、諦めないでくれよ…………」
一体彼はどうして、こんなにも担当ウマ娘の夢に真剣なのだろうか。
一体何がここまで、彼の心を突き動かしているのだろうか。
きっと私がいくら考えたところで、彼の真意が見えることはないだろう。
沖野トレーナーは必死に嗚咽を堪えてテイオーに語りかけるも、ついには溢れ出てくる感情を抑えきれなくなったのか、手のひらで目元を覆ってしまった。
「……もぉ、なんでトレーナーが泣いてるのさ」
「お、俺は……っ、泣いて、なんか……っ!」
テイオーの指摘を否定する沖野トレーナーの言葉とは裏腹に、彼の頬を伝って大粒の涙が滴り落ちる。
「はぁ…………仕方ないなぁ」
そんな沖野トレーナーの様子を見かねたのか、テイオーは肩をすくめながら泣き崩れる彼の元へと近づいて……。
「──ん、しょ」
テイオーは沖野トレーナーの後頭部に両腕を回して、彼の頭を胸元に抱き寄せた。
「っ……、何を──」
「はいはい、じっとしてる」
突然の抱擁に動揺した沖野トレーナーは、予想だにしない担当ウマ娘の行動に冷静さを失って身を捩る。
しかし、人の身である沖野トレーナーの抵抗など、ウマ娘である彼女の前では無意味に等しかった。
しばらく沖野トレーナーの抵抗は続いたようだが、最終的には担当ウマ娘に大人しく身体を預けていた。
「ボクさ……嬉しかったんだ」
胸元で静かに嗚咽を漏らす沖野トレーナーに、テイオーは穏やかな声音で語りかける。
彼女が打ち明ける赤裸々な告白に、私も息を潜めて耳を澄ませた。
「左脚を骨折して、菊花賞までの復帰は絶望的。あの時はもう、ボクの夢は終わっちゃったんだなって……自分に言い聞かせることしか出来なかった」
「…………」
「でも、トレーナーだけは諦めなかった。諦めるなってボクを激励するんじゃなくて、諦めさせないって自分自身を鼓舞してた」
当時のことは、私もよく覚えている。
残酷な現実に打ちひしがれ、テイオー自身すらも大切な夢を諦めかけていた中で……あの時、沖野トレーナーだけは最後まで抗い続けていた。
飄々とした上辺の裏に隠れていた情熱を剥き出しにして、彼は妄言と切って捨てられるような理想を背中で語ってみせた。
「そんな姿を見せつけられて、全身がたぎるように熱くなった。ボクはまだ、夢を諦めなくて良いんだって……心の底から安心したんだ」
沖野トレーナーは誰もが匙を投げてしまうような絶望に真正面からぶつかって、豪語した理想を本当に体現させてしまうのではないかと思わせるほどの熱意をテイオーに示し続けた。
その直向きな彼の姿が、残酷な運命に曝され凍えきってしまった彼女の心を根底から救ってみせたのだ。
「だから──ありがとう、トレーナー。ボクのことを、諦めないでいてくれて」
「…………」
沖野トレーナーは立派で、優しいひとだ。
彼は普段の態度を差し引いて余りあるほどの魅力を秘めた、一流のトレーナーなのである。
「夢を諦めるのは……うん、今でもやっぱり悔しいし、とっても苦しい。……でも、心配しないでトレーナー。ボクはもう大丈夫だから」
「……どう、して?」
「必死にリハビリに取り組む中でさ……ボク、気付いちゃったんだ。夢を叶えることだけが──全てじゃないんだって」
沖野トレーナーの後頭部に回されたテイオーの両腕に、わずかに力がこもる。
「復帰を目指してがむしゃらに頑張ってきた毎日は、ボクの生涯の中で一番濃厚な時間だった。ただ辛いだけのリハビリに耐え忍ぶ日々だったはずなのに、当時を思い出すだけで……ボクの胸はいっぱいに満たされるんだ」
「……」
「おかしいよね、こんな感覚。挫折を経験する前のボクじゃ、絶対に生まれない感情だった」
大きな挫折を経て、テイオーの心は目覚ましい成長を遂げた。
たとえ目標の達成に至らずとも、夢を懸命に追いかけたその過程は彼女にかけがえのない宝物をもたらしたのだ。
「ねぇ、トレーナー」
「……どうした?」
「ボク、もう一度夢を探すよ。だから今は少し休憩して、みんなと夢中になれる時間に備えるんだ」
「…………ああ、分かった」
テイオーの無敗の三冠ウマ娘になるという夢は、自らの強かな意志をもって幕を下ろした。
しかし、終幕の過程で培ったかけがえのない経験は、テイオーの心に新たに芽吹く夢の大きな礎となるだろう。
テイオーは直向きに夢を追いかける道のりを経て、素敵な成長を遂げた。
だからきっと、私がこれ以上彼女のことを心配するのは無粋である。
強かな覚悟で挫折を乗り越えたテイオーなら、きっともう大丈夫。
「ボクがまた元気に走れるようになったらさ……その時には、トレーナーにも手伝って欲しいんだ。新しい夢をたくさん見つけて、今度こそ、ちゃんと叶えたい」
「……ああ、一緒に見つけよう。今度こそ、俺はテイオーの夢を実現させてみせる」
「にししっ。期待してるからね、トレーナー」
二人の間に生まれた親密な雰囲気を邪魔するほど、私は風情に欠けたウマ娘ではない。
廊下の壁面に預けていた背中をおもむろに起こして、私は来た道を引き返す。
着替えはまた明日取りに行こう。それが今である必要はない。
「……汚名返上は、しばらくお預けですわね」
夢の旅路に区切りをつけ、新たな夢を見つける出発点に立ったトウカイテイオー。
だがしかし、依然として私にとっての最強のライバルであることは変わりない。
菊花賞での再戦は叶わなかったが、私達が待ち望んだ舞台はいつか必ず実現する。
今の私に出来ることは、未来で蘇る最強のライバルに相応しい存在であり続けること。
テイオーがこぼしてしまった最後の一冠は、彼女のライバルである私が回収する。私以外のウマ娘が一冠を戴くことなど、絶対にあってはならない。
空席となった最強の玉座を守るのは、誰でもないこの私だ。
トウカイテイオーの凱旋劇を、最高の舞台に仕立てるために。
──どんな困難が立ちはだかろうとも、私は走り続けてみせる。
***
菊花賞出走前日。
私は沖野トレーナーによる引率のもと、チーム・スピカの仲間と共に京都レース場付近の旅館に宿泊することとなった。
「──あ〜あ! つまんないなぁ!」
トレセン学園が所在する東京から車で移動し、京都に到着する頃にはすっかり日が沈んでいた。
体重管理を徹底しながら夕食を取り、現在は当旅館の売りである天然の露天風呂に浸かって移動の疲れを癒していた。
「……テイオー。あなたも一応乙女の端くれなのですから、はしたないですわよ」
私と共に露天風呂に浸かってバシャバシャと水しぶきを上げているのは、生意気なチームメイトのトウカイテイオー。
あろうことかこの私に二度も黒星をつけ、世代の頂点に君臨するウマ娘と謳われる因縁のライバルである。
「ボクも菊花賞に出たいよぉ! マックイーンをぼっこぼこにして無敗の三冠ウマ娘になりたかったのにぃ!」
こうして彼女が京都へ訪れたのは、菊花賞に出走する私の応援が目的であった。
テイオーはクラシック級のGⅠレースを立て続けに制覇し、無敗の三冠ウマ娘の誕生を期待された矢先に骨折という挫折を経験した。
驚異的な回復力と血の滲むような努力を経て、テイオーは自身の足で夢の実現まであと一歩のところまで迫った。
露天風呂で子供のようにはしゃぐテイオーではあるが、彼女はかつて自身の置かれた状況を賢明に整理し、自らの選択で菊花賞の出走を断念したという強かな意志を持ち合わせている。
このように駄々をこねるテイオーだが、文句をこぼす彼女の表情には不思議と曇りはなかった。
「明日はマックイーンの応援かぁー。ねぇ、ボクの応援いる?」
「全くもって不要です。ですが、最強のステイヤーたる私の走りを特等席でご覧になれる絶好の機会でしてよ?」
このように生意気で相手を煽るような言動は、私とテイオーにとってすっかり染みついた日常の一コマである。
「あなたが菊花賞の出走を断念したことは残念ですが……ご安心下さいな。明日のレースは私が圧勝し、あなたの面子を立てておいて差し上げます」
「けっ、勝手にしろやい!」
じゃぶじゃぶとお湯をかき分けながら、素っ裸で湯船の中を泳ぐテイオー。
今は私とテイオーの二人しか露天風呂を利用していないので問題は無いが……こんな姿をファンの誰かに見られでもしたら、卒倒ものである。
「……それで、足の調子はいかがですか?」
これ以上ハメを外しすぎるの良くないと思ったので、私は声のトーンを少しだけ落としてテイオーに問いかけた。
「別に、心配しなくても平気だよ。出ようと思えば、菊花賞だって出れたんだしさ」
声音の変化だけで私の意図を察してくれるあたり、テイオーとは随分親しい間柄になってしまったものだ。
「ボクはまだ全力が出せない。そんな状態でマックイーンと勝負するのは、ボクのプライドが絶対に許さない」
勝気で生意気な言動が常々目立つテイオーではあるけれど、レースに対する熱意と、競走相手に対する敬意を疎かにしたことは一度たりともなかった。
「だから、菊花賞はマックイーンに譲る。たまにはライバルに見せ場を作ってあげないと、ボクの強さが際立っちゃうだけだからね」
私としても、万全でない状態のテイオーを下して得た勝利に価値を見出せるとは思えない。
菊花賞での再戦は叶わなかったが……今はきっと、お互いにとって重要な準備期間なのだろう。
「テイオー。復帰明けの目標レースはもう、決めているのですか?」
無敗の三冠ウマ娘になりたいという夢の幕を、自らの意志で下ろしたテイオーのことだ。
心身ともにたくましく成長した彼女であれば、既に新しい目標を見つけていても不思議ではない。
私は思い切って、それを直接テイオーへと問うてみた。
「うん。でもまぁ、頭で思い浮かべている理想ではあるんだけどね」
そして案の定、強かなウマ娘のテイオーは既に、新しく夢中になれる目標を見つけることが出来ていたようだ。
「参考程度に、教えていただけますこと?」
明朗快活なテイオーは一体、どのような目標を見出して歩みを進めているのか。
「にししっ、気になる?」
「ええ」
「しょうがないなぁ。じゃあ今日は特別に、マックイーンに教えちゃおっかなー」
彼女のライバルとして、それは非常に興味深い話題であった。
「ボクはね……」
少しだけもったいぶるような間を挟んで、テイオーは私に言った。
「──春の天皇賞に出る。そこでもう一度、マックイーンと走るんだ」
いたずらだけど純粋で、生意気だけど憎めない。そんな笑顔を浮かべながら、彼女は新しい目標を語る。
「無敗の三冠ウマ娘になる夢は叶わなかった。だから次は、生涯無敗のウマ娘を目指す。でもそれはボクにとって、ワクワクする夢の過程に過ぎないんだ」
テイオーは湯船に浸かっていた身体を、おもむろに起こす。
「ボクはもっと、マックイーンと走りたい。マックイーンと一緒の晴れ舞台に上がって、心が躍るようなレースがしたい」
そして彼女は、自身の胸を大仰に張って言い放った。
「マックイーンと一緒のレースに出て、マックイーンに勝つ──それがボクの、新しい夢だ」
透き通るような夢だった。
飾り気のない純粋なテイオーの言葉に、私も不思議と胸が高鳴った。
世代の最強と称されるウマ娘から好敵手と認められている事実が、たまらなく嬉しかった。
一方的で独りよがりな敵対視ではなく、心の底から相手の実力を認め合った──”ライバル”というかけがえのない関係性。
「……ええ、悪くない夢ですわね」
テイオーが描く夢は、とても良い夢だ。トウカイテイオーというウマ娘を構成する一部に私が存在するというのは、とても心地良い気分になる。
「良いでしょう。それがあなたの夢だとおっしゃるのでしたら、
大切な夢を語ってくれたテイオーには、私も相応のお返しをする必要があるだろう。
「明日の菊花賞を制覇し、最強という称号を手中に収め……万全を期した状態で、私があなたの夢に立ちはだかりましょう」
テイオーがレースの世界に戻ってきた時、私のような強い存在がいなければ彼女もつまらないはずだ。
「にししっ、そうこなくっちゃねー! まぁでもっ? ボクが夢を叶え続ける限り、マックイーンは一生泣きべそをかき続けることになっちゃうんだけどねっ! あはっ、あはは!!」
私がテイオーの夢を引き立てるように、テイオーが私の夢を鮮やかに彩るように。
「それじゃあ約束っ! ボク達はずっとライバルで、二人で一緒のレースに出る! そして、最後に笑うのはずっとボクっ!!」
「はぁっ!? 勘違いもここまでくると清々しいですわねっ! ……良いでしょう。その約束、受けて立ちます。ですが最後に泣くのはあなたであるということを、ゆめゆめお忘れなく!」
月明かりの下で交わした約束は、私の青春を象徴する大切な思い出だ。
小指に感じた彼女の温もりは、たとえ色褪せたとしても忘れられそうにない。
***
主役が不在となった菊花賞を私が制覇したことで、激動の展開となったクラシック級に一区切りがついた。
始まりの夢に自らの意志で見切りをつけたテイオーは、のびのびとした休養を挟みながら、新しい夢をたくさん見つけるために歩み出している。
大団円こそ迎えることは無かったけれど、その心持ちは不思議と、新たな門出を迎えるかのような清々しさで満たされていた。
クラシック級を走り抜けたとなれば、次に訪れるのはメジロ家の悲願が眠る魔境──シニア級。
私は来年から、”経験”という圧倒的な武器を身につけた年長の傑物達が跋扈するシニア級に殴り込む。
一族の悲願、ひいては私が抱き続けた生来の夢を叶えるためには、そんなライバル達を軒並み退ける必要がある。
決して一筋縄ではいかない。しかしそれでこそ、挑み甲斐のある壮大な夢なのだ。
菊花賞制覇の余韻に浸るのは一時の休息に過ぎず、悲願達成の瞬間に至るまでの道のりは、まだまだ果てしない。
偉大な使命を背負った私の歩みはすでに、次なる目標へ向けて動き出している。
私が次走に定めたのは、天皇賞(春)の前哨戦として位置付けられる三月中旬の重賞レース──阪神大賞典。
本競走を一着で制覇した場合、その勝者には天皇賞(春)の優先出走権が与えられる。
シニア級に上がって初のレースということもあり、手応えを確かめ、本命へ向けて箔を付ける意味でも阪神大賞典は獲っておきたい。
前途洋々たる気持ちを抱いて、私はかけがえのない夢に挑む。
そんな輝かしい未来の日々に想いを馳せて、私は今日も変わらずトレーニングに明け暮れる。
……だが、しかし。
私は一つだけ、大きな勘違いをしていた。
円満を迎えた穏やかな日常は、悪戯な運命が定めた小休止に過ぎなかったのだということを。
私がその事実を痛切に思い知ったのは……またしても、すべてが手遅れとなってしまった後。
──果てなき夢に囚われた私は今も、終わらない悪夢に魘され続けている。